引き裂かれ 砕かれたモノ

製作者:表さん




※注意!
 本作はラギ先生の作品【Slash&Crush】の二次創作小説となっております。以下の2作品が“既読前提”となります。まだ読んでいない方は、回れ右して下さい。
・【Slash&Crush】
・【ミオちゃん はじめてのデュエル大会】
 また、本作は【Slash&Crush】本編と直結したものではなく、あくまで“If”のストーリーであることを、くれぐれもご了承下さい。








 ――“彼”がこれまでの人生の中で、本気で「死にたい」と思うことは3度あった。

 1度目は、就職した会社が倒産し、再就職先も全く決まらなかった時期。
 2度目は、愛した人の死を知ったとき。
 3度目は、肉親の命をこの手で奪ったとき。

 願えば叶うと思っていた。
 祈れば届くと信じてきた。

 ――取り戻せない過去
 ――守りたい現在(いま)
 ――手に入れたい未来

 誰にでもある希望。誰にでもある痛み。
 たとえばこれは、引き裂かれ砕かれた、ある男の生の物語――。





Diary 6/1
 国語の成績があんまり良くない。とくに記述問題が苦手だ。
 前に担任が日記を書くと文章力がつくと言っていた気がするから、ためしに始めることにした。
 十護も始めると言い出したがいつまで続くだろうか。あきっぽいからなあいつ。
 十護よりは続けよう。兄として負けるわけにはいかない。


Episode.1 十年後の世界

 ――ゆさゆさ、ゆさゆさ

「クロウ、起きてよクロウ!」
「ん……」
 可愛らしい声と、体をゆすられる感覚に、クロウ・ササライは眼を覚ます。
「ん……ミオ、おはよう……早いな……」
「もう、なにいってるの。遅刻しちゃうよ!」
「……なに?」
 クロウはぱっちりと目を覚まし、時計を見やった。
 なるほど、確かに際どい時間だ。そのくせ身体は、まだまだ睡眠を要求している。

 三十路を過ぎ、40の大台に乗ったころからだろうか――ほとんど徹夜が出来なくなってしまった。
 もう歳かな……と、クロウは心の中で呟く。

「ほら、朝ごはん出来てるから、はやく食べちゃって!」
「……ああ」
 ぱたぱたとかけていくミオ。ハイスクールに通うようになってからは、ほとんどミオが家事をこなすようになっていた。
(俺が16の頃は……あんなにしっかりしてたかな?)
 未だ半分寝ぼけた頭でそんなことを考えていると、ミオから催促の声が飛んできた。
「クロウ〜、はやくして!」
「……わかった」
 だるい身体を持ち上げて、クロウは着替えを始めた。




「しかし、ミオ。先に食べていてもいいんだぞ。いろいろ忙しいだろう? 課題も増えたようだし」
「やだ。ひとりで食べるのキライ」
「……そうか」
 とりとめない会話を交わしながら、ミオの作ってくれた朝食を食べる。親の欲目が入っていることは否めないが、正直うまい。
「クロウ。今日は遅くなる?」
「ん……、今日は外回りだけだからむしろいつもより早くなると思う」
「そっか、私も午前だけだから、晩御飯もいっしょに食べれるね」
 ふふ、腕によりをかけてご飯つくらなくちゃ、とばかりにミオは気合を入れる。
「……せっかくだから、今日は俺が作ろうか? なんか結局、ほぼ毎日作ってもらってるしな」
「いいよ、子供のころはクロウに毎日つくってもらってたんだから、今度は私がつくるよ」
「……それは保護者として当たり前なんだが……。じゃあ、一緒につくってみようか?」
 思いつきで提案してみると、ミオは目を輝かせた。
「ん! それいいね。よーし、こんどこそクロウのボルシチの味、盗むぞー。めざせ、おふくろの味!」
「……名目上、俺は父親だから、正確には”おやじの味”だな」
 えー、それだとなんかマズそう! などと言いながら笑い合っていたら、案の定時間がやばくなった。結局二人してあわてて家を出る羽目になった。




「……熱い……」
 何とか遅刻を免れたクロウ。だが今度は外回りに出て、炎天下で歩き回ることになり、すっかりグロッキー状態になってしまった。
「……少しだけ……休憩を……」
 砂漠の中でオアシスを求めるような気持ちで、近くの喫茶店に入った。
「……アイスコーヒーを」
 適当に注文をすませ、カウンターで一息つく。
 ああ、冷房の素晴らしきことかな。しかし一応就業時間中だ。コーヒーを飲んだらすぐに出よう……などと考えていると、
「ん? クロウじゃないか?」
 聞き覚えのあるハスキーボイスに振り返る。目に入ったのは、燃え立つ赤毛だった。
「……ヘルガさん」
「なんだ、さぼりか?」
 男前な笑みを浮かべ、クロウの隣に腰かける。
「……そういうヘルガさんはどうなんです?」
「ん? まあ、似たようなもんさ。というわけで、お互いこれは不問ってことで」
 そう言って笑いながら、彼女はクリームソーダを注文した。案外子供っぽい嗜好なのかもしれない。



「――そうか、ミオちゃんはもう16になるか。はやいもんだな」
「ええ、最近はほとんど家事もやってもらってるし……なんだか形無しですよ。ありがたいけど」
「へえ、えらいな」
 そういって談笑していると、思ったよりも時間を食ってしまった。
「おっとまずい。そろそろ仕事に戻らないと……、ではヘルガさん、また……」
「待った、クロウ」
 立ち上がろうとしたクロウの手を、ヘルガがとる。
「? なんですか?」
「……やはりな、指輪の効力が落ちてきているようだ」
 ヘルガの視線はクロウの指にはめられた、銀の指輪――ハモンの力を抑える指輪へと注がれている。
「まだ、心配するほどじゃないと思うが……クロウ、仕事が終わってからでいい。念のため、『隠された知識』の本部室に来て欲しい」
「……わかりました」
 そういって別れた後、ミオにメールを入れておく。『すまない。急用ができた。もしかしたら遅くなるかもしれないので、場合によっては先に食べててくれ』……ハモンうんぬんは、余計に心配されるかも知れないので、黙っておいた。

(……あれから十年……か)
 銀の指輪を見つめながら、時の流れに感じ入る。
「……おっと、そろそろ時間だ」
 再度確認すると、予定の時間が迫っていた。
 クロウは気を引き締め直すと、クライアントのもとへと向かった。





Diary 4/8
 今日は十護の入学式だった。これから2年間、また同じ学校に通うようになるのだと思うと、なかなか感慨深い。あいつももう高校生なのか。

 などと考えていると、十護が大それたことを言ってきた。入学早々、TRPG部を作るのだという。おれを勝手にメンバーに入れているあたり、あいつらしいと思った。まず同好会を目指すようすすめておいたが、一体どうなることやら。
 TRPGは確かに好きだし、できるだけ協力はしてやるつもりだ。兄として。


Episode.2 砕かれる現在(いま)

「思ったよりは、はやく終わったな……」
 時間は夜7時半。指輪のことも、拍子抜けするぐらいはやく終わった。ミオからのメールで『買い物は済ませました。ゆっくりしてきてください』との返信があってからそう時間が経っていないので、まだ夕食の準備に取り掛かっているかいないかだろう。

「ただいま、ミオ」
 家に入ると、なぜか暗い。
「なんだ? ……電気もつけないで」
 台所にもミオはいない。奥に進むと、ミオの部屋のドアが半開きになっている。
 その薄暗い部屋の中で、ミオは膝を抱えてうずくまっていた。
「……ミオ、どうした?」
 クロウが思わず声をかけると、ミオは心底驚いたように、跳ね上がった。
「! クロウ、どうして?!」
 何故だか、彼がここにいることがあり得ないような声の調子だった。
 クロウは部屋に入ると、手探りにスイッチを探し、電灯を点けた。
「……いや、仕事と……それと指輪のことも思ったより早くに終わったから……」
「指輪?」
「ああ、これ、ハモンの指輪。効力が弱くなってたらしいのだが……ヘルガさんにすぐに直してもらえた。なんの心配もない」
 思わず、指輪のことも口を滑らせてしまったが、別に問題はなかったのだ。それを示すように指輪を見せる。
「……指輪……そっか……そうだったんだ……私……てっきり……今日はヘルガさんと一緒に……帰ってこないかと……」
 合点がいったという安堵の表情と、恥ずかしさの極地、というような表情、その両方が混じった様子のミオ。
「……もしかして、ミオ、俺が昼にヘルガさんと会ってるの見たのか?」
「!!」
 先ほどのつぶやきから連想したのだが、ミオの表情からして、ドンピシャらしい。

 ――そういえば、今日は学校は午前までといってたから時間的にも合う。それに喫茶店でのヘルガさんと別れる直前の様子を見たのなら……誤解もありうるかもしれない。

「……しかし、ミオ。珍しいな、こんな早とちり」
 クロウは軽く笑うが、ミオの表情はすぐれない。
 もしかして、からかい過ぎただろうか――そう思い、フォローを入れることにする。
「いや、まあ、ヘルガさんとはほんとな「あのね、クロウ」
 なんとか、場の空気を和ませようと口を開いたが、ミオの強い声に塗りつぶされた。
「……私、今日告白されたの。ハイスクールの先輩。生徒会長で……女子の人気の的の人から」
「……え?」
 いきなりの告白に、今度はクロウが驚いた。
「……それから……クロウがヘルガさんと会ってるのを見たの……。私が見た時は……二人が手をつないでて……まるで、ヘルガさんがクロウに行かないで、って言ってるみたいにみえた」
「……そうか」
 なるほど、全体像が見えてきた。
 つまるところ、その生徒会長に告白されて戸惑っているときに、俺たちが会っているのを見て、心の整理がつかないまま、誤解してしまった、といったところか――クロウはそう理解した。
「ん……、まあ、そんな事情があったのか。そんなこともあるさ」
 ぽん、とミオの頭に手を置く。
「告白されて、いろいろ心が整理つかない時に……心配かけたな、すまない」
「……告白のほうの整理はついてるの。お断りする。もう、好きな人がいますって」
 しかし、ミオはいまだどこか思いつめた声色のまま言葉を続ける。
「ほう、それは俺としても聞き逃せないな。誰なんだ、いったい?」
 ミオのどこかこわばった様子を緩和しようと、ちょっと冗談めかして聞いてみた。
「……」
 ぼそり、となにか言ったようだが、聞き取れない。
 「ん?」と言い、かがんだそのとき。

 ちゅ。

 ……唇に、温かく、湿った感触。

 数秒遅れて、ミオにキスされたのだと、理解した。
「……ごめんね、クロウ。私が好きなのは、クロウなの」
 そういって、ミオが体を預けてきた。
 どっ、どっ、どっ、と心臓の鼓動が痛いほど伝わってくる。
「年も離れすぎてるし……変なのかな、って思うときもあった。でも関係なかった。私が好きでいられれば、それでいいって」
 クロウの胸元にうずめていた顔を、ミオは見上げる形に直す。
 雪のように白い肌が、夕焼けに染まったように、今は、紅い。
「でも……ヘルガさんと会ってるのを見て……いやだ、って思った。クロウにも私を見てほしい……私を……好きでいてほしいって……」
 花弁を思わせる唇から、吐息がもれる。
 黒い真珠のような瞳に、呆けたクロウの顔が映っている。
「ごめんね、クロウ……好きになって……ごめんね……でも……大好き……大好きなの……クロウ……」
 再び、胸元に顔をうずめるミオ。
 しっかりと、離れないように。
 まるで一つにならんとばかりに。
 その身を預けてきた。
 高まった体温と高鳴る心音――その発生源がどちらなのか、わからなくなるほどに。





Diary 6/14
 高天原さんが、あんなことを言うとは思わなかった。
 あれはどういう意味だったのだろう。何かの聞き違いだったのではないか、今でもそう疑っている。
 結局、彼女はあの後、何事もなかったように振舞っていた。やはりおれの自意識過剰だったのだろうか。

 ただ、真意を知れたとして、おれに何が出来るだろう。彼女には、家の決めた許婚までいるというのに。


Episode.3 引き裂かれた過去

 クロウは恐る恐る、手を伸ばした。
 華奢な肩を、両手に掴む。温かくて、小さな身体。それでも10年前よりは、ずっとずっと大きくなった。
 10年間、色々なことがあった。楽しいことも悲しいことも、嬉しいことも辛いことも、全て彼女とともにあった。何よりも大切で愛おしい、たったひとりの少女。
 だから、
「……やめろ……ミオ」
 口から出たのは、拒絶のことば。
 両手に力を込めて、けれど出来るだけ優しく、ミオの身体を離した。
「……あ……っ」
 声が震えていた。
 顔を見ることが怖くて、クロウはすぐに背を向けた。
「ミオ……俺は父親だ。それ以上でも、以下でもない」
 努めて冷静に、諭すように言う。ミオに、そして自分自身に。
 早足で、逃げるようにドアへ向かった。そしてノブを掴んだとき、ミオが小さく呟く。
「……ごめんね……クロウ」
 心臓を抉るような、重く深い一言だった。





(何故……俺は、こんなにも動揺している……?)

