つなぐその手は

製作者:王立魔法図書館司書さん






はじめに

この物語はフィクションであり、実在の決闘者、場所、建造物及び団体とは一切関係ありません。
また、登場人物がデュエル中に口汚くののしり合ったり時には汚い手を使ったり、
道路交通法をはじめとするいくつかの実在する法律に抵触する行為を行ったりすることがありますが、
絶対にマネをしないで、ルールを守って楽しくデュエルしてください。

この作品は「つなぐその手は」の第二章及び終章です。
先に第一章をお読みにならない限り、この物語を理解することは不可能です。ご注意ください。

この作品の執筆ではいかなる動物、モンスター、カードも傷つけていません。

この作品をお読みになる際には前々作「今はまだ届かない」及び前作「彼の炎が焼くものは」の既読を全力で推奨します。

The story,all names,characters and incidents portrayed in this production are fictitious.No identification with actual duelists,places,buildings and products is intended or should be inferred.
No animal,monster and card were harmed during the writing of this novel.





目次

序章・第一章
■第二章                    10
■終章         





1:針の上の天使



 八年眠り続けていた少女は、願った。どうか、私の大事な友達を傷つけないでほしいと。
 その代償として、彼女は今傷ついている。長いイスに深く座らされ、頭にいくつもつけられた電極と腕につけた機械を介して(レグナ)を吸い出される。
 人体に負荷をかける装置で、その負荷は体が小さければ小さいほど、割合として重くなる。
 中学に入ったばかりの年齢で、しかもその中でも小柄な一音への負担はあまりに大きい。
 声を上げることもできず、ただジワリジワリと身を蝕む苦痛に耐えるだけ。意識がなくなるのも時間の問題だ。
「ふむ、ふむ。特定の状況から継続して『ドレイン』を稼働させ続けても効果は得られるか。
 効率は対数関数的に減衰していく。ふむ、ふむ。もう少し効率的な、君専用の加速器が必要になりそうだね」
 そう言って、白髪の博士は機械の電源を切った。一音が苦痛から解放され、か細い呼吸で何とか酸素を取り込もうとする。
 その努力もむなしく、彼女の首がカクンと下を向いた。気絶してしまったらしい。
「ふむ、ふむ。しかし君の力を浪費したものの埋め合わせにしなければならないのは実に惜しいな。
 可能ならば今すぐにでも頭を切り開いてその中を見てみたいものだが」
 一音が意識を失ってしまったのも気にしないで、博士は誰に言うでもなく語りかけた。反応がないことを確認すると、「ふむ、ふむ」とうなって一音の観察を続けた。
 直後、一音の髪に変化が現れた。根元から加速度的に先端までが銀に染まり、一音は目を開いた。赤い。
 黒く澄んだガラスのような目は、まるでレーザーポインタのように赤く光を放っていた。
 彼女は今、一音ではなかった。
「ふむ、ふむ。意識の後退か、否、交代かな?」
『イチネを、解放しろ』
 一音の口から発せられた言葉は、一音のものではない。それがすぐにわかるほど低く鋭い声だった。
 博士はさして驚いた様子もなく、観察を続けた。
「精霊と会話できるというのは不思議な気分だね。だが、君は今、瀧口 一音の体を借りているに過ぎないのだろう?
 宿主から切り離された精霊がどうなるのか、君の寄生が宿主にいかなる影響を与えるのか、実に興味深い」
 一音の姿を借りた精霊が、老博士を睨みつけた。額には汗が滲み、呼吸も穏やかではない。
「その様子を見るに、寄生者が宿主の体を操作するには宿主側への負担が大きいようだね? ふむ、ふむ。
 本来、寄生種は宿主の死を忌避する。宿主を死に至らしめるのは、自らの生命を危険にさらすことと同義だからね。
 さて、さて。精霊にとっての死とは何なのか、精霊は本当に生命体であるのか、それとも限られた対象にのみ一様に観測される何か別の存在なのか……」
 興味深げに一音の姿をした何か別の存在を見てから、最後に一言だけ付け加えて、老博士はそのだだっ広い部屋を後にした。
「君はあまり無理をしないほうがいい。そのほうが瀧口 一音への負担は少なくて済むだろう」






「ふむ、ふむ。ひとつ古典的な質問をしようか」
 博士が部屋――博士以外、何が入っているかは知らない部屋――から出てくるなり、二人に向かってこう言った。
 二人とも黒ずくめで(『サースター』は隠密行動が基本であるため、目立たない黒い服を着るのは一部の例外を除いて当然なのだが)、片方は小柄で仮面のような笑顔をしていて、もう片方は背が高く水色のマフラーをしている。
「針の上で天使は何人踊れるか?」
 机の上に置いてある、消毒された注射器の針を取り出して、二人に見せた。
 二人の答えはそれぞれ異なる。
 鯉岸はこう答えた。
「上ッてのが際限なく上まで行くなら、無限です」
 博士は、「針の上」とだけ言った。その上、上空まで無制限な範囲を含むとすれば、いかに小さな面積の針の上であるとは言え、無限の体積を持つ空間になりうる。
 有限な大きさの天使がいくら集まろうと、その無限の体積を持つ空間に収まりきらないことはないだろう。
 対して、信哉はこう答えた。
「不定だ。天使、なんて存在は証明されてねェ」
 不定。つまり、数字をゼロで割れないのと同じように、体積のわかっていない天使をどんな空間に置くにしても、その数を論じることはできない。
 二つの答えに対し、老博士は満足げに「ふむ、ふむ」とうなずいた。
「無限だというのが正しい。天使は有限ではあるが、純粋な知性であって物質ではない。
 したがって、空間中に位置は持つが外延は持たない」
 だが、とこれ以上ないくらいに嬉しそうに、博士は付け加える。
「従来の数学的考え方では、不定だというほうが正しいだろう。
 天使というのは想像上の存在だ。現実にその存在を確かめ、世に知らしめた者はいない。
 したがってその体積を知ることは我々には不可能であり、我々はこの問題を科学的に論じることができなかった」
 できなかった、と、それが過去形であることを強調しながら、自らの興奮を抑えきれないかのように注射器を持ったまま歩きまわる。ガラスの容器の前まで行って、そこにつながれた管の反対側に注射器をつなぐ。
 ガラスの容器の中にあるオレンジ色の粘性のある液体――レグナフォース――が、注射器にたっぷりと注がれる。
「ふむ、ふむ! だがね、レグナの力を手にすることで、その問題は解決されるのだ!」
 高らかに叫んで、注射針を自分の左腕に突き刺す。それがさも当然のことであるかのように、鯉岸は笑っていた。
 震えていて血管をしっかり狙えるのかどうかすら怪しい手つきだったが、針が刺さってからはぴたりと安定した。信哉は顔をしかめた。
「ククッ、ハハハハッ! 狂ってやがる。そう思ってンだろ?」
 鯉岸が嗤った。信哉も、顔をゆがめて嗤った。
「そうだな。これじゃあ科学屋なのか宗教屋なのかわかりャしねェ」
「ふむ、ふむ! 狂信的、という意味では、科学も宗教として良いと思うよ! 私は科学だけを信仰するからね!」
 老いた人間とは思えない、よく通る声だった。そのあとで楽しそうに、嬉しそうに、少しばかり落ち着いた声で、しかしそれを聞く誰もがその意見に正当性、妥当性、説得力を感じてしまうような調子で付け加える。
「ふむ、ふむ。しかし私は神も天使も信じているよ。信仰はしないがね」
 その意味を理解して、信哉はまた鋭く嗤った。闇に堕ちた者の笑みで、こう言った。
「ククッ、なるほど。それで吊るされた天使(LEGNA)計画か」
 この老いた博士は、神や天使の存在を信じているのだ。
 それは一見、それらを信仰する宗教家と変わらない。
 だが、この男の「信じる」は、世界中の宗教家をすべて敵に回すほどの意味を持っている。
 つまり、神や天使が存在することを信じていても、神や天使を敬い、絶対のものとしてその教えを拠り所にしたりはしない。
 その存在をも、科学という近代において目覚ましい発展を遂げてきている宗教のメスで解剖しようと言うのだ。
 これは、神々や天使を信仰する者にとって、また神々や天使そのものにとって冒涜以外の何者でもない。そしてこの老博士は、その冒涜こそを生き甲斐としているのだ。
 天使を吊るし上げ、科学の名の下にその全貌を明らかにし、遍く人々に知らしめる。それこそ自らの使命であると、信じて疑わない科学宗教家なのだ。
「ふむ、ふむ。それでは邪魔が入らないうちに、新たな可能性(・・・・・・)の観測に向かうとしよう」



2:決意


「十海、大丈夫か?」
 目を覚ますと、彰が心配してくれていた。
 それはとても嬉しいことで、心配をかけたことを謝るなり心配してくれたことに礼を言うなりしなければならないはずだったのに。
「う、うん……」
 口からはうまく言葉が出ずに、どうしてか彰と目を合わせるのが嫌で目を反らしてしまった。
「そっか、良かった」
 そう言ってやわらかく笑う彰の表情が、心の奥深いところに突き刺さった。
 そうやって心配してもらう資格なんて、自分にはないのに。くだらない嫉妬に溺れて、目を背けて逃げ出して。
 挙句、大事な友達を救うことさえできなかった。
「二人とも目が覚めたドン?」
 チームの最年長、黄色いバンダナの青年、剣山が話しかけてきた。
「二人ともって、彰も……?」
「あ、ああ……」
 状況が飲み込めないまま、さらに把握できない事実が知らされる。
「タテヤン、どうしてこんなことしたんだ……」
 彰を気絶させたのは信哉らしい。しかし、十海が意識を失ったのはレイと戦ったすぐ後だ。
 単純に考えるなら――あのレイの、普通ではない状態を含めて考えれば――十海を気絶させたのはレイだということになる。
 彰は十海を気絶させたのも信哉だと思い込んでいたし、十海だって彰の一言がなければ彰を気絶させたのはレイだと思い込んでいただろう。
 少し離れたところでは、彰達の育ての親が誰かと話しているのが聞こえた。レグナがどうとか、聞いていてもよくわからない単語ばかりだ。反対側を見ると、どこかで見たようなインバネスコートの少女が長い髪の少女を慰めているのと、三田が寝ているのが見えた。
「話を整理するザウルス」
 目が覚めて状況がつかめないままな二人を見かねて、剣山がゆっくり話し始めた。






「もう、大丈夫?」
 探偵少女たのかの問いかけに、和沙は一つうなずいて答えた。
 強がっているようにも見えたが、強がりたいのを無理に崩すこともない。
 たのかは大人たちの話に耳を傾けつつ、先ほどまで大音達が話していたTという人物について考えていた。
 一月ほど前からサースターの藍川、土井とコンタクトを取り、レグナ計画の崩壊を迫った人物だ。
 藍川はレグナ計画に恨みを持つ者だと断定していたが、そうとも限らない。計画の存在がTにとって都合の悪いものであるか、計画がつぶれてTが得をする、という可能性もある。
 しかし、Tは自分がレグナ計画の被験者だと言った。八年前に予防接種と称したレグナ素子の注射を受け、それはTの身体に何らかの影響を及ぼした。Tが計画を憎むようになるには十分すぎる理由だ。
 だがそれでは、被験者名簿の誰とも声紋が一致しないということの説明がつかない。当時、陽性反応の出なかった被験者の声紋も調べたというから、Tは被験者ではないのかもしれない。
(つまり、どこかに嘘か間違いが最低一つは隠されてる、ってことだね)
 先ほどまで眠っていた少年少女に、筋肉質な黄色いバンダナの青年が状況を話して聞かせている。
 彼なりにわかりやすくしようという配慮なのだろうが、物事を正確にとらえたいたのかにとってその説明はあまりに偏った情報ばかりだった。
「それで、十海ちゃんが気絶させられた相手は、レイちゃんで間違いないザウルス?」
「はい。早乙女先輩とデュエルした直後だったと思います」
 断定系を多く用いる青年の説明に引き換え、気絶させられた、という事態の認識についてディスアドバンテージを抱える十海という少女の証言は、正確性を欠いてはいない。
 「思います」と言うのだから、仮にそうでなかったとしても嘘にはならない。東雲が生きていたら「彼女、良い政治家になるね」等と皮肉っていただろうが、真実を追究する立場から言えば、正確な証言というものは非常に有用だ。
 断定系を多く用いる証言ほど、疑ってかからなければならないことのほうが多い。
「早乙女 レイと言ったか?」
 藍川という女性が十海の言葉を聞いて割り込んできた。
 今回の大会は四人一組での参加である。てっきり、たのかはそこで寝ている三田という少年と、先ほどまで寝ていた少年少女、それからこの剣山という青年がチームを組んでいるのだと思っていたのだが、そうではないことが剣山の説明の段階で明かされた。
 早乙女 レイという少女(尤も、少女とは限らない。剣山がちゃん付けで呼んでいたため、ここでは少女とする)が十海に対して何らかの行動を起こし、気絶させたらしい、ということがわかっている。
 何らかの行動、というのは先ほどの大人たちの会話を聞く限り、『ドレイン』または『精霊抜き』で間違いないだろう。
「『ドレイン』や『精霊抜き』が、事情を知らない外部の人間に扱えるはずはない」
 藍川は断言した。藍川の説明によると、早乙女 レイは被験者名簿に載っているが、当時の問診で陽性とは判断されなかったということだ。
 つまり、当時の問診に何らかの間違いがあり、実は早乙女 レイはレグナ計画の被害者の一人であって、計画を憎んでいたとしても不思議ではない。
 早乙女 レイがTであったなら、『ドレイン』『精霊抜き』の使い方を知っていたことの説明はつく。
 だが、やはり彼女も被験者名簿に載っている、つまり、藍川が声紋を分析しているのだ。にも関わらず、声紋は一致しなかった。
 少年少女と黄色バンダナの三人の間では、彼女がどこへ行ったか、ということが大きな問題になっているようだった。
 それなりに仲の良い間柄だったのだろう。十海を気絶させる、なんてことを、どうしてレイが行ったのかわからない様子だった。
 そして、少年は館柳 信哉に関しても考えているらしかった。良く考えれば、彼こそTに最も近いのではないだろうか、とたのかも考えている。
 土井の説明では、信哉が計画に対して恨みを持っている、ということが示唆されている。彼は被験者名簿には載っていないから、その点に関してTとしての信哉が嘘をついていることになるだろう。
 あるいは、本当は被験者だったのに何らかの理由で名簿に記載されず、声紋データも残っていなかったのか。
「コウスケくん、シンヤくんが今何歳かわかる?」
 調理服を着た青年、幸介に聞いてみる。『セイバー』の中でも特に信哉と親しかったのは、同性ということもあってか幸介と東雲だった。
「奴が超高速で宇宙旅行したりしていなければ俺と同い年、二十歳のはずだ」
「ああ、そういえばコウスケくんってまだ二十歳なんだっけ……」
 幸介の言葉づかいはどう考えても年相応ではない。若者にしてはかなり落ち着いていて達観しているところがあるので、どうにも老けて見えてしまうのだ。
 そのニュアンスを感じて拗ねたように「フン」と言ってそっぽを向いてしまうのは可愛いが、今重要なのはそれではない。
 信哉は今、二十歳である。八年前は十二歳。レグナ計画の被検体に選ばれたのは、当時四歳から十歳の子供たちである。
 十歳と十二歳。当時の信哉が幼ければ紛れ込んでしまってもおかしくはないだろうが、あの年頃の少年というものは成長の速さが並ではない。
 一年で身長が十センチ伸びる、なんてことも珍しくないのだ。小学校の六年生と四年生では、見た目の差がだいぶ強く現れるだろう。
 しかし、それで信哉がレグナの注射に紛れ込んでいた可能性がなくなったわけではない。信哉がTである可能性が最も高いという事実は変わらない。
「もし、Tの正体がシンヤくんだとしたら……」
 目を閉じて呟き始める。頭の中の情報を整理するには、外部から入ってくる情報の大部分を占める視覚を一度閉ざしてしまうのが良い。
 そして、考えていることは正確に言葉にして発する。この行為こそが混乱を防ぎ、真実へたどり着く鍵となるのだ。
「タテヤンは、一人でレグナ計画をつぶしに行ったのか?」
 複雑な状況から必要な――彼にとって必要と思われた――情報を整理して、彰という少年が口を開いた。タテヤンというのは信哉のことらしい。
「だとしたら、藍川さん達を裏切ったことの説明がつかないんじゃないかな」
「奴は慎重で疑り深い。一人ですべてを為すつもりかもしれん」
 幸介の一言にはそれを信じさせる力が込められていた。
「そうだよ。何か事情があるんだ……」
 彰が何かにすがるような口調で言った。そう信じたいと思っていながら、まだ確信できていない。不安に負けそうになっているのだろう。
 事情があるのは確かだろうが、それが少年の望むようなものであるかと言えば、そう言い切るには不利な状況が多い。
 勿論、信哉がTで、藍川達を信じずに一人で計画を潰しに行った、という可能性も否定はできない。信哉が疑り深いのは『セイバー』にいた頃からそうだったし、藍川達は『セイバー』にとって憎むべき敵――東雲と逢魔を追い詰め、死に追いやった――『サースター』の一員なのだ。
 しかし、その考えには穴がある。信哉がTであるとすれば、土井が信哉にレグナ計画の真実を伝えようとする前から、計画についてある程度詳しく知っていたことになる。
 そうすると、不自然な点がある。
「協力を求めさせるように誘導した? Tという名前を使って?
 あのシンヤくんがそんな不確実で遠回りな方法をとるとは思えないよ。世の中ゼロとイチできっちり割り切っちゃってる人だし」
 レグナの被験者から計画の痕跡を削除するための特定の状況を作りあげるために、土井が『ゴースト』を利用しようと信哉にコンタクトを取った、という話は先ほど聞いたばかりだ。
 Tから『サースター』への脅迫じみた連絡はそれ以前から行われている。内部者及び被験者リストに声紋の一致する人物がいないことから、Tはどうあがいても計画から見て外部者のはずだ。
 何らかの方法で計画の懐に入り込む必要があったとはいえ、都合よく『ゴースト』を作っていて、それが必要になるという情報まで、外部者であった信哉は知り得ただろうか。
 そこまでの情報を得ておきながら、『ゴースト』の存在を広く知らしめることもせずに『サースター』側を誘導して自分に協力を求めさせる、などと言う不確実で回りくどい方法を取らなければならなかっただろうか。
 何か違う気がする。信哉ならばもっとスマートに、最も効率的で確実な方法を取るはずだ。彼はそういう類の人間だ。
「お前のことだから十中八九正しいことを考えているだろうが、まだ確証は持てんのだろう」
「うん」
 たのかは静かに目を開いた。今考えることのできることは考え尽したからだ。
「確かめに行くぞ」
 調理師の青年が言った言葉は、守り手(セイバー)としてのそれだった。




「どうにかその聖域とやらに行く方法はないのか?」
 膨大なレグナフォースによって生成された異なる世界、サンクチュアリ・ゼロ。『サースター』では聖域と呼ばれることのほうが多いが、その名の由来は定かではない。
 外部の存在から容易に干渉されない、理想的な研究環境ということで、『サースター』のトップである博士にとっては聖域のような場所だからなのかもしれない。
 ともあれ、今信哉がいるのはその聖域という世界である。大音も守り手として、仲間を放っておくわけにはいかないのだ。
 だが、大会の参加者を転送する際に使ったものは、動力となるものが聖域側に存在していて、博士達の管理下に置かれている。
「一応、こんな事態も想定して『ゲート』っちゅーモンは用意しとったんやけど……」
 添田は高さ二メートル以上はあろうかと言う大きな機材にかぶせられていた黒い布を取り払った。ゲートという名前とは裏腹に、その正体は大人一人が通れるような鉄の輪だった。
 鏡の入っていない鏡台のようにも見える。細部に複雑な装置が接続されており、そこから一本の長いコードが伸びて別の容器につながれていた。容器はガラス張りで中身が透明な液体で満たされている。
「こいつを動かすには、レグナフォースが必要やねん」
 そのゲートを動かせば、聖域という世界に行くことができるらしい。
 しかし今、レグナフォースのストックは博士側にある。つまり、土井達にそれを使うことはできない。
「てことは何だ? 行きたきゃ『ドレイン』しろってことか」
 『ドレイン』でレグナフォースを取り出された場合、その対象は体力を著しく消耗し、しばらく動くことができない。
 つまり、誰かの体力を奪わなければ、聖域に行くことはできないのだ。
「幸介」
 大音は迷わずに調理師の青年を呼んだ。青年もそれを予想していたらしく、たいして驚いた様子もない。
 『セイバー』として、信哉を放っておくわけにはいかない。計画の崩壊はどうでも良いが、信哉が危険を冒そうとしているなら話は別だ。
 藍川の話によれば、『サースター』のトップである博士と、その忠臣である鯉岸はとても危険な人物らしい。レグナ計画などと言う歪で残酷なものを水面下で推し進めてきた中心人物達であるから、それは大音にも容易に想像できた。
「一音と信哉を連れ戻してこい」
 それは、聖域に行って来いということと同じだった。つまり、彼女自身が行くわけではない。
「あたしと、そこの添田とか言うヤツで必要なエネルギーをまかなってやる」
 添田は何か言おうとしたが、大音に睨まれて黙ってしまった。
「了解」
 藍川達と彰の証言から、信哉のことばかりが話題になっていたが、瀧口 一音も聖域から戻ってきていない。
 スタッフ達の持つ電子リスト上は全員が帰還したことになっているのだが、所詮はゼロとイチで区別される電気信号の集合にすぎない。そんなものはいくらでも書き換えることができる。
 たのかは大会中、一音と合流したらしいのだが、デュエルをしている途中、いつの間にかいなくなっていたという。
 それ以降、一音を見たという話は出ていない。藍川の話によれば、博士は被検体としての瀧口 一音にご執心だったそうだから、聖域に囚われていると見るのが自然だ。
「日生 彰はどうする」
「あいつは……ここまで聞いて黙ってられるような奴じゃないからなぁ。あたしに似て」
 大音は苦笑した。言外に、別の意味が込められていることを幸介に伝えるものだった。
 幸介はあまり子供の相手が得意ではない。彼は小さくため息をついた。
「……努力はしよう」




 彰の心はもう決まっていた。ゆっくりと立ち上がり、聖域に向かうメンバーの下へ歩き始める。
 幸介という調理服の青年と、シャーロック・ホームズの格好をした少女たのか、それから、聖域で闘った喋らない少女和沙と、それから剣山が既に聖域に向かうことを決めている。
 剣山がそこにいるのは、レイが聖域に取り残されている可能性が高いからだ。
 歩き始めた彰の手が、掴まれた。振り向けばそこには、今にも泣きそうな少女が一人。
「だめ」
 震えていて、力もそう強くはない。あの日のように(・・・・・・・)振りほどくことは簡単だ。
「行っちゃ、だめ」
 それでも、その言葉は重たく立ちはだかった。
「十海……」
 嫌な既視感だった。前にも一度、こんなことがあった気がする。行かなければならないのにそれを止める十海の手を、思い切り振りはらって、あの日の彰は走った。
 まだ多くの言葉を知らない頃だったからだろうか。もっと焦る理由があったかもしれないが、思い出せない。
 今は言葉を知っている。十海に自分の気持ちを伝えるだけの、手段があり、精神的な余裕もある。
 頭の中で言うべき言葉を整理しながら、彰はいつの間にか自分が心に余裕を持っていることに気がついた。先ほどまでは信じたくないものに押しつぶされそうになっていたのに、今はそれが嘘のように落ち着いている。
 十海がこうやって引き留めて、冷静に考える時間をくれたからかもしれない。掴まれた腕はそのままに、十海に向きなおった。
「俺さ、守りたいものがあるんだ」
 守りたいもの。それが壊れたように感じてしまって動揺していたけれど、今は平気だった。前を向いて立ちあがることができる。そうしたいと思えるだけの闘志がある。
「十海がいて、早乙女先輩がいて、タテヤンがいて、宿題はつらいし勉強のことでは結構キツいこと言われたりするけど、毎日楽しくて」
 だから、と一呼吸おいて、まっすぐに十海の目を見た。
「誰が欠けてもいけないんだ。うまく言えないけど、そんな毎日が守りたいんだ」
 彰の腕をつかんだまま、十海は目を伏せた。
「そんなの、彰が行くことないよ」
 彰には今までに聞いたことがないくらい、冷たく感じられた。三田を気絶させ、彰の前に立ちはだかった信哉と似ているような気がした。
「危ないよ。オトナに任せて、ここで待ってたほうがいいよ」
 子供を説き伏せるように、自分に言い聞かせるように。十海の言葉はそんな落ち着きを持っていた。腕の十海に掴まれた所が、嫌に冷たく感じられた。
「どうして、そんなこと」
 言うんだ、とは続かなかった。十海の叫びに遮られた。
「私にだって! 守りたいものくらい、あるよ」
 顔を上げた十海の目を見て、彰は息をのんだ。腕を掴む十海の力が、強くなった。
「彰の言う毎日だって、ひょっとしたらまだ守れるのかもしれないけど、私は今目の前にいる、彰を守りたい! 危険なことなんか、してほしくない……」
 何かをかみしめるような震えた声で、徐々に小さくなる、消え入るような叫びだった。
 十海と意見がぶつかることは、そんなに多くなかった。彰が、自分の意見を押さえていたというようなことはない。十海が合わせてくれていたのかもしれない。
 その十海が、ここまで必死に彰を止めるのはいつぶりだろう。
 とにかく、今の十海は本気だ。ならば、本気で答えなければならない。
「俺は、まだ諦めてない。タテヤンだって、早乙女先輩だって、何か事情があってあんなことしたんだ。だから、まだ元のみんな笑ってた毎日に戻れるって、信じてる」
 彰は目をそらさなかった。口を真一文字に結んで、十海が震えた。彰を掴む手から力が抜けて、ゆっくりと下ろされる。




 十海は迷っていた。迷ったまま、不安だけが膨れ上がった。
 聞こえてくるオトナ達の話。必死で信哉のことを信じようとする彰の声もそれに混じっていた。
「あたしと、そこの添田とか言うヤツで必要なエネルギーをまかなってやる」
 ついに、聖域なる世界へ行く方法が明らかになって、その目途まで立ってしまった。
 そこで寝ている三田のように、彰が眠ったままの状態だったら良かったのにと、本気で考えてしまった。彰が眠ったままこの話が進んでいれば、彰は立ち上がらなかったのに。
 立ち上がって歩き出す彰の腕を掴んで、止めようとした。
「だめ」
 あの日と同じ。彰が、火事の中に取り残された一音を助けに飛び込んだ時と、同じ。
 きっとあの日と同じように、この手は振り払われて、恐ろしい自分が取り残されるのだろう。
 そうわかっていても、彰を止めずにはいられなかった。
「行っちゃ、だめ」
「十海……」
 彰はいつでもまっすぐで、行くと決めたら曲げることなんてするはずがないのに。それは、近くにいた自分が一番よくわかっているはずなのに。
 恐怖が、彰が離れて行ってしまうことを恐れる心が、十海を突き動かした。
 いっそ、早く腕を振りほどいて走って行ってほしいとさえ思った。彰に危険を冒してほしくはないが、ここで考え直して、立ち止まってしまう彰を見たくもない。
 彰は、彰が思っている以上に強い。だから、こんな状況になればいくら止められても自分の道を行くに決まっている。そうしなくなってしまったとしたら、それは今のレイと同じように、彰が壊れてしまったことを意味する。
 彰は、十海に向きなおった。十海の期待を半分裏切って、半分その期待に答えた。
「俺さ、守りたいものがあるんだ。
 十海がいて、早乙女先輩がいて、タテヤンがいて、宿題はつらいし勉強のことでは結構キツいこと言われたりするけど、毎日楽しくて。
 誰が欠けてもいけないんだ。うまく言えないけど、そんな毎日が守りたいんだ」
 胸が詰まるかと思った。まっすぐで、一度心を決めたら決して曲げない彰だけど、あの日とは違う。成長している。もう、コドモのままではない。
 認めたくない事実から目を伏せる。
「そんなの、彰が行くことないよ」
 言ってから、自分の声の冷たさに驚いた。意外と冷静に自分を観察できている、もう一人の自分にも気づいた。
「危ないよ。オトナに任せて、ここで待ってたほうがいいよ」
 言ってから、やっと気付いた。彰だけが成長していて、自分だけがあの日のまま止まっている。それを認めたくないのだ。
 なんて幼稚で、どうしようもなく愚かな発想なんだと思った。
「どうして、そんなこと」
 言うんだ、とは続かせなかった。
「私にだって! 守りたいものくらい、あるよ」
 顔を上げて、彰の目を見つめる。今、自分はどんな顔をしているんだろう。情けなく泣いているんだろうか。それすらもわからないほどに、頭の中がジンジンと熱かった。
 彰を掴む手に力が入るのがわかった。
「彰の言う毎日だって、ひょっとしたらまだ守れるのかもしれないけど、私は今目の前にいる、彰を守りたい! 危険なことなんか、してほしくない……」
 それは事実。しかし、真実ではない。子供じみた幼稚でどうしようもなく愚かな考えを隠すための言い訳の一つ。事実であっても、真実とは違う。
 それが真実でないことを裏付けるように、声がだんだん小さくなっていく。自信が無くなって、自分の中からすべてが抜けていく。彰を見ていた目は下を向いて、再びうつむく。
 彰が好きで、強くてカッコイイ彰を見ていたいと願っていながら、自分も同じくらい、否、それ以上に強くありたいと願っていたのかもしれない。彰との決定的な差を見せつけられた気がして、その差が、自分が声を発するたびに大きくなっていくような気がして、悔しかった。
「俺は、まだ諦めてない。タテヤンだって、早乙女先輩だって、何か事情があってあんなことしたんだ。だから、まだ元のみんな笑ってた毎日に戻れるって、信じてる」
 彰は目をそらさなかった。十海が間違っていようといまいと、彰はその中の正しさを見てくれた。
 ズルいと思った。自分だけどうして、そうやって成長していってしまうんだろう。その考えさえも幼稚に思えてきて、十海は口を真一文字に結んだ。
 手から力が抜けて、彰を手放す。あの日、彰に振り切られるまで掴んでいた手は、今度は自分から離した。一歩だけ、大人に、彰に近づけたような気がした。
 涙は、流さない。まぶたの奥にそれを押しこんで、再び顔を上げる。まっすぐに、彰を見つめることができた。
「私も行く。彰だけにカッコつけさせたりしないんだから!」




「話はまとまったようだな」
 二人の話が終わったところを見て、調理服の青年、幸介がやってきた。
 信哉ほどではないが、幸介も背が高い。加えてその低い声と厳格な印象を与える口調が、彰と十海を威圧した。
 十海のほうはチラリと見るだけで、幸介の興味は彰に向いているらしかった。
「俺達も、聖域に行くよ」
 力強く宣言する彰に、ひとつ息を深く吐いて幸介が答える。
「行ってどうするつもりだ」
「タテヤンに……館柳先生に、会う。会って、確かめるんだ」
 試すような威圧的な視線にも怯まずに、彰はまっすぐに幸介を目を見た。
「館柳先生は、こう言ったんだ。『どれだけ薄汚れてもかまわない(・・・・・)』って。
 それって、本当は、本意じゃないことをしてるってことじゃないか」
 さっきは少し混乱してしまっていたけれど、十海が一度止めてくれたことで、頭の中はすっきり整理できた。
 揺るがない心で、自分の中にある決意と向き合う。
「これ以上、『薄汚れ』させちゃダメなんだ。館柳先生が何をしようとしてるのか、本当は何を望んでるのか、確かめに行く。
 きっとまだ、先生は引き返せるところにいる。迎えに行くんだ。先生はまだ、帰る場所を捨て切ったわけじゃないって、伝えに行くんだ」
 調理服の青年は一度目を閉じて、ゆっくりと開いた。その瞳に宿った感情の色が、変わった気がした。
「お前は、希望の光を見つめていられるか」
 希望の光。つまり、彰が守りたいものを守り切ることができるかどうかの希望。
「光が強過ぎてその目を灼かれ、絶望の闇に落とされても、お前は希望を抱き、立ち上がり、闘い続けられるか」
 念を押す、というよりは試すような質問だった。彰は迷わずに答えた。
「わからないよ。俺は何もわからない」
 言葉とは裏腹に、彰の表情は力強い自信に満ちている。
「だから、確かめに行くんだ。タテヤンのことも、早乙女先輩のことも、レグナ計画のことも。
 絶望が確かなものじゃない限り、俺は諦めない。世の中に、確かなことなんて」
「『思っているほど多くはない』、か」
 彰が言い終わる前に、幸介はその言葉を最後まで言い切った。
 言い切ってから、諦めたようにため息をついた。
「一つだけ言っておく」
 レグナフォースを取り出す準備を始める大音と添田の立つデュエルリングに向かいながら、幸介は言った。
「油断するな」



3:鋼の決闘者VSウサギデッキ


 角下の総合体育館の中に、臨時でデュエルリングが設置された。聖域へ向かうためのレグナフォースを集めるためである。
 レグナフォースを取り出すためには、デュエルをしてその終わり際に『ドレイン』なる装置を起動しなければならない。デュエル終了時に発動した『ドレイン』によって、人体には大きな負荷がかかる。
 『ドレイン』の出力にもよるが体力を大きく消耗し、しばらく動くことができなくなってしまうのだ。
 レグナフォースの提供者として名乗りを上げたのは瀧口 大音。本来ならば一音を助けに、信哉を連れ戻しに行くのだから大音がメンバーから外れるというのは奇妙なことではある。
 しかし、子供たちからレグナを取り出すわけにはいかない。そこで、『サースター』の一人を指名して大音も立候補したのだ。
 準備が終わり、Lディスクと呼ばれるデュエルディスクを二人が装着して、リング上で向かい合った。

「そういえば、コウスケくん。どうしてあんなこと聞いたの?」
 出発までは聖域に向かうメンバーも大音と添田の戦いを見物することになる。
 パイプ椅子を並べて作られた即席の観客席で、幸介の隣に座ったたのかが聞いた。
 あんなこと、とは、幸介が彰に対して言った「お前は、希望の光を見つめていられるか」という問いのことだ。
「かつて、まっすぐに光を見つめていた男が、闇に染まった。そんなことを思い出しただけだ」
 幸介はデュエルリングから目を離さずに答えた。
「う、ん……?」
「小娘がいらんことを考えるな。始まるぞ」
 幸介の答えがさっぱり理解できないたのかは、スッキリしない気持ちのまま大音と添田の戦いを見ることになった。





「お母さんのデュエル見るのって、久しぶりだよね」
「ああ、そうだな」
 幸介達の隣に、彰、十海、剣山もいた。彰と十海は真剣そのものである。
「母さんは強いからな。今回もやっぱり、勝つんだろうけど」
 二人にデュエルを教えたのは大音だ。それ以前から二人にはデュエルに関する知識はあったが、経験が少なかった。
 大音は元プロデュエリストだ。本人はあまりそれを言いたがらないが、彰は何度かせがんで昔のデュエルの映像を見せてもらったことがある。
 プロの世界で圧倒的な強さを誇っていた、瀧口 大音。攻撃を重視し、ぎりぎりまで諦めない強者がそこにいた。
 勿論、彰も何度も大音と戦った。一度として勝つことはできなかったが、今はどうだろう。最近は仕事で忙しいのかなかなかデュエルをする機会がなかったし、彰はアカデミアに入学して多少なりとも強くなったという自信がある。
 より多くのデュエルを知った上で、大音の戦いをもう一度、目の前で見られるというのは良い機会だと思った。
 十海もそれは同じようで、リングで対峙する二人の決闘者を静かに見ていた。

 ところで剣山はと言うと、勿論これから始まるデュエルの展開も気がかりなのだが、彼は色々と混乱していた。
(お、お母さん? どういうことザウルス? 二人とも兄弟? でも苗字は違うし……)
 しかし、彰と十海は真剣で何か物を聞けるような状態ではない。
 結局、彼の疑問は解決しなかった。




「やるからには全力で来いよ」
「ハッ、言われんでもそうするわ! ヘマこいて恥かかへんようにせーよ!」
 大音の相手は添田。イガグリのようにトゲトゲになった髪が特徴的な関西弁の青年だ。
 互いに5枚のカードを引いて、闘いが始まる。まずは先攻、大音のターンだ。
「行くぜ! 黒竜の雛召喚! 雛を墓地に送って、手札から真紅眼の黒竜(レッドアイズ・ブラックドラゴン)を特殊召喚だ!
 最初っからトバすから覚悟しろよ。黒炎弾発動!」
 最初のターンでありながら、場に現れたのは最上級モンスター。大音の主力モンスターである。幾多の困難を共に乗り越えてきた、頼もしいカードだ。
 漆黒の鋭いフォルムの竜が、真紅の瞳を輝かせて降り立つ。吐き出す炎は灼熱。黒炎弾はバーンカードの中でも屈指の威力を誇る、大音のダメージソースの一つだ。
 黒炎弾を発動したターン、真紅眼の黒竜は攻撃できない。しかし、先攻1ターン目であればどの道攻撃できないため、デメリットは皆無になる。
「カードを2枚伏せてターンエンドだ」
 最初に大きくライフアドバンテージを得る戦術もそうだが、大音のデュエルの特徴は思考にかける時間がほどんどないというところにある。
 ここまでの動作を終えるのに、ソリッド・ヴィジョンの演出を差し引くと十秒単位の時間しか経っていないのだ。
「俺のターン、ドロー!」
 添田はその逆だった。手札と場の状況をじっくり眺めて、その上で戦術を練る。
 彼の闘い方が黒炎弾によるバーンを絡めた率直なビートダウンである大音の戦術とは、少し異なるためだ。
「永続魔法つまずきを発動!」
 次の瞬間、真紅眼の黒竜は首をはねられていた。
ブレードラビットさんや。つまずきの効果で守備表示に変更されて、効果が発動したっちゅーわけやな!」
 ブレードラビットには守備表示に変更された時に相手のモンスターを破壊する効果がある。つまずきの効果で召喚された瞬間に攻撃表示から守備表示に変更され、その効果が発動したのだ。
「カードを1枚セットしてターン終了」
「エンドフェイズに正統なる血統真紅眼(レッドアイズ)を蘇生する!」
 モンスターの効果によるフィールドコントロール。単純なビートダウンほどの爆発力はないが、つまずきの嫌がらせ的な効果でじわじわと攻めていくタイプだ。
 大音は真っ向からぶつかる戦いをするタイプであり、こういった搦め手を使ってくる相手はあまり得意ではない。

瀧口 大音LP8000
モンスターゾーン真紅眼の黒竜
魔法・罠ゾーン正統なる血統
伏せカード×1
手札1枚
添田LP5600
モンスターゾーンブレードラビット
魔法・罠ゾーンつまずき
伏せカード×1
手札3枚

「あたしのターン、ドロー!」
 得意ではない。それは事実だ。だが、得意ではないと言っても大音の攻撃重視戦術の前にはその不得意すらも力でねじ伏せられてしまう。
「ドローフェイズに永続罠発動! ヘヴィメタル・アクセル
 自分のターンのスタンバイフェイズ毎に効果発動!
 自分のモンスターを1体選択し、デッキの上から3枚まで墓地に送る。
 そして、送ったカードの中のモンスターの数×500ポイントだけ、攻撃力をアップさせる!」
 大音はデッキから3枚までのカードを墓地に送る。へヴィメタル・アクセルは強力なデッキ圧縮と攻撃力上昇効果を備えている。代わりに、モンスター以外のカードを墓地に送ってしまうと自分がダメージを受けてしまうのだが。
 真紅眼の黒竜は前のターンに蘇生されたので、つまずきの影響を受けてもこのターンには攻撃表示に変更できる。
「墓地に送られたのはメカ・ハンター思い出のブランコメタル化寄生生物−ルナタイトの3枚! 500ポイントのダメージを受けちまうが、その分デッキは圧縮できたぜ」
 他のモンスターを召喚できないこのターンに攻撃力上昇の効果は意味をなさない。ブレードラビットはステータスが貧弱な下級モンスターだからだ。
 デッキの圧縮はカードのドロー確率を上げるためには必須とも言える行為である。あるカードをドローしたい場合、30枚の束からドローするのと20枚の束からドローするのとでは確率が全く違う。
 ダメージを受ける覚悟をしてでも発動する意義が、ヘヴィメタル・アクセルにはあるのだ。
「真紅眼でブレードラビットを攻撃!」
 黒い竜の火炎のブレスが、鋭い刃の歯を持つ眼帯ウサギを包む。炎の炸裂が終わった時、そこには何もいなかった。
 だがしかし、真紅眼の攻撃がブレードラビットを撃破したわけではなかった。
「ひゅー、危ない。手札からケースラビットさんの効果発動や。
 このカードを墓地に捨てて、真紅眼の攻撃は無効。ブレードラビットさんは俺の手札に戻ってくる、と」
 大音は歯噛みした。残り2枚の手札では、このターン何もできない。
 次のターンにダメージを受けることはなくとも、ブレードラビットが再び召喚されれば真紅眼はまた破壊されてしまう。
 そうなれば再び墓地から呼んだとして、つまずきで攻撃に移るまでディレイが生じる。その隙に再び除去されてしまえば、このデュエルが消耗戦になるのは明らかだ。
 添田は期待通り、ブレードラビットを召喚した。つまずきの効果で守備表示になり、その効果で真紅眼の首が再び飛ぶ。

瀧口 大音LP7500
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーンヘヴィメタル・アクセル
手札2枚
添田LP5600
モンスターゾーンブレードラビット
魔法・罠ゾーンつまずき
伏せカード×1
手札3枚

