第三回バトル・シティ大会
〜番外編〜
製作者:表さん






決闘65.5 岩槻瞳子の世界(前編)

 岩槻瞳子(いわつき とうこ)が太倉深冬(たくら みふゆ)と出会ったのは、およそ3年前――中学一年生になったばかりの頃だった。

 小学生から中学生へ。それは彼女らにとって、沢山の変革をもたらす重要な通過儀礼のはずだった。

 ――ランドセルから学生鞄へ
 ――私服からセーラー服へ
 ――給食からお弁当へ
 ――子どもから大人へ

 その変革に、当時12歳の瞳子は少なからぬ期待をしていた。
 中学生になれば当然、学び舎も変わる。1学年2クラスしか無かった小学校とは違い、入学先の中学校には6クラスもあるのだ。
 小学生と中学生には、天地ほどの格差がある――瞳子はそう思っていた。
 中学生は小学生ではない。もはや“子ども”ではない、“大人”なのだ。
 入学した日、受け取った学生証を片手に、瞳子はそんな淡い希望を抱いていた。

 だからきっと“彼女ら”も、小学生時代のような“子ども染みた遊び”は止めてくれる――そう願っていた。

 しかしそれは、叶うはずの無い、バカな夢物語だったらしい――入学式の翌朝、瞳子はそう思い知らされた。空の下駄箱を前に。
 「岩槻瞳子」という真新しいシールが貼られた、新しい下駄箱。そこには同じく、新品の真っ白な上履きが収められているはずなのだが――何故か空っぽだった。
 そのとき瞳子は、否応なしに思い知らされた。
 中学生になっても、何も変わりはしないのだ――と。
 あるいはそれは、中学生になり、浮かれかけていた瞳子に対する、“彼女ら”なりのメッセージだったのかも知れない。

 初めてのことではない。小学生時代、何度もあったことだ。
 小学6年生のとき、瞳子はイジメに遭っていた。5人ほどの女子の集団に、陰湿なイジメを執拗に受けた。
 机や教科書に落書きされた。ロッカーに閉じ込められた。上履きのみならず、体操着やリコーダーを隠されたこともある。買ってもらったばかりの靴を、ゴミ捨て場に埋められたときは本当に悲しかった。

 空の下駄箱を前に、瞳子は立ち尽くす。
 誰も、自分に声を掛けてくれる者はいない――小学生のときもそうだった。
 みんなして、見て見ぬフリだ。面倒ごとには巻き込まれたくない、下手をすれば自分もイジめられてしまうかも知れない――善人ぶった顔をして、彼らは見なかったことにする。知らないフリをする。
 けれど自分には、それを非難する資格などない。瞳子にはそれが分かっていた。
 もし自分が、彼らと同じ立場だったなら――きっと同じように、見て見ぬフリをするのだろうから。