 自室に戻って着替えを済ませ、ベッドに身体を横たえる。

 ミオと出会って10年。彼女を引き取り、育てると決めたあの日。
 償いの気持ちは、確かにあった。十護を殺した罪、取り戻せない過去。それを振り切りたいがために、彼女を引き取ると決めた――そういった側面があったことは、確かに否めなかった。
 それでも彼女と過ごした10年間は、そんなことなど忘れさせる、何よりも尊くて輝いた日々だった。

「……16歳、か……」

 ミオは高校生になった。
 白磁の肌に、黒絹の髪。同年代の中で、誰よりも美しく、可愛らしいであろうミオ。
 そんなミオに対し、“彼女”の面影を見るなというのは、到底無理な話だった。

「……尚樹……俺は……」

 眩暈に似た感覚を抱き、薄闇の中、瞳を閉じる。
 今日は暑くて、体力を消耗していたせいもあったろう。何かに引き寄せられるかのように、クロウは眠りについていた。


 引き寄せたのは、過ぎた記憶。取り戻せない、壊れた過去。
 それはクロウが、高校二年生の時。十護や尚樹たちと、TPRG同好会を作って一月あまり経った頃のことだ。


 ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


「九郎くんってさ……どういうタイプの女の子が好きなの?」
「……はぃ?」
 生徒会で、2人で作業をしていたとき。
 尚樹は九郎に対し、不意討ち気味に、そんなことを訊いてきた。
「どういうタイプって……俺はその、別に……」
 あからさまに狼狽し、口ごもる。そんな九郎の様子を見て、尚樹はクスクスと笑っていた。
「面白い人だよね、九郎くんって」
「……お、面白い?」
 九郎は心底、首を傾げた。明るく社交的な十護ならともかく、インドア派な自分には、あまりに不似合いな評価に思えたからだ。
「最初に会ったときは、物静かでクールな人かと思ったけど……今は、印象が全然違うな。ちょっとしたことで悩んだり、喜んだり……感情がとても豊かな、繊細な人。けれどそれを、外面にはあまり出さない人……」
「……その言葉、そっくりそのままお返ししたいんだけど……」
 躊躇いがちにそう返すと、尚樹は一瞬戸惑ったあと苦笑いした。
「そっか……似た者同士なんだね、私たち」

 ――全然似ていないと思った。
 ――尚樹は全校生徒が認める高嶺の花だ。それに、彼女が他人と深く関わろうとしないのは、彼女自身の意志ではない。高天原家という巨大な名家、それ故に、周囲の人間は自然と壁をつくってしまう。

 ――俺とは違う。俺はただ、臆病なだけだ。感情を表に出すこと、決心して踏み出すことに、いつも躊躇を覚えてしまう。
 ――そこに、特別な理由は何もない。十護のように、明るく人と溶け込むことができたなら、もっと行動力を持てたなら……そう思ったことは何度もある。

「……それで? 九郎くんは、どういう女の子がタイプなの?」
 儚げな笑みを崩し、尚樹は興味津々に問い直してきた。
 この手の話題は苦手だった。マトモに答えた覚えがない。何とか誤魔化せないかと思い、九郎は咄嗟に質問を返す。
「そういう高天原さんはどうなんだ? どういうタイプの男が好き?」
 尚樹は一瞬驚いた顔をし、同じように口ごもった。
 言ってしまってから、九郎はかなり後悔した。もしかして自分は、相当にデリカシーの無い質問をしてしまったのではないか――と。

 尚樹には、家の定めた許婚がいると聞く。
 つまり彼女には、自分の好みの異性など選ぶ権利は与えられていないのだ。

「あー……いや、何でもない。今のは忘れてくれ」
 そう言って九郎は誤魔化し、手元の作業に戻ることにした。早く終われば同好会の方にも顔を出せるかも知れない、そう自分に言い聞かせて。

「――じ、自分に似た人……とか」
「……へっ?」

 彼女の発したその一言に、時間が凍った気がした。

 ――そ……それはどういう意味だ? まさか高天原さんは俺のことを?
 ――い、いや、外交的な十護ならともかく、まさか俺のことなんか……

 九郎は困惑し、フリーズしてしまう。
 彼女の様子を窺うこともできず、ただ手元の書類を見つめ、固まってしまった。

「……ごめん、今のは忘れて」
「……え」

 彼女のたった一言が、九郎に掛かった魔法を解いた。
 ハッとして、九郎は彼女の方を見た。彼女はもう、彼の方を見てはいない。先ほどの九郎と同じように、手元の書類へ視線を落としていた。
「早く終わらせちゃいましょう。急げば、同好会の方にも顔を出せるかも知れないし」
「あ……う、うん」
 その通り、急いで作業を終わらせると、十五分だけ同好会に合流することができた。



 ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●



「――尚樹と十護はいつから……お互いに好き合っていたんだろうか」
 目覚めると同時にクロウは、そんなことを呟いていた。





Diary 12/22
 気持ちが全く整理できない。
 こんな気持ちで日本を発つことになるなんて、思いもしなかった。

 認められないおれが悪いのか。少なくとも、二人は何も悪くない。それは分かっているけれど、この気持ちをどこへ向ければいいのか、どうしても分からない。

 もう考えるのはやめよう。おれは夢を叶えに行くのだ。
 夢を叶え、いつかまた、二人に会えたそのときには、
 あいつらを心から祝福してやることができるだろうか。


Episode.4 重なる痛み

 白くて冷たい、雪の記憶。
 遠い、あまりにも遠い――けれど凍てついて溶けない、永久の痛み。

『俺……は、笹来十護は、高天原尚樹と一緒になろうと思う。一緒に……生きていこうと思っている』

 出発と告白を決意した、雪の降る日。
 その日、クロウは尚樹に伝えたい言葉があった。「好きだ」と、ただ一言伝えたかった。十護からの話がなければ、きっと伝えていたはずだ。


 ――伝えて、それで……きっと終わっていた。
 ――俺は十護とは違う。十護のように、駆け落ちをする覚悟なんてなかった。ただ自己満足のために、想いを吐き出し、楽になりたかっただけだ。

 ――尚樹はそれを分かっていたのかも知れない……俺が“そういう人間”なのだということを。

 ――尚樹は「高天原家」という“檻”から、自分を連れ出してくれる人間を求めていたのだろう……だから十護を選んだのか。

 ――本当に欲しいものは、たとえどんな障害があっても、倫理に反してでも手に入れようとする……そういう強い意志と行動力を持ったアイツを。


「……俺は、お前にはなれないよ……十護」

 天井を見上げながら、クロウは小さく呟いた。





 時計の針を確認すると、普段より1時間以上も早い起床だった。寝るのはそれ以上に早かったのだから、むしろ寝すぎたくらいなのだが。
(あの後……ミオはどうしただろうか?)

 ――ミオはちゃんと、食事をとったのだろうか
 ――昨日は一緒に食事を作る約束だったのに……悪いことをしてしまったな

「……シャワーくらい浴びておくか」
 クロウは、のそのそと部屋を出る。
 時間的に、ミオはまだ寝ているだろう……そう思い、起こさないように静かに歩く。しかしダイニングの方から、人の動く気配がした。

 恐る恐る、覗き込む。するとミオが、朝食の準備を始めていた。

 どう出て行くべきか分からず、クロウは困惑極まった。
(……いったん部屋に戻るか? だが、その後はどうする……)
 半分隠れた状態で悩む。すると気配に気が付いたのか、途中でミオが振り返ってしまった。

「あ……おはよう、クロウ。今朝は早いね」
「あ、ああ、おはよう」

 あまりにも普通の反応だった。昨夜のことが、まるで夢だったかのように。

「夕べはクロウ、帰ってすぐに寝ちゃったよね。シャワー浴びておくでしょ?」
「ん……ああ。そのつもりだったが」

 寝起きで動きの鈍いクロウのかわりに、ミオはてきぱきとタオル・着替え一式を用意してくれた。

「ハイ。今朝は早いからゆっくりできるね。ご飯は和食で良かった?」
「ん……ああ。ありがとう、ミオ」

 上機嫌なミオの様子に、クロウは小首を傾げた。
(もしかして、本当に夢だった……か?)
 思えば昨日は、暑い中の外回りでかなり疲れていた。
 疲労のあまり眠りこけ、おかしな夢を見てしまったのだろうか……そんな可能性も疑い出す。
 釈然としないものを感じながら、クロウはダイニングを出ようとする。
 そのとき背中から、ミオが小さく言葉を紡いだ。

「……ごめんね、昨日のことは忘れて」
「……え」

 ハッとして、クロウはミオに振り向いた。
 ミオはすでに、彼の方を見てはいない。朝食の準備に戻っている。

 クロウは咄嗟に口を開いた。しかし何の音も、その中からは出て来ない。


 ――何を言うつもりだ?
 ――ミオの気持ちに応じる……? 馬鹿かクロウ。相手は20以上も歳の離れた子供だ。それも、父親代わりとして育ててきた……冷静になれ。
 ――昔の尚樹を重ねているだけだ。ミオ自身を好きなわけじゃない。不純な動機だ。
 ――世間が何と言う? ミオが報われるとでも? 倫理的に許されるか?
 ――お前の自己満足のために、ミオの未来を踏み躙るつもりか?