「あたしのターン、ドロー!」
 へヴィメタル・アクセルの効果は、自分のフィールドにモンスターがいなければ発動できない。その意味でも、ブレードラビットによる除去は大音にとって手痛いものだった。
 しかし、ドローしたカードで戦況は一変する。
大嵐発動!」
 へヴィメタル・アクセルも破壊してしまうが、攻撃の妨げとなるつまずきと、警戒しなければならない伏せカードを一気に吹き飛ばすことができる。
断頭台の惨劇か。こりゃぶっ飛ばしといて正解だな」
 今度は添田が歯噛みすることになった。大音が死者蘇生で真紅眼を蘇生したからだ。
 もし大嵐がなければ、つまずきの効果と断頭台の惨劇を組み合わせてその場で再び除去できていた。
「真紅眼でブレードラビットを攻撃!」
「ケースラビットの効果発動や! 攻撃は無効、ブレードラビットさんは手札に戻るで!」
 再び同じカードが発動される。ブレードラビットによる除去が添田の戦術の軸の一つであるらしい。
「カードを1枚セットしてターンエンドだ」
 しかし、つまずきが破壊された今、もう一度ブレードラビットでの除去効果を発動できる可能性は低くなった。
 添田の手札はこのターンにドローしたもの、先ほど手札に戻ったブレードラビットを合わせれば4枚。その中にブレードラビットの効果発動を補助するカードがあるかどうかが勝負の分かれ目だろう。
 大音はそう思っていた。プロとして多くのデュエリストと戦っていたが、添田のようなコントロール重視のデッキを組む人物は、得てして攻めに転じるタイミングが遅い。
 それは、場の制圧に必要なカードにデッキのスペースを多く割くからである。ブレードラビットやケースラビットのようなステータスの貧弱なモンスターを多く採用する添田ならば尚更、アタッカーと呼べる攻撃力のモンスターは少ないだろう。
 だからこそ、徹底的に場を制圧しようとしてくる。相手の場がガラ空きなら、ステータスがいくら低かろうとも攻撃は通るからだ。
ライト・ラビットを召喚!」
 しかし、そのカードは直接制圧に結びつくような効果を持ってはいなかった。
「ライト・ラビットさんの召喚に成功した時、デッキからダーク・ラビットを3枚手札に加える! カードを1枚セットしてターン終了や」
 金の毛並みの、やけに人間に似た体系のウサギが現れる。アメリカンコミックの世界のダーク・ラビットと並んでも違和感がなさそうだ。

瀧口 大音LP7500
モンスターゾーン真紅眼の黒竜
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札0枚
添田LP5600
モンスターゾーンライト・ラビット
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札5枚

 ダーク・ラビットは何の変哲もない通常モンスターである。ステータスも、お世辞にも高いとは言えない。
 それを3枚デッキに積んでいるということは、何らかのサポートカードを用意している可能性が高い。
 勿論、大音にとってはそんなものは関係ない。ただ攻めて、攻めて、攻め抜くだけだ。
「真紅眼の前に低級モンスターを攻撃表示でさらしたことを後悔させてやるぜ!
 メカ・ハンター召喚! 真紅眼でライト・ラビットを攻撃!」
 攻撃と同時に、大音の伏せカードがオープンされる。
メタル化・魔法反射装甲! 真紅眼の攻撃力には300ポイントに加え、攻撃対象の攻撃力の半分が加算される!
 ライト・ラビットの攻撃力1500の半分、750が加算されて、真紅眼の攻撃力は3450だ!」
 何の抵抗もなく、金のウサギはメタル化の力を得た真紅眼の炎に焼かれて砕け散る。
 その後、メカ・ハンターの直接攻撃が通って、添田のライフポイントは大きく削られた。
「次のターンで終わっちまうか?」
「まだや! 俺のターン!」
 ドローを終えて、添田の手札は6枚である。ただし、そのうち3枚はダーク・ラビット、1枚はブレードラビットと、貧弱な低級モンスターだ。
 それを壁にしたところで、次のターンに真紅眼とメカ・ハンターの攻撃を両方受けきることはできない。
「魔法カードササジャータカ! ライフポイントが3000以下の時、手札またはデッキから任意の枚数のウィルミーを墓地に送り、送った枚数×1500ポイント回復や!
 俺はデッキから3枚のウィルミーを墓地に送る! 簡単には負けへんで!
 メカウサーさんを攻撃表示で召喚! メカ・ハンターに攻撃!」
「何……?」
 不可解な行動だ。メカウサーの攻撃力は800。メカ・ハンターに大きく劣る。
「メカウサーさんが戦闘で破壊されたことにより、デッキから更にメカウサーさんを裏側守備表示で特殊召喚! そして……」
 添田の場に伏せられたカードが明らかになる。
「永続罠、待ちぼうけの切り株発動! 自分のターンの戦闘でウサギさんが破壊された時に発動可能。俺のフィールドにモンスターがいる限り、相手は攻撃宣言でけへん!」
 このロックを完成させるために、わざわざステータスの低いメカウサーでメカ・ハンターを攻撃してきたのだ。
「ちっくしょ……空気読めよな。長引かせてどうするんだっての」
「ぜ、全力出せ言うたんはどこのどいつや! これが俺の闘い方や! 文句つけんな!」

瀧口 大音LP7500
モンスターゾーン真紅眼の黒竜
メカ・ハンター
魔法・罠ゾーンメタル化・魔法反射装甲
手札0枚
添田LP5600
モンスターゾーン伏せモンスター(メカウサー)
魔法・罠ゾーン待ちぼうけの切り株
手札4枚

 大音がドローしたカードを発動して、添田は頭を抱えた。
「んがー! 空気読まれへんのはどっちやー!」
「いや、引いちまったんだから、仕方ねーだろ」
 添田の墓地に送られる永続罠。大音の墓地に送られるサイクロン
 低級モンスターで自爆特攻までしてやっと作りあげたロックは、たったの1ターンも持続しなかった。
「とりあえずメカ・ハンターで攻撃だ」
「ぐおおお、メカウサーさんの効果発動! 500ポイントのダメージを与え、デッキからさらにメカウサーさんを裏側守備表示で特殊召喚!」
「痛くもかゆくもくすぐったくもないぜ。真紅眼で攻撃! もうデッキにメカウサーは残ってねーよな」
 効果によってわずかなダメージが大音に与えられるものの、フィールドの状況を見ればどちらが有利であるかは一目瞭然である。
 添田の場はガラ空き。ドローを終えて手札は5枚あるものの、そのうち3枚は低級の通常モンスター。もう1枚はケースラビットで回収したブレードラビット。
「どうした? 手詰まりかい?」
「ぬかせ! まだ終わらんわ! 墓地のメカウサーさんをすべてデッキに戻し、融合デッキからメガ・メカウサーさんを特殊召喚!」
 ウサギの形をしたロボット、メカウサーをそのまま巨大にしたものが添田の場に現れた。
 次の瞬間、それを取り巻くように裏守備表示のモンスターが3体現れる。
「メガ・メカウサーさんは寂しいと死んでしまう。よって、1ターンに1度、通常召喚を行う代わりに、手札・デッキ・墓地から可能な限りのメカウサーさんを特殊召喚できんのや」
 添田はドローしたカードを伏せてターンを終了した。

瀧口 大音LP6500
モンスターゾーン真紅眼の黒竜
メカ・ハンター
魔法・罠ゾーンメタル化・魔法反射装甲
手札0枚
添田LP5250
モンスターゾーンメガ・メカウサー
伏せモンスター(メカウサー)×3
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札4枚

 つくづく厄介な男だ。時間稼ぎがしぶとい上に、与えてくるダメージもチマチマとしている。
 とにかく、さっさとライフを削り落してやろう。大音は躊躇いなく真紅眼で攻撃宣言する。
「罠カードルナティックラビットアイズ! 墓地のササジャータカを除外、手札のウサギさんを1枚捨てて発動!
 フィールド上のモンスター1体を破壊し、その元々の攻撃力分のダメージを与えるッ!」
 ソリッド・ヴィジョンの月が現れ、灼熱の火炎を吐きだそうとした真紅眼に向かって赤い光を放つ。その眼光に見据えられ、真紅眼の炎は進行方向を変えて自身を巻き込み、大音にその衝撃を与える。
 激しい爆風で、一本に結わえた髪が舞う。大音は歯噛みした。二度ならず三度までも、真紅眼を破壊された。
「そしてその後、互いのプレイヤーはカードを2枚ドローする。どや? 真紅眼をことごとくぶっ壊される気分は」
「……ッ最悪だな。メカ・ハンターでメガ・メカウサーを攻撃!」
 メガ・メカウサーとて、ステータスはメカウサーの倍程度しかない下級モンスターだ。メカ・ハンターの攻撃でたやすく破壊できる。
 しかし、そうしたところで、戦況がひっくり返ってしまう手前の状況は変わらない。真紅眼が消えたことで大音の場に残されたのはメカ・ハンターだけとなり、相手の場にはリバース効果でダメージを与えるモンスターが3体。半分は低級モンスターと分かっていても、5枚の手札は威圧感が大きい。
「カードをセットしてターン終了」
 添田のターン。3体のメカウサーがリバースされ、1500ポイントのダメージが大音に与えられる。
「メカウサーさんを1体生贄に捧げ、ラビット宮本召喚や!」
 着物を着た二足歩行の侍が刀を下げて現れる。頭にはなぜだかわからないが、メルヘンなウサギのかぶり物を被っていて、手足も白く、お尻からは丸い尻尾が出ている。
「またキメラチックなのが出てきたな」
「可愛い見た目に騙されたらあかんで! ラビット宮本の攻撃力は、墓地に存在するウサギさんカードの枚数×200ポイント上昇する!
 えーと、墓地におるウサギさんは……ぼんさんがへーこいたっと、10枚や!
 よって、ラビット宮本の攻撃力は3500! メカ・ハンターに攻撃!」
 機械兵がメルヘンな侍に切り捨てられ、機械のウサギ達も攻撃態勢に入る。
「この勝負もろたでー!」
「させるかよ! 正統なる血統! 真紅眼を特殊召喚だ!」
「かー! しつこいわー!」





 蘇った黒い竜が吼え猛る。
「なぜそこまで真紅眼に拘る?」
 藍川は、気がつけば口に出していた。それはデュエルリングにいる大音には届かない声だったが。
 昔――大音がまだセイバーという組織と関わりを持たず、藍川と行動を共にしていた頃――は、大音は真紅眼の黒竜というカードを使ってすらいなかった。
 勿論、メタル化というフェイバリットカードを最大限に生かすために採用しているというのはわかる。
 だが、今や大音のデッキの中心はメタル化ではなくなっている。
 デビルゾアメタル・デビルゾアを主力にしていた頃と違い、真紅眼専用のサポートカードも多く採用している。真紅眼の黒竜を軸に据えた戦いになっているのだ。
「初恋の人が使ってたとか何かじゃないかなぁ?」
 いつの間にかパイプ椅子の観戦席を離れて、たのかが藍川の近くに来ていた。気配なく近寄られたことで藍川は警戒するが、すぐに独り言への回答ともとれる発言の内容を考えた。
「本当にそんな理由なのか?」
 そうであるとすれば意外なことだ。人の事は言えないが、色恋沙汰などに微塵も縁のなかった瀧口 大音が、初恋の人の面影をカードに重ねるなど。
 藍川の質問に、たのかは人差し指に乗せた一枚のカードをくるくると回しながら、「さあねー」とそっけなく答えた。





「永続魔法沈黙のバッテンウサギ、発動!」
 添田のターンはまだ終わってはいない。一枚の永続魔法が発動された。口がバツ印の小さなウサギが描かれたカードだ。
「このカードはスタンバイフェイズ毎に、相手フィールド上に表側攻撃表示で存在するモンスターにラビットカウンターを一つ乗せる。ラビットカウンター1つにつき、そのモンスターの攻撃力は500ポイントダウン。この効果で攻撃力が0になったモンスターは破壊される!」
 添田はどうだ参ったかと言わんばかりに高笑いしてターンの終了を宣言した。

瀧口 大音LP950
モンスターゾーン真紅眼の黒竜
魔法・罠ゾーン正統なる血統
手札2枚
添田LP4600
モンスターゾーンラビット宮本
メカウサー×2
魔法・罠ゾーン沈黙のバッテンウサギ
手札4枚

 大音がドローを終える。残りライフポイントはすでに1000を切っており、このまま何も策を講じずにターンを終えれば、ラビット宮本の攻撃で削り切られてしまう。
 真紅眼を守備表示にするつもりは毛頭ない。守備表示にしたところで宮本は貫通効果を備えているから、意味がないのだ。
「これでもうおしまいやな」
「ハッ、そうだな」
 大音は笑って答えた。そうするだけの自信があった。
「お前の可愛いウサギさんデッキともこのあたしのターンでお別れってことだ」
「な、何ぃ? 真紅眼の攻撃力はスタンバイフェイズに500下がって、1900。低級同然なんやぞ! そんなんで何ができる! 次のターンで宮本の攻撃が通りゃ俺の勝ちや!」
 添田の声には応えず、大音は魔法を発動する。
 真紅眼の灼熱のブレスが、モンスターを通り越して添田に直接ぶつかった。
「クッ、黒炎弾か……しかし残念やったな! これでもう真紅眼は攻撃でけへん。いや、できたとして、俺の残りライフ2200を削り切れる攻撃力では……」
「それが削れちまうんだよ。行くぜ! 融合発動!」
「な、何!?」
 大音の手札にあった上級通常モンスターと、場の真紅眼の黒竜が融合する。
 漆黒の巨大な翼をはためかせ、悪魔の角を持った頭を持ちあげて、長い尻尾をしならせながら、それは吼えた。
ブラック・デーモンズ・ドラゴン、召喚!」
 大気圏で燃える隕石の如き灼熱のブレスで、機械仕掛けのウサギを吹き飛ばす。添田のライフポイントは尽き、デュエルは決着した。

 デュエルディスクの『ドレイン』をつかさどる部分から、オレンジ色の光が発せられた。『ドレイン』が動作し始めたという証拠だ。
 そして、二人の決闘者は膝をつく。一度のデュエルで得られるレグナフォースは限られている。それを安全な範囲内において最大限の効率で得ようとするのだから、二人への負荷は相当なものになっているはずだった。
 鋼の決闘者は、心配そうに自分のほうを見ている彰と十海に向かって、彼女自身をも支えてきた力強い言葉を送った。

























 相変わらず驚異的な体力だ。と藍川は思った。
 瀧口 大音は高出力の『ドレイン』を受けたにも関わらず、自力でベッドまで歩いてきたのだ。
 対戦相手だった添田はその場で倒れて係員に運ばれた。添田は大音よりも若いはずだから、本来体力的に有利なのは添田のほうだ。
 しかし、瀧口 大音の体力は常人のそれではない。鍛え方が根底から違うのだ。
「タバコをやめた効果はあったということか」
「へへ、まあな……」
 大音はくわえていた緑色の植物の茎をティッシュでくるんで、持ち歩いているらしいゴミ袋に入れた。
 タバコと灰皿の代わりだろう。大音がタバコをやめたのは、藍川と行動を共にしなくなった後だ。
「こいつはな、あんたの、光の道と、同じ。あたしの、戒めなんだ」
 そこまで言ってから、ベッドに倒れ込んだ大音は、すぐに寝息を立て始めた。相も変わらず切り替えの早いことだ。
 戒めの意味はよくわからなかったが、大音は大音なりにタバコを吸わない選択をするにあたって色々考えたのだろう。
 『セイバー』には特異な力を持つ人間が所属している。東雲や逢魔もそうだったが、瀧口 大音はその中でも別格だった。
 出会ったときからそうだった。彼女が力強く決意すれば、どうあっても彼女はそれを貫き通した。
 己の信念を貫く力。瀧口 大音が持っているのはそういう類の精神論的な力だ。初めて聞く者なら信じないだろうが、瀧口 大音とともに行動していた藍川にはわかる。
 やると言ったことはやり通す。一度彼女が決意すれば、それを止められる者はいない。それほどまでに圧倒的な力。
 だから、藍川もレグナ計画について話す気になった。『セイバー』であれ何であれ、部外者を巻き込むまいと黙ってきたことだったが、瀧口 大音が味方についてくれると言ったのだ。
『言え。何があんたの光の道を塞いだ』
 瀧口 一音の救出も館柳 信哉の奪還もそうだが、藍川の目を見て大音が言ったあの言葉は、心強いの一言に尽きた。
 結局、この友には敵わない。それを改めて認識させられた。
 眠る友の傍を離れて、藍川は土井の下へと歩いた。まだ足にうまく力が入らないが、歩けないほどではない。
 土井も、起き上がれるようにはなっていた。
「大丈夫か」
「ええ」
 それだけの短いやりとりだったが、土井が思いつめているのはすぐにわかった。
 その苦しみを知っているからこそ、次の言葉を紡ぐ。
「一度話すだけで、その痛みは和らぐだろう。私でよければ懺悔くらいは聞こう」
「優しいのね」
「傷を見られるのが嫌なら、無理にとは言わないが」
 痛みを抱え込んできた女医が静かに息を吐いて小さく笑った。
























 父のように振舞ってくれた人がいた。
 親戚は皆冷たかったから、私はその人の背中ばかりを見て育った。
 興味あるモノを前にするとそれ以外に何も見えなくなるような、典型的な科学者だったけれど
 私にとってはそれで十分だった。その背中を追いかけていられるだけで、十分すぎるほどに幸せだった。
 十年前、全てを否定されて生きる気力を失ったその人を見るまでは。

 なんとかして救いたかった。誰にも認められなかったあの人の研究を、認めさせるためにはどうしたら良いのか、考えた。
 オレンジ色に輝く液体。採取の方法さえもまだ完全に確立されてはいないけれど、それでもどうにかして集めた、あの人の苦労の結晶。
 それを見つめているうちに、頭の中にヘンな声が聞こえてきた。
 その声に従ったのかどうか、当時の記憶だけが曖昧になってしまっていてわからないけれど、私はそれを取り込んだ(・・・・・)
 筒状の容器に入れて、先端に取り付けた針を自分の腕に突き刺して、何をやっているのかわからないうちに、私は血中にそれを取り込んだ。
 頭の中がかき乱されて、何もわからなかった。精神に異常をきたしているんだろうということ以外には何もわからなかった。
 あの人はすぐに私に駆け寄った。私を揺さぶって、必死に呼びかけてくれた。
 その声よりも大きく、私の頭の中で鳴り響く声があった。それを伝えたことで、あの人は壊れてしまった。
























「お父さん、天使様の声が聞こえる」



4:一音救出作戦 銀狼VS除外デッキデス


 聖域は固定された姿を持たない。
 認識を歪めるレグナフォースによって生成された空間であるのだから当然だという旨の説明を老博士が嬉々として話していたのだが、どうにもこの場所は居心地が悪いような気がした。
 先ほどまではここが研究室であったことを思わせる本棚と専門書が視界の半分を埋め尽くしていたのだが、今は部屋の左半分が歯車でできた何かの装置、右半分がガラクタの山になっている。
 ガラクタは本当に様々だが、交霊盤やタヌキの置物、二十四枚の意味を持つカードと言ったオカルトに関係するものが多い。
 科学と非科学が同じ部屋に、しかし混在することなく分け隔てられている。それは秩序を持った空間であり、しかし互いの中では秩序を持たない。
 歯車は規則正しく回るが、回るだけで何かを為す装置ではない。歯車Aが回ればそれに連動して歯車Bが回り、次にCが回り、Dが回って、その先にいるのが歯車Aだ。終わらない連鎖は理想であり、恐怖だった。
 交霊盤の上を滑るプランシェットはHELLOとGOOD BYEを交互に行き来して、タヌキの置物のまわりを二十四枚のカードがななめに回転しながら回っている。人の手を借りずに動くそれはオカルトの究極であり、終焉だ。
 その両方を見て、椅子の上の座布団にアグラをかいていた小柄で仮面のような笑顔の男が嗤った。
「聖域最深部の居心地はどォだ? ユカイだろ?」
「まったくだ。ひいバアサマの葬式と同じくらいユカイだな」
 対して、背の高い水色マフラーの青年は退屈そうだった。その様子に、鯉岸は舌打ちする。
 が、しかしすぐに不気味な仮面の笑顔を取り戻した。何がおかしいのか、目頭に手を当てて上を向いて乾いた笑い声を発し始めた。
 そのまま立ち上がって、出口のほうへ向かう。この部屋は二つ扉があり、片方は鉄で固く閉ざされて博士以外は入ることができない。もう片方の扉が出口だ。
「くれぐれもヘタなマネすンなよ?」
 信哉に向かって念を押して、鯉岸は扉に手をかける。
「どこに行くんだ?」
ねずみ取り
 鯉岸はタノシソウニ答えた。




































 暗闇の中で、早乙女 レイは膝を抱えてうずくまっていた。
 大会が始まる前に友人に見せた笑顔などすでに忘れ去ってしまったかのように、その表情には感情の色がない。
 ここはサンクチュアリ・ゼロ。聖域の奥深く。暗黒の鋼の通路は消えて、静かな森に出てくることができた。
 それでも、暖かい光はない。空に輝くのは冷たく青白い三日月だけ。
 肌を突き刺す風を感じて、着ている黒い薄手のジャケットをつかんだ。一人でこうして丸くなっていると、安心できた。
 ここにいれば、何も見なくてもいい。目を閉じて、緩やかに訪れる終わりを待つだけでいい。
 ここにいれば、何も聞かなくてもいい。耳を塞がずとも、聞こえるのは冬の風が木々を揺らす音だけ。
 ここにいれば、誰も傷つけなくてもいい。誰が来ることもない。ここは閉じた世界。すなわち、心乱すモノの存在を許さぬ聖域。
「どこで、おかしくなっちゃったのかな」
 つぶやいた言葉は誰にも届かない。自分でさえ、秒を数えてしまえばその言葉を頭の中から追い出してしまっている。
 全て忘れて、全て閉ざして、全てに背を向ける。ほしかった安心を手に入れたはずなのに、なぜだか悲しかった。
 こぼれる涙の理由は、考えたってわからない。だから、考えない。何も、考えない。
 頭の中で鳴り響くノイズが植え付けていく知識にも意識を向けない。『ドレイン』とかいうものの使い方を知ってしまったせいで、傷つけてしまったから。
「ふむ、ふむ?」
 突然聞こえてきた声に、全身の神経が逆立った。
 ムカデが体中を這うような悪寒がした。ジャケットをつかむ力が強くなるのを感じた。
「これは良くないね。とても良くない」
 暗闇の静寂を切り裂いて飛んでくる、よく通る声。深く呼吸しながら発せられる、穏やかながらも力強さのある声。
 本来ならば聞く者に安心感を与えるそれも、今のレイにとっては恐怖の対象でしかない。ここには誰も来るはずがなかったし、来てはいけなかったのだ。
 もう声は聞きたくない。暗闇から発せられる声は絶望以外のものを告げてはくれないから。
 構わずに、老人の声は続けた。
「枷を引き剥がせば理想的な状態になると思ったのだが、とても強固な枷だ。
 いや、いや。枷が強固だというよりは、彼女が強固にしがみついているのかな」
 背中を丸めて顔を突き出すようにして、白衣を着た老人がレイを覗き込んでくる。
 目を合わせてしまいたくなくて、レイは強く目をつぶった。体を強張らせて、息すらせずにじっとしていた。
「やれ、やれ。私の見込み違いだ。鯉岸君は実によくやってくれたが、素材が悪くてはこの結果もいたしかたない。あと一歩だというのに。
 やはり、彼が必要だ。あの空虚さがLEGNAを完全にしてくれる。それ以外に方法などない」
 一人で勝手に納得して、博士は視線をレイから外した。背筋を伸ばせばそれなりに長身だった。
「ふむ、ふむ。ネズミの排除くらいには使えるだろう。来なさい。君がその恐怖から逃れる道を、私が示そう」
「……?」
 恐怖から逃れる道。実に甘美で素晴らしい響きのその言葉が、耳をくすぐった。
 ここはまだ完全ではない。完全な聖域を作り上げなければ、恐怖から逃れることはできない。
 闇の中の恐ろしい顔が告げる恐怖。耳を塞いでも指の隙間から入り込んでくる不快な音。目を閉じても瞼の裏に焼きついたおぞましい光景。
 もう一度意識の中で頭をもたげ始めた恐怖を消し去るために、それ以上考えることをやめた。
 穏やかな老人の促しに応えて、早乙女 レイは立ち上がった。




































 聖域。皮肉にも限度というものがある。と、白い調理服の青年、幸介は思った。
 レグナフォースによって稼働した『ゲート』をくぐってやってきたのは、奇怪な空間だった。
 見た目は銀の光沢を放つ台の並ぶ厨房。確かに、料理長である幸介にとっては聖域そのものだ。
 しかし、本質は異なる。食材は一つも存在しないし、包丁、フライパン、まな板といった調理器具も見当たらない。整然としすぎている。
 それ以上に気がかりなのが、自分以外のメンバーの姿が見当たらないということだった。
 『ゲート』をくぐる際に、聖域の別の座標に飛ばされてしまったのだろう。聖域のどこに出るかはわからないという説明があったのを思い出す。
 他のメンバーは大丈夫だろうか、と考えかけて、やめた。あまり心配しないほうがいい。疑念が強くなれば、それは現実になりかねない。
 厨房が暗くなる。白い明かりが消えただけではなく、銀色の調理台が徐々に闇色に変わり、空間に溶けていく。
 暗闇に目が慣れて、見えてきたのは冷たい鋼のトンネル。闇の底から誰かが歩いて来るのが、硬い靴音でわかった。
「鯉岸、と言ったか」
「ククッ、アイちゃんは口が軽くて困りますねェ」
 深淵から姿を現したのは、小柄でヒョウキンなガラガラ声の男だ。貼り付けた仮面のような笑顔で、幸介を睨んだ。
 幸介は小さく笑った。好都合だ。最も危険な人物が、自分の目の前にいる。他のメンバーに、この危険な男の処理を押しつけなくて済む。
「それにしても」
 その笑いをかき消すように、鯉岸が口を開く。
「お前等忌々しい『セイバー』の仲間だったあの男、館柳ッつッたか? あいつも無駄なことするモンだなァ?」
 幸介の眉が動いた。それを悟られないようにうつむく。
「どう足掻いても、失ったモンは取り戻せねェ。これじゃ裏切り損だ。ククッ。
 どォだ? 裏切られた気分ッてのは」
「……たか」
「あン?」
 顔を上げた幸介の目は、鋭く鈍い輝きを放っている。それは怒りの色。
「あいつの覚悟を、無駄だと言ったか!」
 友を侮辱された怒りが、暗闇の世界を張りつめさせる。鯉岸の口が左右に大きく裂けた。
「いいねいいねェ! それだよ。その黒い感じ! 暗黒の世界に相応しいのは一方的で理不尽な愉悦と憎悪だァ!」
 怒れる調理師と小柄な男が対峙し、闘いが始まる。




































 奇妙な部屋だった。入ってから、左側の半分が、歯車でできた何らかの装置。右側の半分が、オカルト関係のガラクタが積み上げられて山になっている。
 薄気味悪い場所だと、十海は思った。そんな場所で白い手袋をはめて、嬉々として辺りを調べて回る探偵少女の気が知れない。
 十海も剣山も、部屋の奥にある鉄の扉に目が行った。今ここにいるのはこの三人だけだ。彰と和沙、そして幸介はいない。
「博士ってのは、こんな気味悪いところに住んでるザウルス?」
「住んでるかどうかは置いといて、さっきまで誰かがいたのは確かだね」
 椅子の座布団を確かめて、たのかはそう言った。
「まだ熱があるんだ。本当についさっきまで誰かがいたんだろうね。結構良いタイミングで入ってこれたみたい」
「い、良いタイミング?」
 十海が心配そうに聞いたのは、たのかが奥の鉄の扉を楽しそうに見ていたからだ。
 たのかは扉の前まで行くと、大きく息を吸った。
「いーちーねーちゃーん!」
 後に「遊びましょー」とでも続きそうなイントネーションで、扉に向かって呼びかけ、すぐさま耳をそれに当てる。
 十海と剣山は青ざめた。さっきまで人がいたと自分で言っておきながら、どうしてそんな大声が出せるんだと思った。後ろの扉から鯉岸やら博士やらという危ない人が入ってきたりしたら、どうなるだろう。
 体力勝負になってしまったら剣山以外は少々頼りない。覚悟を決めなければならなくなるだろう。
「うん。返事ないね」
 二人の心配をよそに、たのかは鉄の扉につけられた錠前を見始めた。
「な、何する気だドン?」
「ピッキング」
 全く悪びれた様子がない。それでも探偵だろうか。
「名探偵はね、被害者の返事がなかったらドアを体当たりで破るか何かしないといけないんだ。
 流石に、鉄の扉に体当たりするのは自殺行為でしょ?」
 「まあ、日本の扉はたいてい外開きだから普通は破れないんだけどね」と補足して、二つの錠前を観察し始める。
 なんだか妙な説得力があった。確かに、人を助けるためという理由があればピッキングも仕方がないのかもしれない。剣山も十海もそう思ってしまった。
「片方はレバータンブラーだから針金で何とかなるとして、もう片方は……なんだ、ダミーロックじゃん」
 錠前の鍵穴を覗き込んでからインバネスコートのポケットを漁って、銀色の細い針金を取り出す。
「たのかちゃんディテクティブ秘密道具! 古典的錠前ならお手の物! 針金さんなのだ!」
「そんなもの普段から持ち歩いてるザウルス……?」
「ふふん、備えあれば憂いなし!」
「何に対する備え……?」
 二人からのツッコミにひるむ様子もなく、たのかはカチャカチャと針金を錠前に差し込んでいじり始めた。
 かと思うと、ものの数秒で解錠が成功したことを示す音がした。
「な、慣れてるドン……」
 重たい扉を剣山が押しあけて、三人は堅く閉ざされていた部屋の中に入った。
 大きな機械につながれたコードが、中央の長椅子に座らされた少女の頭まで伸びている。先端は電極で張り付いており、大きな機械のモニターにはよくわからない波形が映し出されていた。
 少女は腕にデュエルディスクをつけているが、頭は力なく下を向いている。すぐにたのかが駆け寄った。剣山も後に続く。
「一音ちゃん! 大丈夫?」
 たのかが肩を掴んで意識を確認する。十海は近くに寄ることができなかった。
 一瞬でも、目覚めてほしくないと思ってしまったから。
 その醜い感情に呼応するように、一音の髪が白く染まっていく。秒を数えるか否かの時間で、一音の長い髪はすべて銀に染まり、彼女の目が開かれた。赤い、人のものではない目が。
「どういうことザウルス?」
「一音ちゃん……じゃない?」
『イチネに触れるな……ッ』
 絞り出すような声だった。瀧口 一音のそれとは異なる、もっと重たい響きを持った音だ。
「いち、ね……」
 目の前にいるのは、八年前までいつも一緒に遊んでいたうちの一人。あの火事の日、彰と十海が全てを失った日に、炎の中に取り残された少女。奇跡的に救出されて、しかし決して目を覚まさなかった。
 友達だったなら、今目覚めていることを喜ぶべきだ。わかっていても、体は震えるばかり。ただ、目の前の、今まで忘れていた少女を恐れるだけ。
『ナナヤマ トウミか』
 一音の姿をした何に呼ばれて、肩が跳ねた。
『あの日、イチネを助けようとしなかった』
「あの時は、まだコドモで……」
 用意していたかのように口から出てくる言い訳が嫌だった。一音の姿をした何かは続ける。
『イチネを忘れ去った』
「だって、それは……!」
 その理由も、本当はわかっている。だけど、それを言葉にすることが恐ろしい。
『イチネはずっとお前達二人のことを考えていたのに……ッ!』
 後ずさりして、後の鉄の扉にぶつかった。膝に力が入らない。頭の中を何か得体の知れない熱がぐるぐる回って、うまく物が考えられない。考えることを拒んでいる。
「はいストップ」
 助け舟はたのかから出された。
「あなたが誰かは知らないけど、十海ちゃんは今、混乱してるの。お話なら後にしてくれないかな」
『何故お前が弁解する』
「どうしてあなたが十海ちゃんを責めるの?」
 たのかに睨まれて、一音の姿をした何かは黙った。それは、その何かが一音とは違う存在であることを意味する。
「さて、そこのバンダナザウルス君も私も、状況がうまく飲み込めないので、整理しようか」





 一音の姿をした何かは、フェンリルと名乗った。デュエルモンスターズの精霊らしい。
 たのかも剣山も、そう言った特殊な世界を少なからず知っているらしく、さほど驚きはなかった。
 フェンリルは八年前からずっと一音の中にいて、彼女を見守っていたのだという。何故だか十海を敵視しているようだが、それは今の状況を整理するためにはあまり関係がない。
 今は一音の意識が奥に引っ込んで、フェンリルの意識が前に出ている状態だが、一音側は時期に目覚めるということだった。
 フェンリルから一音がつかまった経緯を聞きだして、今の状況を考える。
「つまり、この聖域っていう世界を維持するために一音ちゃんの力が必要で、一音ちゃんはそのためにここに閉じ込められてる、ってことザウルス?」
「そうだね。じゃあ、一音ちゃんを連れてさっさととんずらしようか」
 たのかが同意を取ろうとすると、反対したのはフェンリル。
『イチネをどこへ連れていくつもりだ』
「えっ……。どこって、帰るだけだよ」
 赤い瞳がたのかを睨む。拒みの視線で射抜かれて、たのかは戸惑った。彼女もまさか一音(の中にいる存在)が帰りたくないなどと言いだすとは思わなかったのだろう。
「何か、ここにいたい理由があるドン?」
 想定外の事態に混乱したたのかの代わりに、剣山が聞いた。
『ここなら、イチネは安全に過ごすことができる』
 安全。一音を害する者がない、ということだろうか。
『力を少し供給するだけで、他の外敵に脅える必要はない。イチネには安定した安息が約束される。外の世界には、イチネの心を乱す存在が多すぎる』
 フェンリルの口調は一欠片の迷いも持っていない。本気で、それが一音のためであると信じているようだった。
「それで、ここから出たくないザウルス?」
『出るべきではないのだ。それがイチネの心の平穏を約束してくれるものである限りは』
 それは違う、と剣山が反論する前に、別の声が反論した。
「そんなのダメ」
 その声はたのかが発したものではない。二人よりも後ろにいる、十海のものだ。
 先ほどまでの怯えきった様子はもうなく、力強い視線でフェンリルを見つめていた。





 フェンリルがたのか達に状況を説明している。その声は一音とは違う。だから、まだ一音の声を聞いていない。
 瀧口 一音。十海はその名前を頭の中で繰り返した。姿は八年前とは違う。眠っていても、成長はするのか。
 十海は、彼女のことを忘れていた。それがなぜかは、自分ではわかっている。認めたくなかっただけで、理解している。
 今、それを認めなくてはいけない。自分と、一音と、向き合わなければならない。そうすることで、自分も、きっと、一音だって、今よりも成長できる。
『イチネをどこへ連れていくつもりだ』
『ここなら、イチネは安全に過ごすことができる』
『外の世界には、イチネの心を乱す存在が多すぎる』
 ところが、どうだ。一音の中の、一音ではない存在、フェンリルが、その成長を拒んでいる。
 確かに、ここにいれば何もないだろう。ひょっとしたら安全かもしれない。だけど、それで良いのか。一音はそれを、望むのか。
 記憶の中の一音を呼び起こす。同時に辛いことも思い出さなくてはならない。それでも十海は諦めない。諦めたくない。
 まだ、当時は五歳だった。幼かった。だけど、一音は、彼女の瞳は、あの日の炎で視界が閉ざされ、暗闇の世界に落とされてしまうまでは、輝いていたはずだ。
 自分よりも明るくて元気で、周りの誰からも愛されて、彼女自身だって、周りの全てに対していつだって前向きに接していた。
 そんな一音が、こんな封鎖された世界の中で立ち止まることを望むだろうか。そんなこと、あるわけがない。
「そんなのダメ」
 気がつけば、そう言っていた。またフェンリルに睨まれるが、今度は目を伏せたりしない。一つ深い呼吸をしてから、前に向かって、一音に向かって、歩き出す。
「一音だって、成長しなきゃいけない。成長したいって思ってる」
 そうだ。いつまでもコドモという殻に守られていては、成長なんかできない。いつかは自分で、時には助け合って、その殻を破らなければいけない。
 ゆっくりでいい。立ちあがれないなら、手を貸そう。一緒に歩こう。
 何度つまずいてもいい。何度転んでもいい。時には立ち止まることもいいだろう。だけど、それはまた歩き出すための準備だ。
 もう、手を伸ばせば届く距離に来た。フェンリルに向かって、手を差し出す。
「だから、眠りから覚めたんでしょ」
 一音は眠っていた。火事で意識を失ってから、ずっと。意識を取り戻して、この大会に出ていたということはさっきたのかに聞いた。
 大音はそのことを知っていたはずだから、一音はきっと、彰や自分を驚かそうと思っていたのだろう。
 そう。一音は目を覚ました。それは、自ら外の世界に出ていくという決意があってこそだ。
『黙れ! お前にイチネの何がわかる!』
「わからないよ。わからないから、伝え合うの。一人で閉じこもってたら、それもできない」
 フェンリルの怒声に対して、十海は落ち着いて答えた。
 あの日まで、一番近くにいた友達。一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に歩いていた存在。
 意識が一音本人のものでないとしても、同じ顔で、同じ声で敵意をぶつけられるのはとても辛い。
 だけれど、ここで引き下がってはいけない。また一緒に笑うために、また一緒に泣くために、また一緒に歩んでいくために。
 赤い怒りの視線を、十海はまっすぐに見つめ返した。
 結局、フェンリルは手を握り返してはくれなかった。手を伸ばせば届くのに、冷たい何かが二人を分かつ。
「まずは、あなたとわかり合う必要があるみたいね」
『どういうことだ』
 十海はデュエルディスクを構えた。
『力ずくというわけか』
「あなたの一音に対する想いと、私の一音に対する想いをぶつけるの。
 あなたが勝ったら、それは私の想いが弱かったということ。ここに残るなり何なり、好きにして」
 それを聞いて、フェンリルは立ち上がった。決闘者の視線が交差する。
 赤い視線に貫かれても、怯むわけにはいかない。

「モンスターをセット、カードを2枚セットしてターンエンド」
 先攻の十海のターンはそれだけで終わった。フェンリルのドローフェイズにそのうちの一枚を発動する。十海のコンボの軸たる宇宙が広がり、部屋自体もそれに呼応するように飲み込まれてしまいそうなほど深く澄んだ黒に染まる。
テラ・フォーミングを発動。デッキから伝説の都 アトランティスを手札に加え、発動する』
 黒い世界に、太古の都市が現れる。黒の半分を蒼に染め、そこが海底であるかのような錯覚を与える。
アトランティスの戦士を召喚。守備モンスターに攻撃する』
 腕にボウガンを装備した青い半漁人の戦士が海底都市に降り立ち、十海の場のモンスターに矢を放つ。
 フィールド魔法で強化されたアタッカーの攻撃力の前に、十海のモンスターでは耐え切れるはずもなく、あっけなく破壊されてしまう。
ニードルワームの効果発動! 相手プレイヤーはデッキから五枚のカードを捨てる!」
 それで良い。十海のモンスターは元々、その多くが戦闘向けではないのだ。
『カードを2枚伏せてターン終了』

七山 十海LP8000
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーンマクロコスモス
伏せカード×1
手札3枚
フェンリルLP8000
モンスターゾーンアトランティスの戦士
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札2枚
デッキ28枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 十海の戦術はデッキ破壊をメインに据えている。しかし、ビートダウンによる勝利も狙うことができる。
 相手の場のモンスターを掃討し、ダメージを与えるために攻撃することもある。
因果切断を発動! 手札を1枚捨てて、アトランティスの戦士をゲームから除外!
 捨てたカードはネクロフェイス! よって、互いのプレイヤーはデッキからカードを5枚除外する!」
 そしてこのカードの発動は、相手の場を空にするためのものでもある。アトランティスの戦士が場から消えたことで、フェンリルの場にモンスターはいなくなる。
D.D.アサイラントを召喚。直接攻撃!」
『永続罠グラヴィティ・バインド−超重力の網−を発動。レベル4以上のモンスターは攻撃できない』
 十海にとって、この攻撃が通らなかったことは大した痛手にならない。D.D.アサイラントは場にいるだけで、ビートダウンを軸とする相手には大きな威圧感を与えるからだ。
『私のターン、ドロー』
 グラヴィティ・バインドが場にある限り、レベル4以上のモンスターは攻撃することができない。
 しかし、フィールド魔法、伝説の都 アトランティスが存在する。つまり、水属性モンスターのレベルは通常の時と比べて一つ下がる。
アビス・ソルジャーを召喚。アサイラントを攻撃する』
 通常ならばレベル4のアビス・ソルジャーも、この状況下ではレベル3。グラヴィティ・バインドには引っかからない。
 それでいて、攻撃力は強化されて2000。低級モンスターとしては破格である。
 アサイラントの効果により除外されてしまうが、それでも低級モンスターなので再び召喚することは難しくない。
 そして、ここではアサイラントを破壊するよりも十海に戦闘ダメージを与えることに意味があった。フェンリルの場で表になっていたのはもう一枚の永続罠。
追い剥ぎゴブリンの効果で手札を1枚捨てさせる』
 追い剥ぎハンデス。ハンドアドバンテージが目に見えるようになる戦術で、相手のライフだけでなく手札も削る戦術。
 手札はデュエルにおいて重要な役割を果たす。デュエリストには手札の数だけ可能性がある、とさえ言われる。その手札を削り取ることが、デュエルにおいて有利に働く場面は非常に多い。
 ただし、この場合はその限りではなかった。
「捨てられたネクロフェイスの効果。互いにデッキから5枚除外する」
 マクロコスモス発動下では、捨てられたカードは墓地に行かずゲームから除外される。捨てられたのがネクロフェイスであれば、十海は欠片もディスアドバンテージを負わないことになる。
 むしろ、ネクロフェイスを除外するために他のカードを使わなかっただけ、アドバンテージを得たと取ることもできる。

七山 十海LP7700
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーンマクロコスモス
手札1枚
フェンリルLP8000
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーングラヴィティ・バインド−超重力の網−
追い剥ぎゴブリン
手札2枚
デッキ17枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 しかし、十海に手札がほとんど残されていないのも事実。
 手札がなければ、デュエリストはほとんどの行動を起こせない。
 モンスターを守備表示でセットしただけで、十海のターンは終わる。
『時間稼ぎか。無駄なことを』
「さあ、それはどうかしら」
 十海が不敵に笑ったのを無視して、フェンリルはターンを進める。
 先ほどのターンに出てきたモンスターと同じものが召喚された。強力なバウンス効果はコストがマクロコスモスによって封じられているので発動できないが、攻撃力は高い。
『守備モンスターに攻撃する』
メタモルポットの効果発動。互いのプレイヤーは手札をすべて捨て、デッキから5枚のカードをドローする!」
『クッ、カードを1枚セットしてターン終了だ』

七山 十海LP7700
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーンマクロコスモス
手札5枚
フェンリルLP8000
モンスターゾーンアビス・ソルジャー
魔法・罠ゾーングラヴィティ・バインド−超重力の網−
追い剥ぎゴブリン
伏せカード×1
手札4枚
デッキ11枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 デッキ破壊と手札補充。メタモルポットはその相反する二つを兼ね揃える強力なカードだ。
 これにより、追い剥ぎゴブリンでフェンリルが得たハンドアドバンテージはなくなり、デッキ破壊は加速された。
 十海は、トドメとなる2枚のカードをセットしてターンを終了する。
『罠カード発動。メタル・リフレクト・スライム。このカードはモンスターとして扱う。
 メタル・リフレクト・スライムを生贄に、出でよ、氷帝メビウス!』
 鋼のスライムが厚い氷に包まれ、周囲に冷気が充満していく。青いマントをはためかせ、凍てつく氷河の帝王が降臨する。
『メビウスは召喚に成功した時、フィールド上の魔法・罠カードを2枚まで破壊できる。
 除外の軸となるマクロコスモスを破壊すれば、私の勝ちだ』
 フェンリルが指定した2枚は、マクロコスモスとグラヴィティ・バインド。グラヴィティ・バインドを破壊することにより、上級モンスターであるメビウスも攻撃に参加することが可能になる。
 十海の場にモンスターはいない。これが通れば、相当大きなダメージになるだろう。
 更に、除外ギミックをつぶせば、十海の戦術は成り立たなくなる。あとは、アトランティスの効果で攻撃力を上げたモンスターで攻撃するだけで良い。
