 瞳子はそのとき、ある種の、不思議な感情を覚えた。
 何かがプツリと切れ落ちるような、不思議な感覚。
 淡い希望を握り潰され、瞳に“絶望”が映る。

 ――どうでもいいような気がしてきた……生きていることが、馬鹿馬鹿しくなってきた。

 切れたのは“未練”。変わってくれるかも知れない――そんな馬鹿げた幻想を抱いた、クズな自分への引導めいた諦観。



「――ねえ……邪魔なんだけど」
 しかし、横から掛けられたその言葉に、瞳子はハッと正気を取り戻した。
 振り向くと、見覚えのない女子が立っていた。太倉深冬――後に親友となる少女に、初めてかけられた言葉がそれだった。
 我の強そうなその瞳に、瞳子は一瞬気後れした。恐らくは、自分と正反対の人種だろう――瞬時にそう悟る。
 瞳子が隅に寄ると、深冬は尊大な様子で、当然のように彼女の前を通過した。そして、自分の下駄箱から上履きを取り出し、テキパキと履き替える。瞳子がしたくても出来ないことを、楽々とやってのける。
 思わずボンヤリと、その様子を観察してしまう。
 すると不意に、深冬が再びこちらを向いた。どうやら見つめ過ぎたらしい――すぐにそう気付くが、もう遅い。
「……何? 何かアタシに用でもあるわけ?」
 露骨に迷惑そうな声だった。瞳子は慌てて首を横に振り、「何でもないです」と答える。
「……つーかアンタ、さっきからなに突っ立ってるわけ? そんなトコで立ってたら邪魔とか、フツー考えない?」
 棘のある言い方だったが、実にごもっともな指摘だった。
 下駄箱置き場は、さほど広い構造をしていない。このまま立ち尽くしていれば、他のクラスメイトにも迷惑がかかるだろう。
「ごっ……ごめんなさいっ」
 下駄箱の蓋を、慌てて閉じる。すると深冬は、見るからに呆れたような顔をした。
「……アンタ馬鹿? まだ上履き出してないじゃないの」
 ドン臭いわねえ、と大きな溜め息を吐かれた。
 瞳子は困ったように、視線をあらぬ方向へ泳がせた。察しの良い人物のようで、深冬はそれだけで、下駄箱に上履きが無いことを悟ったらしい。
「……何? 忘れたの?」
「う……ううん。そういうわけじゃないんだけど……」
 深冬は黙って瞳子に近づき、彼女の下駄箱を開けた。家から履いてきただろう下履きだけが、そこには収められている。
「……誰かのイタズラかしら? ガキっぽいことするヤツねぇ」
 他人事のように、気軽そうな口調だった。実際、他人事なのだから当然とも言えるが――この時点での瞳子の心象は、あまり芳(かんば)しくない。
「……で? どうすんの、アンタ? 担任にでもチクっとけば?」
 気安い物言いだった。他人事だからこそ出来る、ぞんざいな提案――瞳子はそう感じた。
「……ムリだよ……そんなの。バレたら後が怖いし……」
 顔を俯かせ、ボソボソと呟く。
 そんな彼女の様子に苛立ったのか、深冬は舌打ちを一つした。
「じゃあアンタ、このまま泣き寝入りでいいわけ? ムカついたりしないの?」
「……それは……いいわけないけど……」
 声がどんどん小さくなる。
 深冬は苛立ったように、片足で床を数回叩いた。
「いっ、いいよ……もっと酷くなるの、ヤだし。多分、教室のゴミ箱とかだから……あの子たち、大概そこに隠すの」
 “あの子たち”――その言い方に、深冬はピンときた。
「アンタ……犯人、知ってるんだ?」
「……え? あ、それはまあ……」
 フーン……と、深冬が、意味ありげな笑みを零す。
 瞳子がその真意を解するより早く、彼女の右手が、瞳子の左手首を掴んだ。
「きゃ……わわっ!?」
 深冬に腕を引っ張られ、引きずられるようにして歩かされる。
 裸足に靴下のままで階段を上がる。そして、昨日あてがわれたばかりのクラスの前まで来て、ようやく解放された。
「犯人、どいつよ? このクラスにいるんでしょ?」
 勝気な口調だった。その顔には、薄っすらと不敵な笑みを浮かべている。
 何をするつもりなのだろう――瞳子はたまらず不安に駆られた。
 そっと教室を覗く。“彼女ら”がいた。

 小学6年生のとき、瞳子を目の仇にしていた5人の“彼女ら”――そのうち3人が、瞳子と同じクラスになっていた。
 別々のクラスになっていれば、あるいはイジメもなくなるかと思ったのに――瞳子にしてみれば、絶望的なまでに不運なクラス編成だった。

 不意に、“彼女ら”のリーダーが、二人の方を向いた。
 瞳子はビクつき、萎縮する。ここで深冬に告げ口すれば、後で何をされるか分からない――その恐怖に、心が凍り付いてしまう。
 深冬の存在も忘れ、瞳子はオドオドと教室に入った。“彼女ら”はニヤニヤと、そんな彼女の様子を観察している。
 瞳子はゴミ箱を覗いた。
 良かった、ゴミ箱が新しいから、あまり汚れていない――そんなちっぽけな幸せに感謝しながら、瞳子がその中の上履きに手を伸ばした、そのときだった。


「――上履き隠したのってさー、アンタラ?」


 ギョッとして、瞳子は振り返る。
 深冬が“彼女ら”の前に立ちはだかり、腕組みをしていた。
「なっ……何よアンタ!?」
 “彼女ら”のリーダーが、焦ったような声を上げた。
 深冬の瞳が発する、高圧的で蔑む雰囲気――それに耐えられず、椅子から立ち上がる。
 深冬に対し、彼女は負けじと睨み返した。仲間二人の前で、情けないところを見せたくない部分もあったのだろう。声を荒げ、叫ぶ。
「部外者は黙ってなさいよ! アンタには関係ないで――」
 しかし彼女が、その台詞を最後まで口にすることはできなかった。
 瞳子はその瞬間、信じられないものを見た。いや、彼女のみならず、教室中の人間が目を丸くしていた。