 理性が勝った。クロウは何も言うことなく、ダイニングを出て行く。

「変わらないな……俺は」

 自分だけに聞こえるように、自虐的に呟いた。





Diary 6/3
 面接試験の不合格通知が届いた。今回は好感触だっただけに、本当にショックが大きい。気が狂いそうだ。

 再就職先の目処は未だに立たない。貯金も減っていく一方だ。
 いっそゲーム業界以外の会社も受けるべきなのか。だがそれでは、わざわざ大学を中退し、アメリカまで来た意味がない。それではだめだ。

 おれは何をしているのだろう。こんなはずじゃなかった。おれは夢を叶えに来たはずなのに。何でこんなことになってしまったんだ。

 最近、夢をよく見る。高校時代の夢だ。
 十護がいて、尚樹がいて。三人で過ごした時間は本当に楽しくて、かけがえのない日々だった。
 そして朝起きたとき、現実を思い出し、今の自分が惨めでたまらなくなる。過去ばかり追ってしまう自分を、心から嫌悪してしまう。

 あいつらはどうしているのだろう。幸せに暮らしているのだろうか。きっとそうだろう。少なくとも今のおれよりは。

 うらやましい。ねたましい。
 何で十護なんだ。何でおれじゃだめだったんだ。何でおれだけ、こんなに苦しまなくちゃいけないんだ。あいつらも同じように苦しんでいればいいのに。

 そんなことさえ考えてしまう自分が、本当に嫌になった。
 知らなかったんだおれは。おれも世界も、こんなにも醜くて汚かったことを。

 知らずにいた頃に戻りたい。戻ることができたなら、どれほど幸せなことだろうか。


Episode5. 友と憧憬

 精神状態がどうであれ、気安く休むわけにもいかない。それが社会人の辛いところだろう。
(学生時代なんかは、授業中ちょっとウトウトするのもアリだったんだがなあ……)
 歩きながら、クロウは思う。
 もっとも学生時代でも、それは本来ナシなのだが――給料という対価がある以上、その意識格差は当然というべきか。

「……それにしても、暑い……明らかに昨日以上だぞ」
 炎天下での外回りに、クロウは再びグロッキー状態になっていた。精神的にも肉体的にもボロボロだ。
(体力落ちたかな……そういえば最近、ロクに運動してないな)
 休日もゴロゴロしていることが多くなった。
 ミオが小さかった頃には、そんなことなかったのに。
(……色んな所に連れて行ってやったよな。動物園とか遊園地とか……学校行事に参加する事もあったし)
 懐かしい日々に思いを馳せ、クロウは微笑む。しかしすぐに、その表情は暗く沈んだ。
 今はミオのことを思うと、気分が憂鬱になってしまう。
「……少しだけ……休憩を……」
 砂漠の中でオアシスを求めるような気持ちで、昨日と同じ喫茶店に入った。
「……アイスコーヒーを」
 適当に注文をすませ、カウンターで一息つく。
 ああ、冷房の素晴らしきことかな。しかし一応就業時間中だ。コーヒーを飲んだらすぐに出よう……などと考えていると、
「ん? クロウじゃないか?」
 ……何というデジャビュ。しかし聞こえたのは男の声だ。振り返ると目に入ったのは、アホみたいに逆立った銀髪だった。
「……何だお前か」
「何だはないだろクロウ。親友に向かって」
 許可もとらずに、クロウの隣に腰掛けてくる。


 彼の名前はウィラー・メット。
 かつてはクロウと同じ、カードプロフェッサーだった男だ。
 容姿は箒頭。人気は結構良いらしい。
 今では名の知れたプロデュエリストであり、たぶん上の下レベルくらいの決闘者だ。


「誰が“上の下”だ! 誰が!」
「……? 誰に話しているんだ?」
 地の文にツッコむな、ギャグ小説になってしまうだろう。

 とかやってるうちに、アイスコーヒーが2つ運ばれてきた。一つはウィラーの分らしい、いつの間に注文したのやら。

「!! あっ…うまいぞ!! このコーヒー」
「……そうか? 普通だと思うが」

 クロウはさっさと飲み干すと、置かれた伝票を手に取った。
「じゃあなウィラー。俺は仕事中なんで」
「待った、クロウ」
 立ち上がろうとしたクロウの手を、ウィラーがとる。
 クロウは一瞬ヒヤリとするが、平静を装って言う。
「俺は仕事中なんだ。悪いがこれで……」
「まーそう言うなって! 実はな、ちょうどお前に用があったんだよ!」
 そう言って、ウィラーは上着のポケットに手を入れる。
 何が出てくるかと思えば写真だった。予想通りの展開に、クロウはうんざりする。

 ウィラーが取り出した写真、それは彼の妻と娘のものだ。
 ウィラーはここ十年程の間に結婚し、今では6歳の娘がいる。
 そして延々聞かされるのは、二人の自慢話のループ。話している方は楽しいのだろうが、聞く方は正直苦痛気味だ。

(算数で百点とってきて、将来は大統領になるかも……って、どれだけ親馬鹿なんだお前は。小1のテストなんて、大概そんなもんなんだって。わざわざ写真に撮るようなことじゃな……って、俺も撮ったかそういえば)
 抜け出すタイミングを逸し、クロウは延々とウィラーの自慢話に付き合わされた。
 一方的に話し続けられ、テキトウに聞き流すことにする。
(今ほどじゃないが……もともと喋り好きなヤツだったよな、コイツは)
 ふと過去を思い返し、懐かしい気分になる。


 カードプロフェッサー協会『プロフェッサーギルド』に所属し、賞金稼ぎとして過ごした日々。
 失職し、明日の食い扶持もままならぬ極貧生活から抜け出せたのは、間違いなくその存在のおかげだった。
 ウィラー達とともに大会に出、高額の賞金で生計を立てた日々――そしてその“終わり”の時のこと。
 淡い希望の後に待っていた、果てなく深い“絶望”の穴。


「――そういやさ、最近ミオちゃんとは上手くやれてるのか?」
「……へっ?」
 不意の問い掛けに、クロウは心底ドキリとした。一瞬、昨夜のやり取りを知られているのかとも焦った。
「もう16歳だろ? 『洗濯物いっしょにしないで!』とか『クロウ、臭い!』とか、そろそろ言われないのかよ?」
「……言われるわけないだろ」
 冗談めかした口調に安心し、クロウは水を口に運んだ。
 それどころか告白されたなんて、口が裂けても言えない。
「……。そういえばお前さ、今の奥さんと結婚するの、結構大変だったんだよな?」
 ふと思い出し、訊いてみる。
 ウィラーは一瞬驚いたような顔をしたが、感慨深げに頷いた。
「アイツの実家、ちょっと古い感じの家だったからな……プロデュエリスト、ってのに理解がなくってさ。散々反対されたよ。でもまあ、休日の度に頼み込みに行ってよ……最後はまあゴリ押しだったな。我ながらカッコ悪かったぜぇ? でも、アイツ以外と結婚なんて考えられなかったからさ……必死で、とにかく頼みまくった」
「……そうか。すごいなお前」
 クロウは素直に賞賛する。険しい障害を乗り越え、本当に欲しいものを手に入れたのだから。

 ウィラーは意外そうな顔をしてから、「まあな」と誇らしげに笑った。

「……本当にすごいよ、お前は」

 ――俺にはとても真似できそうにない
 ――お前のことも……十護のことも






Diary 9/6
 やはり噂は本当だった。
 プロデュエリスト登録の勧誘が、おれの所にも来た。

 カードプロフェッサーは所詮、日陰者だ。ギルドからの指示があれば、汚い仕事もこなさねばならなかった。だがギルドの解散も決まった今、そういった縛りはなくなるはずだ。おれ達は表舞台に立つことになる。

 にわかには信じられないことだが、彼らの話が本当なら、プロ入りの決まったデュエリストは各メディアに取り上げられ、まるでヒーローのような扱いを受ける予定だそうだ。そんな大役がおれに務まるとは思えないのだが、正直悪い気もしない。

 アメリカに来て、本当に色々なことがあった。
 当初思い描いていた自分とは違うけれど、これで良かったのだろう。おれはデュエルモンスターズが好きだし、デュエリストとしての誇りもある。それを職業とし、生きてゆけることを本当に嬉しく思う。
 形は違ってしまったけれど、おれは夢を叶えたのかも知れない。今後、プロとして活動するおれの姿を見て、デュエルの楽しさを知ってくれる子ども達がいたならば、それはどれほど幸せなことだろうか。

 十護と尚樹は今頃どうしているだろう。もう何年も経つ、子どもの一人もいるのかも知れない。プロとして活躍できれば、彼らの耳に届くこともあるだろう。二人にまた会える日が、もしかしたら来るかも知れない。

 今なら言えると思う。あの日言えなかった、祝福のことばを。
 おめでとう、と。

 契約締結は3日後、9月9日。今からその日が待ち遠しい。


追記
 就寝前になって思い出したが、今日はおれの誕生日だった。ここ数年は気にすることもなく、すっかり忘れてしまっていた。
 まさか誕生日に吉報を得るとは。無宗教だが神を信じたくなった。
 これは天からの贈り物なのだ、と。





19XX年9月9日
本日未明、XX山間部にAMA63便が墜落。乗員、乗客あわせて134名が安否不明。
事故による山火事は、消火活動により沈静化。現在は、探索、救援作業に移っている。
(新聞記事より抜粋)


Episode.6 未来(あす)への儀式

 困ったことになった。仕事がほぼ定時で片付いてしまったのだ。
 いや、いつもなら喜ぶところなのだが、今回ばかりは嬉しくない。無駄に居座って残業代を稼いでやろうかとも考えたが、良心に負けて帰途についた。

 どんな顔で帰宅すべきか――クロウはまだ、考えがまとまらなかった。

 ――ミオは「忘れて」と言った。ならば、何事もなかったように振舞うべきなのだろうか。
 ――今はまだ無理だ……けれど努めて振舞えば、後は時間が解決してくれるはずだ。本当に何事もなかったかのように、今まで通りの生活に戻れるだろう。

「……だが……記憶には残る」

 忘れることはできない。無かったことにはできない。
 この記憶もまた、いつの日か“傷痕”となるのだろうか――あの雪の日の記憶のように。そう考えると、クロウは沈痛に顔を歪ませた。




「……ただいま」
 案ずるよりも産むが易しだ。そう考えて、クロウは普段どおりに帰宅をした。
 まずダイニングへ向かうと、そこにはミオの姿があった。
「あ……お帰り、クロウ。今日は早かったんだね」
 声の調子に、いつもより元気がなかった。それでもクロウは、気付かない振りをした。
「ああ。会う約束をしていたクライアントから、延期の連絡が入ってな。よし、今日の夕食は俺が作るかな……何がいい?」
「いいの? それならボルシチを……と、言いたいところだけど。その前に」
 そこで一旦ことばを切って、ミオはクロウの目を見て言う。
「まだ時間も早いし……デュエルしない? これから」
「……デュエル?」
 予想外の申し出に、クロウは目を瞬かせた。
「うん。最近、クロウとしてないなって思って……。久し振りに、ね、どうかな?」
「……それは構わないけど……」
 ミオの真意がすぐには分からず、クロウは少し戸惑った。
 そんな様子を意に介さずに、「やった」とミオは無邪気に喜ぶ。


 お互いに決闘盤を付け、屋外へ出た。


 そういえば、自分のデッキでデュエルをするのも久し振りだ――そう思い、クロウは軽くカードを見返す。仕事でカードのテストプレイをするときは、新カード中心のデッキを組んで使うことが多いのだ。

「言っとくけど、以前の私と同レベルだと思わない方が良いよ? 私のデュエルはクロウと違って、まだまだ成長期なんだからねっ」
「……ほう、それは楽しみだな」
 クロウは余裕げに応えた。
 確かにミオも強くなったろう。しかしまだまだ自分が上――そういう自信が、確かにあった。
 そしてクロウは、何となく分かった気がした。ミオが何故、何の目的でこのデュエルを持ちかけたのか。

 ――多分キッカケにするためだ……元通りの生活へ戻るための。
 ――ミオとは小さい頃から、何回もデュエルをやってきた。それこそ本物の親子のように、俺達2人を結び付けてきたゲーム。俺達にとって、デュエルモンスターズとはそういう存在なのだ。

 互いのデッキシャッフルを済ませ、距離をとる。
 先攻・後攻の選択権を譲ると、ミオは迷わず先攻をとった。

 クロウはカードを5枚引くと、ざっとそれらに目を通した。なかなか悪くない手札だ――クロウは口元を密かに綻ばせる。
 そしてミオを見て、クロウは表情を曇らせた。ミオはデッキからカードを引かず、ただこちらを見つめている。
「……あのね、クロウ。デュエルの前に……一つだけ、話しておきたいことがあるの」
「? 何だいきなり?」
 クロウは小首を傾げる。
「……やっぱり受けてみようかと思うんだ、私」
「……受ける? 何を?」
 何の話だか分からなかった――次の一言を聞くまで。

「……昨日話したこと。言ったよね、ハイスクールの生徒会長で……女子の人気の的の人から、告白されたって」
「……え」

 胃の辺りに、ズシリと重いものを感じた。呼吸を忘れ、息苦しさを覚える。

 ――告白を受ける……? 何故?
 ――ああ、俺が拒んだからか

「……そうか。応援するよ……ミオ」

 やっとのことで、それだけ言えた。
 ミオの目を見られない。クロウは自分の、あまりにも都合の良い誤解に気付き、恥ずかしくてたまらなくなった。


 ――このデュエルは、“修復”のためのものじゃない……“決別”のためのデュエル
 ――俺への想いを断ち、新たな一歩を踏み出すためのデュエル
 ――過去ではなく未来を見据える、成長のための通過儀礼(イニシエーション)


「……いくね、私の先攻。永続魔法カード『召喚雲(サモン・クラウド)』を発動」
 静かな口調で、ミオがカードを盤に出す。


召喚雲
(永続魔法カード)
自分フィールド上にモンスターが存在しない場合、自分の手札または墓地から
レベル4以下の「雲魔物」と名のついたモンスター1体を特殊召喚する事ができる。
この効果は1ターンに1度だけ自分のメインフェイズに使用する事ができる。
墓地から特殊召喚した場合はこのカードを破壊する。


「この効果により、手札から……『雲魔物(クラウディアン)−ポイズン・クラウド』を守備表示で特殊召喚」


雲魔物−ポイズン・クラウド  /水
★★★
【悪魔族】
フィールド上に表側表示で存在するこのカードが戦闘によって破壊され墓地へ送られた時、
このカードを破壊したモンスターを破壊し相手ライフに800ポイントダメージを与える。
攻 0  守1000


「……ターン終了。さあ、クロウのターンだよ」
「……!」

 ――何を動揺している?
 ――そうだ、これでいいんだ……俺は、ミオの気持ちには応えられない。俺では幸せにできない。
 ――ならばせめて、その背を押してやれ……それだけが、自分にできるせめてものことだろう?