 はずだった。
















 十字に整列する星の力異次元から帰還したモンスターもろともメビウスをはじめとするフェンリルのモンスターを破壊し、それによってフェンリルのデッキが宇宙の深淵に飲まれ、完全に無くなる。
『ば、かな……!』
 信じられない。フェンリルの表情はその一言だけで端的に表すことができた。
 通常召喚権は使ってしまった。水属性デッキの特殊召喚は墓地を利用することがほぼ必須。しかし、墓地にあるのはたった今破壊した重力の網だけ。
 何も考えられないフェンリルを、十海はただまっすぐ見つめていた。



5:強力タッグ! 名探偵と恐竜


 ソリッド・ヴィジョンが消えて、元の無機質な部屋の光景が蘇る。敗北したという事実が認められない。自分のイチネに対する想いがその程度だったのかと、認めたくない現実を突きつけられる。
 自分をまっすぐ見つめる少女と、目を合わせることができなかった。これでは、先ほどまでとまるで逆だ。
「フェンリル」
 自分の頭の中から声がする。その主のことだけを考えて行動したというのに、今はその声を聞くことさえ、自分を意識させることさえ申し訳ないことだと思ってしまう。
「ありがとう。もう、大丈夫」
『しかし……』
「大丈夫」
 念を押すような声。この体の本来の主のものだ。その彼女が制御を寄こせと言っているのだから、そうしないわけにはいかない。
 フェンリルは、静かに目を閉じた。





 一音の髪が徐々に元の、黒いものに戻っていく。やがてその目が開かれ、彼女が今、フェンリルでないことを示す黒い眼差しが十海に向けられた。
「一音……!」
 十海は迷わずに駆け寄って、抱きしめた。一音を思い出したことで辛いことも同時に思い出したが、今は心の底から再会を喜ぶことができた。
 話したいことは山ほどあった。三日三晩かかったとして、それは語り切れないほどのようにも思えた。
 だけど、出てきた言葉はたった一言だった。それ以上の言葉が思い浮かばなかった。それほど、その言葉が言いたかった。
「おかえり」
 一音も静かに、かみしめるように答えた。
「ただいま」
 しばらくその心地よい熱を感じていたかったが、今はそういうわけにはいかない。
 熱の名残を惜しむように離れる。一音の顔に影が射したのがわかった。
「私と戻ることは、博士を敵に回すことと同じ。とうみには、危ない目に遭ってほしくなかったけど」
 一音は迷いを振り払うように目を閉じて、ゆっくりと開く。
「ありがとう。たのかも、そこの大きい人も」
 剣山は照れたように小さく視線を泳がせて、たのかは満足げにうなずいた。
「さて、感動の再会シーンはここまで。早いところ他のみんなと合流してズラかるよ」
「ズラかるって、もうちょっと言い方ないドン?」
「向こうさんから見たら人さらいなんだから、間違ってないと思うけど」
 確かにそうだと納得してしまって、何も言えなくなった剣山の代わりにたのかのその言葉に答えたのは、そこにいた誰でもなかった。
「ふむ、ふむ。その通りだね。実にけしからん子供たちだ」
 その場にいた全員が驚き、恐れた。気配なく現れたその白衣の老博士の目が、尋常ではないのだ。
 白髪と老眼鏡、それから年齢を経て堀の深くなった顔からは想像もできないほどに爛々と輝いていて、しかしそこには光がない。
 純粋で、交じりっ気のない感情がそこにあった。怒りだ。子供の理不尽な怒りから、興奮というものを丸ごと削ぎ落としたようなものだった。
 不純物を含まない感情は、ただその視線を以て狂気として四人に突き刺さった。
「入りたまえ」
 四人から目をそらさずに、後ろにいるであろう何かに向かって命ずる。入ってきた人の姿を見て、十海と剣山は息を飲んだ。
「早乙女先輩……!」
 瞳を闇に濁らせた少女が、見たこともないような痛々しい視線を向けてくる。それと同時に、十海の後ろで機械音声があり得ないことを言い始めた。
『索敵範囲内のデュエリストから挑戦されました。十分以内にデュエルを開始してください』
 剣山とたのかのデュエルディスクから発されるそれは、間違いなく大会で使用されたものだ。
 砂嵐の画面を人型に切り抜いたような影が二つ、デュエルディスクを構えている。
「ふむ、ふむ。最近、私には部下が増えてね。彼が持ち込んだゴーストというシステムを使ってみようか。
 実体を持たない亡霊でも、レグナであればその実体を認識させることができる。ふむ、ふむ」
「ゴーストって、館柳先生の……!」
 ゴーストは、信哉がデュエルディスクに追加した機能だ。蓄積されたデュエルデータを元に、CPUを自動生成してデュエルさせるシステムのことである。
 剣山は、あの死神の気配が信哉のものだったと悟った。あの時、アカデミアで見たあのギラつく瞳こそが、信哉の本性だったのだ。
「ふむ、ふむ。一つ良いことを教えておこうか。君たちが参加していた大会のルールは覚えているね?」
「挑戦された場合はそれを受けねばならず、挑戦から十分経ってもデュエルが始らない場合、挑戦された側のチームが失格になる。つまり、聖域から追い出されるってところかな」
 たのかが言ったそれに対して、博士は満足げに言った。
「ふむ、ふむ! その通り。名探偵は物わかりが良くて助かるね。
 敗北者は、この世界から消えてもらうことになる。
 ふむ、ふむ。私の大事な実験台に手を出した君たちには、相応の罰を受けてもらうことになるのだよ」
 純粋に濁りない瞳で、怒りの視線をぶつけてくる。たのかは怯まずに答えた。
「あなたこそ、私がヴェロナールを薦める前に逃げ出したほうが良いよ」
「ふむ、ふむ。生憎と不眠症には悩まされていないのでね。むしろ、寝る時間が惜しいくらいだ」
 そう言ってから、博士はチラリと後ろを見た。
「ふむ、ふむ。私には歓迎すべき招かれざる客人がもう一人、否、少なくとも一人はいるようだ」
 そのまま、部屋の外に向かって歩き出す。最後に首だけ振り向いて、こう言い捨てた。
「さて、さて。君たちの健闘を心の底から祈っているよ」





 博士が去った後、残されたのは五人と二つのゴースト。大会ルールでは、デュエル後の十分間はクールタイムとなって挑戦されない。だから、たのかと剣山の二人が狙われたのだろう。
 剣山はすぐそこにいる、彼が知っているのとはまるで別人のような雰囲気のレイも気になるのだが、挑戦された以上、受けなければ失格(・・)になり、この聖域から追い出されてしまう。
 レイを連れ戻さなければならないし、信哉に会うためにここに来た彰のことも放ってはおけない。ここで逃げたり負けてしまうわけにはいかないのだ。
「じゃあ、てっとり早く片付けようか」
「ドン?」
 てっとり早く片付ける、というのはわかる。あまり時間をかけていては、危険人物代表の鯉岸とやらがここに来てしまうかもしれない。
 しかし、それで何故剣山の隣に立つのか。
「タッグだよ。タッグ。君は恐竜族使いだろうからそんなに相性悪くないと思うんだけど」
「どうしてわかるザウルス?」
「いや、その語尾なら誰でもわかると思うよ……」
 剣山もタッグデュエルは苦手ではない。種族、属性の統一にこだわったり、ロックを多用するデッキは別だが、それ以外のビートダウンであれば基本的にどんなデッキとも組むことができる。
 問題は、この探偵少女のデッキタイプがわからないことだ。この大会でレイとタッグを組んだ際は事前に打ち合わせをしてデッキを調整しておいたが、今回はそんな暇はなさそうである。
 とりあえず、普段使っているデッキをディスクにセットする。たのかのデッキは、と彼女のほうを見て、ギョッとした。
「そ、そのデッキは……」
「60枚の夢が詰まったデッキ!」
 屈託ない笑顔で言われてしまっては、何も言えない。はたして、大丈夫だろうか。
 彼の不安をよそに、デュエルは始まる。フィールド、墓地、除外カード、ライフポイントが共有されるルールだ。
 ゴーストシステムは相手のデッキ内容を把握してしまう厄介な効果を持っているが、聖域に来る際にプロテクトを掛けてもらったので問題ない。
 『サースター』が使っているものだけでなく、大会で使われていたディスクそのものにゴーストとプロテクトの両方が搭載されており、特殊な操作を行うことで誰でも使用が可能になる。
 使い方さえ知っていれば、『ドレイン』も『精霊抜き』も誰にでも使える、というところが少し恐ろしい。

 先攻は向かって左側のゴーストのターンだったが、そうであったことに二人は感謝した。
「あ、あれは反則だドン……」
「ルールには確かに禁止・制限リストの指定はなかったけどさ」
 左側のゴースト――たのかはゴーストAと呼び始めた――が最初のターンに発動したのは、いきなり禁止カードである不気味な壺のカード3枚。これによって、ゴーストAの手札は一気に3枚増えた。
 そこから召喚された戦士族モンスターが、悪魔の顔の装飾が施された斧を三本装備する。これがもし後攻だったとしたら、ワンターンキルされているところだ。
 カードを1枚伏せて、ゴーストAのターンは終了。次はたのかのターン。
 割と絶望的な攻撃力と攻撃回数を持つ相手に対しても、彼女は自信満々だった。
「ふふん、この勝負もらった! 洗脳−ブレインコントロール
 ライフを800支払って、ベン・ケイのコントロールを得る!
 わはは! ワンターンキルコンボが裏目に出たね! ベン・ケイで攻撃!」
 ベン・ケイに装備されているのはデーモンの斧が3枚。つまり、攻撃力は3500。そして、効果により攻撃可能な回数が四回になる。
 相手の場には今モンスターはいない。直接攻撃が決まってしまえば、あっけなくたのか達の勝利に終わるのだ。
 剣山も拍子抜けしてしまうような展開だったが、ここでデュエルは終わらなかった。
聖なるバリア−ミラーフォース−を発動します』
「ちくしょー! ガチカードばっかり積みやがって!」
 ベン・ケイはミラーフォースによって破壊され、たのかは頭を抱えた。
「こうなったら、たのかちゃんスペシャルコンボを見せてやるッ!
 トレード・イン発動! 手札の古代の機械巨竜さんを捨てて2枚ドロー!」
 ドロー加速カードは、通常の場合このようにコストがかかり、純粋な手札増強とはならないことが多い。
 手札の増強はすなわち、デュエルにおいて優位に立つことを示すと言っても過言ではない。故に、純粋な手札増強を手軽に実現させる強欲な壺は禁止カードの扱いを受けている。
「さあ行くぜ! 魔法カード名推理! ゴーストさんゴーストさん、レベルを宣言したまえ!」
『レベル8を宣言します』
 剣山は頭を抱えた。トレード・インなんかを使ってしまっては、レベル8を多く採用していると大声で宣言しているようなものである。
 その上で名推理を使うのは、無駄な行為になりかねない。しかし、このたのかという少女にはその常識は通じない。
 サイクロン、聖なるバリア−ミラーフォース−、大嵐ハリケーンスケープ・ゴートが墓地に送られ、ついにモンスターが出る。
「ふふん、運命はいついかなる時もたのかちゃんに味方するのだよ。
 出たのはレベル6、D−HERO ダッシュガイ! この場で特殊召喚!」
 車輪の足を持つ運命の戦士が特殊召喚される。たのかのターンはまだ終わらない。
ダンディライオンを召喚! ダンディライオンを生贄に捧げ、モンスターゲートを発動!」
 デッキから次に現れたのは、太古の昔に地上を支配していた者。黒く輝く鋼の鱗、力の象徴たる黄金の角が光る。王者の気高き咆哮が大気を揺るがした。
「カァーッコイー!」
「たのかちゃんも恐竜さんの良さがわかるドン?」
「良いよね。恐竜さん!」
 よくわからないところで意気投合しながら、カードを1枚伏せてたのかのターンは終了。

ゴーストA
ゴーストB
LP8000
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーン何もなし
手札6→9→5 / 5
相田 たのか
ティラノ剣山
LP8000→7200
モンスターゾーンD−HERO ダッシュガイ
究極恐獣
綿毛トークン×2
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札6→1 / 5

 右側のゴースト、ゴーストBのターンは、モンスター1枚とカード2枚をセットして終わった。ライフの大幅な増減は今のところない。
「俺のターンザウルス! ドロー!」
 直後に、Bの伏せたカードが発動された。たのかが声を上げる。
「そのまま攻撃するとまずいことになるかも……」
 そう言った時には、剣山はもう上級モンスターを召喚して、ダッシュガイの効果を発動した後だ。
「大丈夫大丈夫。一気に決めるドン! 『守備』封じ!」
 相手の場にいた裏側守備表示のモンスターが攻撃表示になる。球体の赤い爆弾だ。
「なるほど、そのまま攻撃してたら確かにヤバいことになってたザウルス……」
 しかし、もう恐れるものはない。得意のフィールド魔法を発動して攻める。
『速攻魔法サイクロンを発動します。ジュラシックワールドを破壊します』
 ジュラシックワールドが破壊されたとして、究極恐獣の攻撃力からスフィア・ボムの攻撃力を引いた1600、それから死の演算盤の効果の500、効果によって増強されたダッシュガイの攻撃力3100に加え、このターンに剣山が召喚したフロストザウルスの攻撃力の2600。すべてを合計すれば、ダメージは7800にも及ぶ。
 しかし、剣山は失敗したと思った。このターンでは削り切れないのだ。そうなれば、またあのゴーストAのターンがやってくる。強欲な壺はすべて使われ、ベン・ケイこそ倒したものの、またどんなカードが飛んでくるかわからない。
 カードを2枚伏せて、ターンを終了する。

ゴーストA
ゴーストB
LP8000→200
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーン死の演算盤
手札5 / 6→3
相田 たのか
ティラノ剣山
LP7200
モンスターゾーンD−HERO ダッシュガイ
究極恐獣
フロストザウルス
魔法・罠ゾーン伏せカード×3
手札1 / 6→1

「うわあああああ」
 たのかは頭を抱えて絶叫した。剣山もそうしたかった。
 Aが発動したのは、デュエルモンスターズ界で最も強力なモンスター除去魔法。そのあまりの強力さから禁止カードに指定されているものだ。
 そんなわけで、たった1枚のカードのせいで、二人の場からモンスターが消え去った。
マジック・プランターを発動します。死の演算盤を墓地に送り、2枚ドローします。
 生還の宝札を発動します。生還の宝札を発動します。生還の宝札を発動します。死者蘇生を発動します』
 色々とオカシイ戦術だが、相手の場にはベン・ケイが復活して、更にAは3枚のカードをドローした。
 これだけやって、手札の損失が1枚しかないとはどういうことか。
アームズ・ホールを発動します。デッキの一番上のカードを墓地に送り、墓地からデーモンの斧を手札に加えます』
 すぐさまそのカードは装備される。
魔導師の力をベン・ケイに装備します』
 ベン・ケイの攻撃力は跳ね上がった。攻撃力は4000になり、攻撃可能な回数は三回になった。
 たのかと剣山のライフは、先ほどのサンダー・ボルトによって死の演算盤が発動して減少している。
 そうでなくとも、この状態で直接攻撃を通せば簡単に勝負はついてしまうのだが。
「や、ば……」
 たのかは、最後に残った1枚の手札を見て呟いた。上級モンスターで、それを召喚するギミックも用意してあったのだが、攻撃力4000には届かない。
 剣山が伏せた2枚のカードは、両方とも罠カード。このモンスターを召喚してしまえば、発動すらできなくなるし、しかも攻撃を防ぐ類のものではない。
 2枚のうちの片方、生存本能を発動したとして、回復できるのはたったの800ポイント。墓地から除外できる恐竜族は今、究極恐獣とフロストザウルスしかいないのだ。もう片方のカードは自分の場にモンスターがいなければ発動できない。
 ベン・ケイは三回攻撃できるから、800ポイント回復して1体の壁を召喚したところで何の意味もない。負ける。
「ごめん。これ、負ける」
 青ざめるたのかに、力強い声が飛んできた。
「いいや、勝てるドン。たのかちゃんの伏せたカードのおかげで!」
 剣山も、残された手札は1枚。絶望的な攻撃力で攻撃してくるベン・ケイに対して、たのかが伏せたカードを発動した。
ヒーロー見参! 相手はランダムに俺の手札を選択し、選択したカードがモンスターだった場合、その場で特殊召喚できるザウルス!
 ランダムだが、俺の手札は1枚! くぅ……これ一度やってみたかったんだドン」
 召喚されたのは、剣山のデッキの中で最強の攻撃力を持つ最上級モンスター。全身を金属で覆われた白銀の恐竜。しかし、攻撃力は4000に届かない。
「たのかちゃん! 後は任せたドン!」
 青ざめていたたのかに親指を立てて、勝利の方法を伝える。斧を構え、魔導師の力を得た戦士はすでに恐竜の目の前まで迫っている。
 たのかは、最後に残った手札を捨てた。






















ライジング・エナジー!」






















「どうして、来たの?」
 鋭い痛みだった。思わず目を背けたくなるほど、変わり果てた視線だった。
 先ほどまでこの部屋にいた博士のそれにも似た、狂気の色。光なく、闇に濁った瞳。
 見つめるだけで心がひどく痛む。それでも、目を逸らさない。
「早乙女先輩を、迎えに来ました」
 まっすぐに見つめて、決意を示す。レイの表情に変化が現れる。苦い表情をしてから、レイは目を伏せた。
「これ以上、ボクにこわさせないでよ」
 その声は震えていた。さっきまでのフェンリルを恐れていた自分と同じだと、十海は思った。
「先輩、帰りましょう」
「無理だよ。だって、これ以上あなたの傍にいたら、ボクはまたあなたを傷つけるよ」
 思ったとおりだ。レイは今、苦しんでいる。自分の中に醜い自分がいて、それを認めたくない。自分の汚い部分と向き合うのは、思うより勇気がいる。とても苦しいことで、逃げ出したくなる。
 だけど、逃げてはいけない。いつかはぶつからなければならない壁だ。
 十海は、ゆっくりとデュエルディスクに手をかけた。直後、レイのディスクから音声が発せられる。
『索敵範囲内のデュエリストから挑戦されました。十分以内にデュエルを開始してください』
 レイの肩が跳ねた。空気の塊を飲み込む、声にならない悲鳴が聞こえた。
「なん、で……」
「言いましたよね。今度は、私が早乙女先輩を助ける、って」
 歯の擦れる音がした。レイの苦しみが、呼吸の震えとなって伝わってくる。
「やだよ、来ないで! 放っといて! もう友達を傷つけるのはたくさんなの!」
 壊れた乙女の叫びを確かに受け止めて、十海は答えた。
 まっすぐに、彰がそうしてくれたように、欠片も迷わないで。
「何度傷ついてもいい。何度倒れてもいい。私は、何度でも立ち上がる。
 何度でも、先輩を迎えに来ます!」
 それが今の十海自身の望みだったし、レイにとって必要なことでもあるから。

 絶望に飲まれてもまだ帰る場所はある。それを伝えるために、深い闇の中に手を差し伸べるために、十海は決闘者の目で壊れた乙女と向かい合った。



6:希望は愛する友の傍に


「先輩、帰りましょう」
 その言葉に対し、レイは「無理だ」と言った。それは、本当は帰りたいということだ。レイが挑戦を受けたことからもわかる通り、レイには少なからずその意思がある。
 それを拒むのは、自分の中の闇と向き合うのが恐ろしいからだ。
「行きます。私の先攻!」
 モンスター1枚、伏せカード3枚をセットして、十海のターンは終わる。レイのターンのドローフェイズに、伏せカードの1枚が発動され、部屋が姿を宇宙の深淵へと変えていく。
「無駄だよ。手札からミスティック・ドラゴンミスティック・ベビー・ドラゴンミスティック・マジシャンを捨てて、ミスティック・ドラゴンズ・ゲートを融合デッキから特殊召喚。1000のライフを払って、効果発動」
 ミスティック・ドラゴンズ・ゲート。自分のデッキの一番上のカードをゲームから除外し、そのカードの種類によってどちらかのプレイヤーの場に除外したモンスターを特殊召喚する効果を持つカードだ。
 レイの主力であったミスティック・ドラゴンをはじめ、ミスティックモンスターを飲み込んで特殊召喚され、効果によってデッキからカードを飲み込む。
 ドローという可能性から目を閉ざし、自分の中の闇をゲートの向こう側に閉じ込めてしまう、レイの逃避の象徴。
 このカードが存在する限り、このカード以外の効果でカードをゲームから除外することはできない。つまり、十海のマクロコスモスの効果は無効となり、除外デッキデスの軸が崩れる。
 レイのデッキの上からカードが除外される。そのカードを見た途端、レイが息を飲んだ。
「除外、されたのは……メタモルポット。十海ちゃんの場に特殊召喚」
 目を伏せるようにして、肩を抱いて震える。震える声で、またゲートの効果を発動する。
「除外されたのはミスティック・ベビー・ナイト! ボクの場に特殊召喚して、デッキから残りの2枚を十海ちゃんの場に特殊召喚! 更に1000のライフを支払って、ゲートの効果発動!」
 除外された光の天使が十海の場に特殊召喚される。
「相手の場にこれ以上モンスターが召喚できない時、この除外効果は発動できない。
 ミスティック・ベビー・ナイトでメタモルポットを攻撃!」
 攻撃宣言に込められた感情は憎悪の入り混じった拒絶。しかしそれは、十海に向けられたものではない。
 自分に対する悪意、敵意に敏感な十海にはすぐにわかった。レイが恐れ、憎み、拒んでいるのはメタモルポットの闇だ。
 憎悪の一撃は届かなかった。十海が速攻魔法を発動して、場のすべてのモンスターが裏側守備表示に変更される。
「う、わ、アアアアアアアアアア!」
 耐え切れなくなったのか、レイが絶叫した。裏側守備表示になれば、メタモルポットの効果が発動できる。その闇の中から、何が出てくるのかわからない。
 ミスティック・ドラゴンズ・ゲートがあれば、ドローなどしなくても勝利を得ることはできるだろう。
 ドローという希望に目をつぶり、歪んだ門の力に身を任せてしまうことが、レイを立ち止まらせている原因の一つか。
「カードを、3枚セット。ターンエンド……ッ」
 レイは手札をすべて伏せた。エンドフェイズにレイの場のモンスターだけが表側表示になり、その枚数分だけ、2枚だけレイがドローする。

七山 十海LP8000
モンスターゾーン伏せモンスター×5
魔法・罠ゾーンマクロコスモス
伏せカード×1
手札2枚
デッキ43枚
除外1枚
早乙女 レイLP8000→5000
モンスターゾーンミスティック・ドラゴンズ・ゲート
ミスティック・ベビー・ナイト
魔法・罠ゾーン伏せカード×3
手札2枚
デッキ31枚
除外3枚

 十海のターンになった。目の前にいるレイは怯え、震えるばかりである。
 十海はモンスターを2体反転召喚した。1体反転召喚されるたびに、レイは肩を跳ねさせた。
 十海が反転召喚したモンスターの中に、メタモルポットは含まれない。これをリバースさせ、効果を発動されるのはレイの役目だ。
 メタモルポットの闇の中に、必ずある希望を、レイは自分で見つけなければいけない。闇の中に差し伸べられた手を、最後はレイ自身の手でつかまなければいけない。
「ミスティック・ベビー・ナイトを攻撃!」
 反転召喚された2体のうち、片方と同名のモンスターを攻撃する。このモンスターは1ターンに1度だけ戦闘では破壊されない。故に、2体の反転召喚が必要だった。
 ミスティック・ベビー・ナイトが破壊され、宇宙の深淵ではなく墓地に飲み込まれていく。ミスティック・ドラゴンズ・ゲートの力が及んでいる今、マクロコスモスは無力化されているのだ。
 そのままバトルフェイズを終了。十海は1枚の魔法カードの発動を宣言する。
強制転移! 私が選択するのは、メタモルポット!」
 レイの場にいたのはミスティック・ドラゴンズ・ゲートのみ。十海の場の、裏側守備表示のメタモルポットとコントロールが入れ替わる。
「ミスティック・ドラゴンズ・ゲートを生贄に、死のデッキ破壊ウイルス発動!」
 強力な手札破壊カードが発動され、その効果に従ってレイの手札にいたアンデット族のドラゴンが破壊される。もう1枚はその召喚のための専用サポートカードだ。
 しかし、召喚されるべきモンスターが破壊された今、そのカードは腐ってしまう。ゲートが生け贄にされ、マクロコスモスが力を取り戻したことで破壊されたモンスターは除外され、サルベージすることも難しい。
「そうやって、十海ちゃんもボクを壊そうとするの……?」
 今にも泣き出しそうな声だ。そんなはずがない、と強く否定したかったが、十海はそれを抑え込む。今は、レイの心の強さを信じなければならない。
「先輩。希望の光から、目を逸らさないでください」
 そして、手札に残されたもう1枚の魔法カードを発動する。
封印の黄金櫃の効果で、ネクロフェイスを除外、効果を発動します。
 更にネクロフェイスが除外されました。もう5枚のカードを互いのデッキから除外します」
 デッキを削る死霊が大量のカードを宇宙の深淵へ引きずり込む。
「希望なんて、どこにもないよ! 闇から出てくるのは絶望だけ!」
「いいえ、あります。私だけじゃない。彰だって、先輩を心配してます。戻ってきてほしいと思ってます!
 これが、私達の答えです。紅蓮魔獣 ダ・イーザ召喚!」
 十海の最後の手札が、紅き翼をはばたかせて舞い降りる。四本の角としなる長い尻尾が力強く主に応え、目の前の迷える少女を見つめた。





 赤い魔獣の黄金の瞳に睨まれる。みんな、そうやってボクをいじめるんだ。
 大好きだった人はもうこの世にいない。友達だったはずの相手にさえ、壊されてしまう。
 手札に残された1枚は、まったく役に立たないカード。今目の前にいる相手を壊すために使った、嫌なカード。
 そして、自分のターンがやってきて、ドローする権利が与えられる。嫌だ。引きたくない。
 要するに、これが答えなんだ。いつだって勇気が持てなくて、それは勇気を出したら裏切られることがわかっているからで、そんな弱い自分を必要としてくれる人なんかいなくて……。
 傷つくことが嫌で、心を閉ざした。自分の傍で眩しく笑う存在がなぜだか急に憎くなって、傷つけた。
 傷つけたら、自分も同じだけ傷つくことに気付いた。だから、もう戻れない。傷つくのは、嫌だ。
(……あれ?)
 手を乗せて、負けてしまおうかという考えが浮かんで、デッキを見た。見た瞬間、小さな違和感に気付いた。
 疑念はすぐに成長した。今、自分はどう考えていた? 傷つくのが嫌だと思った。
 じゃあ、さっきはどう言った? 傷つくのが嫌だと言った? 違う気がする。よく思い出せない。
 それを知っている相手を見るために、顔を上げる。その相手との間には恐ろしい金の瞳がいるけれど、膨れ上がった疑念をそのままにしておくことはできなかった。
 相手の目を見た途端、心の中に熱い何かが流れ込んできた。鼓動が胸を叩いて、乾いた瞳から忘れたはずの大粒の雫がこぼれた。
『何度傷ついてもいい。何度倒れてもいい。私は、何度でも立ち上がる。
 何度でも、先輩を迎えに来ます!』
 傷つくのが嫌だ、と言う相手に対する返事としては、少しおかしい。
 そうだ。傷つけるのが嫌だ、と言ったんだ。
 なら、ドローを恐れていてはいけない。勇気を出して、応える。何度だって迎えに来てくれると言ってくれた友の声に。
 自然と、次のカードに手をかけることができた。
 なぜだろう。なぜ、こんなにも、熱いんだろう。心の奥底で凍りついていたものと同じ鼓動を、カードから感じた。
「ボクの、ターン」
 息が苦しい。だけど、嫌な苦しさじゃない。期待と不安が混ざった、きっと自分が一番好きだった色の苦しさ。
 何が出てくるかわからない。どんな返事が返ってくるかわからない。
 それでも、新しい可能性を手にしたい。想いを伝えたい。挑戦することをやめたら、それが終わり。
 それが、デュエルの終わり。それが、恋の終わり。
「ドロー!」
 死のデッキ破壊ウイルスの効果で、引いたカードは相手も確認できる。
 相手は驚いていたけど、それでも嬉しそうだった。自分のことのように喜んでくれた。
「十海ちゃん……」
「先輩。デュエルはまだ、終わってませんよ」
 そうだ。何も終わってなんかいない。始まってすらいない。
 ドローした最高のカードを召喚して、闇の中に手を伸ばす。自分の中にある、闇に。そして、絶望にとらわれていた自分に差し伸べられた、優しい友の手に。
「メタモルポットを反転召喚!」
 悪魔との駆け引きはもういらない。確かに、この闇の中には絶望だって眠っているかもしれない。だけど、それと同じだけの希望がある。
 可能性がある限り、諦めない。それを教えてくれた相手に感謝して、5枚のカードをドローする。
 思ったとおりだ。引いたカード全てを互いに確認する。1枚だって破壊されるカードはない。そのすべてが、希望の光だ。
 最初のターンに伏せたカードを確認する。伏せた時は、見たくなかったカードだ。だけど、メタモルポットの闇に飲まれてほしくないと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
 今ある全てのカードを使って、最大限に戦う方法を考える。全ての可能性をゲートの向こう側に閉じ込めていた時とは全然違う。楽しい。
 目の前の相手が、全力で向かって来てくれることが嬉しい。自分が、自分であれることが何よりも心地良い。
 同時に、この戦い方で勝つことへの小さい迷いも生まれた。
「手加減、しないでくださいね」
「……うん!」
 だけど、それは友の一言で消えた。背中を押してくれる友達が、ここまで心強いものだとは思わなかった。
 今度こそ、最高のやり方で、デュエルを楽しむ。
「行くよ! 至高の木の実(スプレマシー・ベリー)を発動! ライフポイントを2000回復!
 更に、魔法カード二重召喚(デュアル・サモン)によって、恋する乙女をもう1枚召喚する!」
 自分と常に共にあった、自分の映し身のようなカード。それが2枚、場に並んだ。
キューピッド・キスを片方に装備! 装備していないほうでダ・イーザを攻撃!」
 十海の除外されたカードは合計で14枚。ダ・イーザの攻撃力は5600にも及んでいる。
 恋する乙女は攻撃力たったの400。至高の木の実でライフを回復したとは言え、コンボを成立させるための二回の攻撃を通すにはライフが足りないことに間違いはない。
 恋する乙女は頼りない足取りで、しかし確実にダ・イーザの下へと走る。転んでも、何度も立ち上がる。
 やがて、弱々しいビンタが巨大なダ・イーザの足に命中した。攻撃力の問題で、ダメージを受けるのはレイのはずだが
「永続罠スピリットバリア! そして、次の戦闘を行う前にサイクロンを発動!」
 破壊するのは自身を守る壁、スピリットバリア。恋は、痛みを、傷つくことを恐れていてはできない。
「恋する乙女でダ・イーザを攻撃!」
 今度は、先ほどのようにはいかない。5200という大きなダメージが、レイを襲うことになる。
 その衝撃すら心地良い。デュエルを楽しんでいるという感覚が湧きあがってくる。
 そして、乙女カウンターの乗ったダ・イーザのコントロールを、レイが得る。
「罠カードサンダー・ブレイク! 最後の手札を捨てて、シャインエンジェルを破壊!
 これで、ボクの除外されたカードは23枚になったよ!」
 ダ・イーザの攻撃力は9200。そして、十海の場にいるミスティック・ベビー・ナイトの攻撃力は1200。
 赤い魔獣の攻撃が通って、闘いは終結する。






 闘いに決着がついた瞬間、十海の体がバランスを失って前に倒れる。8000ものライフを一気に削られたのだ。ソリッド・ヴィジョンとは言え、かなりの衝撃になる。加えて、十海は連戦したのだ。
 先の戦いでは多大なライフコストを必要とするカードを使った。体力的には限界に達している。
 完全に倒れ切る前に、暖かい友の腕に抱きとめられた。
「十海ちゃん、ありがとう……!」
 彼女を抱きとめたレイは、涙でかすれた声で何度も礼を言った。
 徐々に、十海の体が透き通っていく。抱きしめた体から、熱が逃げていく。
『そして敗北者は、この世界から消えてもらうことになる』
 博士の言葉通り、デュエルに負けた場合はこの世界の外に追い出されるのだ。
「先に、戻ってますね」
「うん。帰ったら、またいっぱいデュエルしよう。いろんなこと、話そう。
 勉強のこととか、遊びのこととか、恋のこととか、いっぱい、いっぱい……!」
 言いたいことは山ほどあった。また友達として過ごせることが、何より嬉しかった。
 十海の姿が完全に見えなくなるまで、そうやってずっと泣いていた。

 心地良い涙だった。けれど、ずっとそうしているわけにはいかない。
 涙を拭って、立ち上がる。
「剣山先輩、心配かけてごめんなさい」
「うぅ、レイちゃんが元に戻って良かったドン……」
 剣山は太い腕で目をごしごしこすっていた。それだけ心配してくれていたのだろう。
 そして、その隣にいるのは、レイにとっては見覚えのある人物。
「えっと……」
「久しぶり、かな?」
「あれ、二人とも知り合いザウルス?」
 知り合いというほど知り合いでもないが、一度特殊な状況下で会ったことがある。会っただけでなく、デュエルもした。
 相手もレイのことを覚えているようだから、あの時に会ったのは彼女で間違いないだろう。
「きっかけは夢の中であった運命的なデュエル、というヤツなのだよ」
 剣山にはさっぱりわけがわからないようだった。頭の上にはてなマークが五つ六つと浮かんでいる。
 そのうちオーバーヒートして頭をかきむしって混乱し始めたりしそうな雰囲気だ。
「さて、レイちゃんからは貴重な証言をたっぷりしっぽり聞いておこうじゃないか!」
 目をきらきらと輝かせて迫ってくる探偵少女に気圧されながらも、とりあえず名前を聞いておく。
 彼女は、インバネスコートの襟を正して、こう答えた。
「相田 たのか。探偵さ」
「どっかで聞いたことあるフレーズだドン……」
 剣山のもっともすぎるツッコミにもめげず、たのかはレイを質問攻めにした。
 レイもこの世界の状況をよくわかっていないのだが、先入観を持たない回答がほしいとかで、レイが知っていることを洗いざらい――この大会に参加するきっかけに至るところから――答えるまでは何も教えてもらえなかった。


「十代のアニキがそう簡単に死ぬとは思えないザウルス」
「そう、だよね」
 レイも、十海との戦いで冷静さを取り戻した。思い出すのは恐ろしいが、あの十代の姿をした何者かがそう言っていただけで、遊城十代が本当に死んだとは限らない。その十代の姿をした者がウソをついている可能性もある。
「ふぅむ……」
 たのかはそのことよりも、博士に関する情報を期待していたようだった。残念ながら、レイも博士という存在に関しては全くと言っていいほど情報を持っていない。
 このサンクチュアリ・ゼロという世界は謎が多すぎる。謎があると解明せずにはいられないのが探偵の性だ。
「ま、てっとり早いのはあれだね。博士とやらをとっちめて直接聞き出すのがいいね」
「ちょっと待つドン」
 剣山はその意見には反対だった。この世界に来た目的は、一音、レイ、信哉の三人を元の世界に連れ戻すことだ。
 無理に博士と戦う必要はない。それこそ、鯉岸という危険な存在に嗅ぎつけられてしまう可能性が高くなる。
「むう、それはそうだけど……」
「まずは、他の三人と合流することを考えたほうがいいザウルス」
 渋々ながら、たのかも同意した。確かに、無理に危険なことに首を突っ込むことはない。
 今は一音だっている。博士に直接会いに行くというのは、危険以外の何者でもない。
「一音ちゃん、立てる?」
「ん、大丈夫」
 とりあえず、幸介、彰、和沙の三人を探さなくてはいけない。袋小路であるこの部屋にとどまるのは危険だ。
 鉄の扉の隙間から、外に誰もいないのを確認して、四人は聖域を歩きだした。





















 終わらない歯車と究極のオカルトが混在する部屋。信哉は結局、そこに戻ってきてしまった。
 やはり居心地の悪い部屋であることに間違いはない。ある程度見て回って、この世界そのものが居心地の悪さに満ちていたが、この部屋が最上であるのは疑いようのない事実だ。
 そして、それは中枢部がこの部屋に最も近い場所にあるということを意味する。鉄の扉の奥か、あるいは別の扉がこの部屋には存在するのか。
 真実はきっと目に見えない場所にある。博士は鉄の扉の奥によく出入りしているようだが、本当にそれだけだろうか。答えは否だ。
 信哉はそう確信を持って言うことができた。
『無限だというのが正しい。天使は有限ではあるが、純粋な知性であって物質ではない。
 したがって、空間中に位置は持つが外延は持たない』
 レグナは認識を歪める力。いざとなれば、自分の認識でさえも全て疑ってかからなければならない。
 目の前にあることがそのまま真実であるという幼稚で愚かしい――しかし、人類ならば全てが少なからず抱いているであろう――幻想は、この世界には通用しない。
 蠢く歯車の壁の、一か所。そこだけ、歯車が存在しない平らな壁に、手を触れる。思ったとおりだった。その古典的なスイッチは、自分が幻想していたものに他ならない。
 歯車の壁が音を立てて形を変えていく。吸い込まれるように、暗く深い通路が開かれる。
 そうして開かれた長く続く通路の先に、聖域の核はあるのだろう。鯉岸はこの部屋が聖域の最深部だと言っていたが、実際には違うのだ。
 歩いてみると、通路は思ったほど長くはなかった。すぐに、開けた部屋に出た。
 先ほど博士が持って行ったガラスの容器と同じものが置かれている。やはり、博士は聖域の中核たるこの部屋を根城にしていたのだろう。
 巨大な装置に、デュエルディスクが繋がれていた。Lディスク。LEGNAのために作成された、特別なディスクだ。
 何よりも奇妙な点が一つ。大きな機械が稼働しているというのに、この部屋にはその音がない。自分の呼吸以外の何も聞こえない。
 部屋の中央にはデュエルフィールドがある。部屋全体の赤みがかった茶色とは違い、そこだけ淡い緑色の円で囲まれている。
「ふむ、ふむ。君がこの部屋にたどり着くとはね」
 背の高い信哉に対して、背筋を伸ばした老博士の身長は意外にも高い。博士はどこからともなく、この音のない部屋にやってきた。白衣のポケットに手を突っ込んで、信哉が歩いてきたのとは全く別の方向から来たのだ。
 そちらに、道はない。否、信哉には見えない。信哉にとっては驚くべきことではなかった。むしろ、自分の考えを肯定する材料の一つに過ぎなかった。
「ふむ、ふむ。聖域に対する君の考えを聞こうか」
「認識の歪曲の究極系ってのは間違ってねェらしい」
 信哉の認識はこうだ。

 強く認識しようとしたものが認識される。聖域とはそんな世界だ。だから、認識しようとする人間によってその姿を変える。聖域は固定された姿を持たない。
 その認識が共通になるのは、人間が本来、「認識」というものが共通であるという強い思い込みに縛られているからだ。だから、最も強く何かを認識しようとした人間の内面が世界に投影される。
 認識が共通だと思い込む通常の人間は、「すでに他の誰かの認識が投影された世界」を認識してしまう。全ての人に対して認識が歪んでしまえば、その歪んだ認識が現実となる。

「その認識を操るための補助ツールが、レグナフォースってところか」
「ふむ、ふむ! 君がここまで鋭い人間だとはね。やはり、技術屋は技術屋の観点でこの世界をとらえようとするのか。
 ふむ、ふむ。技術を扱うには、まずその用途を考える。認識を歪める、という用途から考えた君は、この世界の真実をおおよそ理解したというわけか」
 つまり、あの歯車とオカルトの部屋が一つの例になる。歯車は信哉の内面だ。機械でできることは機械にやらせれば良い。機械が、機械自身によって動くなら、人間が動かす必要はない。始まりのない無限の歯車の世界は信哉にとって理想であり、人間の存在する余地のない空間は恐怖でもある。
 オカルトは鯉岸とかいう男のものだろう。それはあまり考えないことにしておく。
 問題は、この部屋に至る方法だ。
「レグナを取り込んでいない君が、この部屋にたどり着けるとはね。
 ふむ、ふむ。いや、いや。あるいは、君はどこかでレグナを体内に取り込んだのかもしれないね?」
 レグナフォースが認識の歪曲を操ることを補助するものであるならば、博士のこの発言にも納得がいく。
 つまり、この部屋へ至る方法を認識の歪曲によって作り出す以外に、この部屋に入る方法はないのだ。
 聖域のシステムを知らなければ、ここは不落の要塞と言っても差支えないだろう。どんな核シェルターよりも安全で、安定な空間だ。しかし、先ほどの部屋よりも数段息苦しい。居心地の悪さは倍増していた。
「なぜ、この部屋の外側(・・)が、サンクチュアリ・ゼロなのか君には特別に教えておこう」
 機械につながれたデュエルディスクにセットされたデッキから一枚のカードを抜き出す。
「聖域はね、成長するのだよ。より高位な聖域では、レグナフォースの及ぶ範囲は圧倒的に広がる。
 その極限にまでたどり着ければ、そこに私の追い求める知性を認識できる場所があるかもしれない」
 老博士の目は遠くの世界を見つめていた。自らの信じる、科学こそが最上と考える世界。その世界を一点の曇り無きものにするため、この老博士は天使や神と言った存在を科学の支配下に置くつもりでいる。
 純粋で、歪みのない狂気。ガラスの容器から注射器でオレンジ色の液体を吸い出し、博士は自分の腕に再び打ち込んだ。
「ふむ、ふむ! 君にお客さんだよ」
「何……?」
 信哉は、自分の来た方向を振り返る。
 赤い上着の少年と、声を失った少女がそこにいた。