 ――その一瞬の光景を、瞳子は一生忘れない。

 深冬と相対していた少女が、後方へと吹き飛んだのだ。幾つかの机を巻き込んで、派手な音と共に、ベランダ側の壁に激突した。瞳子にしてみれば、あまりに非現実的で、暴力的な光景だった。
 こともあろうに深冬は、目の前の少女をいきなり蹴り飛ばしたのだ。腹部に一撃、加減なしの足蹴りを――足の裏を叩き込み、押し飛ばしたのだ。
「――まどろっこしいのって嫌いなのよねぇ……アタシ」
 蹴り飛ばした右足を上げたまま、翻るスカートも押さえずに、
 太倉深冬は一人、得意げな笑みを浮かべていた。




 問題は当然、それだけでは済まなかった。
 騒ぎを聞きつけ、大勢の生徒が野次馬に集まってきた。何人か教師もやって来て、事情を聞くべく、深冬や瞳子たち5人を職員室へ連れ出した。蹴られて泣きじゃくる1人は途中、保健室に置いていかれる。目立った外傷は見当たらないが、念のための処置だろう。
 事情聴取の間、深冬は何も喋らなかった。“彼女ら”のうち2人は声高に主張する――ワケも分からず、いきなり蹴られたのだ、と。あくまで被害者面をして。
 だから瞳子が、代わりに弁解せざるを得なかった。そうしなければ、深冬が一方的に悪役にされてしまうから。途中、2人が威嚇的な目を向けてきて、瞳子が萎縮するという場面もあった。それに気付いた教師は、瞳子のみを隔離し、詳しく話を聞いてくれた。
 小学生時代、“彼女ら”にイジめられていたこと、そして今朝また、上履きをゴミ箱へ捨てられていたことを――たどたどしくだがしっかりと、瞳子は自分の口で、先生に告げた。
 最終的には、瞳子を除く全員に、厳重注意がなされた。“彼女ら”にはイジメの件、深冬には暴力を振るった件について。
 話が済み、職員室を解放されると、“彼女ら”は逃げるように教室へと戻っていった。
 瞳子が見たことのない、“彼女ら”の情けない姿だった。いい気味だ、と、少しだけそう思う。
「――アンタさあ……自分は全然悪くないとか、都合よく考えちゃってるわけ?」
 突然の指摘に、瞳子は驚き、振り返る。
 見透かしたかのような半眼で、深冬が瞳子を見つめていた。
「アンタだって悪いのよ……アンタが弱いから、アイツラは付け上がったの。アンタがアイツラを“イジメっ子”にしたのよ……分かる?」
 蔑みの視線を瞳子に向けてくる。
 瞳子はその強さに敵わず、たまらず顔を俯かせた。
「……でも……それは……」
 自信なさげに、小さな声で、呟くように瞳子は応える。
「……それは……強い人の考え方だよ。私は弱いから……そんなの、無理だよ……」
 瞳子にしてみれば、精一杯の反論だった。
 しかし深冬は呆れたように、俯く瞳子にも分かるよう、大きな溜め息を吐いた。
「ならいつまでも、そうしていじけていればいいわ。けど、覚えておくことね。アンタが変わろうとしない限り……何も変わらないわ」
 心に痛みを覚える。
 何も変わらない――変わろうとしない限り。その言葉が、瞳子の心に突き刺さる。
 それだけ言うと、深冬は先に歩いていってしまった。その背を追いかけたかった――けれどそんな資格は今の自分に無い、瞳子はそんな気がした。
(……変わる……か)
 窓の外へ、視線を投げる。
 見慣れぬ景色があった。自分は中学生になったのだ――学び舎が変わった。六年間過ごした小学校とは、全く別の世界が広がっている。
 変わってくれるのだと思っていた。中学生になれば、勝手に変わるのだと思っていた。
 けれど彼女は言った、いつまでも、何も変わらないと――“自分が変わろうとしない限り”。
(変われる……のかな、私にも)
 変わりたい――弱くとも確かな思いが、少女の中に芽生えた。