「……俺の、ターン。『スピア・ドラゴン』を、攻撃表示で召喚……」


スピア・ドラゴン  /風
★★★★
【ドラゴン族】
守備表示モンスターを攻撃した時にその守備力を攻撃力が越えていれば、その数値だけ相手に戦闘ダメージを与える。このカードは攻撃した場合、ダメージステップ終了時に守備表示になる。
攻1900  守 0


 『スピア・ドラゴン』には貫通能力がある。守備表示の『ポイズン・クラウド』を攻撃しても、戦闘ダメージは通る――しかし『ポイズン・クラウド』の効果により破壊され、さらにダメージも受けてしまう。
「……カードを1枚セットして、ターン終了だ」
 ここは、慎重にゲームを進めることにした。
 現在の手札を踏まえても、この慎重策は悪い選択ではない――そう感じたから。
 けれど、
「……私のターン。『雲魔物−キロスタス』を攻撃表示で召喚」
 クロウは早々に、自身のプレイミスに気が付いた。
 ミオのフィールドに新たに、猫のような顔をした巻層雲が喚び出される。


雲魔物−キロスタス  /水
★★★★
【天使族】
このカードは戦闘によっては破壊されない。
このカードが表側守備表示でフィールド上に存在する場合、このカードを破壊する。
このカードの召喚に成功した時、フィールド上に存在する「雲魔物」と名のついた
モンスターの数だけこのカードにフォッグカウンターを置く。
このカードに乗っているフォッグカウンターを2つ取り除く事で、
フィールド上のモンスター1体を破壊する。
攻 900  守 0


「そして効果により、フォッグカウンターが2個乗るよ。そしてその2個を取り除いて……効果発動! クロウの場の『スピア・ドラゴン』を破壊!」
「……っ!」
 クロウのドラゴンが砕け散る。
 雲魔物は、場に存在する雲魔物の数だけフォッグカウンターを置ける――つまりは、場に多く並ぶほどに脅威となる。倒せるときに倒さなければ、取り返しのつかぬ戦況になってしまうのだ。
「そしてバトルフェイズ……! キロスタスで、クロウに直接攻撃!」

 ――ビュォォォォッ!

「ぐ……っ!」
 キロスタスが白雲を吐き、クロウに浴びせ掛ける。

 クロウのLP:4000→3100

「カードを1枚セットして……ターン終了だよ」

 わずか900ポイントのダメージは、彼に更なる混乱を与えた。


 ――デュエルに集中できていない……一体何をしている? 何を考えている? この期に及んで、何を迷う?
 ――俺は今、一体だれと闘えばいいんだ……?


 感情の矛先すらも分からずに、クロウは呆然と立ち尽くした。


クロウのLP:3100
     場:伏せカード1枚
    手札:4枚
 ミオのLP:4000
     場:雲魔物−キロスタス,雲魔物−ポイズン・クラウド,召喚雲,伏せカード1枚
    手札:3枚




Diary 9/12
 なぜこんなことになってしまったのだろう。
 おれのせいか。

 十護はどうしているのだろう。無事なのだろうか。
 尚樹を失ってしまったあいつは、一体どうなってしまうのだ。

 おれは神にもてあそばれているのだろうか。
 もういやだ。何もかもすべていやになった。

 しにたい。もうなにもかんがえたくない

 だれかおれをころしてくれ
 おれをらくにしてくれ


Episode.7 絆(前編)

 ――それは、クロウがミオを正式に引き取ったばかりの頃のことだ。

「……ねえ、くろう。おかあさんのこと、おしえて?」
「……尚樹のことを?」
 クロウがそう問い返すと、ミオは自信なげに頷いた。“ナオキ”という名が、自分の母のものであるかも分からなくて。
「……よくおぼえてないの。ただ、あったかくて、やさしいひと……だったきがする」
「……そうか」
 クロウはふと、十護の言っていたことを思い出した。
 “記憶の定着が一番の課題だった”――そう言っていた。つまりは“神菜”の記憶が、断片的に残っているのだろう。それ故の問いかけか。

 ――ミオには本来、“母親”と呼ぶべき存在はいない。
 十護と尚樹の実の娘、“神菜”のコピーとして生み出された存在だからだ。
 けれどクロウは彼女を、2人の娘として育てることに決めた。
 そうすることで2人の魂が、少しでも報われる気がしたから。
 そしてその方が、ミオの今後のためになるとも思ったからだ。

「……そうだな。尚樹……お前のお母さんはな、綺麗で、頭が良くて……学校のアイドルみたいな人だった。学校中の誰もが特別視する……そういう人だったよ」
「じゃあ……ともだちも、たくさんいたの?」
 ミオの何気ない質問に、クロウは困ったように苦笑する。
「……どうかな。尚樹はあまりにも綺麗で、あまりにも特別だったから……友達が多い方じゃなかったかな。誰よりも特別で、誰よりも輝いて……でもその代わり、どこか儚げだった」
 彼女のことを思い出し、クロウもまた、儚げな笑みを浮かべる。
 しかし、ミオが不安げに見つめていることに気付き、クロウはふっと微笑んでみせた。
「でもな、ずっとそうだったわけじゃない。高校二年生のとき、十護……お前のお父さんと一緒に、俺はある集まりを作ったんだ。“TRPG同好会”って言う……まあ、みんなでゲームをする集まりかな。そしてそれに、尚樹も入った……その中で、俺達はどんどん仲良くなったんだ」
「……ゲームで……なかよく……」
 クロウは頷き、言葉を続ける。
「物静かで、クールな感じの人……周りの人達は、尚樹をそう捉えていた。でも、ゲームを通して仲良くなって……本当は、全然違うんだって分かった。外面にはなかなか出さないだけで……ちょっとしたことで悩んだり、喜んだり、傷ついたり……感情が豊かで、繊細な人だった。周りが知らなくても、俺はちゃんと知っていた……尚樹が、そういう人間だってことを」
「……ゲームで、なかよくなれたから?」
 ミオの問いに、「そうだな」と応えるクロウ。
「ゲームをやっている人間はさ……何と言うか、公平なんだよ。ゲームに熱中している間は、何もかも忘れることができる……現実のつまらない格差とか、押し付けられた運命とかさ。みんなが素直になって、興じることができる……そういうのこそが“理想のゲーム”なんだと思う」
「……だからくろうは、ゲームをつくるひとになったの?」
「……!」
 クロウは少し考えてから、「そうだな」と頷く。

 ――遠い存在だった尚樹と、距離を近くし、親しくなれた“ゲーム”……だから自分は、それを作りたいと思った。
 ――十護のように、駆け落ちをする覚悟なんて持てない……けれどその代わりにせめて、彼女が笑ってくれた“ゲーム”に、人生を捧げたいと思った。
 ――自分の作った“ゲーム”が、人と人とを結び付けたなら、どんなに素晴らしいことだろう……自分と尚樹のように。そう思ったから。

 だからクロウは、アメリカへ来た。
 真面目に、保守的に生きてきた彼が、夢を叶えるべく挑戦した。リスクは百も承知の上で、知人など一人もいない海外へ――そして結果として、今の自分がいる。当初の理想と形は違えど、夢を叶えることができた。

「……ねえ、くろう。わたしにもおしえて? くろうのつくってるカードゲーム」
「作ってるって言っても……俺は全然下っ端だけどな。テストプレイとか中心だし」
 クロウは謙虚に苦笑するが、ミオは目を輝かせたままだ。
「わたしもゲームをおぼえて……くろうと、もっといっぱいなかよくなるんだ。おかあさんみたいに」
「そうか。それは楽しみだな……だが、俺は結構強いぞ?」
「へーきだよ! それならわたしも、すっごくつよくなるから!」

 子どもの無邪気さのままに、ミオはクロウにそう宣言した。


 ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


「俺のターン……ドロー……」
 クロウは、優れぬ表情でカードを引いた。
 ミオの場には、攻撃力900の『キロタロス』と守備表示の『ポイズン・クラウド』がいる――『キロスタス』は戦闘破壊不可能なモンスター、そして『ポイズン・クラウド』は道連れ効果を備えている。さらに、伏せカードが1枚。
 戦況はかなり難しい。手札はさほど悪くないが、この状況を打開するには足りない。開始4ターン目にして、完全にミオのペースと言って良い。

 そして何より、クロウは思考をまとめられずにいた。
 精神的混乱が、冷静な思考を阻害する。戦術が上手く選べない。


『……やっぱり受けてみようかと思うんだ、私』
『……昨日話したこと。言ったよね、ハイスクールの生徒会長で……女子の人気の的の人から、告白されたって』


(今更何を迷っている……俺は?)
 捌け口のない想いが、クロウの中に溜まってゆく。
 迷い詰めた末に、クロウは手札のモンスターカードに指をかけた。
 ここは守備モンスターを出し、様子を見る……そう決め、行動しかけたとき、

「――顔を上げて! クロウッ!!」

 その叫び声に、クロウは驚き、顔を上げた。
 そして、ミオの顔を見た。ミオの瞳は、クロウに何かを訴えかけている――その正体は分からない。ただ真剣に、真っ直ぐに彼を見つめている。
「……!? ミオ、お前……」
 それはクロウが考えていたような“決別”の瞳とは違う。
 いや、あるいはその可能性も内包しているのだろう――しかし彼女はクロウに、真摯な視線を注いでいる。微塵も逸らすことなく、真っ向から見据えている。
「……! 俺は……」
 カードから指を離す。
 そして代わりに、別の一枚を掴み取った。
「魔法カード発動……『手札抹殺』!」
 『手札抹殺』は、手札全てを入れ替えさせるカード。クロウは4枚、ミオは3枚のカードを捨て、ドローし直す。

 クロウは呼吸を整えた。

 何か答えが出たワケじゃない。けれど今は、デュエルに集中しよう。そういう気持ちになれた。
 デュエリストとしての魂が、今は闘えと訴えている。

 ――闘い抜いたその先に、今は届かぬ“未来”があると信じて。


クロウのLP:3100
     場:伏せカード1枚
    手札:4枚
 ミオのLP:4000
     場:雲魔物−キロスタス,雲魔物−ポイズン・クラウド,召喚雲,伏せカード1枚
    手札:3枚




Diary 10/15
 ミセス・マイコの計らいで、I2社の子会社への入社が決まった。
 再就職先を探していた頃、書類選考で落とされた会社だ。全くコネの力というのは恐ろしいものだ。それとも、カードプロフェッサーだった実績が、多少なりとも評価されているのだろうか。

 プロの話は白紙になったが、これで良かったのだろう。おれのような人間には、そんな資格などあるはずはない。

 人間、どんなに落ち込んでも腹は減る。死にたいと思っても簡単には死なない。そういうふうに出来ているのだ。

 おれにはもう、幸せになる資格はない。けれどせめて、死に場所くらいは探させて欲しい。この世に生を受けた以上、そこに少しは意味があったと思いたい。

 ミセス・マイコには頭が上がらない。本当に感謝している。
 せめて彼女に迷惑が掛からないよう、できるだけがんばって働こう。


Episode.8 絆(後編)

「俺は『ドル・ドラ』を……攻撃表示で召喚する!」
 クロウの場に、双頭のドラゴンが喚び出される。


ドル・ドラ  /風
★★★
【ドラゴン族】
このカードがフィールド上で破壊され墓地に送られた場合、エンドフェイズに
このカードの攻撃力・守備力はそれぞれ1000ポイントになって特殊召喚される。
この効果はデュエル中一度しか使用できない。
攻1500  守1200


 ミオの場には、厄介な能力を備えたモンスターが2体。しかしクロウはもう迷わず、攻撃すべきモンスターを指差した。
「いけ、ドル・ドラ! 『ポイズン・クラウド』を攻撃!」
 二つ首の竜がそれぞれ、口から烈風を吐き出した。

 ――ズドォォォッ!!