7:信じた道の先へ


 宵の風は長く伸ばした髪を静かに撫でていく。木々にぶつかりながら、悲しい歌声を奏でていく。
 声を失ったあの日、もう一つ、一番大切なものが失われた。
 あの人の笑顔だ。無理をして笑っても、触れたら壊れてしまいそうなくらい、悲しいものになってしまった。
 それがたまらなく悲しかった。悲しそうな顔をすると、あの人は無理をしてでも笑ってくれた。悲しみは深くなるばかりだった。
 あの人が決意した日から、あの人の目は冷たくなった。その残酷なほどに冷徹な視線が自分に向けられることはなかったけれど、どこか遠くへ行ってしまうような気がしていた。
 その予感は正しかった。手の届かないところへ、あの人も行ってしまった。
 全てが自分から離れていく中で、写真の中に残ったその笑顔だけが決意を支えてきた。
 もう一度、あの人に笑いかけてほしい。だから、この聖域にまたやってきた。
 高く空を貫く塔を見つめる。あの人がいるのはそこだろう。気温の下がった夜に、外にいたいと思う人ではない。
 大会の中で、あの人の冷たい目がついに自分にも向けられた。それだけで心が砕けてしまうような気がした。
 あらゆる世界を捨てて、無くしたモノを取り戻そうとするあの人の決意が、わかってしまったから。
 声を失ったせいで、声のない仕草の中にある感情を理解できるようになってしまった自分にとって、それは皮肉以外の何者でもない。

 それでも立ち上がることができたのは、まだ自分の決意を捨て切れていないから。
 あの人とぶつかることになっても、これ以上あの人の手を汚させるわけにはいかない。
 まだ、帰る場所を捨てきったわけじゃない。
 少年のその言葉は、とても心強かった。たとえ、その帰る場所に自分がいなくても構わない。
 あの人がまた、本当の笑顔で笑えるようになるなら、それで構わない。
 その決意を完全なものにすることは、結局できそうになかった。
 会いたい。もう一度、二人で笑い合う時間がほしい。
 声は無くとも、心はあの人を呼ぶ歌を叫び続けている。もう一度、この手をつなぐために。
 一度だけ、記憶の中の手をつないで笑っていた二人に願う。

 どうか、その手を離さないでいて。









































 陽炎のように揺らめく映像が、目の前を通り過ぎて行った。
『チョーク投げは先生の必須スキルなんだぜ』
 どんなに暗い場所でも、その笑顔が全ての不安を吹き飛ばしてくれた。
 頼もしくて、大きい存在だった。
『守りたいものを守れるようになる、ってのも、立派な野望だぜ』
 大事なことに気付かせてくれた。勉強以外でも、すごく大きなことを教わった。
 信哉がデュエルをするということを知ったのはつい最近だけど、それよりもっと前から、デュエリストとしてではなく、人間として尊敬してた。
 それなのに
『どれだけ薄汚れてもかまわない。取り戻したいものがある。テメェにゃわからねェよ』
 どうして、あんなにつまらなそうにデュエルしていたんだろう。どうして、あんなに冷たい目ができたんだろう。何が、彼を壊したんだろう。何が、彼をあそこまで追い詰めてしまったんだろう。
 過ぎた映像は戻ってこない。残されたのは、一つの決意。

 タテヤンに会おう。会って、本当のことを聞くんだ。
 それから、危ないことをしようとしてるなら、止めなくちゃいけない。
 守りたい日々の中に、タテヤンだっているんだから。








































 静かに流れる風に乗って、悲しい歌声が聞こえた気がして、目を開く。
 眩しい。月夜、という言葉がこれ以上ないくらい似合う夜だった。聖域にも夜は訪れるのだと思った。
 目を細めて、明るさに目を慣らす。立ち上がって周囲を見渡す。森の中の、小さく開けた場所。信哉とデュエルした場所だ。
 青白く照らされる塔を見つめていた少女が振り返る。
「あ……」
 幻想的な明りに照らされたその少女の長い髪が、彼女の正体を彰に教えた。
(そっか、あの写真に写ってた……)
 信哉の部屋で見た写真の中で、青空の下で信哉と並んで笑っていた少女だ。
『気が付きました?』
 手に持っていたホワイトボードにスラスラと字が書き込まれる。たいした支えもないのに素早く書かれて、それでいて形の整った美しい字だった。
 これが、この少女、和沙にとっての会話の方法。最初のデュエルの時もディスクの音声再生機能に頼るしかなかった、声を失った少女。
「あ、ああ。他のみんなは?」
 辺りを見渡す限り、和沙以外の人物は見当たらない。和沙は首を横に振った。ここにはいないということらしい。
「タテヤン、どこにいるんだろう……」
 言ってから、気付いた。タテヤンという呼び方は、今のところ彰だけが使っているもので、他人には通じない。
「あ、タテヤンっていうのは、館柳先生のことで……」
 失敗したと思った。意図は伝わっただろうが、それが信哉のことだとわかった時の和沙の表情が、とても悲しいものだったからだ。
 すぐにその悲しい笑みを隠すように、和沙は目を閉じて息を吐いた。
『あの人は良い先生ですか?』
「ああ。宿題はキツいけど、いつも俺達生徒のことを考えてくれる。迷ったら、道を示してくれる。
 いつだって明るくて、優しくて、頼もしい先生だよ」
 彰は迷わずに思ったとおりのことを言った。穏やかに笑って、和沙は塔を見上げた。信哉のことを考えているのだろうか。
『あの人は、あの塔にいるような気がします』
 彰もそれに同意した。それ以外の建造物が見当たらない世界だからだ。夜になって、気温も下がっている。
 もし、あの塔にいなかったとしても、高いところからこの世界を見渡せば何かわかるかもしれない。
 そうと決まれば、こんなところで立ち止まってはいられない。


 塔にたどり着くまで、時間はかからなかった。否、かからなさすぎた。
 遠くに見えていたはずの塔は、数分歩いただけで目の前にそびえ立った。
 距離感が狂わされたような感覚だった。木々のアーチをくぐる前は、もっと遠くに見えていたはずなのに。
 この塔がただの建物ではない、ということはわかった。白く見えていた壁の質感は実はバラバラで、ところどころに亀裂が入っている。
 らせん状に筋が入り、どこまでも高く伸びるそれは頂上を見上げることすらできない。
 ざらざらした、古典的な質感の壁には似つかわしくない、ガラス張りの自動扉。それをくぐる前に、中から白衣を着た背の高い老人が出てきた。
「ふむ、ふむ。侵入者の対策は鯉岸君に任せたはずなのだがね」
 つまらなそうにそう言って、白衣の老人は右手を挙げた。それを合図に、デュエルディスクの音声が鳴り響いた。
『索敵範囲内のデュエリストから挑戦されました。十分以内にデュエルを開始してください』
 和沙のデュエルディスクのみが、その音声を発していた。
「私はね、失敗作には用がないのだよ。『精霊抜き』ごとき子供騙しでレグナの力を失ってしまう程度の失敗作にはね」
 言いながら、白衣の老人は彰を覗き込んだ。とても輝いた瞳で、しかしその奥には純粋すぎるが故の狂気を持っている。
 貫くほどの恐ろしい感覚に、彰は顔をしかめた。穏やかな老人の声には、見えないピアノ線のような罠が鋭く残酷に張り巡らされている。
 その老人の陰から、砂嵐の画面をそのまま人型にくりぬいたような不気味なモノが現れた。
 腕にデュエルディスクをしている。和沙に挑戦したのはその影だ。
「『ゴースト』とか言ったかな? 館柳君も便利なものを作ってくれたものだ」
「ッ……!」
「タテヤンはどこにいるんだ!」
「私の知るところではないよ。ふむ、ふむ。それを倒さなければたどりつけない場所、と言っておこう」
 そのままくるりと踵を返して、しかし思い出したようにひとつ付け加えた。
「そうだ、そうだ。それに負けた場合、この世界から追い出されることになるから覚悟しておきたまえ」
 博士がガラスの自動扉をくぐって中に入ると、溶けるようにその扉が消え、ただの白い壁になった。





 和沙は迷わずに挑戦を受けた。彰に向かってうなずいた彼女の瞳には、とても力強い決意が込められていた。
 この程度の障害に屈するようでは、信哉のいるところにはたどり着けない、ということなのだろう。
 デッキのオートシャッフルが終わり、和沙の先攻でデュエルが始まる。
『手札からヴェーザー楽団 ブリガントの効果を発動します。
 このカードを墓地に捨て、デッキからヴェーザー楽団のコンサートホールを手札に加えます。
 ヴェーザー楽団のコンサートホールを発動します。コンサートホールの効果を発動します。
 デッキからヴェーザー楽団 ガルスを特殊召喚します。ガルスの効果を発動します。
 手札からヴェーザー楽団 フェリスを特殊召喚します。守護の音色 フローテをガルスに装備します。
 リバースカードを1枚セットして、ターンを終了します』
 彰も一度見たが、ヴェーザー楽団の展開力はすさまじい。
 先攻1ターン目でありながら、キーとなるフィールド魔法が1枚、モンスターがすでに2体。装備魔法が1枚、場に存在する。
 これで通常召喚権を行使していないというのだから恐ろしい。手札も2枚を温存している。
 『ゴースト』のターンに移る。正直なところ、彰には和沙の戦術がまだよくわかっていない。
 フローテが場に存在すればキーとなるモンスターは破壊されないが、その代わりに直接攻撃され放題だ。
 相手のライフポイントをいかに早く削り落すか、ということを考えながらデュエルをしている彰にとって、モンスターを置きながらプレイヤーが無防備なこの状態は不可解以外の何者でもなかった。
名推理を発動します。レベルを宣言してください』
 声を失った少女は、デュエルディスクの操作によって宣言するレベルを決定する。宣言されたのはレベル8。
 『ゴースト』のデッキから次々にカードが墓地へ送られていく。
 サイクロン大嵐エネミーコントローラー聖なるバリア−ミラーフォース−死者蘇生ハリケーンスケープ・ゴート強制転移可変駆動……。
 そしてついにモンスターが現れ、レベルを確認。
『出たモンスターはレベル7、TM−1ランチャースパイダーです。条件を満たしたので特殊召喚します。
 ランチャースパイダーで直接攻撃します』
 赤いトサカを持つニワトリの老紳士も、薄い水色のブラウスを着た猫の淑女も無視して、ロケットランチャーを積んだ機械グモが一斉射撃を開始する。
 着弾、炸裂。激しい爆発音の後、煙が晴れて場には1枚のカードが表になっていた。
 ガード・ブロック。直接攻撃を受けてもダメージはゼロになり、カードを1枚ドローすることができる。
 モンスターの破壊を防ぐことはできないが、モンスターが攻撃対象にならないフローテの効果とは非常に相性のいい罠カードだ。
 リバースカードを1枚セットして、『ゴースト』のターンは終了した。

和沙LP8000
モンスターゾーンヴェーザー楽団 ガルス
ヴェーザー楽団 フェリス
魔法・罠ゾーン守護の音色 フローテ
手札3枚
ゴーストLP8000
モンスターゾーンTM−1ランチャースパイダー
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札4枚
フィールドヴェーザー楽団のコンサートホール

 和沙は沈黙のうちにドローしてターンを開始する。
 相手の場には攻撃力は高くないとはいえ、最上級モンスターが構えており、対して和沙の場には下級モンスターが2体。
 ガード・ブロックによって一度は攻撃をしのいだものの、攻撃力2200の攻撃を何度も受ければ危険なことに変わりはない。
 決して優勢とは言えないこの状況で、和沙は少しも焦りを見せなかった。
 モンスターが召喚される。三角にとがった耳の、タキシードを着た犬の老紳士。
ヴェーザー楽団 カニスの効果を発動します。魔法・罠ゾーンの左から三番目にセットされたカードを指定、確認します。
 ヴェーザー楽団のコンサートホールの効果を発動します。第二の効果を選択します。宣言するカードはヒーロー見参
 条件を満たしました。カードをドローします』
 強力なピーピング効果を持つカニスと、ドロー効果を持つコンサートホールのコンボ。
 更に流れるように、ヴェーザー楽団のキーの1枚である装備魔法が発動される。
 猫の淑女が弦楽器を奏で始め、鋭い刃の音が機械グモを砕く。柔らかな守りの笛の音色と合わさり、独特の空気を作りだした。
 攻撃を仕掛けなかったのは、ヒーロー見参が場にあったからだろう。
 あれは攻撃宣言された時に手札のモンスターをランダムに特殊召喚できるカードだ。
 名推理が発動された以上、最上級モンスターが多く採用されているデッキなのは疑いようがない。下手に攻撃を仕掛けるのは自殺行為だ。
 逆に言えば、攻撃を仕掛けなければヒーロー見参はフィールド上で腐り、毎ターン和沙はコンサートホールで追加ドローを約束される。
 一気に決めることができる布陣を敷くまで、じっくりと体勢を整えることができるのだ。
トレード・インを発動します。究極恐獣を捨てて、2枚ドローします。
 デビルズ・サンクチュアリを発動します。メタルデビル・トークンを特殊召喚します。
 メタルデビル・トークンを生け贄に捧げ、モンスターゲートを発動します』
 彰の予想した通り、相手のデッキは最上級モンスターが大量に積み込まれた重量級デッキだ。
 トレード・インによって手札を交換し、特殊召喚や生け贄確保のためのカードを発動するタイプである。
 名推理とモンスターゲートが積まれた、【推理ゲート】だ。
 激流葬が墓地に送られ、次なる最上級モンスターが特殊召喚される。古代の機械巨竜。攻撃力3000を誇り、バトルフェイズ中に相手の魔法・罠を封じ込める強力なモンスターだ。
 和沙にその攻撃をさばく術はなかった。3000というダメージは小さくない。3回も決まってしまえば、デュエルはそこで終わってしまう。
 伏せカードが増え、『ゴースト』のターンは終わる。

和沙LP8000→5000
モンスターゾーンヴェーザー楽団 ガルス
ヴェーザー楽団 フェリス
ヴェーザー楽団 カニス
魔法・罠ゾーン守護の音色 フローテ
鎮魂の音色 フィーデル
手札3枚
ゴーストLP8000
モンスターゾーン古代の機械巨竜
魔法・罠ゾーン伏せカード×2(ヒーロー見参、????)
手札2枚
フィールドヴェーザー楽団のコンサートホール

 決して良い状況ではない。魔法や罠で迎撃できない最上級モンスターが相手の場に構えている。
 しかし、和沙にはフィーデルがある。鋭い音色の刃は機械仕掛けの巨竜をもたやすく切り刻んだ。
 巨大な翼が崩れ落ちて、ソリッド・ヴィジョンが砕ける。
 今や楽団の指揮者たる和沙はコンサートホールの効果でデッキから新たな奏者を迎え入れる。
ヴェーザー楽団 エクウス・アシナスを特殊召喚します。
 復活の音色 トロンペーテをエクウス・アシナスに装備します』
 楽団のほかのメンバーに比べて格段に大きな体をしたロバの紳士が、力強く金管楽器を鳴らした。
 カニスの効果で伏せカードが確認される。リビングデッドの呼び声。強力な蘇生カードだ。
 だが、やはり今度も、それだけで和沙はターンを終了した。
 ヒーロー見参を発動させたくないのはわかるが、このままではいたずらに消耗していくだけだ。
 リビングデッドの呼び声で古代の機械巨竜を蘇生されれば、再び3000という大きなダメージが和沙に襲いかかることになる。
 いくらフィーデルによる毎ターンの除去が可能だからと言って、毎ターン最上級モンスターを出されていたのでは勝ち目がない。
 『ゴースト』は想像していた通り、リビングデッドの呼び声を発動した。
『墓地に存在するTM−1ランチャースパイダーを特殊召喚します。
 TM−1ランチャースパイダーを生け贄に捧げ、可変機獣 ランチャースパイダーTM−2を特殊召喚します。
 この効果で特殊召喚した場合、TM−2の攻撃力は800ポイントアップします』
 TM−1よりも巨大なクモ型の機械兵器が降り立つ。八弾まとめて射出できるミサイルランチャーを二つ、それからもうひとつ筒状の大きな砲台を背負っている。
 彰はまずいと思った。TM−2にはライフコストを支払って追加攻撃を行う特殊効果がある。
 攻撃力は3000。先ほどの機械巨竜と同じ。和沙の場に攻撃を防ぐカードはない。
 仮にこのターンの攻撃をしのいだとしても、TM−2には魔法耐性効果がある。フィーデルの効果で除去することはできない。
 直接攻撃され、TM−2の効果で『ゴースト』が追加ドローを行う。
『ライフポイントを1000支払い、TM−2は追加攻撃できる効果を得ます』
 直後、炸裂音が響いた。TM−2は破壊され、墓地に送られた。
『手札からヴェーザー楽団の調律師の効果を発動します。
 手札からこのカードとヴェーザー楽団のタクトを捨て、TM−2の効果を無効にして破壊します。
 その後、相手プレイヤーはデッキからカードを2枚ドローします』
 ひとまずはしのいだ。信哉の使っていた宣告者と同じ。手札から誘発して相手のカードの効果にカウンターできるカードが、ヴェーザー楽団にもいたのだ。
 だが、このカードは相手プレイヤーにカードを2枚もドローさせてしまう。
『名推理を発動します。レベルを宣言してください』
 和沙はレベル7を宣言した。出てきたのはレベル6、D−HERO ダッシュガイだった。
 上級モンスターを展開され、さらにダンディライオンを召喚されて、危険な状況は何一つ変わらない。
 ライフポイントはすでに残り2000。そういえば、どうして和沙はTM−2の特殊召喚そのものを無効にしなかったのだろう。
 コストとして生け贄に捧げられたTM−1は戻らず、TM−2も調律師の効果で破壊できたというのに。
 ライフコスト1000ポイントを払わせるためだけに、自分のライフポイントを3000も削り、相手にドローさせるというのは割に合わなさすぎる。

和沙LP5000→2000
モンスターゾーンヴェーザー楽団 ガルス
ヴェーザー楽団 フェリス
ヴェーザー楽団 カニス
ヴェーザー楽団 エクウス・アシナス
魔法・罠ゾーン守護の音色 フローテ
鎮魂の音色 フィーデル
復活の音色 トロンペーテ
手札1枚
ゴーストLP7000
モンスターゾーンD−HERO ダッシュガイ
ダンディライオン
魔法・罠ゾーンリビングデッドの呼び声
伏せカード×1(ヒーロー見参)
手札3枚
フィールドヴェーザー楽団のコンサートホール

 もう一度攻撃を受けてしまえば、戦いは和沙の敗北で終わる。
 相手の場には上級モンスターと、生け贄要員。フィーデルでどちらを破壊しても、最上級モンスターの召喚を補助してしまう。
 コンサートホールの効果で和沙はヒーロー見参を宣言し、追加ドローを行った。
 犬の老紳士がマレットと呼ばれる先端が丸くなった専用のバチを握って、勇ましいティンパニの音色を奏で始める。
『フィーデルの効果を発動します。ガルスの攻撃宣言を破壊効果に変換。ダンディライオンを破壊します。
 トロンペーテの効果を発動します。墓地のヴェーザー楽団 ブリガントを除外し、ヴェーザー楽団の調律師を特殊召喚します』
 相手の場にも、綿毛トークンが2体特殊召喚された。最後に、唯一あいた魔法・罠ゾーンにカードをセットして、和沙はターンを終了した。




















 無限の淵で、少女がうたう。その歌は声を持たないが、世界を揺るがし、魂を揺さぶる。
 夜の風は冷たい。白熱したこの状況ならば気持ちいいはずなのに、今はただのノイズにしか聞こえない。
『墓地のヴェーザー楽団のタクトの効果を発動します。相手のスタンバイフェイズにこのカードが墓地に存在する場合、相手の墓地から魔法カードを1枚選択。相手の手札に加えます』
 砂嵐人間の手札に、大嵐が加えられる。ここまで来て、彰はようやく和沙の狙いに気付いた。
 相手にドローさせたかったのだ。だから、TM−2の破壊タイミングをずらした。
 相手の場のカードを増やしたかった。だから、ダンディライオンだけを破壊した。
 ヴェーザー楽団の調律師の効果で、このカードが場に存在し、墓地から魔法カードを手札に加えた場合、そのターンのメインフェイズ1開始時にそのカードを発動しなければバトルフェイズを行えない。
 『ゴースト』はCPUであり、その思考には必ず穴がある。
 ヴェーザー楽団のタクトによって手札に加えられたカードは発動すれば2枚ドローのオマケが付いてくる。
 デュエルモンスターズにおいて、ハンド・アドバンテージというものがいかに大きいかというのはもはや説明するまでもない。
 そして、大嵐は発動すればフィールド上の魔法・罠をすべて破壊する。和沙の場には6枚の魔法・罠カードがあるため、大嵐1枚でそれらすべてを破壊できるならば、それによって生じるアドバンテージは莫大なものになる。
 CPUの優先行動はアドバンテージを可能な限り稼ぐようにできているはずだ。当然のように、『ゴースト』は大嵐を発動してきた。
 破壊効果の前に、コスト扱いで2枚のドロー処理が挟まれる。それすらも、和沙の譜面に書いてある楽曲の一部にすぎない。
 声を失った少女が紡ぐ歌は、伝説。彼女が声を出して語らずとも、聴衆の全てが儚く消える一時の芸術に酔いしれ、末代まで語り継ぐ。
『カウンター罠伝説の四重奏を発動します』
 伝説の四重奏は、発動条件がもっとも厳しいカウンター罠と言っても過言ではないだろう。
 だが、それによって得られるのは勝利と等しい効果だ。相手の全ての手札と場のカードを破壊する。
 声のない少女が指揮する演奏は、伝説と呼ぶに相応しい圧倒的な壮大さを持っていた。
 柔らかく儚い木管楽器の音が優しい風となり、
 鋭く優美な弦楽器の音が荒々しい波となり、
 力強く生命力にあふれる金管楽器の音が燃え盛る炎となり、
 重厚で勇敢な打楽器は戦太鼓のごとく母なる大地を揺るがす。
 立ちはだかっていた砂嵐人間はその演奏に誘われるように姿を消した。
 彰はしばらく、その力強く美しく、それでいてどこか儚げな音色の余韻で満たされていた。










 二人は白い塔を見た。溶けて消えたように見えたガラスの扉が、再び現れた。
 あの博士が言っていた『それを倒さなければたどりつけない場所』が、目の前にある。
『行きましょう』
 和沙は額の汗をぬぐって、頼もしい表情でホワイトボードに字を書いた。
「……ああ!」
 信哉を連れ戻す。きっとそれはうまくいく。そう強く信じて、二人はガラス張りの自動扉をくぐった。
 入った途端、部屋に異変が現れた。ガラス張りの扉は溶けてなくなり、白い壁は黒く混沌とした渦に飲まれて、その姿を変えていく。
 白と黒とが融けて灰色になり、徐々に固形としての姿をなしていく。
 ゴトン、ゴトンという重たい金属音が断続的に鳴り響き、その部屋の正体が明らかになる。
 全ての壁が歯車で埋め尽くされた、奇怪な部屋。動力の始点がどこにあるのか全くわからない、技術的には理想的であり科学的には不可解な仕掛けだ。
 一か所だけ、吸い込まれるように黒く長く伸びる通路につながる道がある。この部屋には、それ以外の出入り口が存在しない。
 建物そのものに――というより、世界そのものに――招かれているような奇妙な感覚だった。ひょっとしたら、これは罠で、誘われているのかもしれない。
 それでも二人は迷わずにその通路に足を踏み入れた。信哉を探すためには、立ち止まっているわけにはいかないのだ。
 先に見える光へ、一歩ずつ確実に進んでいく。
 暗闇の通路は不安を成長させる。それでも、希望の光を見失うわけにはいかない。

 光の先、開けた部屋に出た。赤みがかった茶色の壁、中央に位置する淡い緑色の円形デュエルフィールド。無造作に置かれた机の上にはオレンジ色の液体で満たされたガラスの容器。色としてその情報が入ってきても違和感があるのは、それらが全く音を発さないからだろう。
 そして、その先に、ついに見つけた。
「タテヤン……!」
「……ッ!」
 黒いジャンパーとジーンズ、室内だというのに水色のマフラーをした背の高い青年が、睨みつけてきた。ゆっくりと歩き、デュエルフィールドの上で立ち止まる。その姿を見て、和沙が空気の塊を飲み込む音が聞こえた。
 信哉は和沙のほうを一瞥して、すぐに視線を彰に戻した。
「日生」
 聞いたこともないくらいに、聞いただけで心臓が握りつぶされてしまうかと思うほど、鋭く重たい声だった。
「俺は言ったはずだ。『大事にしろよ』ってな」
 親しかった相手に責められるのは辛い。辛いけれど、彰は怯まなかった。怯むわけにはいかなかった。
 息を吸って、信哉の目を――冷徹で目を背けたくなるような目を――まっすぐに見る。
「ああ。だから俺は、そのために来たんだ」
 信哉の表情に怪訝の色が浮かぶ。
「教えてくれ。タテヤンは今、何をしようとしてるんだ?」
「知ってどうするつもりだよ」
 凍りつくほど透明で詰めたい声。それまでの信哉を知っているからこそ、その声が信哉のものであるということが恐ろしく感じられた。
 押しつぶすような恐怖。ここでそれに屈しては、ここまで来た意味がない。彰は一つ深く呼吸した。
「もし、タテヤンが悪いことをしようとしてるなら、俺は止めたい。
 取り戻したいものがあるからって、誰かを傷つけて良い理由にはならないんだ」
 信哉は確かに、「取り戻したいものがある」と言った。だけど、そのために信哉が手を汚していくのは、間違っている。そんな風に信哉が人の道を踏み外していくのは嫌だ。
 たった一つのことのために今まで生きてきた世界の全てを捨てて、それで取り戻したいものが戻ってきたとして、それはきっと信哉の望んだ未来ではない。
『どれだけ薄汚れてもかまわない』
 その言葉は、信哉の決意であると同時に、迷いでもある。できることなら手放したくなかった世界を、それでも捨ててしまわなければいけないところまで、信哉は追い詰められていたのだ。
 そして彰も、たとえ信哉だけが今までの世界から外れて、それ以外の人間全てがそれまで通りに過ごせるとしても、そんな世界は見たくないと思った。
 だから、力強く宣言する。
「俺の守りたい日々の中に、タテヤンもいる。それを守るために、ここまで来た!
 教えてくれ! タテヤンは今、何を望んでるんだ!」
 しばしの沈黙。静寂の中で過ぎゆく時間の感覚は遅い。空気の粘性が強くなってしまったようで、呼吸さえ苦しい。
 少しでも気を抜けば挫けてしまいそうだった。だけど、ここで負けるわけにはいかない。負けたくない。
 瞬きさえ許さないような張りつめた沈黙。
 やがて、小さくため息をついて、信哉は目を閉じた。
「特別に教えといてやる。俺がこれからしようとしてンのは、悪いことだ」
 信哉の言葉に、迷いはない。信哉の中の何かが揺らいだ様子もない。
 普段の闊達な笑顔はそこになく、闇に染まって尚一つの目的のためならば全てを犠牲にし、世界の全てを敵に回す。それほどの覚悟だけが、その瞳にはあった。
 全く、完全に、ひとつのことを成し遂げるために、信哉は本気を出すと言っている。
 やがて、信哉は押しつぶすような、獣の唸るような低い声で宣言した。
「テメェに止められッかよ」
「止めてみせる! 俺は、何度だって立ち上がる! 最後まで諦めずに、闘い抜いてやる!」
 止められるはずがないと、冷静に冷酷に冷徹に言い放つ信哉の目を強く見つめて、決意をぶつける。
 間違っていようといまいと、信哉は本気だ。それに対して本気で答えなくて、心に決めたことが貫けるはずがない。
 淡い緑色の円形デュエルフィールドに立ち、鋭い視線を交わす。直後、信哉が歩き出した。
「タテ、ヤン……?」
 ゆっくりと、しかし確実に、デュエルフィールドの上を歩いて、彰の目の前までやってくる。
 彰から見て、信哉はかなり大きい。二十センチを超える身長差は、精神的にも威圧感が大きかった。
 そのまま、信哉はデュエルディスクをつけた左手を振り上げた。
 あまりにも突然の出来事で、彰は動くことができなかった。できたのは、ただ、訪れるであろう強烈な衝撃に対して目を閉じることだけだった。
 降ってきた手が、彰の頭に触れた。
































「良い覚悟だ」
































「えっ……」
 想像していたような痛みはない。目を開けた時、そこには強く、優しく、頼もしい笑顔があった。
 人懐こく、それでいてどこか獰猛な野生の力強さを秘めて、世界で一番頼もしい顔で笑っていた。
 彰の頭の上に乗せられた左手は、勇気を讃えるように髪をクシャクシャと撫でた。胸が詰まった。
 信哉は何も言えなくなった彰を、デュエルフィールドから追い出すように軽く突き飛ばす。そのまま振り返って、吼えるように叫んだ。
「オイそこのヤクチュウドクター! 裏切ってやるからかかって来いよ!」
 そこにある感情は烈火。今まで抑えていた全ての想いを吐き出すように、諸悪の根源に向かって強い心をぶつけた。
 老いた博士は「ふむ、ふむ」と言ってから光のない目で信哉を睨みつける。
 信哉は顔だけ半分振り返って、誰よりも強い笑顔で、彰に向かって言った。
「日生、よく見とけよ」




















 決意したのは二年前。春を迎えようとする三月に似合わぬ冷たい雨の日だった。
 そこが元々白い部屋だったのかどうか、わからないくらいに目の前の世界が色を失っていったのを覚えている。
 涙で震える彼女の呼吸は、普通のそれではなかった。必死に力を入れているのだろうが、その口から吐き出されるのは声にならない空気の塊だけ。
 そのかすかな呼吸の音さえも、雨の音がかき消して行った。
 無理をさせすぎて喉を痛めたのか、少女は自分の首を押さえた。それでも尚、出ない声を出そうと空気の塊を吐きだし続ける。
「よせ! 無理、するな」
 これ以上、自分を苦しめる和沙を見ていられなかった。涙に濡れた少女を、無言で抱きしめた。
 どうして、こんなことになってしまったのか。
 高校に進学が決まって、思い切り遊ぶと笑いながら宣言して、デュエルモンスターズの大会に出場して、天才的なカード捌きで優勝して、その結果が、なぜこんなに残酷な仕打ちなのか。

 彼女は、『もうデュエルはできない』と言った。それは空気を介して伝えられる音ではなく、光を通じて伝えられる文字だったが。
『カードの声が聞こえない』
 和沙は、周囲から見れば異端なデッキの使い手だった。どうしてそのカードに拘るのかと聞くと、決まって「カードの声が聞こえる」のだと答えた。
 その声が聞こえなくなったと言うのだ。それまでは、何を非科学的なことを言うんだとバカにしていたが、その時は和沙の言葉全てを信じることにした。
 そして、決意した。
「それじゃあ、また聞こえるようになるまで、そのデッキを預からせてくれないか」
 それは小さな誓い。儚い約束。
 必ず声は戻ってくるのだと信じるための、おまじないに過ぎない。
 それでも、決意した。
 その吹けば飛ぶような儚い望みを、全力で追い続けると。そしていつの日か……。








 二年間、色々なことがあった。
 『悪いこと』もした。それを瀧口 大音にとがめられて、『セイバー』という組織と関わりを持つことにもなった。
 和沙の声を奪ったのが『精霊抜き』なる装置らしいということも知った。
 追いかけて、追いかけて、追い続けて、転機が訪れた。『サースター』の土井によって、『精霊抜き』とレグナ計画の真実が知らされた。
 レグナ計画の、万能とも言える力を使えば、和沙の声を取り戻すことができるかもしれないと思った。
 それは違うことに、ようやく気付いた。レグナは認識を歪めるだけの、まやかしでしかない。
「止めてみせる! 俺は、何度だって立ち上がる! 最後まで諦めずに、闘い抜いてやる!」
 強く心に響く言葉だった。まっすぐで、絶望を知って尚、希望を見つめ続けていられる強い瞳だった。
 まさか、生徒にここまで言われるとは思っていなかった。最初は面倒だと思っていたが、先生というのも悪くないのかもしれない。
 教え導く立場として、せめて強くあろうと思った。そのためには、生徒と戦う必要はない。大人の役目は、先生の役目はそんなことではない。
 正しいか正しくないか、それは誰にもわからないことだが、生徒に一つ道を示すのが、先生の仕事だ。その上で、生徒は自分で道を見つけるだろう。彼が正しいと思う道を。
「日生、よく見とけよ」
 何度も道に迷った。何度も道を間違えた。だからこそ、それを示す。まっすぐで純粋な少年は、道を間違えてはいけない。
 さて、このふざけた計画を終わりにしよう。和沙のような犠牲者が生まれたのも、そもそもはこの計画のせいだ。
 頭の中を閃光のように駆け巡る知略。最も効率的に、てっとり早く計画をつぶす方法を導き出す。答えはすぐに出た。
 あの老いた、狂信的なまでに科学を崇拝するあまり、人間を捨ててしまった博士を打ちのめす以外にない。
 二十年生きてきた中で知った、確かなことは本当に少ない。だけど、これだけは言える。
「こいつは悪いことだからマネすンじゃねェぞ」
 あとは、己の信じた道が貫けるかどうかの戦いだ。

 挑戦を告げる機械の音声が、老博士のデュエルディスクから発せられた。



8:銀の死神は赤黒く


『索敵範囲内のデュエリストから挑戦されました。十分以内にデュエルを開始してください』
 巨大な装置につながれたデュエルディスクが音声を発する。それを装着していた博士は、挑戦者を睨みながらデュエルフィールドまでやってきた。
 装置から伸びるコードは伸縮性があり――あるいはそのように認識され――切れることはない。
「ふむ、ふむ。良いだろう。高位聖域がレグナ注入を受けていない人間に対してどのように作用するのか、君で実証するとしようじゃないか」
「上等だ聖域ヒッキー。テメェのヤクチュウ治してやるよ」
 博士は欠片も取り乱したりしなかった。落ち着きはらって、信哉に裏切られたことなど微塵も気にしていないようだった。
 単に『ゴースト』を利用したかっただけなのだろうか。信哉の声には怒りの色が混じっていたが、余裕も感じられる。怒りにとらわれてしまっているというわけではなさそうだ。
 互いに5枚の手札を持ち、先攻のドローが終わる。闘いは信哉のターンから始まった。
ホルスの黒炎竜 LV4を召喚! レベルアップ!を発動し、LV6を特殊召喚する!
 リバースカードを4枚セット! ターン終了だ」
 額に青い宝石の目を持つ鋼の竜が咆哮する。残された信哉の手札はすべて伏せられた。

「タテヤン……」
 なんて大きな、頼もしい背中だろう。いつか自分もああなれるだろうか。
 そんなことを考えてしまうくらいに、信哉の背中は眩しかった。
 同時に、大丈夫だろうか。と言う不安は消えない。まだ、この世界の主らしいあの博士とデュエルするという行為が何を意味するのか、彰は知らない。
 小さく芽生えた予感は、消し去ることができなかった。和沙のほうを見ると、彼女もそれは同じらしい。
 信哉の背中を見て、口を真一文字に結んでいる。
(大丈夫、だよな……)
 自分に言い聞かせて、まっすぐに信哉の背中を見た。揺るがぬ決意の下に闘う者の背中がそこにあった。
 滾る血潮の熱が感じられ、鼓動の音が聞こえてくるようだった。心の奥底から揺さぶるその姿は、その手につかむ勝利を信じさせてくれた。
 最初からこうするつもりだったのかもしれない。博士と戦って、レグナ計画をつぶして、一人で語られない英雄譚を胸に秘めたまま帰ってくるつもりだったのかもしれない。
 そう考えると、ここまで来たことが無駄だったようにも思えてしまう。
 だけど、信哉は言ったのだ。
『日生、よく見とけよ』
 信哉は真実を語ってはくれなかった。その代わりに、自身の闘う姿を見せることで何かを伝えようとしている。
 だから、彰は、この戦いから目を反らしたくないと思った。声もなく紡がれる闘いの歌を聞き洩らしたくないと思った。


「ふむ、ふむ」
 対して博士は、手札を見ずに対戦相手である信哉の場のカードを伺っていた。
 そのまま、自らの手札を見ないままにカードの発動を宣言する。
天空の聖域を発動する。天空の聖域を墓地に送り、フィールド魔法高位聖域を発動しよう」
 淡い緑色のデュエルフィールドが深い青の光を放ち、その光のカーテンが闘いを見る者と闘いに身を投じる者をさえぎる。
 たとえようのない重圧があった。心臓が何かに圧迫されて、鼓動が無理やり加速させられるような不快な感覚だった。
 彰からでは信哉の表情を伺い知ることはできない。和沙は先ほどまでと変わらない様子で、この重圧を感じているのかどうかわからない。
 信哉越しに見える博士とやらは全く平気な顔をしている。自分だけだろうか。
 博士の場にモンスターが召喚される。大きな翼を持つ、人の形をした何か。上半身は完全に人の形だが、下半身は人にしては歪だ。足がない。本来足があるべき場所にあるのは、鋭く尖った針のような形の何か。
 紫色のマントがはためいて、その影で博士の場にカードが2枚伏せられる。
「タテヤン!」
 エンドフェイズに、信哉もこの重圧に耐えていることがわかった。
 伏せたカードをすべて同一チェーン上で発動し、逆順の処理を行う最初のカードのコストを支払った時、信哉が膝をついたからだ。
「ッが、あ……。高速駆動装置(ラピッド・ドライヴ)は、ライフの半分と場のカード2枚を墓地に送ることにより、エンドフェイズに効果を発動する永続魔法・永続罠の効果をこの場で一度だけ発動できる。死のメッセージ「E」だ」
 喉に詰まって呼吸をせき止める塊を吐き出すように、苦しそうな呻き。しかし、信哉は苦痛に抗ってみせた。カードの発動処理をこなしていく。
 逆順の処理を行う次の2枚は、彰と戦った時にも使っていたものだ。高速駆動装置のコストとして墓地に送られることで、その効果は倍増する。
 そのカードをこういったギミックなしに発動した場合、最初の1枚では1枚ドローして1枚をデッキに戻すだけの手札交換カードになってしまう。だが、彰と戦った時に使った非常食や高速駆動装置のように、このカードにチェーンする形でコストとしてこのカードを墓地に送るとその枚数分だけドローできる枚数が増える。
 0枚だった信哉の手札はこれにより4枚にまで増えた。信哉はゆっくりと、しかし力強く立ち上がった。そして、最後に信哉のデッキの軸たるカードの効果が発動される。
「エンドフェイズ終了時にウィジャ盤の効果発動。死のメッセージ「A」を場に出す」

館柳 信哉LP4000
モンスターゾーンホルスの黒炎竜 LV6
魔法・罠ゾーンウィジャ盤
死のメッセージ「E」「A」
手札4枚
デッキ27枚
博士LP8000
モンスターゾーン豊穣のアルテミス
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札1枚
デッキ34枚
フィールド高位聖域

「す、げぇ……」
 最初の1ターンが終了した時点で、ウィジャ盤のカードが3枚場に揃っている。ここからあと2枚揃えれば信哉の勝利が決定する。
 つまり、信哉がウィジャ盤を守り切ればあと2ターンで決着がついてしまうということだ。ゴブリンのやりくり上手で増強した手札があれば、それは可能なのではないかという気がした。
 やはり信哉は強い。それは彰が、信哉がデュエルすることを知った時に想像した通りだった。きっとこの男なら、常に相手の一歩上を行く戦術を取るだろう。そしてそれは、そうあってほしいという彰の願望でもあった。
 竜の吐き出す黒い火炎に焼かれて、天使が砕け散る。
「ふむ、ふむ。速攻魔法光神化を発動しよう。私は手札から光神テテュスを特殊召喚する」
 純白の衣に身を包んで、白く大きな翼で羽ばたきながら光り輝く天使が降り立つ。
「ふむ、ふむ。光神化の効果により、テテュスはエンドフェイズに破壊されてしまう。だがね、高位聖域ではそれも無意味なことなのだよ」
 強い光に包まれて、一度は破壊されるテテュスだが、すぐにその場に戻って来た。
 光神化のカードの効果で特殊召喚されたモンスターはエンドフェイズに破壊されるが、高位聖域の効果でエンドフェイズに再び特殊召喚することができるのだ。
 信哉の前にいる巨竜は更に力を増し、巨大な翼で羽ばたいて咆哮する。これから発動される魔法カードをすべて無に帰す、強力なモンスターだ。
「では、私のターンだ」
 博士がドローする。
「私がドローしたのはコーリング・ノヴァだ。したがって、テテュスの効果により互いに確認してもう1枚ドローできる」
 ドローしたカードがわかっているのか、たいした確認もせずにそう言ってから、博士はコーリング・ノヴァのカードを信哉に見せる。
ジェルエンデュオ救済のレイヤード、豊穣のアルテミス、2枚目のコーリング・ノヴァ」
 次々と、博士がドローしたカードを信哉に確認させ、デッキからカードをドローしていく。ちょうど博士の手札が6枚になったところで、そのドローターボは終わった。
「ふむ、ふむ。では、では、ジェルエンデュオを召喚しよう。そして、カウンター罠最後の晩餐を発動する。
 ふむ、ふむ。このカードはモンスターの召喚が行われた時に発動することができる。
 デッキから禁じられた聖杯を墓地に送り、その場で効果を発動できるのだよ」
「禁じられた、聖杯……!」
 彰もそのカードは知っている。モンスター1体に攻撃力上昇の効果を与え、そのモンスターの効果をエンドフェイズまで無効にするカードだ。
 単純な攻撃力の上昇なら、突進のほうが数段良い働きをする。上昇量の小さな聖杯はそういった用途に使われることはあまりない。
 禁じられた聖杯は、強力なモンスターの効果を封じるために使われる。そして、博士が指定したのは勿論、ホルスの黒炎竜だった。
「さて、さて。これで安心してリロードが発動できる。残された4枚のカードをデッキに戻して、同じ枚数だけドローする」
 不可解な戦術だった。テテュスの効果で天使族を大量にドローし、それをデッキに戻して新たに4枚のカードをドローする。
 更にテテュスの効果を使えば手札は増強できるが、博士はそれをしなかった。カードを3枚伏せて、ターンを終了した。
 銀の死神が四文字目を持って現れる。信哉の勝利は目前だ。

館柳 信哉LP4000
モンスターゾーンホルスの黒炎竜 LV8
魔法・罠ゾーンウィジャ盤
死のメッセージ「E」「A」「T」
手札5枚
デッキ24枚
博士LP8300
モンスターゾーンジェルエンデュオ
魔法・罠ゾーン伏せカード×3
手札1枚
デッキ29枚
フィールド高位聖域