 その一件から、十日が過ぎた。
 あれ以来、瞳子へのイジメは起こらなくなっていた。深冬の足蹴りの理由がどこからか知れ渡ったらしく、早々に評判を落とした“彼女ら”は、以来、クラスにどこか馴染めない様子だった。
 しかしそうなったのは、“彼女ら”だけではない。太倉深冬も、クラスから浮いた存在となっていた。理由が何であれ、クラスメイトを唐突に蹴り飛ばす“暴力女”――そういうレッテルがついてしまったのだろう。気安く付き合えない、気難しい人物――嫌われはしないまでも、敬遠すべき女子として扱われていた。
 瞳子は基本的に真面目な性格で、責任感もある。自分のせいで深冬の置かれてしまった状況を、気に病まないわけはない。
 同時に瞳子は、深冬の言葉を実行せねばならない――そういう使命感も抱いていた。

 その日の昼休み、一人で弁当を食べ終えた瞳子は、教室の自分の机で、部活紹介の冊子を読み込んでいた。どうすれば変われるだろうか――そういった自問の結果、最初に辿り着いた案が“部活動”だった。
 その中学校では、部活動に所属することが強制されていなかった。何事にも消極的な瞳子は、以前までなら迷わず“帰宅部”を選ぶところだったろうが――今の彼女は少し違う。深冬の言葉がキッカケとなり、やる気を搾り出していた。
(……とはいえやっぱり、運動部は無理だろうし……文化部がいいかな)
 そんな弱腰の考えも抱きながら、冊子の4分の3を占める、各種運動部の紹介ページをすっ飛ばし、文化部のページへ向かう。どうやらこの学校では、運動部の方に力を注いでいるらしい。運動部に比べると、文化部の数はあまり多くない。
 それでも、活気のありそうな部活はいくつかあった。吹奏楽部・合唱部・美術部あたりは、十人以上の部員がいる。しかしその他の部は、どこも一桁の部員しか確保できていないようだった。
(……やっぱり、部員多いところの方がいいのかなあ……。でも私、絵ヘタだし……大きな声出すの、無理だし……)
 となると残るは、吹奏楽部。しかしこんな、消去法で選んで良いものか――吹奏楽部の紹介ページに書かれた「やる気のある人歓迎!」の一文と睨めっこしながら、ウンウン唸(うな)る。

「――さっきから、なに唸ってんのよ? アンタ」

 前方から声を掛けられ、瞳子は顔を上げた。
 一つ前の座席の主――太倉深冬が、迷惑そうな表情で、瞳子の様子を窺っている。
 例の一件の後、クラスで行われた席決めにより、二人は偶然、前後に並んだ席を宛がわれていた。しかし、会話らしい会話はほとんどできていない。十日前の礼を言うことさえ、瞳子はできていなかった。
 だから瞳子は勇気を出して、精一杯の親しみを込めて、深冬に問う。
「あっ……あの。太倉さんはもう決めましたか? 部活……」
「はあ? アンタまだ決めてないワケ?」
 呆れたように、邪険に返された。瞳子は少し、泣きたいような気持ちになる。
「アタシはとっくに決めたわよ。陸上部。てゆーか、仮入部期間そろそろ終わりじゃなかったっけ?」
 瞳子の机から、部活紹介の冊子をかっさらう。ページをパラパラと捲ると、「やっぱり」と呟く。
「入部届、明日までだって。入りたい部活とか、当然ある程度は絞れてるんでしょ?」
「……えと……それがまだ、全然……。とりあえず文化部かな、とは思うんだけど……」
「……文化部……ねえ」
 つまらなそうな顔で、深冬は冊子をパラパラと捲った。
「――運動部の方がいいんじゃない? アンタ」
「……え?」
 瞳子は目を瞬かせる。何とはない口調で、深冬は言葉を続ける。
「何てゆーかさ……アンタ、つまんなそーな顔してるよね。他人と衝突するようなことは、極力避けてきたタイプとか……違う?」
「……えと……それは……」
 瞳子は顔を俯かせる。深冬はわざとらしく、大きな溜め息を吐いた。
「……アタシ、アンタみたいな湿っぽいタイプ、一番キライなのよね。他人と競うって、楽しいもんよ……この際だからスポーツ始めて、その喜びを知ってみたら?」
「……でも……私、運動音痴ですし……」
「そんなの、入部しちゃえば何とでもなるわよ。毎日練習するんだし……一ヶ月も真面目に続ければ、体力差なんてあるていど埋まってくるもんよ」
「……そ、そうなのかな」
 顔を少し上げる。瞳子は何だか少しずつ、やればできるような気になってきた。
 “運動部に入った自分”というのは、全くもって想像できない。しかしだからこそ、変わるキッカケになり得るかも知れない――と。
「……ちなみに……50メートル走、何秒なの? スポーツは基本、足だし」
「えと……15秒くらい、だったかと」
 間があった。
 深冬は少し考えるような仕草をしてから、改めて問い直す。
「……100メートルじゃなくて、50メートルよ……?」
「あっ……はい。そうですけど……」
 間があった。
 深冬は少し考えるような仕草をしてから、手元の冊子を再び捲る。
「……何かいい部活あったかしらね……文化系に」
 瞳子はがっくりと肩を落とす。十数秒前に抱いた幻想が、粉々に砕け散ってしまった。