 それにより、ミオの場の毒雲は吹き飛ばされる――しかし、それには特殊能力があるのだ。
「『ポイズン・クラウド』の効果発動! 戦闘破壊したモンスターを破壊して……さらに、クロウに800ポイントのダメージを与えるよ!」
「……くっ!」
 毒を吸い込んでしまったのか、ドル・ドラは苦しみ、砕け散る。
 さらにそれはクロウをも蝕み、そのライフを削った。

 クロウのLP:3100→2300

 さらに拡がるライフ差。しかし、クロウの瞳に迷いはない。
「バトルフェイズを終了し……永続魔法を発動する。『大地の龍脈』!」


大地の龍脈
(永続魔法カード)
自分フィールド上のドラゴン族モンスターの攻撃力と守備力は300ポイントアップする。
このカードがフィールド上から墓地に送られた時、以下のどちらかの 効果を選んで
発動する。
●自分のデッキから「大地の龍脈」を1枚手札に加える。
●自分のデッキからドラゴン族モンスターを1体選び、手札に加える。


「そしてエンドフェイズ……『ドル・ドラ』の効果発動。蘇れ、ドル・ドラ!」
 二つの首を持つが故か、ドル・ドラは一度限りの自己再生能力を備えている。
 しかし、再生前に比べればステータスは劣る――攻守はともに1000ポイント。いや、『大地の龍脈』の効果により1300ポイントだ。
「『ドル・ドラ』は守備表示で特殊召喚する……ターンエンドだ」


クロウのLP:2300
     場:ドル・ドラ(攻1300),大地の龍脈,伏せカード1枚
    手札:2枚
 ミオのLP:4000
     場:雲魔物−キロスタス,召喚雲,伏せカード1枚
    手札:3枚


「……! いくよ、私のターンっ!」
 ミオは威勢良くカードを引く。
 そして暫く考えてから、4枚の手札のうち1枚を抜き取った。
「いくよクロウ! 私は『キロスタス』を生け贄に捧げて……上級召喚! 『氷帝メビウス』っ!!」


氷帝メビウス  /水
★★★★★★
【水族】
このカードの生け贄召喚に成功した時、フィールド上の魔法・罠カードを
2枚まで破壊する事ができる。
攻2400  守1000


「メビウスの効果発動! 破壊対象は、クロウの伏せカードと……『大地の龍脈』だよ!」
「……!」
 ミオの戦術は、伏せカードを排除し、クロウの場のモンスターを着実に減らすためのもの――だが、
「……甘い! トラップ発動『和睦の使者』!」


和睦の使者
(罠カード)
このカードを発動したターン、相手モンスターから受ける全ての戦闘ダメージは0になる。
このターン自分モンスターは戦闘では破壊されない。


「!? なっ……」
「残念だったなミオ。これでこのターン、『ドル・ドラ』は戦闘では破壊できない。さらに墓地に送られたことで……『大地の龍脈』の効果発動! デッキから、2枚目の『大地の龍脈』を手札に加える」
「……! ターン、終了だよ……」
 苦々しげな表情で、ミオはターンを終える。
 クロウは迷わず、デッキへと指を伸ばした。
「俺のターン! 『ドル・ドラ』を生け贄に捧げて……来い、『マグナ・スラッシュドラゴン』ッ!」
「! クロウのエースドラゴン……!」
 クロウの場に、大刃の翼を持つ光のドラゴンが喚び出された。


マグナ・スラッシュドラゴン  /光
★★★★★★
【ドラゴン族】
自分フィールド上に存在する表側表示の永続魔法カード1枚を墓地に送る。
相手フィールド上の魔法または罠カード1枚を破壊する。
攻2400  守1200


「いくぞ。2枚目の『大地の龍脈』を発動し、墓地へ送り――効果発動! まずは……『召喚雲』を破壊する!」
 光の竜の、右腕の尖翼が振るわれる。そこから発されたカマイタチが、ミオのカードへ一直線に襲い掛かる。

 ――ズバァァァッ!!!

「……まだだ! 『大地の龍脈』の効果により、俺は3枚目の『大地の龍脈』を加え……マグナ・ドラゴンの効果を再発動! その伏せカードを破壊する!」
「!? う……っ!?」

 ――ズバァァァッ!!!

 左の尖翼が生み出した刃ガ、今度は伏せカードを両断する。その正体は『スピリットバリア』――雲魔物デッキのキーカードだ。
 たまらず、ミオの表情が曇る。

スピリットバリア
(永続罠カード)
自分フィールド上にモンスターが存在する限り、
このカードのコントローラーへの戦闘ダメージは0になる。

「さらに『大地の龍脈』の効果! 第二の効果を選択し……『ブリザード・ドラゴン』を手札に加える」
「……! まさか迷わず、3枚目の『大地の龍脈』も使っちゃうとはね……良かったの? このままだとマグナ・ドラゴンの攻撃力は2400どまり……」
 ミオが『氷帝メビウス』を見上げる。
 『大地の龍脈』には、ドラゴンの攻守を300上げる永続効果があった――それを適用すればマグナ・ドラゴンの攻撃力は2700、メビウスを一方的に破壊できた。
「……構わないさ。伏せカードが攻撃誘発型の破壊トラップだった恐れもある……それに俺にはまだ、このカードがあるからな」
 クロウは誇らしげに、手札の速攻魔法カードを提示してみせた。

突進
(速攻魔法カード)
フィールド上に表側表示で存在するモンスター1体の攻撃力は
エンドフェイズ時まで700ポイントアップする。

「この効果により、攻撃力が700アップする……いけ、マグナ・スラッシュドラゴン!!」
 光の竜は地上を駆け、その両腕の刃でメビウスを真っ二つに両断した。

 ――ズババァァッ!!!

 ミオのLP:4000→3300

「……俺はこれでターンエンド。さあ、ミオのターンだ!」
 これでミオの場にモンスターは無し、対するクロウの場には上級ドラゴンが一体――ライフではまだ負けているが、形勢は覆ったと言っても良いだろう。


クロウのLP:2300
     場:マグナ・スラッシュドラゴン
    手札:2枚
 ミオのLP:3300
     場:
    手札:3枚


「やるねクロウ……! でも、私も負けないよ!」
 ミオはカードを引き抜くと、それをしばらく見つめ、少し考えた後に発動した。
「ライフを800支払って……『早すぎた埋葬』を発動!」

 ミオのLP:3300→2500


早すぎた埋葬
(装備魔法カード)
800ライフポイントを払う。自分の墓地からモンスターカードを1体
選択して攻撃表示でフィールド上に特殊召喚し、このカードを装備する。
このカードが破壊された時、装備モンスターを破壊する。


「……! 『氷帝メビウス』を特殊召喚し、相殺するつもりか……?」
 クロウはフィールドを見返した。
 現在、場に伏せカードは1枚もない――攻勢に出られれば、迎撃の手段がない。
「違うよ……メビウスじゃない。私が特殊召喚するのは……このモンスター!」
 眼前に現れる予想外のモンスターに、クロウは目を丸くした。


グリズリーマザー  /水
★★★★
【獣戦士族】
このカードが戦闘によって墓地へ送られた時、デッキから
攻撃力1500以下の水属性モンスター1体を
自分のフィールド上に表側攻撃表示で特殊召喚する事ができる。
その後デッキをシャッフルする。
攻1400  守1000


 復活したのは、水属性デッキのコモンカード。
 ミオの使う“雲魔物”はほとんどが水属性、確かに相性は良い――だが、
(メビウスを蘇生すれば、俺の上級モンスターと相殺できたはず。まさかミオの狙いは――)
 クロウの脳裏を、一枚の魔法カードがよぎった。しかし彼女が出したカードは、彼の予想とは全く異なるものだった。
「私はさらに、手札から『雲魔物−ゴースト・フォッグ』を召喚!」
「! しまった、それが狙いか……!」
 喚び出された“雲”は人型を為し、クロウに向けて両手を開く。


雲魔物−ゴースト・フォッグ  /水

【悪魔族】
このカードは特殊召喚できない。このカードの戦闘によって発生する
お互いのプレイヤーへの戦闘ダメージは0になる。
このカードが戦闘によって破壊された場合、このカードを破壊した
モンスターのレベルの数だけフォッグカウンターを
フィールド上に表側表示で存在するモンスターに置く。
攻 0  守 0


「そしてバトルフェイズ! グリズリーマザー、マグナ・クラッシュドラゴンを攻撃っ!」
 青のヒグマが襲い来る。しかしマグナ・ドラゴンは慌てることなく、左腕の刃で迎え撃つ。
 大きく刃を振り下ろし、ヒグマを豪快に斬り裂いた。

 ――ズシャァァァッ!!!

 ミオのLP:2500→1500

「……っ! この瞬間、グリズリーマザーの効果発動! デッキから攻撃力1500以下の水属性モンスターを特殊召喚するよ! 私は――」
 ミオが何を喚び出すのか、クロウはすぐに予想できた。
「――雲魔物−ニンバスマン』を、攻撃表示で特殊召喚するよ!」
「……やはり、な……」
 ミオの場に、雨雲の巨人が姿を現した。その攻撃力は1000、一見したところ大した脅威ではない――が、ミオのコンボはここから始まるのだ。


雲魔物−ニンバスマン  /水
★★★★★
【天使族】
このカードは戦闘によっては破壊されない。
このカードが表側守備表示でフィールド上に存在する場合、このカードを破壊する。
このカードを生け贄召喚する場合、自分フィールド上の水属性モンスターを
任意の数だけ生け贄にできる。このカードの生け贄召喚に成功した時、
生け贄に捧げた水属性モンスターの数だけフォッグカウンターをこのカードに置く。
このカードの攻撃力はフォッグカウンター1つにつき500ポイントアップする。
攻1000  守1000


「そして今度は……『ゴースト・フォッグ』で、マグナ・スラッシュドラゴンに攻撃っ!」
 人型の雲の突進を、ドラゴンは再び薙ぎ払う。
 しかし手応えは全くなく、払われたそれは霧散し、フィールドに漂う。
「ゴースト・フォッグの戦闘時に発生するダメージはゼロになるよ……! さらに効果発動! 破壊したモンスターのレベル分のフォッグカウンターを、表側表示のモンスターに乗せる――私はニンバスマンに、6つのフォッグカウンターを乗せる!」
「! くっ……」
 漂う“雲”を吸引し、ニンバスマンが、みるみるうちに巨大化していく。
 その特殊能力は、場のフォッグカウンター1つにつき攻撃力500アップ――そして6つのカウンターが乗った。つまり、
「攻撃力4000……!?」
「いくよ、ニンバスマンの攻撃っ!」
 肥大化した雨雲人間が、マグナ・ドラゴンに殴りかかる。

 ――ドズゥゥゥゥンッ!!!!