 信哉はカードを1枚伏せてターンを終了した。魔法・罠ゾーンの最後の空きスペースが1枚のカードで埋められた。
 テテュスを攻撃しなかったのは、伏せカードを警戒してのことだろうか。ホルスの黒炎竜を失ってしまえば、魔法カードに対する強力な抑制効果を失ってしまう。
 次のターンにもう一度最後の晩餐が発動されれば、一時的にホルスの黒炎竜の効果が無効になって魔法カードの発動を許してしまう。だが、最後の晩餐はデッキに特定の魔法カードが存在することが発動条件の一つになっている。
 禁じられた聖杯は強力なカードだから3枚くらい積めるだろうが、最後の晩餐はその聖杯がデッキになければ腐ってしまう。複数枚積むには特殊なデッキ構成が必要になるだろう。
 この勝負は信哉の勝ちだと、彰は思った。博士が次のカードを発動させ、信哉がそれを無効にするまでは。
「ふむ、ふむ。大嵐を発動する」
 何を考えているのかと思った。大嵐は確かに強力な魔法・罠に対する全体除去カードだ。しかし、ホルスの黒炎竜の最終形態が場にいる以上、魔法カードの発動と効果は無効にされてしまう。
 そして、信哉は当然のことながら大嵐を無効にした。直後に、胸を押さえて膝をついた。
「ッが、はッ、あ……?」
「ふむ、ふむ。高位聖域の効果だ。カードの効果を無効にしたプレイヤーは1000ポイントのダメージを受ける」
「タテヤン!」
 1000ポイントのダメージ。それだけで説明がつくような現象だろうか。高速駆動装置の時もそうだった。ライフコストを支払った瞬間、信哉は危うく倒れかけた。
「ふむ、ふむ。やはり君はレグナの投与を受けていないね。この高位聖域に立ち続けられるのは、選ばれた者、人間を超えた存在のみなのだよ。
 はぁ、はぁ。しかし年老いた人間の体というものは不便だ。老いた私はこうして定期的に」
 博士は後にあるガラスの容器から自分の注射器にオレンジ色の液体を注いだ。躊躇うことなく、自分の左腕に針を突き刺す。
「な……ッ」
 彰には信じられない光景だった。彼の知っている注射とは違う、歪なものだった。詳しいことは全くわからないが、それが良くないものであることだけはわかった。
「レグナフォースを補充しなくてはならない!」
 その注射が終わった途端に、博士の声が大きくなった。白く長い眉毛の下に半ば隠れていた目が大きく開かれ、一欠けらの曇りもない狂気の光を宿して自らに挑みかかる者を見据えた。
 まだ高位聖域のダメージから立ち直れない信哉に対して、博士はカードの発動を宣言する。
「ふむ、ふむ! 破壊輪だ! 巨竜と共に眠りたまえ!」
 1枚の罠カードが爆ぜて、デュエルフィールドが煙に包まれる。ホルスの黒炎竜の攻撃力は3000であり、信哉のライフポイントもまた同じ値だ。
 煙が晴れた時、信哉は立っていなかった。うずくまって、苦しそうに胸と口を押さえている。
「ふむ、ふむ! 紫光の宣告者か! だが、破壊輪を無効にしたことで、君には1000ポイントのダメージが与えられる!」
「ぐ、が、ばッ」
「た、タテヤン!」
「……ッ!」
 その苦痛はどれほどのものだったのだろう。口を押さえていた右手はそれを押さえることなどできなかった。
 嫌な水音がした。淡い色のフィールドにぶつかって飛び散った赤黒い液体。目をそむけてしまいたくなるような色の水溜りがゆっくり広がっていく。
 もう一度、小さな呻きの後に咳き込んで、信哉は口から赤黒いモノを吐いた。床に広がった同じ色の液体を叩いて、水溜りはもっと大きくなった。
 震える深い呼吸。うずくまった背中がなんとか新鮮な空気を取り込もうと上下するが、三度目の咳き込みとともに溢れ出る不快なソレが阻害する。
 これはもう、デュエルなどではない。ただの一方的な暴力だ。
 こんなこと、やめさせなくてはいけない。彰は青い光のカーテンをくぐろうとする。それを鋭い声が静止した。
「来るな!」
 意識の全てを一瞬にして塗りつぶし、本能的な警戒心でその場にいる全員が動きを止めてしまうほどの重厚な声だった。
「で、でも……!」
 だって、あんなのは、尋常じゃない。デュエルで血を吐くだなんて、おかしい。
「いいか、日生……ッ」
 時折咳き込みながら、それでもはっきりとした声で。遠い夜明けを見据えるように、歯を食いしばって苦痛を押し込めて、信哉は告げる。
 告げながら、立ちあがる。闘いはまだ終わっていないと。目前にある勝利をつかむために、立ち上がる。
「俺は、『よく見てろよ』って、言ったんだ……」
「そんな、そんなの……」
 納得などできるはずがない。けれど、彰は理解してしまった。信哉のあの背中は、自らの意志を最後まで貫き通すつもりで、その邪魔など誰にもできないと。
 本当は今すぐにでも駆け寄って、こんなデュエルの皮をかぶった暴力を止めたい。
 それでも彰は理解してしまった。
 止めたところで何が解決するわけでもないことも、決闘者として最後まで闘い抜く意志が他人に止められるものではないことも。
 理解してしまったから、足はそれ以上動かない。握りしめた拳はその場で下を向いたまま震えるだけ。
 彰はうつむきかけて、やめた。どれだけ辛くても、信哉は『よく見てろ』と言ったのだ。この闘いから、目をそらしてはいけない。
 呼吸の荒い信哉をよそに、博士は淡々と自分のターンを進めていく。
「ふむ、ふむ! やはりその伏せカードはフリーチェーンのようだね?」
「それが、どうしたよ」
「さて、さて! それではエンドフェイズに入るとしようか! 私は優先権を君に渡すよ!」
 ここで信哉が伏せカードを発動すれば、魔法・罠ゾーンに空きができる。最後の死のメッセージが場に揃って、勝利がもたらされる。
 信哉は迷わずそうした。
「ゴブリンの、やりくり上手、発動……!」
 信哉がドローすることなく、そのカードは破壊された。
神の宣告だッ!」
 自らが神だと言わんばかりの声量で、博士は叫んだ。それだけでは、信哉の勝利を阻害する要因にはなり得ない。
 このカードが無効にされようとされまいと、どのみち魔法・罠ゾーンには死のメッセージを置くための空きスペースが生まれる。
 問題は、神の宣告によって呼び出された怪物。漆黒の鱗を身にまとい、神の雷を伴って、咆哮する。
「ふむ、ふむ! 冥王竜ヴァンダルギオンの効果! このカードの特殊召喚のトリガーとなるカウンター罠で、罠カードを無効にした場合、相手フィールド上のカードを1枚破壊する!」
 博士は当然のようにウィジャ盤を指定した。4体の死神が舞う交霊盤に向かって、禍々しくも神々しい、神の光が突き進む。
 そこに希望はない。あるのは鉄の臭いをばら撒く赤黒い命の破片と、あらゆる障害を破壊する光と熱と音の蹂躙だけだ。
 立っているだけで精一杯な信哉の周りを踊る死神の目前まで、破壊の雷がやってくる。短い耳鳴りを伴った視界を焼く閃光。衝撃で風が舞い、粉塵が巻き起こり、炸裂音が響いた。
 フィールドの外にいた彰さえも目を開けていられないほどの強風。やがてそれがおさまって、墓地に複数のカードが送られる。青い光のカーテンの内側に充満していた煙が、晴れていく。
「ふむ、ふむ?」
 黒い巨体は姿を消し、その場に残ったのは黒炎竜と4体の銀の死神。更なるダメージを受けて、信哉はまた赤黒いモノを吐き出した。そうしながらも、勝利宣言を突きつける。
朱光の宣告者(バーミリオン・デクレアラー)だ……!」
 ついに、エンドフェイズの最後になり、最後の死のメッセージが場に揃うのだ。
「ふむ、ふむ。おめでとう。おめでとう。君の勝ちだよ」
 博士は小さく拍手をして言った。そしてそれから、こう付け加えた。

















「このカードがなければね」

















 竜巻が交霊盤を破壊すべく突き進む。世界から全ての音が消えた。
 全てがゆっくりと動いていた。踊る死神も、黒炎竜の羽ばたきも、大気を巻き込んで突き進む竜巻も。
 ただ一言、信哉が言った言葉で、その世界の速度が元に戻る。
「ホルスの黒炎竜の効果で、サイクロンの発動と効果を、無効にする」
「やめろ……!」
 黒炎竜が最後の咆哮を上げる。それの意味することは、あまりに単純すぎる。
 聖域においてライフポイントを失うことは、自らの命を削るようなことに等しい。それは、今までの信哉の様子から容易に想像できた。
 今、信哉のライフポイントが、ゼロになる。一欠片も残らず、無の底へと沈んでいく。
 彰は叫んでいた。
「やめてくれええええええええ!」
 その叫びもむなしく、竜巻は力を失って消えていく。竜が最後の咆哮を終えて、同時に、赤い水溜りに、一人の青年が崩れ落ちた。水色のマフラーが赤く染まっていく。
 それの意味を正しく理解してしまったのか、声を失った少女がその場に泣き崩れた。
「ふむ、ふむ。鯉岸君がいないと死体の処理に困るね。彼は有能だが、役立たずだ」
 ひどくその場にそぐわない発言の後、老いた博士は敗者の傍らに立ち、その足を思い切り振り上げた。
 足は青年の体にめり込んで、その体を宙に放り投げる。軽すぎる音を立てて、デュエルフィールドの外に転がった。

 彰が駆け寄っても、青年は目を開かなかった。
「なんで、なんでだよ……!」
 彼の左手にはたった一枚、手札が残されていた。彼に勝利を告げるはずだった、最後のメッセージカード。
 赤く黒く汚れてしまわないように、目を閉じた青年はその左手でしっかりとカードをかばっていた。
「なんで、あそこでホルスの効果を使ったんだ……!」
 ホルスの黒炎竜の効果でサイクロンを無効にしなければ、信哉のライフがゼロになることはなかった。
 それ以降のターンで、カードを消費しきった博士に対してビートダウンを行えばよかったのだ。
 高攻撃力のヴァンダルギオンも朱光の宣告者で破壊されていた。それなのに、なぜそれほどにまでウィジャ盤に拘ったのか。
 青年は答えない。答えることが、できない。吐き出しきった命の欠片、赤黒い液体が、その現実を突きつけた。
「あ、あ……」

「          」

 聖域の中核に少年の慟哭が響き渡った。



9:神へ至る病(LEGNA)


 彰はゆっくりと立ち上がった。激情が胸を焦がした痛みはまだ残ったまま、悲しみが燃やした涙の熱は収まらず、心をトゲのように刺して滲ませる。
 袖で涙をぬぐって、目を開けない青年に背を向けた。一つだけ、心の奥底で静かに燃える決意を抱いて。
 まっすぐに、老いた博士を睨んだ。博士もその視線に気付いて、彰のほうへ近づいてきた。
「ふむ、ふむ」
 腰を曲げて、顔を突き出すようにして、彰を覗き込む。
「良い目になったね? 余分な感情を洗い流したら、すっきりしただろう?」
 満足げに口元を歪めて、しかし博士の目に感情の色は全くない。純粋で透き通ったむき出しの本能が彰をねめつけて、心の中に潜り込もうとする。風邪を引いた時に医者に喉の奥を見られる時のような、吐き気にも近い嫌悪感が這い上がってくる。
 それでも、彰は目を反らさなかった。瞳の奥に闘志を燃やして、けれど心は恐ろしいくらいに静かだった。それは無言の宣戦布告。
 博士は彰の考えていることを理解したのか、「よろしい」と言って彰に背を向け、デュエルフィールドの反対側に立った。
『索敵範囲内のデュエリストから挑戦されました。十分以内にデュエルを開始してください』
 彰のディスクから音声が発される。彰は振り返らずに、つぶやいた。
「ごめん、タテヤン」
 信哉は彰をデュエルフィールドから追い出して、博士と戦った。それから、マネをするなと言った。
 それは、彰を危険に巻き込まないための配慮だったのだろうとは思う。だけど
(ここで、逃げたくないんだ)
 悲しみも怒りも、彰の瞳の中にはない。あるのは一つの決意。
 彰には守りたいものがある。信哉にも貫きたい思いがあったから、闘ったのだ。
 レグナは多くの人生を狂わせてきた。そこで倒れている信哉も、声を失ったまま泣き続ける和沙も、行方のわからないレイも、『精霊抜き』で気絶させられた十海も、彰自身も、レグナの被害者だ。
 悲劇と苦痛を生み出してきたレグナ計画はまだ生きている。老博士が研究を進めて、更なる悲劇を生み出すかもしれない。
 守りたいものを守れるように。計画を止めるためには、この博士を倒さなくてはならない。そして今、彰にはそれができる。

 あの博士とデュエルすることは恐ろしい。信哉のようになってしまうかもしれない。激しい苦痛を受けることは、とても恐ろしい。
 けれどそれ以上に、ここで目の前の闘いから逃げ出してしまうことのほうが恐ろしいと、彰は思った。
 ここに来たのは、守りたいものを守るためだから。ここで逃げてしまうのは、その決意も全て投げ出すことを意味する。
 闘う前から諦めることは、したくない。逃げたくない想いを抱えて、彰はデッキをディスクにセットした。

「俺の先攻! UFOタートルを攻撃表示で召喚! ターン終了だ!」
 機械仕掛けの浮遊する亀が彰の場に現れる。最初のターンはこれだけで良い。彰は自分のデッキのことをよく理解している。このデッキは展開力が強い部類には入らない。
 最初から勢いよく、信哉のように攻めることはできない。ゆっくりでいい。攻め入るタイミングを見極めるのが何より重要だ。
「ふむ、ふむ。私のターンだね」
 博士は先ほどまでと全く変わらない調子でターンを進めた。信哉の時と同じフィールド魔法が発動され、青い光のカーテンがデュエルフィールドを囲む。信哉の時と全く同じ。同じモンスターが召喚され、カードが2枚伏せられた。
 UFOタートルが戦闘により破壊され、彰のデッキの主力モンスター、プロミネンス・ドラゴンが新たに特殊召喚される。
「ふむ、ふむ。ではここで一つ君に聞いておこう」
 博士はターンを終了する前に、そんなことを言い始めた。
「私がなぜ、貴重な研究時間を割いて君と遊び始めたかわかるかな?」
「な、に……?」
 単純に、ここにいられると邪魔だからではないのか。それとも、本当に「実験」とやらを行うのだろうか。
「ふむ、ふむ。その様子を見るとどうやら自覚はしていないらしいね?」
 博士は嬉しそうに語り始めた。
「君はLEGNA被検体の中で、最も理想的な個体なのだよ。空虚で何もなく、人知を超えた存在――精霊――を宿すにはうってつけだった」
「精霊……?」
 話には聞いたことがある。十海が見ることのできる、他の誰にも見えない存在がそうだという。
 彰は、精霊を見ることができない。だが、十海が見ることができるというのだから、それが存在することは信じていた。
 それに、東雲と戦った時も――その時は記憶喪失になっていてよく意味がわかっていなかったのだが――精霊という言葉を聞いた。
 だから、それ自体は問題ない。だが、自分の中に精霊を宿すだのどうのという話はさっぱりわけがわからない。
「ふむ、ふむ。八年前の燃え盛る炎を、君は覚えているか?」
「八年、前……」
 両親を亡くして、十海と一緒に大音に引き取られた、ということは覚えている。
 否、知識として知っている。厳密には記憶しているとは言えない。
 そして、重要なのはその原因だ。命を燃やす恐ろしい揺らめきの感触、掴まれた手を振り切って、それから、それから……?
 思い出そうとすると、頭の中に靄がかかったように思考が止まって、押し戻される。
「ふむ、ふむ。いや、いや。それで良い。全くもってそれでのだよ。思い出せなくて当然なのだ。
 そこには元々、何もなかったのだから」
「なん、だって……?」
 博士の言っていることはよくわからない。こんなやつの言う言葉に耳を貸してはいけないと、頭の中で何かがささやいた。
「ふむ、ふむ。君は、無意識のうちに何かを書いたりすることがあっただろう? あるいは無意識のうちにデュエルを進めていたこともあるかもしれない」
「え……?」
 確かに、眠ったままノートに落書きをして信哉に何度も怒られた。十海に何度も呆れられた。
 また、この大会の最初のデュエルで、彰は確かに意識を失った。致命的なディスアドバンテージを回避して、その後、彰は攻めに転じて勝利した。しかし、その肝心の勝利した瞬間、彰にはその瞬間の記憶がない。
 それがいったい何だというのだろう。いや、その前に、どうしてそれをこの老いた博士は知っているのだろう。
「それが理想的な理由だ。ふむ、ふむ。天使に、神に至るには、意識というものは邪魔なのだよ」
 自分がレグナ計画の被検体だということはこの聖域に来る前に知らされた。それに関しては別段驚くことでもなかったし、だからどうだという感じでたいして気に留めていなかったのだが。
 博士の言葉には、ひどく恐ろしい何かが潜んでいる気がした。それから目を背けても、それが存在することを認識してしまった以上、それはどこまでも追いかけてくる。
「ふむ、ふむ。私はね、人が神に至る瞬間をこの目で観測したいのだ。君から意識という意識を奪い、消し去り、殺し尽くして完全な存在に仕上げたい。ふむ、ふむ!
 しかしながら早乙女 レイと同じで、君には多くの枷が付きまとう。彼女も素晴らしい被検体だったのだがね、やはり君の空虚さには敵わないようだ」
「早乙女先輩が……!? 先輩は今どこにいるんだ!」
「ふむ、ふむ。私の知るところではないよ? 今、私の興味は君だけに注がれている。存分に、その姿を見せてくれたまえ」
 神に至るだの意識を消し去るだのとわけのわからない部分は無視することにした。この世界には信哉のほかに、レイも取り残されていたらしいことは知っている。
 レイにも何かあったのだろうか。まさか、信哉と同じ風に……。そこまで考えかけて、頭を振った。そんな考えは捨てるべきだ。今は目の前の戦いに集中することだけを考えればいい。
「ふむ、ふむ。私はターンを終了するよ。君のターンだ。続けたまえ」

日生 彰LP7800
モンスターゾーンプロミネンス・ドラゴン
魔法・罠ゾーン何もなし
手札5枚
デッキ33枚
博士LP8000
モンスターゾーン豊穣のアルテミス
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札1枚
デッキ33枚
フィールド高位聖域

「俺のターン、ドロー!」
「ふむ、ふむ。強烈なはたき落としを発動しよう」
 ドローしたカードは、そのまま墓地に送られてしまった。十海からもらった、あのカードを召喚するために必要なカードだったのに。
「ふむ、ふむ。私は豊穣のアルテミスの効果により、1枚ドロー。高位聖域の効果でライフポイントを回復するよ」
 高位聖域のコントローラーはカウンター罠が発動されるたびにライフポイントを1000回復する。
 相手のカードの効果を無効にした場合はダメージ効果と合わせて差し引きゼロだが、相手のカードの効果を無効にしない強烈なはたき落としに対しては単純にライフゲインの追加効果が付与されることになる。
 相手のライフポイントをいかに早く削り落すかに重点を置く彰にとって、この効果は非常に厄介なものだ。
 更に、豊穣のアルテミスの効果によって相手の手札が増強されていく。一枚のカウンター罠で闘いが不利な方向へと大きく傾いていくのだ。
 だが、悔んでいても仕方がない。今ある手札で何ができるかを瞬時に判断して、行動する。
「2体目のプロミネンス・ドラゴンを召喚! 更に、フィールド魔法バーニングブラッドを発動する!」
 高位聖域を破壊し、彰のモンスターの攻撃力を強化する。これが成功すれば、かなり闘いやすくなるはずだった。
 高位聖域というキーカードを、そう簡単に破壊させてくれるはずもなかったのだが。
魔宮の賄賂を発動する。ふむ、ふむ。君はカードを1枚ドローできる。私も、アルテミスの効果でドローしようか」
 今回もカウンター罠が発動されたが、高位聖域の影響下ではカードの効果を無効化したプレイヤーは1000ポイントのダメージを受ける。
 したがって、魔宮の賄賂でバーニングブラッドを無効化した博士のライフポイントの増減は差し引きゼロとなる。
 バーニングブラッドを無効化され、プロミネンス・ドラゴンの攻撃力を強化できなかったため、戦闘によるダメージはこのターンは期待できない。
「エンドフェイズにプロミネンス・ドラゴンの効果発動! 合計で1000ポイントのダメージだ!」
 その効果ダメージに、博士の眉が少し動いた。1000ポイントはかなり大きなダメージであるはずだが、それでも博士のライフポイントはまだ振り出しだ。
 小さな焦りを抱く彰をよそに、博士はカードを2枚伏せただけでターンを終了した。

日生 彰LP7800
モンスターゾーンプロミネンス・ドラゴン×2
魔法・罠ゾーン何もなし
手札4枚
デッキ31枚
博士LP8000
モンスターゾーン豊穣のアルテミス
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札2枚
デッキ30枚
フィールド高位聖域

 また彰のターンが回ってくる。
 思考に時間はかけない。自分のリズムを崩せば、それを取り戻すのは難しいからだ。
火炎木人18を召喚! 豊穣のアルテミスに攻撃!」
 全身が炎に包まれた巨木の化身が現れる。その強靭な紅蓮の腕で、紫色のマントの天使に殴りかかる。
 相手のドローソースであるアルテミスをつぶすことができれば、闘いの流れは自分に傾いてくる。戦闘によるダメージを加えていけば、多少回復されても問題なく押し切ることができるだろう。
 だが、灼熱が天使の体を貫く寸前に、空中に出現した薄い壁がその衝撃を遮った。炎の衝撃が弾かれて、火炎木人がよろめきながら後退した。
攻撃の無力化。ふむ、ふむ。アルテミスの効果で1枚ドローし、高位聖域の効果で1000ポイント回復する」
「くっ……」
 またしてもドローとライフポイントの回復。プロミネンス・ドラゴンでダメージを与えても、これでは回復の速度を上回れない。
 だが、今の手札ではすぐにどうこうできる状況ではない。彰はカードを2枚伏せて、エンドフェイズに移行する。
「プロミネンス・ドラゴンの効果!」
 火炎龍の火の粉が博士に降りかかる。瞬間、デュエルフィールドを包んでいた青い光のカーテンが輝きを増した。火の粉が青い光にかき消され、炎をまとう龍の上空から一筋の閃光が奔る。
 音と光と熱が爆ぜて、衝撃が叩きつけるような風となって彰に向かってきた。圧倒的な抗いがたい力。腕で顔をかばわなければ目を開けていることすらままならない。激しい風が収まった時、彰の場のプロミネンス・ドラゴンは1体になっていた。
 博士のライフは減らなかった。そればかりか、プロミネンス・ドラゴンが破壊されてしまったのだ。
「これは天罰だ」
 豊穣のアルテミスのドロー効果によって、天罰の手札コストは相殺される。
「さて、さて。カウンター罠で君のモンスター効果を無効にしたので、私は冥王竜ヴァンダルギオンを特殊召喚する」
 信哉を苦しめた怪物が、裁きの雷を伴って降臨する。その黒い竜の咆哮に呼応して、同じ怪物がその隣に現れた。黒く輝く強靭な翼がひとつ羽ばたく毎に、世界から希望が消えていくような錯覚さえ覚えた。
「ふむ、ふむ。天罰のコストでもう1枚のヴァンダルギオンを捨てていたのだよ」
「……もう1体のプロミネンス・ドラゴンの効果だッ!」
 自然と宣言の語調が強くなった。それは、一対の恐ろしい竜の眼光に打ち負けないための強がりにすぎない。
 恐ろしいことに、これから博士のターンが始まる。プロミネンス・ドラゴンのロックが消えた彰は、神より遣わされた竜の威圧感にただ耐えるしかない。
「ふむ、ふむ。ヴァンダルギオンで18を攻撃」
 圧倒的な、力による蹂躙。攻撃が通る直前に発動した罠は攻撃を止めるようなものではない。火炎木人は跡形もなく消えて、衝撃の余波が彰に襲いかかる。
 瞬間、締め上げられるような苦痛が彰の呼吸を握りつぶした。
「ッ……は、」
 突然の衝撃に意識を失いそうになるが、ここで倒れるわけにはいかない。
 視界がブレる。焦点が外れて世界が二つに割れてしまったように見える。喉の奥につかえていた空気の塊を無理やり吐き出して、彰は伏せていた2枚目のカードを発動した。
「カウンター罠爆炎結界! フィールド上の炎属性モンスターの数が変化した時、デッキから炎属性モンスター3体を墓地に送って発動する! 業火の結界像をデッキから特殊召喚し、さらにカードを1枚ドローする!」
 18がいた場所の一点に周囲の光が収束して辺りが暗くなったような錯覚をもたらす。やがて、酸素を燃やす低いうなりとともに臨界を超えた光の点から放射状に炎が炸裂した。
 爆発の中央に炎属性以外の特殊召喚を抑制する結界像が現れるも、豊穣のアルテミスの攻撃によってすぐに破壊されてしまう。
 先ほど発動した永続罠によって、博士のライフポイントは少しずつ削られるが、カウンター罠が発動されたことにより、博士のライフは回復してしまっていた。
バックファイアの効果! 炎属性モンスターが破壊されるたびに、相手プレイヤーに500ポイントのダメージを与える!」
 このカードがあったとしても、博士の攻撃は止まらない。冥王竜の攻撃が火炎龍を貫いて、彰に苦痛を与える。外から圧迫されて、押しつぶされてしまいそうな痛みだった。
「まだ、まだ……! 墓地のヴォルカニック・カウンターを除外して自分が受けた戦闘ダメージと同じだけのダメージを与える!」
 ようやく、ダメージらしいダメージが通った。しかし彰のライフポイントもかなり削られており、単純なライフポイントへのダメージ以外にも、身体的に圧力がかかっていて、彰の呼吸はすでに荒くなっていた。
「ふむ、ふむ。意識があるから痛みを認識してしまう。そろそろ、楽になったほうが良いと思うがね」
 そう言って、博士は確認もせずに手札のカードをすべて伏せた。

日生 彰LP5650
モンスターゾーン何もなし
魔法・罠ゾーンバックファイア
手札3枚
デッキ25枚
博士LP6700
モンスターゾーン豊穣のアルテミス
冥王竜ヴァンダルギオン×2
魔法・罠ゾーン伏せカード×4
手札0枚
デッキ27枚
フィールド高位聖域

 頭の中でガンガンと警鐘が鳴る。これ以上、デュエルを続けてはならないと。あの博士とか言う男を敵に回したのがそもそもの間違いであったのだと。
 取り込んでも取り込んでも、酸素が足りないような気がした。額に滲む汗が冷えて、不快だった。
 心臓が丸ごと頭に上ってきたように、一つ脈を打つたびに思考にノイズが入ってくる。
 迷いを振り払うように、腕で汗を拭ってまっすぐに前を見る。歯を食いしばって、デッキの一番上、次なる可能性を手にする。
「俺の、ターン!」
 意識を刈り取ろうとする疲労に抗うも、次の一撃で彰の気力は丸ごとえぐり取られてしまった。カードを引いた瞬間に、炸裂音が響いた。
 一対の巨竜の片方がはじけ飛んで、その衝撃がさらに1枚のカードによって全て彰に降りかかったのだ。
「あ、」
 グラリと視界が歪んで、残像を残しながら落ちていく。痛みが限界を超えて、全ての感覚が焼き切れた。
 両膝と両手を地面について、しかし彰は自分の手足の震えにさえ気付けないほどに消耗していた。
 口の筋肉もうまく言うことを聞かない。気道が丸ごと痙攣してしまって、空気を取り込むことさえもままならない。
「ふむ、ふむ。レグナを取り込んだだけあって、先ほどの彼よりもダメージは少ないようだね?」
 伏せたカード2枚を全く見ずに発動した博士の声が降ってくる。神に遣わされた竜さえも破壊し、全てを操ることができるのだと言わんばかりに見下ろしてくる。
「ぐ、あ、……」
 負けてなるものか。力の入らない手足に力を込めて、立ち上がる。頭はうまく回らない。直感だけを頼りに、ドローしたカードを発動する。
貪欲な、壺……!」
 紫色の不気味な顔の壺が現れる。しかし、その壺は役目を果たさずに消え去った。
神の宣告だ」
「く、あ……?」
 視界が滲む。世界が狭まっていく。暗黒に閉ざされ、何も見えなくなってしまう。
 意識が深い闇に飲まれて、消えていく。

 僅かに50のライフポイントを残して、日生 彰はデュエルフィールドの上に倒れた。





















 一方その頃、聖域のある区画――冷たい鋼のトンネルの中――で、白い調理服の青年と黒服の小柄な男が対峙していた。
 挑戦したのは調理服の青年、幸介。怒りの収まらない様子で小柄な男を睨んでいる。小柄な男は躊躇いなくその挑戦を受けた。
 幸介が先攻である。小柄な男、鯉岸を睨みながらターンを開始する。
手札抹殺を発動する」
 互いの手札をすべて捨て、新たに同じ枚数だけドローする強力な手札交換カードだ。次の瞬間、鯉岸の笑みが左右に大きく裂けた。
「捨てられたセルリレインゴルドシルバベージの効果発動ォ!」
 小柄な悪魔の魔導師が幸介の場に現れ、幸介の意思とは関係なしに鯉岸の手札を捨てる。更にその捨てた効果で鯉岸は2枚のカードをドローし、場に強力な暗黒界のモンスター達が現れた。
「レインの効果でセルリを破壊ッ! ヒャハハハ! シルバの効果! 手札を2枚デッキに戻せェ!」
 フィールドに揃ったモンスターはそろってアタッカークラス以上の攻撃力を兼ね備えている。加えて、幸介の手札は5枚中2枚がデッキに戻されてしまい、ハンド・アドバンテージの上でもボード・アドバンテージの上でも鯉岸が圧倒的に勝ってしまった。
 怒りに満ちた表情のまま、幸介は1枚の魔法カードの発動を宣言する。
浅すぎた墓穴を発動! 墓地のメタモルポットを場にセットする。お前も墓地のセルリをセットしろ」
「あァ? よっぽどユカイに死にてェらしい」
悪魔の調理師見習(デビル・コック・アプレンティス)を召喚し、カードを1枚伏せてターン終了だ」
 悪魔の調理師見習は持ち主のターンのみ攻撃力が倍になる。しかし、これから始まるのは鯉岸のターンであり、攻撃力は1000にも満たない弱小モンスターのままだ。
 鯉岸のフィールドに集った暗黒の軍勢の猛攻に耐えられるレベルでは決してない。
 しかし、幸介の狙いは達成されている。鯉岸もそれに気づいたようだった。
「なるほどォ? モンスターゾーンが埋まってりゃァ、これ以上特殊召喚できねェ。
 特殊召喚できなければ、暗黒界の第二の効果さえ封じ込めるッてわけかよ」
「俺のフィールドは空だったから、被害も最小限で済んだというわけだ」
 ゴルドやレインの効果は、強力なフィールド制圧だ。その効果を、自分の場にカードを出さないことによって回避したのだ。
 挑戦的な――しかし、「被害が最小限で済んだ」という後ろ向きな――調理師の物言いに、鯉岸はその狂気の笑みをさらに鋭くした。
「良いこと教えてやる。このゲームにはな、自爆特効ッつゥステキシステムがあるンだよォ! 行け! セルリ!」
 悪魔の調理師見習は、攻撃力の低い弱小モンスターだ。しかし、セルリはもっと攻撃力の低いモンスターである。攻撃力0のモンスターを除けば、セルリの攻撃力100は最弱だ。
「セルリは破壊され、オレはダメージを受けた! よって、テメェの悪魔の調理師見習の効果でオレは2枚ドローする!」
 鯉岸の手札が膨れ上がっていく。先ほど、ブラウの効果で増強した分も合わせれば、合計は9枚にもなった。
 これでセットされたメタモルポットを攻撃すれば、大量の暗黒界が墓地に捨てられて効果を発動することになる。それから、暗黒界の上級モンスター達が一斉に直接攻撃を行うのだ。
「ベージでメタモルポットに攻撃ッ!」
 宣言した途端に、調理師の顔が自信の色に染まった。
死のデッキ破壊ウイルス発動! 悪魔の調理師見習を生贄に捧げ、お前のモンスターを破壊するッ!」
「な、ン……だ、とォ!?」
 鯉岸の場にいたモンスターはすべて攻撃力1500以上。9枚あった手札も、4枚にまで減った。暗黒界の効果は手札から墓地に捨てられた時に発動するが、死のデッキ破壊ウイルスの場合は手札を直接破壊するため、暗黒界の効果が全く発動されない。
 ギリ、と歯を噛む音がして、鯉岸が吼えた。
「絶望相手に粋がってンじゃねェエエエエ! 闇より出でし絶望ォオオオオッ!」
 暗黒界の効果は発動されないが、闇より出でし絶望の効果は、死のデッキ破壊ウイルスで直接破壊されても発動される。
 トンネルの鋼を闇色の巨大な手がつかみ、冷たい床から絶望の化身が低い呻きとともに這い上がってくる。
 主の咆哮に呼応して、高い天井に届かんほどの巨体を大きく広げて、相手に絶望を植え付けようと吼え猛った。
 一方、先ほどまでの怒りに染まった表情はどこへやら、幸介は平然とその怪物を眺めていた。
「攻撃、するのか?」
「ターン、終了だ」

幸介LP8000
モンスターゾーン伏せモンスター(メタモルポット)
魔法・罠ゾーン何もなし
デッキ31枚
手札0枚
鯉岸LP7200
モンスターゾーン闇より出でし絶望
魔法・罠ゾーン何もなし
デッキ25枚
手札4枚
ウイルスカウンタ(死)0→1

 先ほどまでとは、表情が逆転した。幸介は自信に満ちたそれになり、鯉岸は怒りに我を忘れた状態になっている。
「リバースカードを1枚セット。メタモルポットを反転召喚する」
 ドローしたカードを伏せて、不気味な壺の闇の中から出てくる可能性をつかみ取る。
 鯉岸の手札は壺の闇に飲まれて、壺から出てきた可能性もウイルスによって死ぬ。
 運が良かったのか悪かったのか、ウイルスに蝕まれて破壊されたカードは5枚中2枚だった。
「ところでお前」
 手札として補充された5枚を見ながら、鯉岸に問いかける。
「カレーは甘口と辛口、どちらが好きだ?」
「あァ? 命ごいかと思ったらそんなことかよ」
 死のデッキ破壊ウイルスの効果があるとはいえ、鯉岸の場には最上級のモンスターが居座っている。ウイルスは彼の自信を削ぐ要因にはなり得ていない。冷静さを失わせてはいるだろうが。
「カレーは辛いのに限るぜ」
 鯉岸は甘いことが大嫌いな人間だ。それは幸介が予想していた通りだった。
「それは良かった。お口に合うかどうか心配でな」
 幸介は小さく笑った。言いようのない高揚感が幸介の心にあった。
 怒りに我を忘れた演技はもう必要ない。あとは徹底的に、目の前の哀れな客人をもてなし尽くすだけだ。
「レストラン倉ノ屋(くらのや)出前出張サービスだ!」
 1枚の魔法カードを発動して、彼は高らかに叫んだ。宣戦布告。彼の料理デッキコンボが火を噴くという合図。
 この世の中に確かなことなんて、思っているほど多くはない。
 誰よりも臆病で、誰よりも勇敢であることを知っている男が言ったその言葉の続きが、幸介の闘争心を煽った。
 確かなことが少ないからこそ、確かでないことを一つずつ確かなモノにしていく過程が楽しい。
 機械と料理。種類は違えど、確かな形をくみ上げることに惹かれる心は同じだ。そして今は、目の前にある闘いに確かな終止符を打つという目的がある。
 あの鯉岸とか言う男はまだ気付いていないだろう。自分が致命的なミスを犯してしまったことに。
 目の前の食材は絶望。それを最高に美味な料理に変貌させる方法に思考を巡らせて、幸介はもう一度静かに笑った。




「今宵のディナーは、刺激が強いぞ」



10:ひとまずの決着


「今宵のディナーは、刺激が強いぞ」
 発動されたカードは儀式の準備。墓地から儀式魔法を、デッキからレベル7以下の儀式モンスターをそれぞれ1枚ずつ手札に加える効果を持つ魔法カードだ。
 幸介の手札に加えられたカードを見て、鯉岸は怪訝そうな顔をした。スタンダードなデッキならまず採用されない儀式モンスターであることに加え、そのモンスターが何の効果も持たないからだ。
「手札に加えたハンバーガーのレシピを発動! 墓地の儀式魔人リリーサーを除外し、手札からレッド・デーモンズ・ペッパーを生贄に捧げる! ハングリーバーガーを儀式召喚!」
 トウガラシを具に使った巨大ハンバーガーが現れる。具をはさむパンには鋭い歯が何本もついており、てっぺんにお子様ランチよろしく日の丸の旗が立っている。
 食べられるためというよりは、それ自身が何かを食べるために生まれてきたような見た目だった。
「儀式魔人リリーサーを生贄として儀式召喚したモンスターが場にいる場合、相手プレイヤーは特殊召喚することができない。確か、特殊召喚ができなければ暗黒界の第二の効果は発動しないんだったな?」
「テ、メェ……!」
 鯉岸の怒りが覚めないうちに、生贄となったもう1枚のカードの効果を発動する。
「レッド・デーモンズ・ペッパーが生贄に捧げられた場合、相手プレイヤーはデッキからカードを2枚ドローする」
 死のデッキ破壊ウイルスの効果により、鯉岸がドローしたカードのうち1枚は破壊されてしまった。残された暗黒界の刺客 カーキが手札に加わる。
「テメェ、まさか……」
「今更気付いてももう遅い。カードを2枚伏せてターン終了だ」
 そう、鯉岸が気付いた通り、幸介の戦術は「ドローを介するデッキ破壊」だ。
 一見するとこれは、手札から大量のカードを捨てさせるために暗黒界との相性は最悪に思える。
 しかし、屈指の手札破壊カードであるウイルスを使うことにより、その弱点を克服しているのだ。
 それだけではない。幸介の戦術の恐怖は、ここから始まる。
「オレのターン!」
 ドローしたのは暗黒界の狂王 ブロン。死のデッキ破壊ウイルスの効果で破壊され、鯉岸の手札は4枚から増えることはなかった。
「だが、お前も確認した通り、オレの手札には暗黒界の刺客 カーキがいる。そのへなちょこなハンバーガー野郎はとっととオサラバだ! 暗黒界の雷発動!」
 鯉岸は伏せられた2枚のカードのうち、片方を指定する。暗黒界の雷は効果の発動に成功したとき、手札から1枚のカードを捨てる追加効果がある。
 伏せカードを除去し、さらにカーキを捨てれば、場のモンスター1体を破壊できるというわけだ。
「罠カード物理分身。お前の汚い心をよく鏡で見てみるんだな。闇より出でし絶望の能力をコピーしたミラージュトークンを特殊召喚する」
 しかし、指定したカードがその場で発動されてしまうと、暗黒界の雷は不発に終わる。手札を捨てる効果も発動されない。
 蜃気楼のように揺らめいて、闇より出でし絶望の姿をそっくり写したトークンが幸介の場に生成される。
「チィ、絶望でハンバーガーを攻撃するッ!」
 闇より出でし絶望の攻撃力は2800。ハングリーバーガーは2000。ハングリーバーガーは最上級モンスターの攻撃力ならば戦闘によって簡単に破壊することができる。
 しかし、鯉岸は決定的な判断ミスを犯した。闇より出でし絶望が存在する場に、わざわざ3枚の手札を消費してハングリーバーガーを儀式召喚したのだ。戦闘破壊に対する対策が為されていないはずがない。
 闇色の爪が闇から伸びる影のように長く鋭くハングリーバーガーに向かい、しかし攻撃することはできなかった。
「墓地のネクロ・ガードナーを除外した。したがってこのターンの闇より出でし絶望の攻撃は無効だ」
 初手の手札抹殺には、ネクロ・ガードナーをはじめ、ハンバーガーのレシピや儀式魔人を墓地に送る役割があったのだ。
 だが、気付いたところでもう遅い。悔しそうに歯噛みする鯉岸だが、今の手札では何もできない。モンスターをセットして、ターンを終了する。
 終了したところで、絶望の闇を操る小柄な男は目を見開いた。
「汚れは食事の敵だ! エンドフェイズにミラージュトークンを生贄に捧げ、魔のデッキ破壊ウイルスを発動する!」
「ナ、ニ……!?」
 セットされたスカーと、手札にいたグリン、カーキが破壊される。
「手札が無くなってしまったな?」
 鯉岸の手札はゼロ。空虚で何もない。全て暗黒に飲まれ、消えていった。
 今、鯉岸が操ることができるのは場にいる絶望の残り滓だけだ。相手に恐怖を植え付ける伏せカードは何一つない。
 更に、ウイルスの後に発動された月の書によって、鯉岸は自分の犯した決定的な間違いに気付いた。メタモルポットは、破壊しておくべきだったのだ。

幸介LP8000
モンスターゾーンハングリーバーガー
伏せモンスター(メタモルポット)
魔法・罠ゾーン何もなし
デッキ25枚
手札1枚
鯉岸LP7200
モンスターゾーン闇より出でし絶望
魔法・罠ゾーン何もなし
デッキ17枚
手札0枚
ウイルスカウンタ(死)1→2
ウイルスカウンタ(魔)0→1