 その圧倒的な体躯差に、ドラゴンは抵抗かなわず押し潰された。
「……っ! 攻撃力4000……攻撃力だけなら、ハモンとも同等か……!」
 ライフを大幅に削り取られ、クロウはわずかに顔をしかめた。

 クロウのLP:2300→700

「私はカードを1枚伏せて……ターン終了だよ!」
 自身の優位を確信し、ミオは元気良くターンを終える。


クロウのLP:700
     場:
    手札:2枚
 ミオのLP:1500
     場:雲魔物−ニンバスマン(攻4000),伏せカード1枚
    手札:1枚


 クロウは手札を確認する。
 カードは2枚、『ブリザード・ドラゴン』と『平和の使者』――敗北を覚悟する場面ではないが、楽観視できる戦況でもない。
 しかし決して怯むことなく、デッキへ果敢に指を伸ばす。

「俺のターン、ドロー!」

 クロウは自分のデッキを信じ、カードの剣を引き抜いた。





Diary 5/31
 昨日は不思議な体験をした。
 そして今日は散々だった。

 分からないことだらけだ。「降雷皇ハモン」というカードに、「ミオ」という少女。一体なにがどうなっているのだろうか。

 しかし何故だろう。おれはミオに対し、何か懐かしいものを感じている。赤の他人に思えないのだ。

 一人でない食卓は久し振りだった。にぎやかで、何だか楽しかった。
 家族を持つということは、こういう感じなのだろうか。


Episode.9 切り裂き、打ち砕くモノ

 ――それは二十年以上前、十護が高校に入学した日の晩のことだった。


「……TRPG部を作りたい?」
 自宅の、九郎の部屋にて。十護が唐突に出した提案に、九郎は小首を傾げた。
「うん。高校に入ったら、新しいことを始めたいと思っていたしさ……兄さんだってTRPG好きだろ? 生徒会の方も忙しいだろうけど……掛け持ちできないこともないよね?」
 まるですでに創部済みのような口振りだった。
 九郎は苦笑を漏らしながら、弟の話に「待った」を掛ける。
「生憎だが十護、それは難しいと思うぞ……。ウチの文科系部活の主任は、頭が固いことで有名な先生だからな。ましてやゲームの部活となると……」
「え……、人数を揃えて申請書を出せば、大概は認められるんじゃないのかい?」
「学校にもよるだろうが……少なくともウチはそうじゃない。たとえ5人や10人揃えていっても、門前払いが目に見えているな」
 九郎がそう諭すと、十護は少し考えるような仕草をした。そして、
「なら……20人や30人、揃えていったらどうかな?」
「……なに?」
 十護の無茶な質問に、九郎は口元を引きつらせる。
「オイオイ……それは無理だろう? ウチは生徒数が多い方だが、いきなり二、三十人もTRPGに誘うのは……。それに万一揃えられても、認められるとは限らな――」
「――それでも、やってみなくちゃ分からないだろう?」
 九郎の言葉を制し、十護はニッと笑ってみせた。
 一瞬、呆気にとられるが、「やれやれ」と九郎は笑みを零す。
「お前はやると決めたら、絶対にやり通すヤツだからな……止めても無駄なんだろう?」
「ハハ、ごめんよ兄さん」
 十護は楽観的に笑う。九郎は一度視線を逸らし、アゴに手を当て、考え込む。
「――……なあ十護、どうしても“部”じゃないと駄目か?」
「……と、いうと?」
「ああ、“同好会”ならどうかと思ってな。それなら先生の許可も要らないし……生徒会に申請して認可されれば、活動場所が確保できる。文化祭にも参加可能だ。活動費はほとんど出ないが……それは会員の自己負担でいいだろう? そもそも、そんなに金が掛かるものじゃないしな」
「そうか! 同好会か……それは考えなかったな」
 十護は心底感心したように、首を何度も縦に動かしていた。
「……と言っても、それも簡単じゃあないぞ? 生徒会で検討するための資料が必要だし……まあ、それは俺が作っておこう。お前は会員集めをしてくれよ。最低でも5人は必要だからな」
「さすが兄さん! じゃあ俺、心当たりに連絡してみるよ。もう二人は目星がついてるんだ」
 早速電話してみる、と言って、十護は部屋を飛び出して行った。
「……ドアくらい閉めていけよ……全く」
 溜め息混じりに立ち上がると、九郎は部屋のドアを閉める。

 十護は昔から、こういう側面のある人間だった。
 頭は良いのだが、一度夢中なことができると、そのことばかりで頭が一杯になってしまう。時には自制が効かなくなり、周りに迷惑を掛けてしまうこともある――九郎自身、そのせいで割を喰った思い出もいくつかあった。

(……まあそれも、アイツの長所でもあるよな)
 九郎は十護のそうした面を、むしろ好意的に捉えていた。

 ――自らの未来は、自らの手で切り拓く
 ――どんな障害があろうとも、自らの手で打ち砕く

 笹来十護はそういう男だ。そしてそれに、九郎は憧憬の念すら抱いていた。自分に足りない部分であると、九郎は自覚していたのだ。

「……いつか、俺も……」

 ――いつか自分にも、本当に譲れないものが出来たとき……十護のようになれるだろうか?
 ――この両の手で、大切な何かを、強引にでも掴み取ることができるだろうか……?

 握り締めた拳を見つめながら、当時16歳の九郎は、未来の自分へ問い掛けた。


 ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


クロウのLP:700
     場:
    手札:3枚
 ミオのLP:1500
     場:雲魔物−ニンバスマン(攻4000),伏せカード1枚
    手札:1枚


「……俺は『ブリザード・ドラゴン』を……攻撃表示で召喚する」
 冷気を纏う青竜が、クロウの場に姿を現した。


ブリザード・ドラゴン  /水
★★★★
【ドラゴン族】
相手フィールド上に存在するモンスター1体を選択する。
選択したモンスターは次の相手ターンのエンドフェイズ時まで、
表示形式の変更と攻撃宣言ができなくなる。
この効果は1ターンに1度しか使用できない。
攻1800  守1000


 今現在、クロウの手札に攻撃力4000の『ニンバスマン』を倒す手段はない――だが、対抗策はある。
「ブリザード・ドラゴンの効果発動! 選択したモンスターの攻撃・表示形式の変更を封じることができる……対象は当然、ニンバスマンだ!」
 クロウの指示を受け、竜が冷気を吐き出す。
 これによりニンバスマンは凍結され、次ターンでの攻撃を封じられる――はずだった。だが、


 ――ズガァァァァァンッ!!!


「!? 何……ッ!?」
 突如、視界を侵した閃光に、クロウは一瞬、我を失った。
 閃光の正体――それは稲妻。雷光が竜に降り注ぎ、その身体を一瞬に焼き尽くしたのだ。
「……!! しまった、『天罰』か……!」
 クロウの考え通りのカードが、ミオの場では開かれている。


天罰
(カウンター罠カード)
手札を1枚捨てて発動する。
効果モンスターの効果の発動を無効にし破壊する。


「……油断したね、クロウ。『大地の龍脈』の効果で、手札にあるのは分かってたから……バッチリ対抗策を用意させてもらったよ」
「……なるほど。やるなミオ」
 クロウは一息つくと、現在の戦況を再確認した。
 ミオの場には、攻撃力4000のニンバスマンのみ――手札も伏せカードもない。つまりニンバスマンさえ攻略できれば、一気に勝利は近づく。
 だが、今のクロウの手札2枚では、それを狙うことはできない。


平和の使者
(永続魔法カード)
お互いに表側表示の攻撃力1500以上のモンスターは攻撃宣言が行えない。
自分のスタンバイフェイズ毎に100ライフポイントを払う。
払わなければ、このカードを破壊する。

リロード
(速攻魔法カード)
自分の手札を全てデッキに加えてシャッフルする。
その後、デッキに加えた枚数分のカードをドローする。


(とるべき道は2択……だな)
 自身に残された選択肢を、クロウは冷静に分析する。

 ――『平和の使者』でニンバスマンの攻撃を封じるか、『リロード』で新たに1枚をドローするか……?

 前者の選択は、確かにニンバスマンを封じられる。上手くすれば数ターン、持ちこたえることができるはずだ。しかし、他の「雲魔物」を引かれたならば――「雲魔物」の攻撃力は全体的に低い。『平和の使者』の効果など、ものともせずに攻撃してくるだろう。
 ならば後者か――いや、むしろこちらの方がリスキーかも知れない。この状況を打開可能なキーカード、それをたった1回のドローで引き当てる確率はあまりにも低い。しかもすでに、クロウはこのターンの通常召喚権を使ってしまった。低級モンスターを引いたとしても、壁にすることさえできない。

 ――前者で相手のドローに賭けるか、後者で自分のドローに賭けるか……?

 それは、決闘者としてのクロウにとって、あまりにも容易い二択だった。

「手札から速攻魔法……『リロード』を発動!」
 クロウは手札1枚をデッキに戻し、シャッフルを始める。

 答えのない二択――決闘者を長く続けていれば、必ず起こり得る局面。
 故にクロウは、プロフェッサー時代から、こうした局面における基本姿勢を確立している。

 ――相手に勝敗を委ねるな。勝利とは、自らの手で掴み取るものだ。
 受動的になるな、能動的に動け――それは、自戒のためのルール。

 ――運命とは本来、自分自身の手で切り拓くべきものなのだから。

「いくぞ……! 『リロード』の効果により、カードを1枚ドローする!」
 カードを引き、視界に入れる。目を逸らさず、真っ直ぐに――そしてそれを、ミオに向けてかざしてみせた。
「マジック発動――『龍の鏡(ドラゴンズ・ミラー)』!!」
「!? え……っ」
 『龍の鏡』――それはドラゴン族デッキにおける、切札たり得る魔法カード。


龍の鏡
(魔法カード)
自分のフィールド上または墓地から、融合モンスターカードによって決められたモンスターをゲームから除外し、ドラゴン族の融合モンスター1体を融合デッキから特殊召喚する。(この特殊召喚は融合召喚扱いとする)


「……まさか、『F・G・D(ファイブ・ゴッド・ドラゴン)』を……!?」
 ミオは顔を歪め、自分の場のニンバスマンを見上げた。
 『F・G・D』は、『龍の鏡』で喚び出される代表的モンスター。その攻撃力は5000、ニンバスマンの攻撃力4000を超過する。確かに、その融合モンスターはクロウのエクストラデッキにも投入されている。だが、


F・G・D  /闇
★★★★★★★★★★★★
【ドラゴン族・融合】
このモンスターは融合召喚でしか特殊召喚できない。
ドラゴン族モンスター5体を融合素材として融合召喚する。
このカードは地・水・炎・風・闇属性のモンスターとの戦闘によっては破壊されない。
(ダメージ計算は適用する)
攻5000  守5000


「違うよ……ファイブ・ゴッドじゃない。俺が融合させるのは、この2体のドラゴン……!」
 墓地から2枚のカードを抜き出し、それをミオに見せつける。


マグナ・スラッシュドラゴン  /光
★★★★★★
【ドラゴン族】
自分フィールド上に存在する表側表示の永続魔法カード1枚を墓地に送る。
相手フィールド上の魔法または罠カード1枚を破壊する。
攻2400  守1200

グラビ・クラッシュドラゴン  /闇
★★★★★★
【ドラゴン族】
自分フィールド上に存在する表側表示の永続魔法カード1枚を墓地に送る。
相手フィールド上のモンスター1体を破壊する。
攻2400  守1200


「『グラビ・クラッシュドラゴン』が墓地に……!? そうか、『手札抹殺』を使ったときに……!」
 場に現れた巨大鏡に、2体のドラゴンの姿が映る。

 ――1体は、巨大な刃の翼を両腕に持つ、美しい光のドラゴン。
 ――もう1体は、筋肉質な巨体を有する、粗暴な闇のドラゴン。

 対照的な2体の像が重なり、鏡は怪しい紫光を放つ。・
 そして中からゆっくりと、1体の巨竜が抜け出してきた
 筋肉質な肉体に、両腕の白刃――二竜の特徴をそれぞれ受け継いだ、灰色のドラゴンが。
「俺のデッキが誇る、最強のドラゴン……! 切り裂き、打ち砕く竜――『Slash&Crush Dragon(スラッシュ・アンド・クラッシュドラゴン)』ッ!!」
 灰色竜は咆哮を上げると、ミオの場のニンバスマンを鋭く睨めつけた。


Slash&Crush Dragon  /光
★★★★★★★★
【ドラゴン族】
「マグナ・スラッシュドラゴン」+「グラビ・クラッシュドラゴン」
このカードの属性は「闇」としても扱う。
自分の墓地に存在する永続魔法カード1枚を除外する。
相手フィールド上のカード1枚を破壊する。
攻2900  守1600


「いくぞ! スラッシュ&クラッシュの効果発動! 墓地に存在する永続魔法『大地の龍脈』を除外して……ニンバスマンを破壊する! 打ち砕け――スラッシュ&クラッシュッ!!」
 墓地のカードの魔力を吸い、両の拳が“闇”を帯びる。そしてそれを振り上げると、ミオの場の雨雲へと叩き付けた。

 ――ドズゥゥゥゥゥンッ!!!!!

 “雲魔物”は実体を持たぬ故に、戦闘では破壊されないものが多い――しかしこれは戦闘ではない。魔力を込めたその拳は、ニンバスマンを微塵に打ち砕いた。
「……そしてこれは、カード効果による破壊。俺にはまだ、バトルフェイズが残されている」
「…………!!」
 ミオは眼前の灰色竜を見上げると、小さく微笑んでみせた。
「……やっぱり強いね、クロウは……」
 これで最早、ミオに残されたカードは無い――決着はついた。
「……スラッシュ&クラッシュの、直接攻撃……」
 竜が、両腕の刃を振り下ろす。それはミオの残りライフを、根こそぎ奪い去っていった。

 ――ズバァァァァァッ!!!

 ミオのLP:1500→0


クロウのLP:700
     場:Slash&Crush Dragon
    手札:0枚
 ミオのLP:0
     場:
    手札:0枚


 クロウは、息を大きく吐き出す。
 本気のデュエルは久し振りだった。息を吐き終えると、何だか身体を軽く感じる。

「――あのね……クロウ」
 余韻に浸っていたところを、ミオの声で正気に戻る。
 ミオは真っ直ぐ前を向き、クロウに向かってはっきり言う。
「私はやっぱり……クロウのことが好き」
「……! ミオ……」
 口を開き、応じようとした。
 しかしそれを恐れるように、ミオはすぐに言葉を続ける。
「……わかってる。クロウにとって、私は“娘”でしかないんだよね。クロウは十年間、私を大切に育ててくれた。そんなクロウだから、私は好きになった……。それでいいと思うの。後悔なんてしないよ。この想いは大切な……そう、私のすてきな初恋だった」
 儚げに微笑んで、どこか申し訳無さそうに、ミオは優しくクロウに言う。
「叶わなくてもいいの……。でもね、叶わないからって、すぐに忘れることはできないから。だからせめて……ウン。私が次の、別の恋を始められる日が来るまで――あなたのことをまだ、好きでいさせて下さい」
「……! ミオ、お前……」
 目を逸らさずに話したミオが、静かに瞳を閉じた。
 そして再びそれを開くと、ニッコリと笑ってみせる。
「……さ、話はこれでおしまいっ! 何だかお腹すいちゃった! お夕飯はクロウが作ってくれるんだよね? よーし! 今日こそ、めざせ“おくふろの味”だね! ……あ、それとも“おやじの味”だっけ?」
 楽しげに笑みを零し、ミオは家へと戻ろうとする。しかし、
「――待ってくれ……ミオ」
 クロウはそれを止めた。何故ならば、
「俺からもミオに……伝えたいことがある」
 振り返った、ミオの表情が固まる。

 不思議と、心の中のモヤは晴れていた。
 だからクロウは、言えると思った。伝えたいと思った。
 自分からミオへの、素直な気持ちを。

「あのな……ミオ。俺は――」





Diary 6/2
 十護をころした
 なぜだ十護
 おれはおまえになら、ころされてもよかったのに



Diary 6/3
 なぜ光を示してやれなかった
 もっと違う終わらせ方があったのではないか
 おれは最低の人間だ

 おれがしねばよかったのに



Diary 6/4
 昔のことばかり思い出す。
 十護がいて、尚樹がいて、3人で過ごした日々のことだ。
 あの頃に戻れたらいいのに。もう1度やり直せたら、決してこんな世界にはしないのに。
 この世界の全てが、ただの悪い夢ならどんなに良いだろうか。

 なあ十護、尚樹
 おれはおまえたちに、どう報いてやればいい
 ただひとり生き残ってしまったおれは、どうやっておまえたちに償えばいいだろうか





Diary 6/23
 ミオを預かることに決めた。
 彼女を研究素材にするなど言語道断、決して許せる話ではない。
 ミオは人間だ。
 経緯はどうあれ、十護が世に生み出した命。ならばおれが育て、守っていこう。

 ただのきれいごとだろうか。
 おれはただ、贖罪の機会が欲しいだけなのだろうか。
 けれど何かを背負わなければ、おれはもう気が狂ってしまいそうなのだ。

 なあ十護、尚樹
 こんな今のおれを見たら、おまえたちは何を思うのだろうか


Episode.10 とらわれたひと

 クロウは表情を綻ばせ、穏やかに口を開いた。

「あのな……ミオ。俺は――お前に感謝している。ミオがいたから、俺は生きてこられた……俺は、幸せでいられたんだ」
 それは純粋な、ひどく真摯な感謝の言葉。
「今から20年余り前……俺は日本から一人、この国に来た。夢を叶えに来たのに……上手くいかないことばかりで。人生なんてこんなものかって、失望した日々を過ごしていた」

 ――仕事を失い、途方に暮れ
 ――デュエルモンスターズに出会い、カードプロフェッサーとなり

 ――プロになれると聞き、喜び
 ――尚樹の死を知り、絶望し

 ――死んだように生きて
 ――ミオと出会い

 ――そして、十護を殺した……


「……世界には、悲しいことが沢山ある。苦しいことや辛いことも。でも――それだけじゃないことを忘れていた」


 ――三人の時間が好きだった
 ――十護がいて
 ――尚樹がいて
 ――幸せはいつでも、“三人”の中にあった


「お前が思い出させてくれた……幸せはいつでも、“繋がり”の中にあることを。独りでは虚しい、不安な日々でも……二人ならば違う。ミオが来てからの日々は幸せで……本当に、救われた十年間だった」
 クロウはミオに歩み寄り、その目の前に立った。
「ミオがいてくれて、本当に良かった。……こんな俺を好きになってくれて、本当にありがとう」
「……! クロウ……」
 ミオが、上目遣いに見つめてくる。クロウは少し目を細め、「でも」と言葉を続ける。

 ――俺では、お前を幸せにできないから
 ――俺は、お前とは幸せになれないから

「お前はまだ16だ……色々なものを見て欲しい、色々な人に出会って欲しい。いずれ必ず出会うよ……お前が本当に、心から愛おしいと思える人に」

 ――幸せになって欲しい……お前には
 ――俺のような想いを、味わって欲しくない

「……その人とどうか、幸せになって欲しい。お前が幸せになってくれれば……俺は、それだけで十分だから」

 ――たとえ遠く離れても、お前が幸せならそれでいい
 ――お前と過ごした大切な、十年もの思い出があるのだから

「……クロ……ウ?」
 ミオの顔が、わずかに曇る。クロウの言葉に、小さな違和感を覚えて。
「クロウは……どうするの?」
「……え?」
 その質問の意味が、クロウはすぐには分からなかった。
「……ずっと、気になってた。クロウは誰かと一緒にならないのかって。そういう話、一度も聞かないから。だから昨日、ヘルガさんと一緒にいるのを見て……「そうだったんだ」って思ったの」
「…………」
 クロウの顔が、わずかに歪む。
「……私がいたから、だよね。だからクロウは――」
「――それは違う!」
 大きな声で否定する。しかし二の句が、上手く続かない。
「……お前の……せいなんかじゃないよ。俺は……」
 息が、急に苦しくなる。世界がわずかに暗さを増した。

 ――脳裏に浮かぶ、尚樹の姿
 ――そして、隣に立つ十護と
 ――祝福してやらなかった、過去の自分……

「いいんだよ……俺は」
 笑っているのに笑っていない、ひどく不自然な表情で、クロウは繰り返す。
「俺は……もういいんだ」


 ――止まっている
 ――あの白い雪の日に、凍り付いてしまった

 そして溶けることはない。

 言うべき言葉があった。
 伝えたい想いがあった。

 けれど届くことはなく、
 言うべき人は、もういなくて。

 ――尚樹が死に
 ――十護が死に
 ――そして、俺だけが生き残った

 だからもう終わりなのだ。
 過去を取り戻すすべはなく、
 晴れることない闇の中、永遠に囚われ続ける。

 ――なあ十護
 ――なあ尚樹

 ――こんな俺の姿を見たら……お前たちは、一体何を思うのだろうか





Diary 9/28
 今日はミオの運動会だった。
 やはりビデオカメラを買い直して正解だったようだ。夏に買ったものよりも、ずっときれいに映っている。
 運動会などいつ以来だろう。俺自身が小学生の時以来だから、およそ20年振りになるのか。
 ミオは徒競走で一番になった。ミオは勉強ができるだけでなく、運動神経も良い。十護と尚樹に似たのだろうか。流石だ。
 クラスの皆ともちゃんと仲良く出来ているようで、安心することもできた。

 それに比べて俺ときたら……情けない。父兄参加のパン食い競争で最下位だった。何故あんなに取りづらいんだアレは。足の遅い俺でも、勝ち目があると踏んで参加したのに。
 終わった後、ミオが慰めてくれた。嬉しいような悲しいような、複雑な気分になった。
 こうなれば来年リベンジするしかない。今のうちから練習を……と思ったが、パン食い競争の練習なんてできないぞ普通。どうしろと。

 デュエルモンスターズが競技にあれば、絶対優勝してみせるのだが。来年あたり、奇跡的に加わったりしないだろうか。……いや、無理だろうけど。





Diary 1/25
 授業参観が撮影禁止とは思わなかった。別に撮っても良さそうなものだが、何故いけないのだろうか。謎だ。
 こっそり隠し撮りしようかとも思ったが、ミオが何か言いたげな目で見つめてきたので断念した。どうやら考えを読まれていたらしい。

 科目はミオの得意な算数だった。そのこともあってか、ミオは先生が質問するたびに必ず手を挙げていた。しかし先生はなかなか指してくれず、撮影禁止の件もあって、おれは少しイラついた。
 結局、指してもらえたのは一度きりだ。難しそうな文章題だったが、ミオは苦もなく正答を出していた。ビデオは駄目でも、写真くらいは許可してくれても良かったんじゃなかろうか。こんなこともあろうかと、ちゃんと用意してきたのだが。

 考えてみれば先生も、授業参観ではできるだけ多くの生徒に活躍の場を作らねばならないのだろう。そんな中で、ミオが難しい問題で指されたのは、先生にそれだけ信用されているという証だ。

 がんばったご褒美に、夕食はいつものファミレスでとった。
 最近、利用頻度が上がってしまった気がする。もう少し節約も心掛けよう。





Diary 5/30
 今日はミオの誕生日だった。そして、はじめてのデュエル大会に参加した日でもある。
 結果は一回戦敗退だったが、優勝しても全くおかしくない内容だったと言える。
 相手のエド・フェニックスが規格外だったのだ。対戦カードに恵まれていれば、準優勝は確実だったろう。ミオにそれだけの実力があるのは、誰の目にもはっきりと分かったはずだ。

 大会後は予定通り、自宅で誕生パーティーを行った。初めてのことで少し不安だったが、沢山の子達が来てくれたし、みんな楽しんでいたようで何よりだ。

 それにしてもエド・フェニックス。ミオに対し、馴れ馴れし過ぎではなかったろうか。
 我ながら少し大人気なかったかも知れないが、ああいう軽薄そうな男は駄目だ。ミオには絶対に相応しくない。断固お断りだ。パーティー自体は盛り上がったので良しとするが。