「安心しろ。今何とかしてやる」
 メタモルポットが反転召喚されれば、確かに鯉岸に手札が増えるかもしれない。
 だが、その中にいるモンスターは二種のウイルスカードによってことごとく破壊されてしまう。
 メタモルポットの効果は、すぐには発動されなかった。新たにデッキ破壊を加速させるモンスターが召喚され、一枚の装備魔法が発動される。
巨大化を闇より出でし絶望に装備! 俺のライフポイントのほうが多いから、そいつの攻撃力は1400だ。ハングリーバーガーで闇より出でし絶望に攻撃!」
「ク……やめろ……!」
 幸介が小柄な男の震える声を聞き入れることはない。カチカチと歯を打ち鳴らす音が冷たい空洞に響いた。
 鯉岸はすっかり怯えきってしまっている。手札がなくなった今、頼りになるのは場にいた最上級モンスターたった1体だったというのに、それすらも戦闘で難なく破壊された。
 後ずさろうとして足を滑らせ、鯉岸は固い鋼の床に尻もちをついた。
大盤振舞侍の攻撃! 大盤振る舞いだ!」
 7枚ものカードがドローされ、ウイルスに蝕まれて破壊されていく。残された死者蘇生暗黒界へ続く結界通路暗黒よりの軍勢も、自分が使うはずだった死のデッキ破壊ウイルスさえもメタモルポットの闇の中に飲み込まれた。
 新たに5枚のカードをドローし、しかし鯉岸の手札に残されたのはたったの2枚。闇の護封剣と、この局面では絶対に発動したくない、暗黒界の取引
「カードを2枚伏せてターン終了だ」
 鯉岸の最後のターンがやってくる。ライフポイントは半分以上も残されているのに、デッキはもうたったの5枚しか残されていない。
 二種のウイルスカードの効果で、攻撃力が不定なモンスター以外はドローした瞬間に破壊されて墓地へ送られる。
 相手の場には攻撃力2000のモンスターが構えているし、少なくとも大盤振舞侍の攻撃を阻止しなければ次のターンにデッキがなくなって敗北してしまう。
 モンスターの比率を多めに組んだ暗黒界のデッキに、この状況を覆すカードが存在するだろうか。
 存在したとして、平静さを完全に失った鯉岸にそれを記憶から想起しているだけの余裕はないようだ。
 眼球が震えて焦点が定まらず、視線がそこかしこを泳いでいる。呼吸が乱れて口から時折うめき声を発しながら空気を取り込む。
 鉛でも持ち上げるように、やっとの思いでドローしたカードを見て、鯉岸の口が左右に裂けた。
 肩が痙攣して、目頭を押さえながら小柄な男は上を向いた。その口から洩れる乾いた音が破裂して、やがて冷たい空洞に狂った笑い声が響いた。
「クク、カカッ、クヒャーハハハハハ! 闇の護封剣発動ォ!」
 幸介の場にいるハングリーバーガー、大盤振舞侍、そしてメタモルポットが裏側守備表示になる。2ターンの制限はあるものの、メタモルポットを再び裏側守備表示にするのは自殺行為以外の何者でもない。鯉岸のデッキは残り4枚。もう一度メタモルポットの効果が発動されれば、その時点で敗北が確定してしまうのだ。
 次のカードが発動されなければ、鯉岸は気が触れて正しい判断ができなくなってしまったと思われただろう。
マッサツノシトォオオオオオオオ!」
 気が触れてしまったのは間違いないことらしい。と幸介は冷静に判断した。その上で、この男にトドメを刺した。
「ドリンクは硫酸だ! 硫酸のたまった落とし穴発動!」
「ア……?」
 笑い声が消えた。間抜けに口を開けたまま、小柄な男は壺の中の闇を見つめることしかできなかった。
 メタモルポットが破壊される前に表側表示になり、その効果が発動する。闇の世界に生きてきた男を、その闇の中に飲み込んでいく。
 カチリ、と。幸介が押したボタンによって、鯉岸が何度も使ってきた機能が発動された。
「オ、ア……! どうしてテメェが『ドレイン』を……ッ!」
 それを理解した途端、小柄な男は絶叫した。体中の力が抜けて、意識がかき乱され、深い闇の底に落ちていく。
 闇を闊歩してきた男は、完全に、その深淵に飲み込まれた。




 心地よくない断末魔を上げて気絶してしまった小柄な男をたいして気にする様子もなく、幸介はデュエルディスクをつけていた左手を下ろした。
 さて、気になるのは他の連中とあの男のことだ。
(奴はうまくやっているだろうか)
 考えかけて、やめることにした。どうせあの男のことだ。うまく活用しているだろう。
 他のメンバーと合流すべく、彼は歩き出す。闇に飲まれた哀れな男が一人、取り残された。





















 深い闇の中、色んなものが消えて、たった一人になった。
 博士もいない。信哉もいない。和沙もいない。
 ただ一人だけ、日生 彰は真黒い世界の真ん中にたたずんでいた。
「俺、どうなったんだ……?」
 確か、2枚のカードが発動された。破壊輪と、地獄の扉越し銃
 ヴァンダルギオンの攻撃力は2800で、その倍のダメージが与えられて、それから……?
 最後に、1枚のカードを発動しようとしたことだけは覚えている。それから、どうなった?
神の宣告だ』
 恐ろしい声が記憶の中に刻まれていた。聞くだけで押しつぶされそうな、老人のものとは思えないほど鋭く重たく、冷たい声。光を反射するメガネと、その奥にあってなおギラギラと輝く純粋すぎる瞳。
 それから、あの黒い巨竜の姿が思い出される。破壊輪で片方消えて、もう1体いたはずだ。
 あんなのに、勝てるのか? 残されたライフポイントはたったの50で、手札のカードは3枚。サラマンドラ溶岩魔神ラヴァ・ゴーレム……。
 最後の1枚も、あの巨竜に対抗できるようなものではない。こんなモンスターを召喚したら、次のターンに攻撃されておしまいだ。
 無理、なのか? ここで、諦めるのか?
 諦念がよぎった瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。内側から熱に食い破られるような感覚。鼓動が加速して、額から汗がにじみ出る。
 膝をついた。思考を焼いて頭の中を一面の白に変えていく。和沙とのデュエルの時とほとんど同じ感覚だ。
 ただ一つ異なるのは、その熱の浸食に対して彰が抗っていること。ここで意識を手放してはいけない。彰を追いつめる熱が、逆に彰にその想いを再認識させた。
 ひょっとしたら、この熱が博士の言っていた『精霊』とやらかもしれない。けれど、相手が精霊であれ何であれ、今の彰には関係なかった。
「……ありがとな。だけど、お前に、代わりに闘ってもらうわけにはいかないんだ……!」
 歯を食いしばって立ち上がる。鼓動と呼吸が落ち着いて、熱が引いていく。
 自分で闘うという決意が通じたのかもしれないが、それだけではない気がした。
 彰の心は、空虚で何もないわけではなかったのだ。背中を押してくれる、支えてくれる頼もしい声が、確かに聞こえた。
『守りたいものを守れるようになる、ってのも、立派な野望だぜ』
 大切なことを教えてくれた声。守りたいものを守るためには、どうすればいい?
『真のデュエリストは、最後まで諦めずに戦い抜かなきゃならねぇ。いいか、絶対にだ!』
 この世界に来る直前に聞いた、育ててくれた母の声。諦めずに戦う。この絶望的な状況で、何を、諦めなければ良い?
『私は今目の前にいる、彰を守りたい!』
 心の底から絞り出すような、ずっと隣にいた少女の声。その少女の叫びに、どう答えた?
 考えるまでもなく、彰は答えを知っていた。黒い世界が紅く爆ぜ、目の前に眩しい光が広がった。その光の中に手を伸ばして、自分が諦めたくない答えをつかみ取る。
 目を灼くほどの強い光。だけど、その先には必ず希望がある。


『俺は、まだ諦めてない』
『みんな笑ってた毎日に戻れるって、信じてる』


 光の中でつかんだその答えを、胸に刻む。鼓動が速くなって、全身が熱くなった。高位聖域による圧迫感のような不快感はない。
 見つけた確かな答え。それを、今叫ぶ。
「俺は、諦めないッ!」
 光が白く爆ぜて、目を開けていられなくなっても、掴んだ答えは離さない。
 景色が加速して、聖域の光景が飛び込んでくる。
 彰は元いたデュエルフィールドに、しっかりと足をつけて立っていた。
「ふむ、ふむ」
 顔を前に突き出して興味深げに彰を観察する博士に、最大限の闘志を以て宣言する。
「俺は、守りたいものを守る。あんたを倒して、LEGNAなんてばかげた空想を打ち破る!」
 LEGNA計画などという空想が、守りたい世界を狂わせてきた。ならばまず、それを壊さなくてはならない。
 そのために必要となることは、とても簡単だ。闘って、勝利すれば良い。
 この決闘は、ダメージが身体に負荷をかける恐ろしいものだ。信哉はそのダメージによって倒れたし、博士だってプロミネンス・ドラゴンのダメージを受けた際に小さな反応を見せていたはずだ。
 この決闘に勝利すれば、少しの間くらいは博士を無力化できるだろう。その間に博士の後ろにあるガラスの容器、レグナフォースを捨て去らなければならない。
 あのレグナフォースこそが、博士にレグナの絶対性を信じ込ませているものであることは誰の目にも明らかだ。そうでなければ、あれを注射した後に博士の声が大きくなったこと、注射直前の疲労感への説明がつかない。
「その感情さえもLEGNAによるものだ。本来の君は空虚で、何もないただの器だよ」
 彰は博士の言葉に惑わされたりはしなかった。先の暗闇の中で、あの熱に抗うことができたから。自分を支えてくれる守りたい世界の声を聞いたから。
 希望へ続くカードをつかむ。召喚されても、あの黒い巨竜には敵わないモンスターカード。
炎帝近衛兵を召喚し、効果発動! 墓地の炎族モンスター4体をデッキに戻し、2枚ドロー!」
 このドローが最後の希望。そして、それは最後であるだけでなく最高のものになると、彰は信じている。
 カードの鼓動が燃えるように熱い。信じたからこそ応えてくれるその感覚が、彰にとっては最高に嬉しい。
 引いた2枚は、望まれたカード。片方は、守りたいものとの絆に通じるカードだ。
「行くぜ」
 笑みさえこぼしながら、その瞳に灼熱を宿した少年は宣言した。
 その手で勝利をつかみ取ることを。真なる闘いの始まりと終わりを。老人の空想を打ち破り、焼き尽くすことを。
儀式の準備、発動! 墓地から灼熱の試練を、デッキから伝説の爆炎使い(フレイム・ロード)を手札に加える!」
 守りたいものに守られていることを強く感じた。全てを飲み込む溶岩魔神をも生贄にして、聖域に絆の証が、紅蓮の魔導師が降り立つ。
テラ・フォーミング発動! 手札に加えたバーニングブラッドを発動し、伝説の爆炎使いにサラマンドラを装備!」
 絆の名の下に、魔導師が燃え盛る剣を掲げ、灼熱の魔法が全てを焼き尽くしていく。決して消すことのできない希望の炎は、神の遣いたる黒竜をも容易く砕き、吊るし上げられようとしていた天使を聖域の呪縛から解き放つ。
「ふむ、ふ……!? ぐ、は……はぁッ」
 突然、博士が苦しそうに息を吐いた。炎帝近衛兵が破壊されたことで、博士にバックファイアのダメージが通ったのが原因だろうか。
 それだけではない。彰は瞬時に理解した。博士が後ろを振り向いて、机の上に置かれたガラスの容器に向かおうとしたからだ。
 『レグナフォースの補充』を行うためだろう。彰は阻止するべくバトルフェイズに入るが、途中でやめてしまった。
 間に合わないと絶望したからではない。想定外の光景があったからだ。
 博士にとっても想定外だったらしく、ガラスの容器へ向かおうとして、老人は老眼鏡の奥の目を見開いた。
「な、なぜ君が……ッ!」










「よぉ聖域ヒッキー。約束通り、テメェのヤクチュウ治してやるよ」
 足を組んで机に座り、片腕で抱えるようにしたガラスの容器を手で弄び、野獣のような獰猛な笑みで博士を睨みつける青年がいた。
「た、タテヤン……!」
「バカな、君は、確かに、さっき、死んだはず……」
「バァーカ! カードゲームで、死人が出るかっつーの!」
 時折せき込みながら、苦しそうに深く呼吸しながら、それでも笑っていた。
 それから、抱えていたガラスの容器を片手で高く持ち上げる。大人の胴体ほどもある容器を片手で持ちあげている以上、それは力学的に不安定にならざるを得ず、それなりの重さがあるのか、信哉の手も震えている。落下するのも時間の問題だ。
「何をする! よ、よせ……やめッ」
 老人が言い終わる前に、信哉は手を横に薙いだ。それに従って、ガラスの容器が投射され、重力に従って床に激突し、オレンジ色の粘性のある液体をばら撒いて砕けた。
「お、あ、……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 絶叫。老人のものとは思えぬ――否、それが人間のものであるかどうかさえも聞いただけではわからぬほどの――絹を裂くような声。
 金切り声をあげた老人は、デュエルフィールドから出てそれに駆け寄ろうとするが、水色のマフラーを真赤に染め上げた青年に襟首を掴まれて、それは叶わなかった。
「デュエルはまだ終わってねぇだろ? ほら、最後の伏せカードは何だ?」
「……?」
 博士の場には、最後に1枚だけ伏せカードが用意されている。信哉の真実を見抜く目が鋭くそのカードを睨む。
「わからねぇンだろ? お前、手札見ないで伏せてやがッたからな」
 博士は、まともに手札を見ずにカードを伏せた。それは、何故か。
「認識の歪曲でカードの正体まで曲げちまうたァ、ひでぇチートするモンだ。ンで、興奮剤(ヤク)がなきゃ、認識の歪曲は使えねぇンだろ?」
 つまりだ、と信哉は最後に結論を述べる。
「テメェは箱の中の猫を生かしたり殺したりして遊んでたッてわけだ」
 伏せたカードは、それが発動されるか破壊されるかして表向きにならなければ認識されない。博士自身も手札を確認せずに――そのカードの正体を認識せずに――伏せていたのだから、そのカードが何であるかは誰にもわからない。
 認識の歪曲によって、そのカードの正体が特定のカードとして認識されうる状態を作れば良い。つまり、博士が強く思いこんだカードに、伏せたカードは変わってしまうというわけだ。
 信哉との戦いでリロードを発動したのも同じ理由だ。すでに天使族モンスターとして認識された手札を、認識されていないものと入れ替えるためだ。認識されないドローカードは博士の意のままに操ることができる。つまり、テテュスのドローターボを行った時、天使族を任意の枚数だけドローすることができたのだ。
 博士の様子からすると、認識の歪曲を行うにはレグナフォースを消費するらしい。彰が切り札を召喚した時、咄嗟に伏せたカードを発動できなかったのはそのためだろう。
「テメェが伏せたカードは何だ? 言ってみろ」
「う、あ……!」
 まだ未練がましく、床に広がるオレンジ色の液体を見ている博士と無理やり目を合わせ、信哉は言った。
「わからねェなら、俺が言い当ててやる。テメェが伏せたのは、邪魔にならないフリーチェーンの……」
「や、やめろ! それ以上言うなッ!」
 震える老人の声。信哉は容赦なくトドメを刺す。
強欲な瓶だ」
「やめロォオオオオオオオオオオ!」
 襟首をつかんだ手に力を入れて、博士を投げ飛ばす。デュエルフィールドの、本来彼が立っているべき場所に落ちる。燃え盛る轟音。何が何だかわからないという様子で博士は顔を上げた。
 目前には、すでに炎の剣を構えた魔導師が迫っていた。伏せたカードは発動されない。発動しても意味がない。すでにこの場にいる青年が強欲な瓶だと強固に認識してしまった以上、その事実は曲げることができない。
 炎の剣の一撃を受け、神へ至る病に陥っていた老人は大きく体をのけぞらせ、そのまま倒れ込んだ。悲鳴すら上がらなかった。







「けほっ……」
「タテヤン!」
 せき込んで、口の中に残っていた赤いものを吐き出した。少年が駆け寄ってくる。心配そうに見上げてくる。

「ったく、幸介のヤツ、タバスコ混ぜやがったな……」
「た、タバスコ?」
 少年は間抜けな声を上げた。口の周りに付着した赤黒い液体をふき取って答える。
「ああ、おかげで口の中がヒリヒリしやがる」
「し、心配したんだぞぉ……」
 緊張が糸が切れたのか、少年はその場にへなへなと座り込んだ。
 すっかり力の抜けた少年の頭を、赤い液体にまみれていないほうの左手でぽんぽんと叩いてやる。
 そうしているだけで、自分も安心できた。博士は見ての通り魂が抜けたようになっていて再起不能。LEGNA計画は彼がいなければ終わる。気を張る時間はもう過ぎ去ったのだ。
 ふと視線を動かすと、じっとこちらを睨んでいる少女に気がついた。
 目を合わせづらい。あんなに冷たい目で睨みつけてしまったのだから、もう一度こうやって会う機会はないだろうと思っていた。
 目を反らしてくれる気配がなかったので、仕方なく息を吐いて少女の視線に応える。
「迫真の演技だったろ?」
 おどけた調子で言ってみるも、少女の目つき――泣くのを強がって我慢している――は変わらない。変わらないどころか、その表情のままぐいぐいと顔を近づけてきた。
「あ、あぁ、いや、なんだ、その」
 何か言うことはないか、とでも言いたげな雰囲気が全身からにじみ出ている。無言の圧力に気圧されて、やっぱり口から出てくるのは的外れな言葉だった。
「悪い。マフラー、ダメにしちまった」
 次の瞬間、腹部に鈍い衝撃が走った。
「あ……」
 そのまま前のめりに倒れて、倒れる前に意識が飛んだ。
「ばか」
 最後に、一番聞きたかった声を聞いた。







 せき込んだ信哉に駆け寄る。また、赤いものを吐きだしたが、直後に彼はこう言った。
「ったく、幸介のヤツ、タバスコ混ぜやがったな……」
 涙目になりながら、信哉は右手の平を見せてくる。セロハンか何かでできた薄い膜が、真赤に染まっていた。
「た、タバスコ?」
「ああ、おかげで口の中がヒリヒリしやがる」
 要するに、それに入っていた赤黒い液体を吐いたように見せかけていたのだろう。全身から力が抜けていくのがわかった。その場に座り込んで、人を心配させる青年に文句を一つ垂れておく。
「し、心配したんだぞぉ……」
 信哉は曖昧に笑って、頭をぽんぽん叩いてきた。暖かくて大きな手だ。
 本当に、諦めなくて良かったと思った。きっと、これならアカデミアに戻っても元通りの毎日がやってくる。
 やがて、信哉の手が止まる。見上げると、彼の視線の先には和沙がいた。
「迫真の演技だったろ?」
 二人の会話を邪魔してはいけない。色々聞きたいこともあるが、それは後で良いだろう。彰はそっと立ち上がった。
「彰君!」
「え?」
 部屋の入口の通路から、声が聞こえた。黒い薄手で短い丈のジャケットを着た少女と、いつもの黄色いバンダナをつけた青年が駆け寄ってきた。
「剣山先輩! それに、早乙女先輩も!」
「博士に勝ったドン? やったザウルス!」
 剣山に笑いながら強く背中を叩かれた。
「いッ!? 痛いって!」
 それも彼なりの勝利を称える行為なのだろう。それから、レイはまっすぐにこちらを見て言った。
「心配かけて、ごめんね」
「え? いや、そんなことないよ」
「あれ? ひょっとして心配してくれなかった?」
「あ、ああッ! そうじゃなくて、えっと……」
「あははは! これ以上は十海ちゃんに怒られちゃうかな」
 レイは心の底から笑っているようだった。剣山も同じ。その隣にいる探偵少女も笑っていた。彰も釣られて笑った。
 十海がいないことが気になったが、すぐにレイ達の説明で納得した。先に聖域から戻っているらしい。
 安心すると同時に、頭の中に浮かんでくるのは一つの疑念。
『君はLEGNA被検体の中で、最も理想的な個体なのだよ。空虚で何もなく、人知を超えた存在――精霊――を宿すにはうってつけだった』
『ふむ、ふむ。いや、いや。それで良いのだよ。思い出せなくて当然なのだ。そこには元々、何もなかったのだから』
『その感情さえもLEGNAによるものだ。本来の君は空虚で、何もないただの器だよ』
 空虚で、何もない。LEGNAによって作られた感情。無意識の中に潜んでいる、自分以外の何か。
 闘っていた時は気持ちが高揚して振り切った気になっていたが、やはり心の片隅に小さな影が残っていた。
 果たして本当にそうなんだろうか。ノビてしまった博士は何も言わない。


 彰は、少し離れた場所から自分を見つめる黒いガラス玉のような瞳に気付かなかった。



終章 つなぐその手は

1:真実を知り、終焉をもたらす者


「さて、今日こうして集まってもらったのはほかでもありません」
 インバネスコートを羽織った少女が、角下の総合体育館に集まったメンツを見渡した。
 聖域にて大会のあった翌日の朝、この体育館に集まったのは輪の中心にいる探偵少女、相田 たのかをはじめ、瀧口 大音、倉ノ屋 幸介という『セイバー』の構成員。藍川、土井、添田という、鯉岸以外の『サースター』の幹部。それから、聖域事件に巻き込まれた日生 彰、七山 十海、早乙女 レイ、ティラノ剣山、瀧口 一音、和沙の合計十二人だ。
「シンヤくんはいないけど、今はそのほうがいいね」
 たのかは意味ありげにつぶやく。信哉は昨日の事件で倒れ、入院している。事件の関係者でありながら、この場にはいない。
 このもったいぶった言い方は彼女が自らの推理を披露する際に独特のもので、聞き手の神経を焦らす効果がある。
「Tの正体がわかった、というのは本当か?」
 早速焦れたのは、藍川だった。いつものような黒いライダースーツで、博士や鯉岸という司令塔を失った『サースター』を現在実質的に仕切っている女性だ。
 たのかは自分より二回りほども背の高い藍川にも威圧されることなく、胸を張って答えた。
「本当だよ。名探偵相田たのかに解けない謎はないのだ」
 それからまた集まったメンツを見渡して、その輪の中を歩き回る。そうしながら彼女の推理は明らかになっていく。
「Tは巧妙に私たちを騙した。本当にうまい演技でね」
 Tは、自分がレグナ計画の被験者だと言った。しかし、藍川が行った声紋分析では被験者リストに一致する人物は見当たらなかった。
 それは「嘘」あるいは「間違い」が、どこかに少なくとも一つは隠されている、ということに他ならない。
「でも、Tは嘘をついてないんだよ」
 たのかは、それを後者だと明確に言い切った。この事件に隠されているのは嘘ではない。Tは真実を知る者であると同時に、真実以外を話さない者でもある、と。
 やがて、たのかは一人の少女の前で立ち止まる。
「何も言わなければ、嘘をついたとは言えないからね」
 その場にいた全員が、その意味を理解した。そして、それはあり得ないと思った。
























「そうでしょ? カズサ」
 ベージュ色のロングスカートに灰色のカーディガン姿の、長い髪の少女は、目を伏せていた。たのかは静かに、和沙の反応を待つ。
「え? ちょっと待って。確か、和沙さんって……」
 声が出せないんじゃなかったか。それを直接言うのが躊躇われたのか、聖域で彼女とともに行動していた少年、日生 彰は最後まで言う前にやめた。
 小さく息を吐いて、和沙は顔を上げた。一晩中信哉につきっきりだったためか、やや憔悴した表情だった。
「バレて、しまいましたか」
 聞く者全ての心に深く入り込むような、澄んだ声だった。その場にいた誰もが驚き、言葉を失った。
 声を失ったはずの少女が、自らの声で話していたからだ。
 和沙は憔悴はしていたが、焦る様子はない。穏やかな表情で、たのかを見つめた。
「どうして、わかったんですか?」
 たのかは、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに「それはね」と続ける。
「まず、Tがレグナ被験者だと名乗ったこと。それから、名簿に載ってなかったこと。この二つが非常に重大なヒントだったんだ」
 その二つが、Tに関する情報の根幹である。
「カズサは、二年前に『精霊抜き』を受けて、声を失った。その時に、名簿から削除されちゃったんだよ。そうだよね? ドイさん」
 藍川の隣にいた白衣の女性は、静かにうなずいた。レグナの被験者リストは、博士の研究のために作られたものだ。だから、博士にとって不要な人物は削除される。
 副作用のある『精霊抜き』を受けた和沙は、その時点で観察対象から外されてしまったのだろう。『精霊抜き』を開発した土井はその改良のために彼女の情報を覚えていたが、博士にとってはその時点で不要になってしまったのだ。
「ま、覚えてきながらカズサに声が戻った可能性を考慮しなかったのは片手落ちだと思うけどね」
 その指摘に、藍川は苦い表情をして溜息をついた。どうやら、彼女もその可能性には思い至っていなかったようだった。
「だから、カズサが見せてくれた招待状は、主催側が出したものじゃなかったんだ。
 昨日、トウミちゃんに借りておいたのがこれ。差出人も中も手紙も違うでしょ?」
 たのかがポケットから出した十海の招待状。これだけを見ても、和沙以外には何のことかわからない。
 藍川達は被験者名簿に載っている人物にだけ招待状を送ったのだから、名簿から削除されていたとすれば和沙が持っていたという招待状はこの大会の主催側が送ったものではない。
「それから、もう一つ決定的な理由がある」
 和沙が名簿から削除されていた、というだけでは和沙がTであることの証明にはなり得ない。その可能性が現れた、というだけだ。
「アイカワさんに聞いたんだけど、Tからの連絡が始まったのは一月ほど前。十一月の後半。
 そして、水曜日にはTからの連絡が全く入らなかったんだ」
 それが、和沙がTであることとどう関係があるのか。次のたのかの発言を聞いても、誰にもわからなかった。
「シンヤくんが入院してくれてて助かったよ。そうじゃなかったら、証拠を隠滅されてたかもしれない」
 昨日の事件で倒れ、信哉は入院した。和沙はその看病のために、病院に泊まり込みで看病をしていた。自宅に帰る暇などなかった。
 たのかにそれを指摘されて、その意味を理解しているのは和沙だけだった。
 目を閉じて息を吐いて、和沙は小さく笑った。
「これにも、気付かれてたんですか」
 すっと、一か月前から履き始めた長いスカートの裾を持ち上げる。紺色の靴下が最初に見えて、次に見えるのは白い足だけのはずだったが、そうではなかった。
 直方体に近い形の、灰色の機械。伸縮可能なアンテナが取り付けられた、小型の無線機が右足にくくりつけられていた。
「詳しい事はわからないけど、無線の傍受と解析ができれば、それを使って連絡を入れることはできたんだよね」
「そう、ですね。あの人ならもっとスマートにやったでしょうけど、解析が終わるまで三日もかかりました」
 無線の情報は、基本的に受信機の周波数を合わせれば誰でも傍受することができる。問題は、その情報が暗号化されていることだ。
 それを解析するのは電波法に抵触する行為なので本来ならばやってはいけないことなのだが、『サースター』の外部の人間である和沙が連絡を入れるためには、仕方なかったのだろう。
「ひとつだけわからないのは、その動機かな」
 たのかは優しく微笑んだ。
「二年前」
 その促しに答えて、和沙は語り始める。
「私は確かに、声を失いました」





















 二年前。高校に入学が決まって、ほっとしていた時期、三月でした。
 町内で開かれたデュエルモンスターズの大会に出場した私は、驚くほど順調に決勝まで勝ち進みました。
 カードから声が聞こえる。次に打つべき手を、カードが教えてくれたのです。あの人はそんなことあるはずがないと笑ったけど、確かにその時、私には聞こえていたんです。
 決勝でも、私は勝ちました。決してスタンダードに強力とは言えないデッキですが、私にはそれで勝つだけの運がありました。
 その直後です。突然苦しくなって、私は倒れました。あの人が駆け寄ってきたところまでは覚えていますが、その時のことはそれ以上わかりません。

 次に目が覚めたのは真っ白な病室でした。真っ暗な外では雨が降っていました。時計の針が、ちょうど日付が変わる頃の時間を指していました。
 あの人は、ずっと私についていてくれたのでしょう。私が目覚めたとき、とても心配してくれていました。
 私は大丈夫だと答えようとしました。そこで、私は自分が声を失ったことに気付いたのです。
 信じられませんでした。信じたくありませんでした。何度も何度も、声を出そうとしました。
 結局、出てきたのは空気の塊ばかり。無理をするなと言って、私を抱きしめてくれたあの人の温もりの中で、泣きました。泣いても泣いても、声は出ませんでした。

 気晴らしにデュエルでもしようと、あの人は誘ってくれました。できませんでした。
 カードの声が聞こえなくて、デッキが全然回らなくて、自分からカードが離れて行ってしまったように思えたのです。
 それから、デッキを見ることも嫌になりました。あの人がそれを持って部屋に入ってきた時は、みっともなく取り乱して、あの人を困らせてしまいました。
 カードの声が聞こえない。それを、あの人は真剣に聞いてくれました。また聞こえるようになるまで、デッキを預からせてくれと、頼まれました。
 それは気休めに過ぎなかったかもしれません。お医者様でさえさじを投げたこの声の出ない病気が、いつか治るという儚い望みでした。
 それでも私は信じました。いつかまた、私に声が戻ってきて、あの人と笑い合える日が来ると。

 地獄のような日々でした。想像していた以上に、辛くてたまらない日々でした。
 何も話さない。リアクションとして声を発してくれない、壁と同じただそこにあるだけの存在に、構ってやろうなんて人はいませんでした。
 あの人も大学に進んで下宿して、ほとんど会う機会がなくなりました。それから一年くらいして、信じられない知らせが届きました。
『海馬コーポレーションに就職する。太平洋のど真ん中に行くことになった』
 何もかもが私から離れていく。たのかに出会うまでの間、本当に恐ろしかった。
 それでも私を支えてくれたのは、一枚の写真です。純粋に、それが幸せであると気付かないままに、あの人と笑っていた頃の私。その幸せな時間を、取り戻したいと願ったのは、いけないことでしょうか。

 たのかと出会って、一ヶ月ほどした頃、突然、私に声が戻りました。
 何かが私の背中を押してくれていたのです。だから、私はTになりました。
 真実(Truth)のT、  終   焉  (Termination)のT、そして、あの人と同じ、館柳のT。
 全部、一人で背負うつもりだったのに、いざ昨日になってみると、あの人は聖域に来ていました。
 あろうことか、私がTとして接触していた『サースター』の一員として。





















「私に話せるのは、ここまでです」
 Tと名乗った少女は静かに話し終えた。周囲の憐憫のこもった視線が、彼女の口をもう一度動かそうとした。
 それを、探偵少女が遮る。
「よし、これで謎は解けた! 事件解決! かいさーん!
 ほらほら、早く行った行った。この体育館、十時までしか貸してもらえないんだから」
 時計を見ると、時刻は九時半。昨日のうちに聖域に関する機材の片付けは終了しているから、ここに用のある人間はいない。
 和沙がTだとわかったところで、『サースター』の残された幹部にも和沙を咎める理由はなかった。元々、レグナ計画を潰すという点では藍川達と思惑は一致していたのだ。
 レグナの存在について、外部に漏れないように釘を刺してはおいたが、そちらの情報の封鎖に関しても昨日のうちに同意を済ませてある。
「お前はどうするんだ」
「私はちょっと、用があってね」
 調理師の青年はそれだけで納得してくれた。深く追究しないでくれるのはありがたいことだと、探偵少女は思った。
 「帰るぞー」という大音の号令によって、集まった少年少女達が体育館を出ていく。『サースター』の面々も、藍川が退去させてくれた。もっとも、彼女たちにはまだ後始末が残っているからだろうが。
 そして、たのかと和沙だけが、そこに残された。
「たのか……」
 もう一度スカートの裾を掴んで、今度は左足を見せようとする和沙を、抱きしめることで制する。
「カズサは、左足には何も持ってないの」
 静かに諭すような声。和沙は、右足に無線機を持っていた。そして、LEGNA計画を終わらせるための道具を、もう一つ持っていたのだが、たのかはそれを存在しないものとして扱おうとしている。
「こういう時、名探偵は自首を勧めるものなんですか?」
 たのかは、和沙の顔をまっすぐに見てから、首を横に振った。
「ポワロはね、列車に乗った犯人を全員無罪放免にしちゃったの」
 彼女のお気に入りの本に出てくる探偵の話だ。
「今の法律から考えたら、それはいけないことなんだろうけど」
 法というものは、犯罪者を例外なく罰する。そこにどんな事情があろうと、裁判で情状酌量されるだけで、刑罰を免れることは基本的にできない。
「でもね、それが一番の重たい罰なんだ。犯人の心の中には、誰にも言えないその罪が一生残り続けるんだから」
 列車の中の犯人達は、とても重たい罪を犯した。だけれど、被害者が救いようのない悪人だったから、ポワロはそれを見逃した。
 これは、たのかがこれからする行為、見逃すことの正当化でもある。
「カズサは、使ってないんでしょ」
 和沙は黙ってうなずいた。
 たのかはもう一度、友達を強く抱きしめて、互いに言い聞かせるように言った。
「だったら、カズサは左足に何も持ってないの。良い?」
「……はい」
 誰にも言えない罪を抱えて、押しつぶされそうになっていたのかもしれない。名探偵以外の誰にも知られることなく、声を上げることなく、真実を知る者は涙を流した。

























 白い病室のベッドの上で、館柳 信哉は暇を持て余していた。
 昨日はいろいろとひどい目にあった。二ヶ月のうちに二回も同じ病院に入院するなんて、よっぽど薬品の匂いか治療が好きなんだろうか。冗談じゃない。そんな特殊な嗜好に目覚めた覚えはない。
 病院には信哉が普段いじりまわしているような電子機器を持ち込むことができない。
 加えて、昨日は鳩尾にキツい一発を食らって気絶して、そのまま入院させられていたのだから、暇つぶしの道具などなかった。
 仕方なく、荷物の中に入っていた本をパラパラとめくる。語られることのない英雄譚。実に退屈な話だ。
 活字は頭の中に入ってこなかった。思考の網をめぐるのは、和沙のことばかり。
 結局、和沙の声を取り戻すという誓いを果たすことはできなかった。

 思えば、いろんなことをしてきたと思う。『精霊抜き』の正体を突き止めるために、地下デュエリスト狩りなんてマネもした。
 流暢な音声再生技術を完成させるために、『ゴースト』も作った。
 結局、それはLEGNA計画を潰すために利用されるだけで終わってしまった。
 あんなもので、和沙の声が戻ってくることはないのだと、最初からわかっていたのに。
(だから、亡霊(ゴースト)なんて名前つけちまったんだろうな)
 読むともなしに活字を眺めて、ページをめくる。ドアをノックする音が聞こえた。
 検査の時間にはまだ早いようだが、とりあえず気の抜けた返事を返しておく。
「どうぞ」
 ドアが開かれて、待っていた人が入っていた。










 体育館の前でたのかと別れて、和沙は病院にやってきた。
 病室の前で深く呼吸して、ドアをノックする。気の抜けた声で「どうぞ」と聞こえてきた。
 ベッドの中で上体だけを起こして、彼は退屈そうに読んでいた本を閉じた。
「よぉ」
 和沙は何も言わずにベッドの傍らの椅子に、昨晩中そうしていたように座った。
 用の無くなったホワイトボードを取り出して、そこに最後の言葉を書き込んでいく。
『言わなきゃいけないことがあります』
「おう? なんだ?」
 信哉は、昨日、聖域で見たのとはまるで別人だった。きっと、彼もまた気を張っていたのだろう。体調は悪くなさそうだった。
 和沙が真面目な顔をしていることに気付いたのか、座ったまま背筋を伸ばして上半身の向きを変える。
「声、戻りました」
「そっか」
 とてもあっさりした会話だった。和沙は拍子抜けした。
「……もうちょっと驚いたりしないんですか?」
「いや、だってなぁ……」
 もう少し驚いてくれても良かったのに。少し悲しい気分になっていたのが顔に表れていたのかもしれない。信哉は真面目な顔になった。
「呼吸の仕方で、すぐにわかったよ」
 聖域で二回目に会った時、あの部屋には人の声以外の雑音がなかった。和沙の呼吸の音が、聞こえたのだという。声の出せなかった頃とは、微妙に呼吸の仕方が変わっていたらしい。
「けど、それでふん切りがついた。あの時お前が来てくれなかったら、計画潰すの躊躇っちまってただろうな」
 信哉は窓の外を眺めて、目を細めた。冬の朝日は空を蒼く照らし、雲一つなく無限に広がっていく。
 和沙は、胸が詰まった。
『どれだけ薄汚れてもかまわない。取り戻したいものがある』
 やっぱり、あの時の信哉は、和沙の声を取り戻すために何でもしようと決意していたのだ。
 離れてしまったように見えた手は、ずっとつながれていたのだ。
「私も、一芝居打つって合図してくれなかったら、取り返しのつかないことをしてたかもしれません」
 たのかには誰にも言わないように念を押されたけれど、この人にだけは話しておきたい。
 左足にくくりつけた、携行してはいけないものを見せる。信哉はため息をついた。
「ちゃんと親父の部屋に戻しとけよ」
「はい」
 和沙も、何としてでも取り戻したいものがあった。それは、今目の前にいる優しい人と、一緒に笑える時間。
 LEGNA計画がある限り、自分の声が戻ったことを伝えても、この人は計画を憎み続けてくれたはずだから。
 だから、この人から眩しい笑顔を奪う計画を、潰そうとした。刃で突き刺して、悪党の返り血でその幕を下ろそうとした。
 だけど、そうはならなかった。
『よく見とけよ』
 そう言った信哉の右手には、赤黒い液体を包んだセロハンのような薄い膜が握られていた。後ろ向きに、和沙以外には見えないようにして、「これから一芝居打つ」と言ったのだ。
 信哉が少年の頭を掴んだ手は左手だった。デュエルディスクをつけて重たいはずの左手でわざわざそうしたのは、右手に衝撃を加えると破れてしまうものを持っていたからだ。
「泣く演技は、大変だったんですよ?」
 信哉が倒れた時、泣き崩れる演技が一番大変だった。信哉のように演技のための小道具は持っていなかったから、何とかして涙を流さなければならなかった。
 空気の塊を飲んだふりをして、何度か欠伸をしたりして頑張ったのだ。
「そいつぁ苦労かけたな。っと、そォだ」
 突然、信哉の声が低くなった。
「お前、あン時ガチで殴ったろ」
 日生 彰が博士を倒して、和沙と信哉との会話の最後。確かに、和沙は信哉の鳩尾にキツい一撃をくれてやった。
「当たり前です。どれだけ人に心配かけたと思ってるんですか」
 信哉が藍川達を裏切って聖域に残ったと知った時は、本気で心配した。
「そりゃ悪かったけどさ。あン時は幸介の特製タバスコエキスのせいで大変だったんだ。おもに口の中が。
 もうちょっと優しく殴ってくれても良かったんじゃないか?」
 どうやら、あんまり反省はしていないらしい。
 本当は、それだけではなかったくせに。本当は怖くて仕方なかった癖に。手が震えていたのに。
 そして、認識の歪曲で周囲からの認識――信哉が血を吐いたという認識――は少なからず信哉の体に影響を与えていたに違いないのだ。
 だから、信哉はこうして入院している。昨日は、殴っただけで気を失うくらいに無理をしていたのだ。
「兄さんなんか、タバスコになっちゃえ!」
「いてっ」
 とりあえずチョップを決めておく。本気ではなく、八分くらいの力で。
「このくらいですか?」
「いや、これも結構いてぇよ……」
 やがてどちらからともなく兄妹は笑い始め、幸せな時間が戻ってきたことを実感した。

















 和沙と別れた後、たのかは体育館の駐車場に来ていた。
 大音のGT−Rはすでに出発してしまっていて、あとに残されたのは買い出し用のワゴン車だ。
 乗り込むと、運転席には調理服の青年、幸介が座っていた。どうせ帰ってから別の厨房用の調理服に着替えるのに、なぜ外出時もそのままの服装なのかは多くの人にとって謎である。
 澄まし顔でエンジンをかけ始める幸介に向かって、たのかはむすっとした表情で文句を垂れておいた。
「最初から全部知ってたでしょ」
「何の話だ」
 幸介は表情一つ変えずにアクセルを踏んだ。重たいワゴン車がゆっくりと動き出した。
 あまりにもしれっと言うものだから、たのかは声を荒げた。
「シンヤくんのこと! 最初から、シンヤくんがレグナ計画をつぶすつもりだったって、知ってたんでしょ」
「さあな」
 やはり、返ってくるのは気のない返事。横顔を覗き込んでも、眉ひとつ動く気配はなかった。
 たのかは吼える直前の犬のようにぐるぐると喉を鳴らして、それからそっぽを向いた。
「コウスケくんが教えてくれないなら、後でシンヤくんを尋問するだけだもんね」
 それを聞いてようやく、幸介の表情が崩れた。深いため息が聞こえた。
「くだらないことで奴の時間を奪ってやるな。長い闇の呪縛からようやく解き放たれたんだ」
「じゃあ洗いざらい吐いてもらおうか!」
 調理師は元のポーカーフェイスに戻った。
「買い出しが終わってからだ」
「あれ? これから買い出し?」
「ああ、タバスコを切らしていてな」
 帰ったら忙しくなると、たのかは思った。



2:新たな決意と迷い


 いつか、必ず倒す。
 デュエルアカデミアに戻る船の中で、潮風に黒いコートをなびかせながら、三田 篤義はそう決意した。
 聖域で戦ったあのデュエリストは、間違いなくあの時のウィジャ盤使いと同じだった。使い手そのものは違っても、まとっている空気が同じだったのだ。
 あの時と同じ、圧倒的なカード捌きで、ウィジャ盤に対する除去をことごとくかわされ、5枚のカードを場に揃えられて、敗北した。
 だが、今はそれで良い。三田にとって納得がいかなかったのは、あの時に勝者が情けなく倒れたことだったからだ。
 今回倒れたのは、敗北した三田本人だった。敗者が地面を舐めるのは、当然の結果であり、勝負の世界の掟だ。
 そして、敗北の辛酸を舐めた三田は、決意した。
 いつか、必ず倒す、と。















 体育館でTに関する推理を聞いた後。早乙女 レイは、体育館の前で他の面々と別れることになった。
 家は徒歩でさほど時間がかからないほど、この近くにある。彰、十海、一音、剣山の四人は大音の車に乗ることが決定していた。(剣山はなぜだかえらく怯えていたが)
「彰、覚えてない? 一音のこと」
「え? えっと……」
「おぼえてない?」
 剣山がガタガタ震える傍らでは、彰が十海と一音に囲まれて困っていた。
「ほっほーう。彰君はモテモテだね」
「い、いや、そんなんじゃ……」
 とりあえず、また一つ面白いことが増えた。他人の恋路ほど見ていて楽しいものはない。三角関係ともなれば尚更だ。
 困っている彰をひとしきりからかったあと、今度は十海に耳打ちした。
「強敵出現、だね。彰君を取られないように、がんばってね?」
「え、あ、あの……っ」
 色々な含みを持たせた「がんばってね」で真赤になってうつむく十海を見て、満足した。
「それじゃ、またね!」
 手を振って一時の別れを惜しんで、家路へ。これから、あまり長くはない冬休みだ。
 それが終わったら、またアカデミアで楽しい毎日が始まるんだろう。
 それまで、何をしようか。そうだ。十代に手紙を書こう。どこにいるのかわからないけれど、きっとどこかで、楽しくデュエルしているはずだ。
 書き出しは何にしよう。拝啓 十代様。とかでは堅いだろうか。便箋はどうしよう。可愛い柄のものが良い。国際郵便は封筒が決まっているんだっけ。
 いろんなことを考えながら歩く家路は、希望に続いていく明るい道だ。

