 ところで別れ際、ウィラーが少し気になることを言っていた。
 ミオもいずれは大きくなる。これまでのように、いつも一緒というわけにはいかなくなるだろう。性別の違いもある、成長するにつれて、色々とデリケートな問題も生じてくるはずだ。

 そしていずれは、俺の元を離れる日がやって来る。
 その時、俺はどうすれば良いのだろう。再び訪れる孤独の生活を、素直に受け入れることができるだろうか。

 ウィラーめ、余計なことを言ってくれた。
 記念すべきミオの誕生日に、これ以上陰気なことを考えたくない。未来の心配は後日に回すとしよう。


 7歳の誕生日、おめでとうミオ。


Last Episode 祝福を

 クロウ・ササライは夢を見る。

 幾度となく見た夢。代わり映えのしない夢。
 決して変わることのできない、永遠に続く過去の夢。


『――俺……は、笹来十護は、高天原尚樹と一緒になろうと思う。一緒に……生きていこうと思っている』
 白くて冷たい、雪の降る日。
 3人でよく利用した寂れた喫茶店で、高校3年生の十護がクロウに言う。
『――俺は兄さんの夢を応援する。だから……兄さんは俺たちのことを……少しでもいいから祝福して欲し』
『悪いが』
 クロウは返答を変えられない。
 これは過去のことだから。不変の事実に他ならないから。
『俺は……お前達を祝福出来ない』
 小さな、けれど確かな拒絶の言葉。

 合い向かいの席から、十護の気配が消える。
 この後クロウは立ち去り、逃げるように日本を発った。そして、忘れもしない9月9日――“彼女”の死を知り、再びこの場を訪れる。

 ただ独り、同じテーブルに腰掛けて、
 誰にも届かぬと知りながら、
 クロウは祈るように呟く。

『――……祝福するよ。二人の……決意を……』

 虚空に消える言葉とともに、彼の夢はこれで終わる。
 永劫の慙愧と悔恨を胸に、世界は闇に閉ざされゆく。

 ――尚樹が死に
 ――十護が死に
 ――そして……




「――本当かい? 兄さん」




 世界に、光が灯された。



 クロウ・ササライは顔を上げる。
 終わるはずの世界が、ゆっくりと開かれていった。
「……トウ……ゴ……? どうして……」
 クロウは瞳を見開く。
 合い向かいの空席に、いるはずのない男が座っている。
 先ほどまでとは違い、成長した――十年前の姿の十護が、穏やかな微笑を湛えていた。
「……あ……っ」
 混乱に叩き落されながら、クロウは彼から視線を逸らす。
 落ちるように頭を下げ、震える声で言葉を絞る。
「すまない……十護。俺は……お前たちに……何も……」
 十護は何も言ってくれない。謝罪の言葉など求めていないから。


「――九郎くん」


 囁くような、聞き覚えのある女性の声に、クロウは再び顔を上げる。
「……尚……樹……」
 忘れもしない白磁の肌、黒絹の髪。
 クロウが知るより少し大人の、高天原――いや、笹来尚樹が立っていた。
 歳の程は恐らく、十護よりも少し若い。死んでしまったその瞬間から、時を失ったためだろうか。
「……! その子は……」
 尚樹の隣に、少女の姿があることに気が付く。
 尚樹の片手を繋ぎながら、クロウを不思議そうに見上げている。
(ミオ……? いや、神菜か)
 出会ったばかりのミオに、ひどく似通った容貌。
 十護と尚樹の、たった一人の娘――笹来神菜。尚樹とともに、飛行機事故で亡くなったはずの少女。ミオという命の基にもなった、2人の愛の結晶だ。
 尚樹はそれ以上何も言わず、十護の隣の椅子に座る。神菜はその膝の上に、ちょこんと座った。

 ――並んで座る、3人の姿。
 それはどこから見ても、誰が見ても紛れもなく、幸せな家族の肖像。

(……ああ。そうか)
 言うべき言葉は、謝罪などではなかった。
 長年、言えなかった言葉を。
 心からの気持ちを。
 まるで願うように、クロウは伝えた。

「――おめでとう……祝福するよ。二人の……幸せを」
 ずっと、それだけが言いたかった。
 尚樹が死に、十護が死に、届けられなかった言葉。


「――ありがとう……兄さん」
「――ありがとう……九郎くん」


 やっと言えた。
 やっと、伝えることができた。


 ――なあ十護
 ――なあ尚樹

 ――俺は、もう……



 ●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


「……ずいぶん、都合のいい夢だったな……」
 布団の中で、天井を見つめながら、クロウは呆れたように呟く。

 体を起こし、デスクを見やる。
 その上には一冊の、昔の日記帳が置かれている。
(昨日のミオとの会話と……寝る前に読み返した、アレの影響か)
 ベッドから下り、それを広げる。しおり紐が挟まっているのは、9月6日――ミオを預かってから2年目の、クロウの誕生日。
(……妙に、現実感のある夢だったな)
 頭の中で反芻しながら、目の前の椅子に腰を沈める。

 ――所詮は夢、幻だ
 ――現実のことではない

 ――2人はもういない
 ――だから
 ――けれど

「――けれど……伝えることはできた」

 言葉はどこまで届くのだろう。
 俗に言う“あの世”があったとして、想いはどこまで届くのか。

 ――尚樹が死に
 ――十護が死に
 ――そして、俺だけが生き残った

 ――なあ十護
 ――なあ尚樹
 ――今の俺の姿を見たら、お前たちは……

「――お前たちが、何を思うかなんて……分かりきったことじゃないか」

 立ち上がり、部屋のカーテンを開け放つ。
 暗がりだった彼の世界に、無限の光が差し込んだ。







 ――コン、コン

 それからおよそ十数分後、部屋のドアが叩かれた。
「……クロウ、起きてる?」
 聞き慣れた少女の声。「ああ」とクロウが返すと、ドアが遠慮がちに開かれる。
 そこから、ミオが顔を覗かせた。「今朝も早いんだね」と言いながら、後ろ手にドアを閉める。
 短い沈黙が生まれた。
 その原因が何なのか、クロウはもちろん知っている。だから先に口を開く。
「……昨日は悪かったな、ミオ。いきなり色々言われて、混乱しただろう?」
「……ウン。でも、良かったと思う。クロウの色んな気持ち……今まで知らなかったクロウを、知ることができたから」
 ミオは顔を俯かせ、「でも」と言葉を続ける。
「私は……嫌だよ。私は、クロウにも幸せになって欲しい。私だけなんて嫌。だから――」
 顔を上げる。そして真っ直ぐに、クロウを見つめた。
 一縷の陰りもない、迷いのない瞳。彼女の意外な表情に、クロウは一瞬、呆気にとられる。
「――諦めないことにした。きのう言ったよね? 別の人を好きになるまで、クロウを好きでいるって。……でもね、私にはクロウ以上の人なんていないから。だから私は、いつまでもクロウを好きでいる。何年かかっても、何十年かかっても……クロウを振り向かせてみせる」
「…………!」
 クロウの脳裏に、昔の十護が蘇る。
 そしてつい、小さな笑みを漏らしてしまった。
(やっぱりミオは、お前の娘だよ……十護)
 本当にそっくりだ。

 ――こうと決めたら、テコでも動かない
 ――周りの都合などお構いなしに、信じた理想を貫こうとする

 クロウは綻んだ口元を整え直すと、真剣な眼差しでミオを見据える。
「……お前の気持ちは良く分かった。でもな、落ち着いて冷静に考えてみて欲しい。俺はお前より、25も年上だ。今はまだ良いかも知れない……だが、年を経れば必ず思う。俺が60になる頃に、お前はまだ35歳だ。寿命が来るのだってずっと早い。そのことの意味を、本当に分かっているか? 未来の自分の姿を想像し、それでも良いと思えるのか?」
 脅すような口調で言う。
 ミオは少し考えてから、意志の固さを示すように、しっかりと首肯してみせた。
(この言い方は卑怯……だよな)
 それを見て、クロウは腹を決めた。軽く息を吐き出した後、椅子からゆっくりと立ち上がる。
「……昨日、話したよな。お前が来てくれてからの10年間は……俺にとって本当に、掛け替えのない時間だった。俺はお前の“家族”として……誰よりもお前を愛してきたつもりだ。……でも」
 言葉に詰まり、クロウは思わず躊躇した。
 次の一言が、彼女の人生を大きく変えてしまうと知っていたから――けれど自身を奮い立たせ、はっきりと言葉を続ける。
「……その気持ちの中にいつからか、“家族”として以外の感情が含まれていることに気付いていた。けれど気付かない振りをした。俺ではお前を幸せにできない……そんな自信は持てなかったから」
「……クロ……ウ……?」
 ミオは呆気にとられたように、クロウを見つめ、聞いていた。

「――俺は……ミオのことが好きだ。ずっと……一緒に生きていきたいと思っている」
「…………!」

 ミオの瞳が広がった。
 状況が呑み込めない様子で、口をぽかんと開いている。
「……えと、それ……って……?」
「……いや。つまりその……何というか……」
 クロウは我に返ったように、真っ赤になって頭を掻く。
「俺も同じ気持ち……というか。こんな甲斐性ナシで構わなければ、というか〜……」
 視線を逸らし、ぶっきら棒な調子で言う。
 すると次の瞬間、胸に温もりが飛び込んだ。

 ――瞳に、喜びの涙を湛えて
 ――大好きな人の胸の中で

「……大丈夫。私はクロウがいてくれれば……それだけで幸せだから」
 ミオが囁く。
 小さくて軽い彼女の身体を、クロウは優しく抱きしめた。


 ――なあ十護
 ――なあ尚樹

 ――今の俺の姿を見たら……お前たちは何を思うだろう?


 クロウはそれを知っている。
 腕の中の少女を自分の手で、どこまで幸せにしてやれるのか――自信はない、けれど意志はある。


 ――ミオがいたから生きてこれた
 ――だから……ミオがいれば生きてゆける



『――おめでとう、兄さん』
『――おめでとう、九郎くん』



 彼一人にだけ届く声が、2人の未来を祝福していた。







Diary 9/6
 今日は嬉しいサプライズがあった。
 ミオがおれの誕生日のお祝いをしてくれたのだ。
 最近言っていた「欲しいもの」が、まさかおれへの誕生日プレゼントとは思わなかった。そもそも今日が誕生日であることを、おれは完全に忘れていたのだ。
 感極まって泣くところだった。まずいな、歳かも知れん。

 誕生日に祝福を受けることなど、本当に何年ぶりだろうか。
 おれは9月が、特にその上旬が嫌いだった。
 9月9日は尚樹の命日、そして俺がプロへの道を捨てた日でもある。
 俺はその日が来るたびに、罪悪感と悔恨に苛まれて生きてきた。生きることの意義を疑い、まだ死なない自分に苛立ちさえ感じたものだ。

 だというのに今、俺の心はとても満たされている。
 ミオは俺の誕生を祝ってくれた。たったそれだけのことで、俺は自分の人生を肯定的に捉えることができた気がする。昔はそんなことなど、全く考えもしなかったというのに。

 ミオのいる生活が始まって一年余り、本当に色々なことがあった。
 しかしミオもいずれ、俺の元を離れることになるだろう。
 愛しい人を見つけ、新しい家族をつくり、幸せになるために。

 ミオは将来、どんな大人になるのだろう。
 尚樹のような、美しい女性になるだろう。
 十護のように、強い意志を持つ人間になって欲しい。


 祝福しよう。
 ミオと、まだ見ぬ彼女の愛する人に、心からの祝福を。

 ――2人のこれからの人生に、どうか沢山の幸せがありますように……と。


 ……我ながら流石に、先のことを考えすぎただろうか。
 ミオはまだ七歳だ。そんな日が来るまでに、あと十年はかかるだろう。感激し過ぎて、少し感傷的になっているのかも知れない。

 とりあえずは月末の、運動会の心配をすべきだろう。

 今年こそはパンが上手くとれますように。













 あとがきを読む








戻る ホーム