 大音のGT−Rはどう考えても道路交通法違反な速さで目を回した剣山を駅で降ろしてから、山奥の屋敷――『セイバー』の本部――に向かってオフロードをものすごい速さで登り始めた。
「ほんとは、お前達には『セイバー』だの『サースター』だのって話は知られたくなかったんだけどな」
 鍛え上げられたハンドル捌きで凸凹道をすいすい進みながら、大音は静かに話し始めた。
 他人には見えないものが見えたり、人と異なるそれと意思の疎通を行ったりできる不思議な力の持ち主にとっては、その力を狙われることは避けて通れないものだ。それで命を落とした仲間さえいる。
 血は繋がっていなくとも、彰や十海は大音にとって大事な我が子同然だし、一音は姪だ。そんな危険で、人の欲望が渦巻く汚い世界を見せたくはなかった。
 だから、彰や十海と、『セイバー』の屋敷とは違う家で一緒に過ごすことにしたのだ。
「だけど、母さんは俺達を信じてくれたじゃないか」
『真のデュエリストは、最後まで諦めずに戦い抜かなきゃならねぇ。いいか、絶対にだ!』
 彰達が聖域に向かう前に送った言葉を思い出す。昔に闘ったあるデュエリストの受け売りなのだが、その言葉には大音自身も強く支えられてきた。
 そして、危険な世界に赴くことを知って尚、それを止めずにこの言葉を送ったのは、彰や十海を信じているからでもあった。
「そりゃ、そうさ」
 彰に言われた言葉が少し照れくさくて、だけど笑って答える。
「親が子供を信じてやらなくて、誰が信じるんだよ」
 車は最後の急カーブに差し掛かった。さあ、ここからが腕の見せ所だ。

















「本当に、一人で行くの?」
 駅へ向かう車の中で、後部座席の土井が聞いてきた。藍川は迷わずに答えた。
「ああ。経費もバカにならないだろう。明朝には発つ」
「アイちゃんもホンマに仕事しーやなぁ。俺にゃあ、マネでけへんわ」
 運転席で添田が関心したのか呆れたのかわからない口調で言った。昨日の後始末で色々と疲れているのだろう。深いため息も彼の口から一緒に出てきた。
「お前達にも念のためあの男を探してもらわないといけない。まだ仕事は終わっていないぞ」
「それやんなぁ……」
 釘を刺すと、もっと深いため息が出てきた。「若いのにそんなため息ばっかりつかないの」と土井に諭されていた。ひとまず決着したとは言え、まだある一人の男の姿が見つかっていない。
 『サースター』の幹部の一人で、博士の懐刀だった男。鯉岸だ。
 聖域から戻ってきたのは、瀧口 一音、館柳 信哉、早乙女 レイと彼女らを連れ戻しに行った面々、それから、人間としての生気をすっかり失った博士だった。最も危険な男、鯉岸がいなかったのである。
 聖域という世界があの後どうなったのか、藍川達にはわからない。昨晩、添田を付き合わせてもう一度ゲートを使ってみたのだが、聖域に行くことはできなかった。
 それはつまり、聖域と言う世界が維持を失って崩壊した、ということなのだろうか。崩壊した聖域にとどまった人間がどうなるのかはわからない。つまり、博士には色々と喋ってもらう必要がある。病院にあの老人を押し込んだは良い物の、彼がまたまともに話せる状態になるかどうかだけが心配だった。
 また、LEGNAの被験者は大会の参加者で全て集めることができたわけではない。
 やむを得ない事情で大会に出場することが現実的に不可能な人物や、招待状を送っても参加しなかった人物もいる。
 『精霊抜き』の構造を更に改良して、彼らから安全に且つ隠密に計画の痕跡を抹消しなければならない。
「ところで」
 添田がハンドルを切って前を見ながら、呆れた声を出した。
「なんで、ほぼ同時に出発した瀧口 大音の車がもう見えなくなってるん?」
 総合体育館から駅までは車で十五分ほどかかる。大音の車と『サースター』の車が出発したのはほぼ同時。
 そして、その十五分のうち半分くらいしか経過していないのだが、前方に大音の車はもう見えない。
「瀧口 大音だからな」
 藍川は率直に答えた。
「それだけでいろんなことが説明できそうね」
「瀧口 大音だからな」
 大事なことなので二回言っておいた。本当に、それだけで説明できるほど不思議な力の持ち主だ。
 十数年前に初めて会った時はここまで長い縁になるとは思わなかったのだが、と回想する。
 窓の外には爽やかな朝の光が満ちている。思い出に浸れる時間は短いが、光の道は、まだ長い。



















 日はすでに高く昇り、窓から暖かな光が差し込んでくる時間になった。
 その眩しさに、一音はゆっくりと目を開く。もう二時間近く眠っていたらしい。
 あれから、山奥の屋敷に三人を送り届けた大音はすぐに仕事に出かけてしまった。今日は月曜日だから、たのかが招集をかけなければもっと早くに出かけていたのかもしれない。
 それからは三人で昼食をとったり、デュエルアカデミアという場所であった話を聞いたりしていた。それで久しぶりに興奮したせいか、少し疲れたので、部屋に戻って眠ることにした。
 伸びをして、全身に血液をいきわたらせる。目覚めというものがこれほどまでに心地よいものだとは思わなかった。
 部屋を出て階下のリビングを見下ろすと、すでに彰も十海も部屋に引き上げてしまったようだった。
 一音は、ずっと一人の少年が気になっていた。昨日の赤い上着姿とは違って、今日は緑のトレーナーを着ている。
 昨日からそうだが、彼は時折うわの空になって、十海や大音に話しかけられても反応が遅れることがある。
 自分のことを覚えていないか、しつこく聞いたせいだろうか。それとも、他に何か悩みでもあるのだろうか。
 話の途中で黙って何かを考え込んでしまうこともあった。やっぱり、思い出せないんだろう。
 だから、あの日と同じことをしようと思った。彰に割り当てられた部屋のドアをノックする。返事を待たずに、中に入った。
「あきら」
「え……? あ、ちょっと!」
 必要なものを二つ鞄に詰めて、彰の手を掴んで、屋敷を飛び出す。土砂がむき出しになった坂を駆け下りて、あの日まで住んでいた場所を目指した。後ろで彰が何か言おうとしているが、それは許さない。許さないほどの速さで走る。
 山の麓から伸びる秘密の抜け道を通って、あの日そうしたように、家の前まで走る。すっかり焼け落ちて、その後も誰も寄り付かなかったのか、焦げた骨格だけ残された家の前まで。
 息が切れた。それは、長い距離を走り続けたからだけではないような気がした。
 つなぐその手は、あの日よりずっと大きくて、逞しかった。
「い、一音……?」
「少しは、思い出した?」
 冬の冷たい空気が心地良い。澄んだ空と流れる雲の穏やかさとは正反対に、心臓は速く鼓動している。
 同じように息を切らせていた彰に振り向く。彰が抱えていたであろう迷いの中にも、譲れない何かがあるのだろうとは思っていた。まっすぐに自分を見つめてくるその目を見て、その推測は確信に変わった。
「どうして、十海に黙ってこんなところまで来たんだ」
「やっぱり、とうみなんだね」
 問いには答えないで、焦げた建物の骨格を見上げ、目を閉じた。輝いた日々が幻のように瞳の奥に蘇る。
 あの日もこうして、十海を置き去りにして彰を引っ張ってきた。そして、彰はやっぱり十海を迎えに行った。
 それから家が炎に包まれて、その中で彰が助けに来てくれて、それから……。
「あ、れ……?」
 後ろで、彰の声が聞こえた。頭を押さえて、焦げた建物の骨格を見上げている。
「ごめんね、あきら」
 一音が持っていたものと同じように、十海が持っていたものと同じように、彰にとっても辛い記憶かもしれない。だけど、どうしても、思い出してほしかった。
 あの日までは、自分がこうして抜けがけ(・・・・)してしまったあの日までは、三人は無邪気に笑っていたのだと。
 ようやく落ち着いた呼吸で深く息を吐いてから、一音はまた山を登る道に引き返した。彰は記憶を呼び覚ます景色を見て全てを思い出そうとしている。
 山奥の屋敷に帰る道を一歩踏み出す。
 あのまま彰を一人占めしていたいとも思ったが、それは許されない。そうしてしまったら、自分で自分を許せない。
「……いい」
 立ち止まって、練習するように。誰にも聞こえないように呟いてから、もう一度その言葉を言う。
「私じゃなくてもいい」
 自分のためだけではなく、誰かのために望むことが、願うことができる。その幸福さと切なさを胸の奥に抱いて、その願いを言った。
「思い出して。あの日のあきらを。あの日からずっと変わらない、あきらの心を」
 聞こえているかどうかも、しっかりと言えているかどうかもわからない。
 だけど、気持ちは届いているはずだ。彰は優しいから、苦しくてもこの声を聞いてくれたはずだ。
 少しずるい自分を笑って、元来た道をまた走り出す。
 今度こそ、決着をつけなければならない。あの日願った、自分の罪と。



















 彰は、何を考えているんだろう。聖域から戻って来てから、何だか様子がおかしい。
 疲れているなら、一晩眠ればいつもの彰に戻っているだろうと思ったが、そうでもなかった。
 彰は、時折どこか遠くを見るような目をする。その横顔を見るたびに、十海は不安になった。
 部屋に戻ってからは、そんなことを考えていた。耐え切れなくなって、彰の部屋に向かった。不安が破裂しそうになった。
 いない。部屋のドアが開いたままになっていて、中はもぬけのから。一音の部屋も同じ。あの日と同じように、自分を置き去りにして、どこかに行ってしまった。
 まさかと思い、玄関口まで行く。靴がない。
 十海の中で、予感がざわめいた。それが良いものなのか悪いものなのかはわからない。
 十海もすぐに靴を履いて、屋敷から飛び出した。土砂にはまだ新しい二人分の足跡が残されている。
 山の麓まで続くそれを、ひたすら追いかけた。
 足跡の途切れた場所で、その主の一人が立ちはだかった。
「一音……」
 走って乱れた呼吸を整えて、黒いガラス玉のような澄んだ目を見る。
 澄んでいて何もない瞳。飲み込まれてしまいそうなほどに深く、無を意識させる。
 あの日、火事の中から奇跡的に助け出された彰が、病室でしていた目と似ていた。

















 手を引かれてたどり着いたのは、焼け落ちて骨格しか残らない建物の前だった。
 それを見上げる少女と、焦げた骨格を見た瞬間に、頭の中に何か鈍い痛みが走った。
「ごめんね、あきら」
 振り向きながら言う少女の言葉に、返事をすることもできない。何かが強烈に、頭の中にあるものを呼び覚まそうとする。
 つないだ手の感触。焦げくさい匂い。黒いガラス玉のような澄み切った瞳。やがて、瞼の裏に揺らめく炎の影が見えて、頭痛はより激しくなった。
『ふむ、ふむ。いや、いや。それで良いのだよ。思い出せなくて当然なのだ。そこには元々、何もなかったのだから』
 八年前に、彰は火事にあった。そう聞かされていた。
 そして、十海と一緒に大音に引き取られて、それから今に至る。
 だけど、火事の前は? どうして、何も思い出せない?
 一音という少女は、十海も知っているらしかった。火事の日以来、八年間眠り続けていたという話を聞いた。
 そして、彰も当然知っているべき存在として扱われていた。彰の記憶の中には、そんな人物はいないはずだった。何度思い出そうとしてもその名前すら、忘却の彼方にあった。
 本当に、空虚で何もなかったのか? 自分の中の炎が、ひとつ大きく鼓動した。
 思考が赤い揺らめきにかき消されていく。意識が飲み込まれて、無の闇が訪れる。
 何一つ答えが出ないまま、視界は暗闇に閉ざされ、世界から音が消えた。

「思い出して。あの日のあきらを。あの日からずっと変わらない、あきらの心を」
 最後に聞いたのは一音の声。そのあとは、自分の胸の中の、炎の怪物が鼓動する音だけが、聞こえていた。



3:精霊


 ジリジリと頭の中を何かが焦がしていくような感覚。
 自分が目を開けているのかどうかもわからない暗闇。
 風はなく、空もなく、自分が足をつけているはずの大地さえ不確かな世界だった。全てが暗黒の中に飲み込まれて、何も見えない。
 一音に連れられて、焦げ付いた建物の残骸を見て、ひどい頭痛がして、気がついたらここに来ていた。
 と言っても彰にはここがどこだかわからない。どうやって来たのかさえわからない。
 博士と戦った時に見た、絶望の闇に似ていた。この世界のどこかにも、あの時のような希望の光があるのだろうか。
 背中が熱い。火であぶられているようで、たまらなく熱い。前に一歩進むと、少し楽になる。そうして進み続ければ、きっと元の世界に戻れるだろうと、漠然と思った。
 だけど、それはできなかった。一度生まれた疑念は簡単には消えない。自分の後ろには、今何がある?
 ゆっくりと振り返る。眩しい、目を灼く炎が燃え盛っている。その先に、何がある?
 手を伸ばして、それを掴む。耳を劈く轟音。途端に、光は爆ぜて、強い力で彰を押し戻そうとした。
 踏ん張った。諦めてはいけない気がした。目を開けていられない爆風の中で、その手に掴んだものは離さなかった。
「……なん、だ?」
 やがて暴風は収まり、世界に再びの静寂が訪れる。彰は、自分の右手が掴んでいたものを見て、しかしそれがそこにいることが信じられなかった。
 黒いガラス玉のような目。透明で、空虚で、何もない目の少年。四歳か五歳くらいだろう。彰が握っていたのは、その少年の未発達な手だった。
 彰は、その少年のことを知っていた。あまりにも知りすぎていた。知りすぎていたし、知らなさすぎた。
「……俺?」
 昔の自分だった。ちょうど、五歳くらいの。
 何が何だかわからないうちに、あの時の自分が口を開く。
「引き返せ」
 抑揚のない、感情のない声。光ない瞳に睨まれて、呼吸が止まるかと思った。
『空虚で何もなく、人知を超えた存在――精霊――を宿すにはうってつけだった』
『思い出せなくて当然なのだ。そこには元々、何もなかったのだから』
『本来の君は空虚で、何もないただの器だよ』
 老いた博士の言葉が蘇る。この、何もない少年が、本来の自分だと言うのか。
 だとしたら、今まで感じてきたことは一体何だったのか。
『その感情さえもLEGNAによるものだ』
 何もかも、LEGNAによって作られた紛い物に過ぎないのか。
「それ以上考えるな。引き返せ」
 空っぽの少年が放った魂のない声が、余計にそれを痛感させる。嫌な感覚だ。苦しい。頭がまた痛くなった。
 体の内側から嫌な熱が噴き出た。心臓から手先、足先へ。頭のてっぺんまでまんべんなく一瞬で満たして、思考を侵食していく。
「う、ああ……ッ」
 熱に蝕まれて、それでも何かを考えようとしてしまうから余計に熱くなる。不快な熱の悪循環が思考の自由さえも奪う。
 空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。
 光るメガネの奥から覗く恐ろしい老人の瞳が放つ言葉が回る。一度成長を始めた疑念は瞬く間に膨れ上がって、噴き出る熱の悪循環を加速させる。
 額から滴り、顔をなぞってアゴの先から落ちる嫌な雫をぬぐうことさえ、できない。そうしろと脳が命ずることさえままならない。
 ただ立っているだけで精一杯。視界が緑の(もや)に包まれて、けれども頭の中に直接突き付けられる、幼い自分の光ない瞳。
 引き返せ。
 息が苦しい。頭が痛い。手足がしびれる。目の前の靄が濃くなって、徐々に暗転していく。
 空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚で何もない。人知を超えた存在。精霊。思い出せなくて当然。そこには元々、何もなかった。本来は空虚で何もないただの器。その感情さえもLEGNAによるものだ。引き返せ。空虚。人知。精霊。当然。器。感情。LEGNA。引空人精当器感L。
「あああああああああああああああああああああああああ!」











 思い切り叫んで、その場に座り込んだ。
「もう! わけわかんねえ!」
 そうすることで、少しだけ痛みと熱が和らいだような気がした。
 頭の中を圧迫していたものを全部吐き出して、整理しよう。
「まず、今目の前に、あの時の俺がいる」
 この際、その目に光がないとか空虚とか何もないとか言うことは置いておく。まずは一つずつ、事実を確認していこう。
「あの時って何だ? やっぱり、八年前の火事の時か?」
 だいたい八年前だとして良いだろう。と結論づける。目の前にいる少年は、四歳か五歳くらいだ。
 それから、八年前の火事について考え始める。
「俺は、八年前に火事に遭って両親を亡くした……らしい」
 彰はそれを覚えていない。情報として知らされただけで、そのものを記憶しているわけではない。
 八年前の火事。それについては、誰に聞いたのか。大音だろうか。
 真っ白い部屋の中で、自分のことを悲しそうに見ている女の子がいて、それがなぜだかわからなくて……。たぶん、その時に聞いたんだと思う。
 それから、火事の話は禁忌になった。どんなことがあっても持ち出してはいけないから、記憶の奥底に閉じ込めた。
 その話を聞いたことは覚えている。だけど、肝心の燃え盛る炎の記憶が曖昧だ。
 真赤に染められた建物を見上げて、掴まれた手を振り切った。そこから先を全く思い出せない。
 記憶の中でそこだけが空虚に、何もない。
『空虚で何もなく、人知を超えた存在――精霊――を宿すにはうってつけだった』
 また本来の自分がどうなのかわからなくなりそうだった。一つ深く呼吸して振り払う。今考えるのはそこじゃない。
 精霊。十海にはそれが見える。だけど、彰には見えない。
 宿す、ということは、精霊というものが何らかの方法で人に宿るという性質を持っているということだ。
 そして、決定的なのは「うってつけ『だった』」という過去形。
 これらから総合して考えると、
「……俺の中に、精霊が、いる?」
 それを言った瞬間に、目の前の少年がグラリと歪んだ。胸の奥で、熱い何かが鼓動した。
「ひょっとして、お前は精霊なのか?」
 少年は、首を縦に振ってそれを肯定した。
「引き返せ。俺の正体がわかればもう充分だろう」
「なんか引っかかるなぁ……」
 幼いコドモの姿の自分に諭される状況もそうだが、その精霊とやらが「引き返せ」と言う理由がわからない。
「お前の後ろに、何かあるのか?」
 引き返せ、とは、どこからかやってきた相手に対して言う言葉だ。それ以上先に進ませたくない時に使う。
「お前はなぜ、俺の後ろを気にする?」
「なぜって、気になるじゃないか」
 どうもこの精霊とやらは、自分の後ろにあるものをとことんまで隠したいらしい。
 勝手の人の姿を借りておきながら、自分の秘密は明かせないときた。
 こうなったら、意地でもその後ろにあるものを見てやると思った。
「俺の後ろにあるものは、お前の後ろにあるものだ」
「……うん?」
 今度はよくわからないことを言い始めた。首だけ振り返って、後ろを確認する。
 やっぱり真っ暗で、何もない。というか、そちらが後ろなのかどうかもわからない。
 彰は今座っているが、自分が向きを変えれば、後ろという言葉が指す方向も変わる。
「後ろって、どっちだ?」
「お前の後ろは空間的な後ろではない。過去だ」
 時間は常に一方通行だ。ひょっとしたらそうでない世界もあるのかもしれないが、彰が今までに生きてきた中では少なくともそうだった。
「じゃあ、俺が見たっていいじゃないか」
 自分の過去を見るな、とはどういう了見だろうか。理不尽な精霊に文句を垂れて、同時にここがどんな世界なのかある程度わかってきた。要するに、彰の中の世界だ。だから、過去も記憶されているし、何の因果か知らないが宿されたらしい精霊もいる。
 この世界のことはなんとなくわかってきたが、目の前にいる精霊の態度は釈然としなかった。
「お前は振り返るべきではない。どこまで戻っても、なくしたものは拾えない」
「それってつまり、見るなってことか」
 やっぱり納得がいかない。
「……なぜだ。なぜ、お前は今になって過去を知ろうとする?」
「知っておきたいんだよ。昔の……本来の俺が、どんなだったのか。俺の感情が、本当に俺のものなのか、どうか……」
 そうでなかった時のことを考えると恐ろしい。けれど、そうでない可能性を知ってしまった。
 彰は、それをそのままにしておけるような性格ではなかった。
「それがお前の全てを壊すとしてもか」
「……ああ。だけど、まだそうと決まったわけじゃない。まだ、何もわからないんだ」
 わからないから、確かめる。それはごく自然なことだ。
 自分がわからないまま、わからない自分を引きずって生きていくのは嫌だ。
「まっすぐなお前を振り向かせないことなど、たやすかった」
 目の前にいる昔の彰の姿をした精霊が、左手を掲げ、デュエルディスクを構える。彰の左手にも、それが装着されていた。
「その覚悟があるなら、今ここで示せ」
「デュエルだな! いいぜ! やってやる!」
 彰はたいして疑問も抱かずに承諾した。相手が精霊であろうと何であろうと、戦いを挑まれたら逃げるわけにはいかない。ここで逃げたら、自分の過去と向き合う資格などないということだ。


 暗闇の中で、二つの炎が向き合う。先攻は、成長した後の彰だ。
「俺の先攻、ドロー! UFOタートルを召喚。カードを2枚セットしてターンエンドだ!」
 いつものように機械仕掛けの亀が真っ先にフィールドに出る。リクルーターで後続を呼び、そこから攻めていく戦術だ。
 幼い彰が、自分のターンを始める前に口を開いた。
「何故だ?」
 人間とは違う存在なのか、感情を声の抑揚や表情から読み取ることはできない。
「何故、そんなに簡単に俺と戦える?」
「なぜ、って言われてもなぁ……」
 彰は返答に困った。彰にとってはそうすることが当たり前なのだ。
 相手がたとえ自分であろうとも、戦いから逃げることはできないし、したくない。
「今までも何人かの人間と同じようにして(まみ)えたが、そいつらは皆、俺を拒絶した」
 その言葉を聞いて初めて、彰にはわかった。目の前にいる幼い自分の姿をした精霊にも、感情はあるのだと。
 今この言葉に込められている感情は、戸惑いだ。
「そりゃ、最初見た時はビビッたけどさ……」
 かつての自分と全く同じ姿の子供が、光ない瞳で自分を見つめる。その光景は精神的に負荷を強いるものである。彰も、さっきは混乱してしまった。
「でも、お前がたとえ俺の姿をしていても、お前は俺じゃないんだろ?」
「何……?」
「あ、ああ……うまく、言えないんだけど、俺達はこうやって面と向かって話せるし、デュエルだってできる。だったら、それを拒む理由はないだろ?」
 まっすぐに、今度は彰が幼い自分の目を見つめた。光ない瞳が、小さく揺らいだように見えた。
 何も言わずに、精霊は自分のターンを始める。
「フィールド魔法バーニングブラッドを発動する。そして、フレムベル・ヘルドッグを召喚」
 暗闇のデュエルフィールドに赤々と燃え盛る火山の姿が現れる。その溶岩の中から、煉獄の火炎をまとった犬の怪物が姿を現し、高く遠く吼えた。
 大地を揺るがす咆哮。しかし、それに気圧されてしまう彰ではなかった。
「カウンター罠爆炎結界! デッキから3体の炎属性モンスターを墓地に送り、業火の結界像を守備表示で特殊召喚! カードを1枚ドローする!」
 バトルフェイズ。ヘルドッグが機械仕掛けの亀に飛びかかり、難なく破壊して彰にダメージを与える。
「UFOタートルの効果発動! デッキからプロミネンス・ドラゴンを特殊召喚する!」
「フレムベル・ヘルドッグの効果発動。デッキから逆巻く炎の精霊を特殊召喚する」
 互いのリクルーターの効果が発動し、新たなモンスターが現れる。成長した彰の場には常に彰のデッキの主力として闘ってきた火炎龍が、幼い彰の場には赤い羽根付き帽子を被った少年の姿をした炎の精霊が、それぞれ召喚された。
「逆巻く炎の精霊の自身の効果で相手プレイヤーに直接攻撃する!」
 彰のライフポイントはさらに削られ、炎の精霊がその手に持つ杖から発される紅い揺らめきが大きくなる。
「逆巻く炎の精霊の攻撃力は、直接攻撃に成功するたびに1000ポイントアップする。バーニングブラッドの効果と合わせ、現在の攻撃力は1600だ」
 カードを2枚伏せて、幼い彰のターンは終了した。

日生 彰LP6900
モンスターゾーンプロミネンス・ドラゴン
業火の結界像
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札4枚
デッキ28枚
幼い彰LP8000
モンスターゾーンフレムベル・ヘルドッグ
逆巻く炎の精霊(ATK:1600)
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札2枚
デッキ33枚
フィールドバーニングブラッド

 バーニングブラッドは炎属性のモンスター全てに効果が及ぶ、攻撃力を強化し、守備力を下げるフィールド魔法だ。彰もそれを使っていたし、目の前にいる幼い彰も、デッキのテーマ自体は彰と変わらないようだった。
 UFOタートルが出た時点でそれは推測できるはずだが、それでもあえてこのフィールド魔法を発動させたのは、逆巻く炎の精霊がいたからだろう。相手のモンスターも同じ数値分だけ強化されるフィールド魔法は一見無駄にも見えるが、逆巻く炎の精霊は相手の場にモンスターがいようといまいと直接攻撃することができる。
 その直接攻撃のダメージを可能な限り大きくするための手段の一つだろう。彰にとっても全く違和感のない戦術だ。
「やるな。それじゃあこっちも行くぜ! 俺のターン、ドロー! 真炎の爆発を発動!」
 溶岩から爆ぜて、彰の墓地から2体のモンスターが特殊召喚される。片方は相手の場にいる溶岩の犬と同じで、もう片方はしっぽに小さな炎をともしたキツネだ。
「フレムベル・ヘルドッグで逆巻く炎の精霊を攻撃!」
 逆巻く炎の精霊は場に維持されると非常に厄介なモンスターになる。毎ターン通常攻撃が可能であり、その攻撃が通るごとに攻撃力を1000ポイントも上昇させていくからだ。
 そして当然、相手がその強力なモンスターを守る術を用意していないはずはなかった。
グラヴィティ・バインド−超重力の網−! レベル4以上のモンスターは攻撃できない」
「やっぱりそう来たか! 守りながら闘うならそのカードが一番だからな!
 でも、簡単には守らせないぜ。罠カードリミット・リバース! 超熱血球児を特殊召喚する!」
 逆巻く炎の精霊のレベルは3。グラヴィティ・バインドの効果で攻撃が抑制されないのである。
 しかし、彰はここまで見越して、爆炎結界で墓地に落とすモンスターを決定していた。守備力が200ポイントの2体と、最後の1体は超熱血球児。攻撃力上昇効果がこういった同タイプのデッキ同士のデュエルでは爆発的に大きくなる、彰の主力のうちの1枚だ。
「超熱血球児はフィールド上に存在するこのカード以外の炎属性モンスターの数×1000ポイントアップする!
 今はバーニングブラッドもあるから、超熱血球児の攻撃力は7000。そして、超熱血球児のレベルは3だ!」
 つまり、グラヴィティ・バインドには引っかからない。この攻撃が決まれば、相手の厄介なモンスターを葬り去り、さらに多大なライフ・アドバンテージを得ることができる。
 超熱血球児で攻撃宣言しようとした彰は、グラヴィティ・バインドの隣でリバースされたカードに気付いた。
威嚇する咆哮、か。そう簡単に攻撃はさせてもらえないみたいだな」
「俺は八年間、ずっとお前の中にいた。お前の考えそうなことはだいたいわかるつもりだ」
「八年……か。それじゃあますます負けられなくなったな」
 やっぱり、目の前にいる幼い自分の姿をした精霊は、あの火事と関係があるのかもしれない。
 それが何を隠しているのか、もう彰にはだいたいわかっていた。自分の過去であり、八年前の出来事。そこにいた、彰自身だ。
 場と手札の状況をさっと確認して、気合いを入れ直す。攻撃は防がれてしまったが、彰のコンボはここでは終わらない。
「真炎の爆発で特殊召喚したモンスターは、エンドフェイズにゲームから除外される。だけど、エンドフェイズまでにフィールドから離れれば除外はされない!
 超熱血球児の効果発動! 場の炎属性モンスター1体を墓地に送って、500ポイントのダメージを与える! きつね火を射出!」
 しっぽに小さな火を灯したキツネが火炎球に変わり、超熱血球児のバットがそれを勢いよく放つ。それは直接幼い彰にダメージを与える。次は、キツネと同じく真炎の爆発で特殊召喚されたヘルドッグだ。
「プロミネンス・ドラゴンを召喚。カードを1枚セットして、エンドフェイズにプロミネンス・ドラゴンの効果でダメージを与える!」
 彰の場にはプロミネンス・ドラゴンが2体並んでいる。彰の場と手札を整えるために、今までも何度も助けられてきたロックだ。そして、エンドフェイズのダメージ効果で相手のライフポイントは1000ポイント削られる。
 フィールド上で見れば、炎属性モンスターの数は1体しか減っていない。超熱血球児の攻撃力も6000ポイント残したままだ。このターンに逆巻く炎の精霊の直接攻撃を許しても、まだまだ戦闘破壊する余地はある。
「俺のターン」
 彰の攻撃ロックは1ターンともたなかった。このターンに両方のプロミネンス・ドラゴンが生贄に捧げられてしまったのだ。
溶岩魔神ラヴァ・ゴーレム。このカードの攻撃力は強力だが、グラヴィティ・バインド下では攻撃できない」
 火山から現れた溶岩が火炎龍を飲み込み、意志ある魔神へと姿を変える。目と口らしきものが巨大な溶岩の上部に現れ、その左右から手が伸びる。
 ラヴァ・ゴーレムには、相手フィールド上のモンスター2体をほぼ無条件で除去できる効果と、毎ターンそのコントローラーに1000ポイントのダメージを与える効果がある。攻撃力3000のモンスターを相手に与えることになっても、高レベルモンスターが攻撃できないグラヴィティ・バインド下ではたいしたデメリットにはならない。
 吊るされた檻が彰を閉じ込めて、その後ろから灼熱の視線が睨んだ。
「毎ターン1000のダメージを与えるはずが、逆になっちゃったってことか」
「そういうことだ。戦闘に入るぞ。逆巻く炎の精霊で直接攻撃!」
 逆巻く炎の精霊の杖から火炎がほとばしり、彰に直接ダメージを与える。その攻撃力は膨れ上がり、すでに上級モンスター並のそれになった。
「カードを1枚セット。ターン終了だ」
 腕で爆風から自らをかばって、しかし転んでもただで起き上がる彰ではなかった。
「エンドフェイズに火霊術−「紅」発動! ラヴァ・ゴーレムは有効活用させてもらうぜ!」
「く……ッ」
 彰を睨んでいた溶岩の魔神が巨大な火炎の球へと姿を変え、指示に従って幼い彰へと飛んで、爆ぜる。
 ラヴァ・ゴーレムは炎属性。そして、その中でもトップクラスの攻撃力を持つモンスターだ。元々の攻撃力を参照する火霊術−「紅」とは相性が良い。
 デッキタイプが自分と似ている相手なら、ラヴァ・ゴーレムの採用も違和感がない。自分のフィールドにバーン効果を持つモンスターを並べておけば、彰に比べてややロックバーンに近い相手は間違いなくこのモンスターを飛ばしてくるだろうと思っていた。

日生 彰LP5300
モンスターゾーン超熱血球児(ATK:4000)
業火の結界像
魔法・罠ゾーン何もなし
手札2枚
デッキ27枚
幼い彰LP3000
モンスターゾーンフレムベル・ヘルドッグ
逆巻く炎の精霊(ATK:2600)
魔法・罠ゾーングラヴィティ・バインド−超重力の網−
伏せカード×1
手札1枚
デッキ32枚
フィールドバーニングブラッド

 ドローする前に、確認しておきたいことがあった。
「お前、楽しんでるよな」
「何……?」
「このデュエルだよ。同じタイプのデッキと戦うなんて機会なかったし、俺はすげぇ楽しい!」
 心の中が熱い。とても甘美で、楽しい時間だ。
 彰はそれを偽りなくそのまま伝えたかった。そして、相手もきっとそうであってくれると信じていた。
「そう、だな」
 感情の色を持たなかった幼い少年の顔が、初めて小さく――注意深く見ないとわからないほどにだが――笑った気がした。彰にはそれで充分だった。
「そっか。じゃあ、これが最後のターンだ」
 最後のドローカードに手をかけて、全身に熱が巡る感覚があった。引いたカードを見た瞬間に、彰は理解した。
「お前、だったんだな。俺の中にいたのは」
 自分にとって切り札の1枚であるそのカードを、召喚するための準備から始める。
「墓地のUFOタートルを除外して、炎の精霊 イフリートを特殊召喚!」
 フィールドに必要な生贄を揃えて、一番熱い気持ちで、その召喚を叫んだ。



4:弱さの印


 燃え盛る獅子の頭、人の上半身、竜の翼、猛獣の下半身、そしてその手に握る、どんなものよりも熱い紅蓮の火炎球。その全てが全身の熱を加速させる。
「そうか。そのカードを引いたか」
 幼い彰は目を閉じて、穏やかに笑った。それは彰の召喚したこの地獄の炎を統べる者が、彼であることの証だった。
「墓地から2体の炎属性モンスターを除外して、グラヴィティ・バインドとその伏せカードを破壊する!」
 重力の網は地獄の業火に飲まれ、逆巻く炎の精霊を守るはずだった聖なるバリアが溶岩の中に消えていく。
死者蘇生でプロミネンス・ドラゴンを墓地から特殊召喚! 超熱血球児で逆巻く炎の精霊を攻撃!」
 もう、彼の攻撃を遮るものは何もない。紅蓮のノックが羽根付き帽子をかぶった精霊を打ち砕き、最後に、地獄の炎を統べる者が吼えた。

















 山の斜面を下ってきた十海は、息を切らせていた。目の前にいる黒いガラス玉のような、澄み切った瞳の少女から目が離せなかった。
 冬の冷たい風が吹いても、木々がそれに揺さぶられてざわめいても、青い空を白い雲がどれだけ泳いでも、今の十海にはその情報を気にかけることができなかった。
「一音……」
 全てを見抜くような漆黒の瞳に気圧されそうになる。だけど、目を反らしてはいけない。
 向き合うと、決めたのだから。
「彰を、あの場所に連れて行ったのね」
 炎に飲まれて全てを失った、あの場所に。三人のうち一人が八年という時間を失って、残された二人がそれまで持っていた全ての世界を失ったあの家に。
 一音は沈黙とその視線によって肯定した。お互いに、あの日の罪と、決着をつけなければならないということだ。
「私は、あきらを引っ張って、とうみを置き去りにした。そうすれば、あきらを一人占めできると思ったから」
 一音が静かに話し始めた。
「だけど違った。家の中まで引っ張って行ったけど、あきらはとうみが気になるって言って外に出た。
 それから、悔しくて泣いてた。あきらの目が私に向いてないのが、たまらなく嫌だった」
 話の内容とは裏腹に、一音の口調は淡々としていた。一音なりの、過去との向き合い方の一つなのかもしれない。確かにあの日、一音の心は少し歪んでいたのだ。
「私は、置いていかれて、泣きながら二人を追いかけてた」
 一音が全てを話してくれるのだから、十海も全てを話さなければならない。そしてこれは、十海が八年間、心の奥底で望んできたことでもある。
「やっと家の前に着いて、彰が出てきてくれて……そのすぐ後だった。すごい音がして、辺りが真赤に照らされた。
 一音がまだ中にいるんだって、彰が飛び込もうとして、私はそれを止めようとして彰の手を掴んだ」
 あの日に歪んでいたのは、一音の心だけではなかった。十海の心も、同じくらいか、それ以上に歪な形になってしまっていた。
「一音がいなくなれば、彰は私だけを見てくれる。一瞬でも、本気でそんなことを考えたことが怖かった」
 恐怖は十海の手から力を奪い、彰はその手を振り切って炎の中に飛び込んだ。
「だから、私は、一音ごと忘れた。火事の話はしないことにして、徹底的に忘れた」
 一音を思い出すということは、同時に自分の中にあった恐ろしい感情を思い出すことだった。
 自分の中の恐ろしいそれを認めるのが嫌で、思い出すのを拒んでいた。だけど、今それを言葉にする。そうすることで、自分の中にある闇と向かい合うことができるし、目の前にいる一音と向かい合うこともできる。
「炎の中、あきらが来てくれて、私は嬉しかった。嬉しかったけど、あきらはこう言った。『十海も心配してる』って」
 一音もきっと同じ気持ちだと思った。だから、こうして話してくれているのだ。
 八年間、眠りと忘却によって二人の間にはあまりにも深い溝ができていた。それを、なんとか埋めるために、こうして言葉を紡ぐ。伝え合う。
「結局、あきらが見てるのは私じゃない。それに気付いた時、私は望んだ。
 ずっとあきらと一緒に、こうしていられたらいいのに。この一瞬の淡い視線が、ずっと続けばいいのに。
 『明日さえ来なければいいのに』と願った。だから、私には明日が来なかった」
 これが、火事の日の真実。純粋だった二人の願いは何らかの原因で歪んで、一人は八年という時間を、もう一人はそれまで持っていた全てを失った。
 二人のうちのどちらもが悪くないし、どちらもが悪い。それを二人で認めることができた時、二人はようやく一歩踏み出すことができる。八年前の炎から自由になることができる。
「一音」
 今なら、八年という時間を超えて、一音と心が通じている。きっと、同じことを考えている。
 一音も、それを期待する視線で応えた。
「最低ね」
 それは、相手を責める言葉であると同時に、自分を悔いる言葉でもある。一音も迷いなく答えた。
「あなたこそ」
 わだかまりが全くないわけではないが、それでも、二人は穏やかに笑っていた。
「こういうときは、デュエルするものなんでしょ?」
 一音は、持っていたカバンの中から、二つの必要なものを取り出した。十海は片方を受け取って、左手に装着する。屋敷にあったものを持ち出したのだろう。
「手加減はしないで」
「当然」
 相手が八年眠っていたとか、そういうことはこの際どうでも良い。ただまっすぐに本気でぶつかりあえるだけで、良い。
「「デュエル!」」
 冬の冷たい風が、二人の長い髪を揺らした。






 八年眠っていたとは言え、一音も大会に出たのだから、ルールくらいはわかっている。たのかや大音にせがんで必死に覚えたのだ。
「私の先攻。手札のアトランティスの戦士を捨てて、伝説の都 アトランティスを手札に加えて、発動。
 モンスターとカードをセットして、ターン終了」
 全力で戦う。大会では一度も戦えなかったけど、今一番闘いたい相手と闘える。それはとても幸せなことで、もしかしたらずっと望んできたことかもしれない。
 この戦いを最後まで戦い抜いてこそ、八年の眠りという呪縛から自由になることができると思った。
「私のターン、ドロー! 墓守の使い魔発動! モンスターとカードをセットしてターンエンド!」
 十海もまっすぐにこちらを見てくれている。強い視線で応えて、次のターンを始めよう。

瀧口 一音LP8000
モンスターゾーン伏せモンスター×1
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札3枚
デッキ33枚
七山 十海LP8000
モンスターゾーン伏せモンスター×1
魔法・罠ゾーン墓守の使い魔
伏せカード×1
手札3枚
デッキ43枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 一音がドローした瞬間に、十海は伏せたカードを発動した。太古の海底都市を包み込むように、黒い宇宙が広がる。
 そのカードがフィールド上に存在する限り、墓地へ送られるカードは墓地へ行かずにゲームから除外される。そして、墓守の使い魔は、相手プレイヤーがデッキの一番上のカードを送らなければ攻撃宣言を行うことができなくなる効果を持つ。
 その2枚が場に揃うと、攻撃できない。ロックと呼ばれる戦術の一つで、その中でも相手の攻撃のみを封じる強力なコンボだ。
 たのかや大音に教わったように、コンボのためには複数のカードが必要になる。永続魔法、永続罠に頼ったものは特に、そのカードを維持しなければすぐにコンボが崩れてしまう。
 デュエルでは、相手のライフポイントをゼロにするのが基本的な勝利方法だ。他の方法もないわけではないが、このデッキでそれを狙うのは現実的ではないらしい。
 攻撃を通すために、まず墓守の使い魔かマクロコスモスのどちらかをフィールド上から消してしまう必要がある。そして、手札を見てから、一音はどちらを消すか決定した。
ペンギン・ナイトメアを反転召喚。効果を発動して、マクロコスモスをとうみの手札に戻す」
 シルクハットをかぶったペンギンの効果により、黒い宇宙が消えてなくなる。
水霊術−「葵」を発動。ペンギン・ナイトメアを生贄に捧げて、とうみの手札を確認して1枚捨てる」
 永続罠は伏せてから発動までのディレイがあるにしても、手札に戻しただけではコンボを完全に崩したとは言えない。幸いなことに、魔法、罠カードはモンスターと違って、墓地に落とされると再利用するのが難しい。手札から直接墓地へ落としてしまえば、次のそのカードを引くまでそのコンボは使えなくなる。
 十海の手札の中から、一音は迷わずにマクロコスモスを選択した。
ミラクル・フリッパーを召喚。シエンの間者を発動して、コントロールをとうみに移す」
 濃い蒼のローブを着た小さな魔法使いが現れ、一音の場から十海の場へと移る。シエンの間者は自分フィールド上のモンスター1体のコントロールをエンドフェイズまで相手に移すカードで、ボード・アドバンテージ、ハンド・アドバンテージの面から通常のデッキにはまず採用されないカードだ。
 一音はそれを使った。十海に得意のコンボがあるように、一音も勝利のためのコンボを持っている。頭の中の自分とは違う存在に合図して、一音はそのカードを使った。
「墓地のアトランティスの戦士、ペンギン・ナイトメアをゲームから除外して、フェンリルを特殊召喚」
 黄金の爪と白銀の毛並みを持った凍てつく氷河の狼が、赤い瞳を滾らせて咆哮した。
「フェンリルでミラクル・フリッパーを攻撃」
 その爪はいともたやすく魔法使いを打ち砕き、十海にダメージを与える。そして、一音のデッキのエースとも言えるこのカードの真の力は、ここから発揮される。
「フェンリルが戦闘でモンスターを破壊した場合、次の相手のターンのドローフェイズをスキップする」
 つまり、十海は次のターン、ドローフェイズに毎ターン行われるはずのドローを行うことができない。
 マクロコスモスという重要なカードを失い、新たなカードをドローすることもできない。
 更に、ミラクル・フリッパーは戦闘で破壊された場合、バトルフェイズ終了時に相手フィールド上に特殊召喚される。十海がモンスターを出さずとも、ミラクル・フリッパーを戦闘破壊し続けるだけでフェンリルの効果は毎ターン適用されるのだ。
「私のターン」
「このターン、とうみはドローできない」
「さあ、それはどうかしら?」
 ドローは行われない。新たな可能性を迎え入れないまま、十海は残された手札と場のカードで、フェンリルかミラクル・フリッパーのどちらかを攻略しなければならない。
 非常に強力なドローロックで、もたもたしていれば一音が場を整えてしまう。
 その状況下にあって、十海は不敵に笑った。1枚のカードが伏せられ、そして、十海は動いた。
 十海の場で反転召喚されたモンスターを見て、一音は思わず短い声を上げた。
メタモルポットの効果。互いに全ての手札を捨てて、デッキから5枚のカードをドローする」
 ドローフェイズ以外のドローに対しては、フェンリルの効果は適用されない。その盲点を突かれたのだ。
 メタモルポット。強力なドロー効果を持つモンスター。これは裏側守備表示でセットされる場合が多いが、一概に自分にとって不都合になり得ないのが厄介なのだと、たのかに教わったのを思い出した。
 事実、この効果で一音は1枚もカードを捨てず、手札を5枚補充することができた。
 対して十海は、1枚のカードを墓地に捨てているから、実質的に損をしているのではないだろうか。
 しかしながら、ドローロックを一度すり抜けられるということは、そこからロックを突き崩される可能性が生じることを表す。
 今まで見たことのないほどの、自信に満ちた十海の笑顔。白銀の狼の爪を逃れた5枚が、目の前の世界を動かし始める。
鳳凰神の羽根を発動! 手札のネクロフェイスを捨て、捨てたそのカードをデッキトップに戻す!」
 不可解な戦術。確かに、鳳凰神の羽根はコストとして捨てたカードもデッキの一番上に戻すことができる。
 しかし、ドローロックが継続すれば、次のターンになってもそのカードはドローすることができない。
 その上、ドローロックが仮に抜けられてしまったとしても、一番上のカードを下級モンスターに固定したことで、十海自身にドローロックをかけているような状況になる。
 墓地のカードをデッキに戻す効果のあるカードは確かに強力なカードを使いまわせるために便利だが、よく考えて使用しなければ大変なことになる。少なくとも一音はそう教わった。
 怪訝そうな一音の表情を見て、十海が自信の笑みを更に鋭くした。
次元合成師(ディメンション・ケミストリー)を召喚! その効果を発動!
 デッキの一番上のカードをゲームから除外して、このカードの攻撃力を500ポイントアップさせる!」
 直後、一音は自分のデッキの異変に驚愕した。上から5枚のカードが、ゲームから除外されたことを示すリムーブゾーンに吸い込まれていったのだ。
「ネクロフェイスの効果。このカードがゲームから除外された時、互いのデッキの上から5枚のカードを除外する」
 鳳凰神の羽根を使ってわざわざネクロフェイスを手札からデッキに戻したのは、このコンボを発動させるためだったのだ。
 次元合成師の攻撃力は1300。だが、自身の効果によって500ポイントアップし、フェンリルの攻撃力を上回った。
「一音」
 一度閉じて、再び開いた十海の瞳は、深く底知れない闘志に満ちていた。
 一音は、心臓が一つ大きく鼓動するのを聞いた。
「行くよ」
 甲冑をまとった合成師が自身の両手の間で輝く青い弾を放つ。
 白銀の狼がそれに立ち向かい、戦闘が行われたことを示す疑似爆発が起きて粉塵が巻きあがった。
 強い風から目をかばうように、左腕に付けたデュエルディスクを盾にしてやり過ごす。
 目を開けた一音の前に残っていたのはフェンリルだった。十海の場で一枚のカードが表側表示になっていた。
ゼロ・スプライト。元々の攻撃力をゼロにして、2回攻撃できるようにする罠カード。本当は後で使うつもりだったけど、予定変更!」
 自分のモンスターの元々の攻撃力をゼロにする罠カード。それを、おそらく次元合成師に装備したのだろう。
 墓地に送られてそのカードの姿が消え、十海のライフは1100ポイント減っていた。
 つまりそれは、次元合成師の攻撃力が500になり、フェンリルに戦闘で破壊されたことを示す。
 次のターンのドローも投げ捨てて、十海はいったい何をするつもりだろう。わざと負けるつもりだとは思えなかった。バトルフェイズを終了しても、彼女の目の中にある闘志は消えていないどころか、強く輝く一方だからだ。
「墓地に送られた次元合成師の効果発動! 除外されたモンスター1体を手札に加える! ネクロフェイスを選択!
 次元の裂け目! 更に、D・D・Rを発動!
 手札を1枚捨てて、除外された紅蓮魔獣 ダ・イーザを特殊召喚!」
 赤い鱗に覆われた翼と鋭い鍵爪、力の象徴たる合計四本の角を頭の左右に持ち、長く力強い尻尾をしならせて、それは舞い降りた。
 魔獣の黄金の瞳が、銀狼とその主を睨みつけた。
「ダ・イーザの攻撃力は除外された私のカード×400ポイントになる。そして、除外したネクロフェイスの効果で更に5枚のカードを互いのデッキから除外!
 私の除外カードの合計はこれで10枚。ダ・イーザの攻撃力は4000。さあ、一音のターンよ」

瀧口 一音LP8000
モンスターゾーンフェンリル
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札5枚
デッキ16枚
七山 十海LP5600
モンスターゾーン紅蓮魔獣 ダ・イーザ(ATK:4000)
ミラクル・フリッパー
メタモルポット
魔法・罠ゾーン墓守の使い魔
次元の裂け目
D・D・R
伏せカード×1
手札0枚
デッキ28枚
除外10枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 一音のターンが再び始まる。フェンリルの効果は相手にのみ適用され、一音はデッキからカードをドローすることができる。勝利への可能性を毎ターン得ることができるのだ。
 しかしながら、十海のフィールドに、一音の前に立ちはだかる巨大な紅蓮の魔獣の威圧感が、その余裕さえも忘れさせそうになる。
 幸い、メタモルポットによって手札は大きく補充された。この中から、あの脅威の攻撃力を持つモンスターを取り除く方法を考えなければならない。
 たのかに教わって使いやすいカードを選んだせいか、目的のカードはすぐに見つかった。
地砕き発動! 相手の場の、守備力が最も高いモンスターを破壊!
 ダ・イーザは守備力も除外されたモンスターによって4000になっているから、この効果で破壊するのはダ・イーザ!」
 だが、対策が取られていないはずがなかった。強力なモンスターをさらすということは、それだけそのモンスターに注意をひきつけることでもある。
 地砕きなどの強力な除去魔法に対する対策を用意するのはごく自然なことだ。
 十海もそれを用意していた。地砕きの効果が不発に終わり、墓地に送られる。
皆既日蝕の書。互いの場のモンスターを全て裏側守備表示にして、エンドフェイズに相手の場の裏側守備表示モンスターをリバース。相手はその枚数分だけドローする」
 フェンリルも裏側守備表示になったせいか、ソリッド・ヴィジョンで見えるのがカードの裏側だけになった。
 一音はまだ落ち着いて考えることができた。皆既日蝕の書は、相手にドローさせる効果を持つ、デメリットを抱えている。
 今度こそダ・イーザを破壊するために、もう一枚のカードを発動した。
抹殺の使徒発動! 裏側守備表示のモンスター1体を破壊して、除外する!」
 もう十海の場に伏せカードはない。このカードの効果は通り、裏側表示で表示されていたダ・イーザのカードに剣が突き刺さり、砕けた。
 モンスターとリバースカードを2枚セットして、ターンを終える。
 エンドフェイズにサブマリンロイドとフェンリルが表側表示になって、一音は2枚のカードをドローした。
 ダ・イーザを除去するために2枚のカードを消費したが、これで取り戻せたことになる。
 すでにフェンリルが次元合成師を破壊したから、このターンに無理に攻撃するよりは、手札を充実させたほうが良いだろう。
 そう考えて、十海のターン、それが間違いだと気付いた。そういえば、メタモルポットがいたのだ。皆既日蝕の書は、互いの場の全てのモンスターを等しく裏側守備表示にする。リバースすることで発動するメタモルポットの効果を、こうすることでもう一度使うことができたのだ。
 今度は一音が手札を3枚捨て、十海は手札ゼロの状態から5枚のカードをドローすることになった。
トーチ・ゴーレムを特殊召喚! このカードは、自分の場にトーチトークン2体を特殊召喚することで、相手の場に特殊召喚できる!」
 鎖と歯車で構成された巨大で重厚なゴーレムが、地響きとともに一音の場に降り立った。
 同じ姿の、しかし一回りもふたまわりも小さなゴーレムが、十海の場に2体現れる。
 十海はそのままカードを2枚セットしてターンを終了した。

瀧口 一音LP8000
モンスターゾーンフェンリル
サブマリンロイド
トーチ・ゴーレム
魔法・罠ゾーン伏せカード×3
手札5枚
デッキ8枚
七山 十海LP5600
モンスターゾーントーチ・トークン×2
メタモルポット
伏せモンスター(ミラクル・フリッパー)
魔法・罠ゾーン墓守の使い魔、次元の裂け目、伏せカード×2
手札2枚
デッキ23枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 攻撃力3000のモンスターを相手に与え、自分の場に攻撃表示で攻撃力0のトークンを生成する。
 このトーチ・ゴーレムにはどんな意味が込められているんだろう。一音は、だんだんと十海の次の戦術が楽しみになってきていることに気付いた。
 見たことのない世界が広がっていて、新しいモノを見るのはこんなに楽しくて嬉しいことで、眠っていた自分がバカらしくなってきた。
 ドローした瞬間に、十海が一音にとって新しい世界を見せてくれる。
死のデッキ破壊ウイルス! トーチトークンを生け贄に、相手の場、手札の攻撃力1500以上のモンスターを全て破壊するッ!」
「カウンター罠盗賊の七つ道具! ライフを1000払って罠カードの発動と効果を無効にする」
 フェンリルが破壊されるところが見たくなくて、つい反射的に発動してしまったが、正解だったらしい。  フェンリルの元々の攻撃力は1400だが、アトランティスの効果で200ポイント上昇している。更に、もし発動を許していたら、手札にいた最上級モンスターもやられてしまっていた。
 幸い、まだライフポイントは潤沢に残されている。1000ポイントのライフでこちらのモンスターが守れるなら、安いものだ。
 そういえば、たのかが幸介にあのカードを使われてグッタリしていたのを覚えている。たのかのデッキは攻撃力の高いモンスターで固められているから、場も手札も根こそぎゴッソリ破壊されていたあの光景は強烈だった。
 それはさておき、攻撃しなければならない。先ほどのメタモルポットの効果で気付いたのだが、デッキの残り枚数がもう少なくなってきているのだ。
 十海がメタモルポットとネクロフェイスを使いまわしたせいだろう。
 デュエルでは、相手のライフポイントをゼロにするのが基本的な勝利方法だ。しかし、異なる勝利方法が存在する。それは、相手のデッキの枚数をゼロにすること。
 正確には枚数をゼロにして、その上で相手がドローしなくてはならない状況にならなければ勝負は決まらない。大会でもあまり頻繁にお目にかかる戦術ではないから、今はあまり気にしなくていい、とたのかに言われていたことを思い出した。
 とにかく、これ以上使いまわされないうちに、メタモルポットは破壊しておいたほうが良さそうだ。
 だが、この状況では攻撃は通らない。次元の裂け目と墓守の使い魔のコンボだ。
「伏せていたサイクロンを発動! 次元の裂け目を破壊する!」
 竜巻が一直線に次元の裂け目のカードに向かっていく。バリン、という独特の破壊音が響いて、竜巻が砕けた。
 しかし、次元の裂け目は場から消えていない。裂け目の前に、四角い台座が置かれ、その上に黒い犬のような置物が鎮座していた。
アヌビスの裁き! 手札のグランドクロスを捨てて、サイクロンを無効にする! そしてその後、相手フィールド上のモンスター1体を破壊、その攻撃力分のダメージを与える!」
 黒い置物の眼が光ったかと思うと、次の瞬間、十海の場にいたトーチ・ゴーレムが内側から轟音を立てて破裂した。
「う、あ……っ!」
 トーチ・ゴーレムはこれが狙いだったのだ。攻撃を通すために必ず、墓守の使い魔か次元の裂け目を破壊しなくてはならない。
 ここまでしっかりと十海の書いた筋書き通りの行動をさせられてしまっていたのだ。
 潤沢にあったはずのライフポイントはもう残り半分になってしまった。
 このままでは攻撃を通すことができない。もたもたしていればデッキのほうを削られてしまう。
 一つだけ、手札に方法があった。けれど、それを使うことを躊躇う気持ちも強い。
『使え』
 一音の前にいたフェンリルが、短くそう言った。
「でも……」
『手加減はしないのだろう?』
 手札にある2枚のカード。これを合わせれば、確かにあのロックを丸ごと吹き飛ばすことができる。
 けれど、それではフェンリルを犠牲にすることになってしまう。いつでも傍にいてくれるこの存在は、一音にとっては家族以上に近しい存在だ。
『心配するな。お前が呼べば私はいつでも戻ってくる』
 フェンリルの言葉に呼応するように、手札にあった1枚のカードが鼓動する。
「わかった」
 魔法カードの発動を宣言する。このカードは、自分の場にいるフェンリルを破壊してしまう。
 けれど、大丈夫。またフェンリルは帰ってくる。
大波小波発動! 場のサブマリンロイド、フェンリルを破壊して、手札から海竜(リバイアドラゴン)−ダイダロスを特殊召喚!」
 古代の海底都市に差し込む光を受けて、額にある緑色の宝石と深い蒼の体を輝かせながら、巨大な海竜が咆哮した。
 額の宝石が強く輝き、その場に巨大な津波を発生させる。次元の裂け目も、墓守の使い魔も、それ以外のカードも全て飲み込んで、押し流していく。
「ダイダロスの効果! 自分フィールド上に存在するを墓地に送ることで、ダイダロス以外のフィールド上のカードを全て破壊する!
 チェーン発動した強欲な瓶の効果で1枚ドロー!
 手札からサイバー・シャークを召喚! このカードは自分の場に水属性モンスターがいる場合、生け贄なしで召喚できる!
 そして、手札を1枚捨てて、D・D・R発動!」
 一音は今までで一番強く、自分を支えてくれる頼もしい狼の名を呼んだ。
 場に揃ったモンスターの攻撃力の合計は十海のライフポイントを上回っている。
 一音の指示に従って十海に飛びかかろうとした白銀の狼は、しかし立ち止まってしまった。
『すまない』
「次のターン、がんばろう」
 一音はまっすぐ前を見ていた。攻撃を遮断したバトルフェーダーを見て、それでも楽しかった。
 カードをセットして、次のターンに移行する。十海の手札はもうゼロだ。
 それでも次のターンのドローで、何かを起こしてくれる。何かを見せてくれる。
 一音にはそう思えてならなかった。もう少しで勝てるかもしれない。だけど、ドローロックは消えた。十海は新たな可能性を手にして、その可能性で新しい世界を見せてくれるだろう。
「ドロー! アカシックレコードを発動! 2枚ドロー。引いたカードを互いに確認して、そのデュエル中に使用したカードだった場合はゲームから除外する!」
 ドロー加速。可能性を倍増させるカード。しかし、デュエルも佳境に入ってきたこの状況では、このカードの発動は賭けだ。
 十海が新たに引いた2枚の可能性を確認する。それまで使用したカードではない。
「バトルフェーダーを生け贄に、D・D・Mを召喚! 手札の異次元からの埋葬を捨て、除外されていたダ・イーザを特殊召喚!」
 再び強靭な翼をはばたかせて、紅蓮の魔獣が降り立つ。
「一番のカードなんだね」
 一音にとってのフェンリルがそうであるように、十海にとってはこのダ・イーザこそが最も信頼するカード。
「うん。それじゃあ、バトル! D・D・Mでフェンリルを、ダ・イーザでダイダロスを攻撃!」
 一音側にこれを防ぐためのカードはない。バトルフェーダーが除外され、ダ・イーザの攻撃力は4800に上昇していた。
 ライフポイントの残りがもう頼りなくなってきた。

瀧口 一音LP1500
モンスターゾーンサイバー・シャーク
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札1枚
デッキ6枚
七山 十海LP5600
モンスターゾーンD・D・M
紅蓮魔獣 ダ・イーザ(ATK:4800)
魔法・罠ゾーン何もなし
手札0枚
デッキ20枚
除外12枚
フィールド伝説の都 アトランティス

 残されたデッキは6枚。デッキに対する効果を発動されれば、もうもたないだろう。
 ライフポイントも1500しか残されていない。相手の場には攻撃力4800のダ・イーザが構えている。
 早く、相手のライフポイントをすべて削り切らなければいけない。
 けれど、あんなモンスターに対抗できる手段など、あるだろうか。地砕きはもう使ってしまった。
 ミラクル・フリッパーだって、場に出してから効果によって破壊するというステップを踏む必要がある。
 今残された1枚の手札では、それはできない。せいぜい、壁を並べることしかできない。
 ひょっとしたら、最後のドローになるかもしれない。デッキの一番上に手をかけて、瞬間、体の中を不思議な熱が駆け巡った。
 寒くなどないのに、鳥肌が立ってしまうような。熱いのに、頭は冴えわたっていていろんなことを瞬時に考えることができた。
 最後の可能性。ドローという行為そのものが、勇気を与えてくれる。最後の最後まで戦い抜くことを、決意させてくれる。
「……あれ?」
 引いたカードを見た時、思考の中に一筋の閃光が見えた気がした。細く鋭く、しかし、今の自分ならばそれさえも見逃すことなく捕まえることができる。
 デュエルディスクの操作で、墓地のカードを全て表示させる。除外されたものも同じようにして確認して、頭の中で今得た欠片をつなぎ合わせていく。
 手札には2枚の魔法カード。墓地や除外された中にあのカードが存在しなかったから、残された5枚のデッキの中にいる。あのカードの攻撃力と効果、それから手札の魔法……。
 一本の閃光は輪をつないで、一音に確信をもたらした。
「勝った……!」
 十海の目をまっすぐに見て、静かに笑う。勝利を確信した笑みをぶつけても、十海も頷いて笑ってくれた。
サルベージ発動! 墓地からフェンリルと深海のディーヴァを手札に戻す!
 深海のディーヴァを召喚! 効果により、デッキからニードル・ギルマンを特殊召喚!
 更に、墓地からアビス・ソルジャーとアトランティスの戦士を除外して、フェンリルを特殊召喚!」
 一音の場に4体のモンスターが並んだ。しかし、これではダ・イーザの攻撃力に太刀打ちできない。
 それどころか、攻撃表示で召喚してしまったせいで、次のターンに攻撃されれば敗北が決定する。
 けれども、一音は自信たっぷりに言った。
「このターンで、決める!」
 最後に残された手札。このターンにドローした可能性を、ここで使う。
「魔法カードフォース! フィールド上のモンスター1体の攻撃力の半分を、もう1体に分け与える!
 ダ・イーザの攻撃力の半分を深海のディーヴァに加える!」
 ダ・イーザの攻撃力は4800になっていた。しかし、この効果によってエンドフェイズまでダ・イーザの攻撃力は半分となり、減らされた分の攻撃力がディーヴァに加算される。
「ニードル・ギルマンの効果でディーヴァの攻撃力は600になっていた。だから、ダ・イーザの攻撃力の半分を足して、攻撃力は3000!」
「だけど、まだ私のライフを削りきるには足りないはず……!」
 ディーヴァとサイバー・シャークで相手の場のモンスターを一掃したとして、その後総攻撃をしても与えられるダメージは合計で3500にしかならない。
 十海のライフポイントは現在5600。このまま攻撃しても、このターンで決着をつけることはできない。
 けれども、一音はそんなことは百も承知だった。だから、温存しておいたこのカードを使うことにした。
「言ったでしょ。このターンで決めるって! リバースカードオープン! 奇跡の軌跡(ミラクルルーカス)!  このターン、深海のディーヴァの攻撃力は1000ポイントアップして、2回攻撃が可能になる!
 ディーヴァはとうみに戦闘ダメージを与えられないけど、残ったモンスターの攻撃力の合計は……!」
 一音の場には、深海のディーヴァの他に、フェンリル、ニードル・ギルマン、サイバー・シャークがいる。
 それぞれ、攻撃力は1400、1700、2500となっている。
「5600……!」
 全ての直接攻撃が通れば、この闘いは終わる。完全に、十海のライフポイントをちょうどゼロにして。
 これが、一音が目覚めて、こうして向かい合うために必死に努力してきた結果。八年という長い眠りから覚める奇跡を経て、ここまでたどり着いた彼女の軌跡。
 そして、これから描いていくであろう未来の軌跡を、ともに作り出していくために、今出せる全力。
 深海のディーヴァがダ・イーザとD・D・Mを破壊して、直接攻撃の宣言に入る。
































 攻撃は通らなかった。
「奇跡の軌跡が、私にも奇跡をもたらしてくれたみたいね」
 ただ対峙しているだけなのに、息が上がった。それだけ、緊張していた。
 奇跡の軌跡は、相手にカードをドローさせる効果を持つ。
 2体目のバトルフェーダーが、戦闘を終了させたのだ。
 これ以上、一音にできることはない。けれど、それはこれ以上ないほどにこのターンまで闘いきった証でもある。
 十海の場には、攻撃力守備力ともにゼロのモンスターが1体のみ。次のターンで十海が引くカードによって、勝敗が決まる。
 深海のディーヴァの攻撃力が元に戻り、600ポイントになるのだ。つまり、攻撃力が2100以上のモンスターを出された場合、一音の負けになる。
 しかし、このターンで十海が何もできなければ、それは一音の勝ちが決まったことを表す。
「勝負、あったね」
 ドローを終えた十海がそう言って、最後のカードを見せてきた。
 それが勝負を決定づける一枚の魔法カード。
 最初のメタモルポットの効果で、十海の墓地には1枚のカードが捨てられていたのだ。
































魂の解放。墓地のネクロフェイスを除外して、効果発動」
































 切り札を破壊することはできたし、ギリギリまで追い詰めることはできたけれど、結局勝つことはできなかった。
 とても長い戦いだったように感じた。日が傾いて、空が青から色を変え始めている。
 気付かないうちに白熱していたのか、息も上がっている。全身が熱い。だけど、心地よい熱だった。
「一音」
 目の前で、十海が手を差し出してきた。
「デュエルは、最後にこうやって握手するまで、終わらないの」
 一音も手を伸ばして、その手をしっかりと握り返した。それは持てる最大の力でぶつかりあったことの証。二人が互いを認め合い、互いに成長したことを示す印だ。
 つなぐその手は暖かく、力強く、頼もしい。
「行ってあげて」
 自分が元来た道を開けて、十海を促す。
「あきらは、思い出そうとしてる。とても苦しくて、辛いことだけど……。とうみがいれば、きっと大丈夫だから」
 自分がつけていたデュエルディスクをはずして、十海に渡す。力強くうなずいて、十海は走り出した。三人だけが知っている、秘密の抜け道を。
 その背中が見えなくなるまで見送って、屋敷に戻る道を歩き出す。
『良かったのか?』
 頭の中の声が、優しく問いかけてくる。
「あの二人の間に入り込む余地なんて、ないよ」
 返答に困ったのか、頭の中の声は黙ってしまった。否、黙ってくれたのだろう。
 今は、誰の言葉にも誠実に答える余裕がない。フェンリルはそれを察して、ただ黙って、再び立ち上がるのを待ってくれているのだ。
 瞳に入り込んでくる赤い夕日が、滲んだ。

 屋敷の自分の部屋に戻って、枕に顔をうずめた。
「う、あ……」
 誰にも見せたくない弱さの印が、溢れてきた。二人が戻ってくるまでに、こうして全て流してしまおう。
 失った八年も、並んで歩けなかったことの悔しさも、それを悔いるばかりの弱い自分も。
 だから今は、今だけは許してほしい。悲しみと後悔の熱に溺れることを。



5:つなぐその手は


 その日は注射があった。痛い注射は大嫌いだったけど、女の子の前で泣くのはみっともないから我慢した。
 十海を待っているはずだったのに、一音に手を引かれて走り出してしまっていた。わけがわからないままその手に引かれて、一音の家の前まで来た。そこで、注射の時にもいた白衣を着たおじいさんと会った。
「ふむ、ふむ。君は理想に極めて近いところにいるね。枷を引きちぎれば、君は最も優秀な存在だ」
 言っていることはさっぱりわからなかった。嫌なものを連想させるそのおじいさんを見たくなくて、一音に手を引かれるまま家の中に入った。
「ふむ、ふむ。私は対岸でじっくり観察することにしよう」
 後ろでおじいさんが何か独り言を言っていたが、その意味もわからなかった。
 ドアが閉まる。二人だけの空間になった。ここには、あるべき姿がいない。本来なら、二人じゃなくて三人であるはずなのに。
「とうみをさがしてくる」
 そんなことを言って、ドアを開けて外に出た。泣きながら歩いてくる十海を見つけて、駆け寄った。
 後ろで、すごい音がした。十海の頬が赤く照らされて、何ごとだろうと思って後ろを見た。
 燃えていた。家が燃えていた。テレビでしか見たことがないような、大きすぎる炎が、家を包み込んでいた。
「まだ、中にいちねが……!」
 助けなければ大変なことになる。そんな知識があったかどうかはわからないが、直感的にこの炎は危ないものだとわかった。この中に一音が取り残されたままではいけないことも。
 炎の中に走り出そうとした時、手を掴まれた。何を考えているのかと思った。十海の目が、すごく冷たく見えた。だけど、つなぐその手は、その本当の意味を知っていた。
 その手を振り切って、炎の中に飛び込んだ。燃える柱が倒れてきたりして、大変だったけれど、一音の所までなんとかたどり着けた。
「いちね! 行こう。とうみも心配してる」
 突然、一音の目が変わった。黒く透明で、光を失って、閉じた。その場で倒れてしまって、何度呼びかけても、一音はもう起き上がらなかった。
 炎はさっぱり収まらなかった。だんだん、息が苦しくなってきた。どうしよう、このままではいけない。何とかして、一音を助けたい。そんなことを、朦朧とする意識の中で考えていた。
『お前はそれを望むのか』
 変な声が聞こえてきた。目の前の炎が、何かの動物のような形をしていた。見たことのある動物の部分がいろいろくっついたみたいだった。
 足元に落ちていた、一枚のカードを拾った。熱い感覚が体の中に飛び込んできて、そこで意識は途切れた。








 やがて、元の真っ暗な世界に戻ってきた。目の前には、幼かった頃の自分の姿はもうなかった。
 赤々と燃える炎の化身。燃え盛る獅子の頭、人の上半身、竜の翼、そして猛獣の下半身を持つ、地獄の炎を統べる者がそこにいた。
「今のが、八年前の……」
 ここは彰の内面の世界。今見たのは、その記憶の一部。八年前の火事の日の真実だ。
『お前はあの時、願った。だから俺は、それに応えた』
 今度は、炎の精霊が語った。彼が彰の中に宿されたのはその火事の時で、それ以降は彰と同じ記憶を共有している。しかし、それ以前のものは違った。


 かつて、人間に精霊を宿す研究が行われていた。LEGNAという名前のそれで、俺は幾人もの人間の中に宿された。
 しかし俺を宿していることに気付いた時、その人間は全て俺の存在に耐え切れずに、崩壊した。
 精霊というものは本来、カードそのものに宿る。
 だが俺は、本来の寄り代であるカードに細工をされて、それとはもう一つ、別の寄り代を必要とすることになった。その対象が、人間だ。
 寄り代がなければ俺の力が外に吐き出されて、その業火があらゆるものを奪ってしまう。あの時お前に宿ったのも、それを止めてほしかったからだ。
 精霊を宿すという行為には代償を必要とする。何かを強く願い、その代償を差し出した者にだけ、精霊は宿ることができる。
 幼いお前はその意味を理解していなかったのだろう。この俺に全てをくれてやると、そう言った。
 俺はお前の記憶の一部を押し込めて、その場所……つまり、お前の中のここに居座った、というわけだ。

 お前は最初、全てを失った。感情も言葉も、息をすることさえ、俺に差し出した。
 あのまま、七山 十海が現れなかったら、お前は本当に、死んでいたはずだ。
 あの娘が願ったのは、お前の苦痛の一部を肩代わりすること。俺が食っていたお前の記憶領域の半分を、あの娘が引き受けた。
 そうして、お前は目を覚ました。火事に関する事を思い出せば、再び俺の力がお前を食いつくすと思って、俺はこの記憶を隠し続けることにした。



「なんだ、そういうことだったのか」
 彰はすべての真実を知って、納得した。胸の奥でつっかえていたものが取れて、清々しい気分だった。
『一つ聞いておきたい』
 目の前の――ずっと自分の中にいた――精霊の問いかけにも、まっすぐに答える。
『どうしてお前は、俺を受け入れることができた?』
 彼の話によれば、彼を宿した人間はそれに気付いた時に崩壊したのだという。彰が――まだ十三歳の少年が――精霊を宿す重圧に耐えたのは理解しがたいことらしい。
「俺には、支えてくれる人がいるから」
 十海が苦痛を引き受けてくれたことも、精霊を宿して平気だった理由の一つだ。それは彼自身も言っていたことだから、今更言うまでもないことかもしれなかったが。
「それにお前、あんなに楽しくデュエルしてたじゃないか」
 そう言って笑って、手を差し出す。
『デュエルはまだ、終わってはいない、か』
 炎の精霊は姿を変え、幼い彰の姿になる。成長した、頼もしい彰の手を握り返して、おどけた調子で言った。
『元の姿では俺の手は大きすぎるし、熱すぎる』
「あははは! そうだな! お前、そういえば炎だったもんな!」
 互いの手を固く握って、健闘を称え合う。
 それから、彰は大事なことに気付いた。

「そういえば、どうやってここから戻ればいいんだ?」
 それを聞いた精霊は、初めて心の底から笑った。

































 一音と戦って、勝った。最後の奇跡の軌跡には、焦らされた。
 あそこでバトルフェーダーが引けていなければ。と考え始めて、それより前、一枚目のバトルフェーダーの時もそうだったし、その後のアカシックレコードのドローが成功するかどうかでも運任せの要素が強かった。
 逆に言えば、そこまで一音は強くなっていた。必死でルールを覚えて、何度も練習したのだろう。
 きっと、一音ももっと強くなる。そうしてもう一度、闘えるはずだ。
「行ってあげて」
 一音が言うのは、彰のいる、あの場所へだ。
「あきらは、思い出そうとしてる。とても苦しくて、辛いことだけど……。とうみがいれば、きっと大丈夫だから」
 一音からデュエルディスクを受け取って、力強くうなずいた。
 彰を支えるのに一番いい方法は、デュエルだ。
 三人だけが知っている秘密の抜け道を通って、十海はあの日の場所に走った。

















 目を開けると、彰は焦げた建物の前に立っていた。
 立ったまま寝ていたんだろうか。日はすでに傾きかけて、空は青から赤へと変わろうとしていた。
 思い出した。自分は決して、空虚なんかじゃなかった。しっかりと守りたいものを持っていた。
 空虚に見えたのは、自分の中にいた精霊との付き合い方がわからなかったからだ。
「あれ……?」
 そういえば、デュエルディスクがない。デッキはいつも身につけているが、ディスクは屋敷の部屋に置いたままだ。
 自分の中の世界、というちょっとよくわからない場所だったから、きっと適当な理由がつけられるのだろう。
 あまり深く考えないことにして、デッキの中のカードを見る。一枚のカードが鼓動して、確かに通じ合ったのだということを実感できた。
 デッキをしまって、もう一度焦げた建物を見上げる。思い出せたのは、あの日のことだけだった。それより前のことは、さっぱりわからないままだ。
 自分にも生みの親がいて、一緒に笑ったり、時には怒られたのかもしれない。けれど、なくしたものは拾えない。たとえ記憶として見ることができたとしても、失ったものは取り戻せない。
 自分の過去を、火事の日の真実を見て、理解した。それよりももっと前の事は、何ひとつ、思い出せない。
 それはとても悲しいことだと思った。なくしたものをなくしたと知ってしまったことが、たまらなく悲しかった。
『それがお前の全てを壊すとしてもか』
 自分の中にいた精霊が言っていたその言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
 こんな風に寂しさを感じることは、今までなかったからだ。どうしようもなく寂しくて、悲しくて、取り戻せないものがある。
 それを知ってしまうのは、とても辛いことだ。辛くて苦しくて、それを取り戻したいと願った時、自分はどれだけ薄汚れてもそれを取り戻そうとするだろうか。
 そこから先を考えるのが恐ろしい。なくしたくないものがあって、守りたいものがあって、けれどそれは、自分を壊してしまう可能性も秘めている。
 LEGNAという空想に溺れたあの老博士も、そうして壊れてしまったんだろうか。
 黒く焦げた建物の骨格は、何も語ってはくれなかった。目を閉じて、深く息を吐く。
 もうこれ以上、何もなくしたくないと思った。
 だから、前を見よう。今までもそうしてきたように、これからも自分を支えてくれるみんなと、一緒に前を向いて歩いて行くんだ。
 なんだか、無性にデュエルがしたくなった。心の通じ合ったカードがいて、その他にもたくさんの切り札があって、そんなデッキと、そして、自分を支えてくれた人達と一緒に闘うことができる。
 今まではその意味をあまり理解していなかったかもしれないが、今ならわかる。きっと、今までよりもずっと強くなったはずだ。
 そして、闘う相手として最も相応しい人物がやってきた。
「十海!」
「彰!」
 二人が互いの名を呼んだのは、同時だった。二人とも構わずに、次の言葉を発した。




「「デュエルしよう!」」

















 冷たい冬の風が心地良い。そう感じられるほどに、デュエルが始まる前から、二人の心は高揚していた。
 ソリッド・ヴィジョンの起動音が低く響いて、誰も来ない場所に闘いの舞台が整う。
「俺の先攻! プロミネンス・ドラゴンを召喚! カードを2枚セットしてエンドフェイズにプロミネンス・ドラゴンの効果発動だ!」
 火炎龍が現れて、その火の粉が十海にダメージを与える。
 機械的に作られた映像が、二人を隔てる距離を実感させる。
「私のターン、ドロー! 手札抹殺を発動!」
 けれども、二人は笑っていた。
「なんだよ、手札が良くなかったのか? デッキの枚数が多いんじゃないか?」
「彰こそ、その少なさを後悔しないようにしなさいよ」
 後悔できる。それは、この闘いに終わりが存在することを意味する。
 熱い闘いにも終わりが来て、そしてそれはまた次の闘いに挑む強さになるから。
 こうしてぶつかり合うことで、二人が共に歩いていることを実感できるから。
 何よりも、闘いの終わりには、いつでも手をつなげるから。
 だから、二人は笑っていられる。互いが互いにとって最高の好敵手(とも)であることを確かめ合うように。
 互いにデッキから5枚のカードを引いて、良いカードが来たことを確認する。
「モンスターをセット。カードを2枚伏せてターン終了!」
 たったこれだけの行為でも、心地良い熱が全身を駆けあがってきた。

日生 彰LP8000
モンスターゾーンプロミネンス・ドラゴン
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札3枚
デッキ31枚
七山 十海LP7500
モンスターゾーン伏せモンスター×1
魔法・罠ゾーン伏せカード×2
手札2枚

「俺のターン、ドロー!」
マクロコスモス発動!」
「そう来ると思ったぜ! 砂塵の大竜巻だ!」
 二人の伏せたカードがオープンされ、巨大な竜巻が宇宙さえも吹き飛ばす。
「チェーンしてグランドクロス!」
 しかし、互いが互いを知りつくした関係では、どちらも転んでもタダで起き上がるわけにはいかない。
「うおっ……ちぇ、タダじゃ破壊させてくれないか」
 宇宙の力そのものは発動されなくとも、それがフィールドに存在したという事実は残る。したがって、砂塵の大竜巻にチェーンしてグランドクロスを発動することが可能だったのだ。
 彰は手札にいたモンスターを見て、即座に判断した。
「行くぜ! プロミネンス・ドラゴンを召喚! 更に、カウンター罠爆炎結界
 デッキから炎属性モンスター3体を墓地に送り、業火の結界像を特殊召喚! カードを1枚ドローする!」
 本当は最初のターンに出したものと合わせてロックをかけるつもりだったが、グランドクロスによって破壊されてしまった。
 それでも、このターンに十海のライフポイントを大きく奪えることに違いはない。
「業火の結界像、プロミネンス・ドラゴンで攻撃!」
 グランドクロスはフィールド上の全てのモンスターを破壊する。それは、十海の場にいたモンスターも例外ではない。
 つまり、このターン、彰は直接攻撃することができる。
「カードを1枚セット。エンドフェイズにプロミネンス・ドラゴンの効果だ」
 すでに十海の場はガラ空き。そして、ライフポイントは半分近くまで削った。
 それでも、彰は胸の高鳴りを抑えられなかった。ドローを終えた十海が、このターンで仕掛けてくることを、その視線に宿した闘志で語ったからだ。
魂の解放発動! 墓地から2体のネクロフェイス及び3枚のカードを除外して、ネクロフェイスの効果発動! 互いのデッキから10枚のカードを除外する!」
 10枚。それは、彰のデッキの初期枚数の4分の1だ。爆炎結界でデッキを大幅に圧縮してしまった彰にとっては、かなり大きな枚数となる。
 そして、十海の本当の目的は次のカードで明らかになる。
D・D・Rを発動! 手札を1枚捨てて、除外された紅蓮魔獣 ダ・イーザを特殊召喚! ダ・イーザは炎属性だから、業火の結界像がいても特殊召喚は阻害されない!
 そして、除外された私のカードは14枚。ダ・イーザの攻撃力は5600!」
 赤い鱗に覆われた翼、鋭い鍵爪、力の象徴たる合計四本の角、長い尻尾、黄金の瞳を光らせて二人の絆のカードが舞い降りる。
 業火の結界像がいるので、プロミネンス・ドラゴンには攻撃できない。しかし、業火の結界像に攻撃したほうが、より多くのライフポイントを削ることができる。
 魔獣が吼えて、彰のライフポイントは大きく削られた。

日生 彰LP3100
モンスターゾーンプロミネンス・ドラゴン
魔法・罠ゾーン伏せカード×1
手札3枚
デッキ15枚
七山 十海LP4500
モンスターゾーン紅蓮魔獣ダ・イーザ
魔法・罠ゾーン何もなし
手札0枚
除外14枚

 ダ・イーザの攻撃力は5600。彰のデッキの中のどのモンスターよりも高い。
 そんな怪物を相手にして、彰は笑っていた。
「来たな、ダ・イーザ。それじゃあ、俺もこいつを使う! 儀式の準備発動!」
 彰の墓地から1枚の儀式魔法が、デッキから青い枠のモンスターカードが手札に加えられる。
「だけど、そのカードを召喚しただけじゃダ・イーザは倒せない」
 攻撃力では、ダ・イーザが圧倒的に上なのだ。加えて、そのカードの効果を発動するには3枚の魔法カードが必要になる。その前に、儀式召喚のための生け贄も用意しなくてはいけない。
「そいつはどうかな! 異次元からの帰還、発動!」
 除外されていた彰のモンスターが次々と場に戻ってくる。そして、彰は灼熱の試練を発動した。
逆巻く炎の精霊、プロミネンス・ドラゴンを生贄に、伝説の爆炎使い(フレイムロード)を儀式召喚!
 テラ・フォーミングを発動! デッキからバーニングブラッドを手札に加えて、その場で発動! 更に、サラマンドラを爆炎使いに装備する!」
 炎の剣を持って、逆の手には紅蓮の魔法を抱きながら、青い帽子をかぶった長身の魔導師が、火山に降り立つ。
 このモンスターも、二人の絆を象徴する一枚だ。十海は自分の心が熱くなっていくのを感じた。
「これで魔法カウンターはそろった! 伝説の爆炎使いの効果発動! フィールド上の爆炎使い以外のモンスターをすべて破壊するッ!」
 紅蓮の魔法がはじけて、互いのフィールドのモンスターをすべて焼き尽くす。
 圧倒的な攻撃力を持っていたダ・イーザでさえ、例外ではない。その炎はこの場にいる全てを焼き払うのだ。
 不安も恐れも、立ちはだかる何もかもを吹き飛ばしてくれる心強い灼熱。それでいて、優しい彼の炎は心をこれ以上なく熱くさせてくれる。
「爆炎使いで攻撃だ! 行けぇ!」
 ガラ空きになった十海に、抗う術はない。炎の剣を構えた魔導師の一撃で、十海のライフポイントは風前の灯になった。
「これで残りライフは900だな。カードをセットしてターン終了だ」



 十海の心をも焦がす爆炎使いのカード。今は敵として対峙しているのに、このドローで状況をひっくり返さなければ、負けてしまうと言うのに、そのカードから力をもらえるような感覚だった。
 願わくば、最高のカードを使って闘えるように。この熱い闘いに相応しいカードで、決着をつけられるように。
 呼吸さえ苦しくなるような、時間が遅くなる感覚。それでいて、不快ではなかった。ただ、この一瞬が愛おしくてたまらない。瞬きをしてしまうことさえ惜しい。
 爆炎使いの攻撃力は3600。異次元からの帰還を使って、彰のライフポイントは残り1550。
 心の奥底から、甘美な熱が全身を駆け巡った。引いたカードを見て笑って、同じように笑ってくれている彰のためにも、この瞬間を最高に楽しむ。
 熱に突き動かされて、笑みがこぼれる。同時に頭の片隅に芽生えたのは小さな寂寥感。この楽しい戦いが終わってしまうことを、惜しんでいるのだ。
 けれども十海は迷わずに、絆のカードを呼び戻すため、この世で最も熱い闘いに幕を下ろすため、また二人で手をつなぐため、そのカードを使った。
死者蘇生ッ!」
















 爆炎使いがフィールドから姿を消し、やがて世界で一番熱い闘いが終わって、どちらからともなく手を握った。
 先ほどまで白熱していたためか、暖かいを通り越して、その手は少し熱い。
 かすかに滲んだ汗の感触も、全力で戦った証。心地よくて、少し照れくさいような熱だ。
「彰」
 どんな言葉をかけようか、ずっと迷っていた。
 辛いことを思い出して、悲しい現実を知って、それでもまた笑い合えるように、必要な言葉を探していた。
 ただ一言。見つかったのはただの一言だった。だから、自分の中にある気持ち全てを込めて、言った。
「帰ろう」
「うん」
 悲しみと後悔に満ちた過去への旅は終わった。後ろを振り向いて立ち止まる時間は、過ぎ去った。
 二人は柔らかく笑って、前を向いて今を歩き始めた。

 今はまだ届かない想いを、これからもきっと変わらぬ願いを、抱きしめて。
 優しい炎が焼く、茜色の空の下、
 悲しい始まりの場所を離れて、たくさんの笑顔が待つ、帰るべき場所へ。
 二人は歩いていく。
 手をつないで、ゆっくりと。

 つなぐその手は、誰のものより愛しくて
 つなぐその手は、今までずっと望んできたもので

 なくしたものは拾えなかったけれど

 つなぐその手は、一番大切なものをしっかりと握っている。



 おわり





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