「文芸部とかは? アンタどーせ、本とか結構読むんでしょ? 目指せ、直木賞〜……みたいな」
「あ……えと。読みはしますけど、自分で書くとかはちょっと……」
「数学部とか、何やるのかしらね……。“数学オリンピック”って何のこと?」
「さあ……何なんでしょうね」
「美術部で金賞狙うとかは?」
「えと……私、手先が不器用でして……」
「んじゃ、合唱部! これなら手先カンケーないし!」
「大きな声を出すのは、ちょっと……」

 冊子から顔を上げると、深冬は瞳子をジト目で睨んだ。
「……アンタやる気あんの?」
「え……えと、すみません……」
 ドスの利いたその一言に、瞳子はしゅんとなる。
 呆れ果てた様子で、ヤレヤレと、深冬は冊子のページを進めた。
 しかし途中でふと、その指が止まる。「へ〜」と、感心したような声を上げた。
「こんな部活もあるんだ……意外」
 瞳子は顔を上げた。何か、自分に合った部活が見付かったのだろうか――と。
 深冬は無言で、そのページを差し出した。その指が示す先には、こう書かれていた――“非電脳ゲーム部”と。
「非電脳ゲーム……って、何ですか?」
 ずいぶん難しそうな名前だ、それが瞳子の第一印象だった。得意げに、深冬が知識を披露する。
「要するに、テレビゲーム以外のアナログゲームよ。ボードゲームとか、カードゲームとか……紹介文にも書いてあるでしょ?」
 瞳子は再び、冊子に視線を落とす。
 なるほど“非電脳ゲーム”の歴史について、何やら難しいような解説文が羅列されている――読んでいるうちに何だか、ずいぶん高尚な活動なのだな、という印象を抱いた。
 しかし部員数を見ると、たったの4人だった。この中学校では基本的に、5人以上の部員数が求められているため、今年誰も入部しなければ廃部、ということなのだろう。
 紹介文の最後には、こう記載されていた――“M&W中心! 初心者超大歓迎!!”と。その一文だけ、やけに浮いているような気がした。上の難しい解説文とは、違う人物が書いたものなのかも知れない。
「……あのー……“エムアンドダブリュー”って、何でしょう?」
 聞いたことのないその単語に、瞳子は小首を傾げる。
「“マジック・アンド・ウィザーズ”の略称よ。聞いたことない? インダストリアル・イリュージョン社が作った、アメリカ産のカードゲーム……最近は日本でも、けっこう人気が出始めてるって聞いたけど」
 深冬の得意げな解説に、瞳子は首を横に振った。生憎だが、聞き覚えのない名前だった――しかし話し振りから察するに、深冬はだいぶ詳しいようだ。
「……あの……太倉さんもするんですか? その……マジック・アンド・何とか」
「んー……昔はやってたけどね。けど、今はやめちゃったわ。つまんなくなっちゃって」
「……? つまらなく……ですか?」
 瞳子は冊子を注視した。紹介文や深冬の説明から察するに、よほど面白いカードゲームなのかと思ったが――実際はそうでもないのだろうか、と。
「うーん、ゲーム自体に飽きたとかじゃないんだけどさ……アタシの周りに、手ごろな相手がいなかったのよねぇ。クラスの連中はてんで弱いし、かと言って、ウチのジジイは強すぎだし……」
「……おじいさん……? 太倉さんのおじいさんも、そのゲームをやってるんですか?」
 瞳子は驚き、目を瞬かせる。ゲームと言えば、子どもの遊びというイメージがあるが、そんな高齢の方までやっているのか、と。
「M&Wは、結構コアなプレイヤーも多いからね。……つっても、ウチのジジイは流石に特別だろうけどさ。二年くらい前まで、イリュージョン社の日本支社長やってたのよ。だからM&Wに通じてるし……アタシも自然にやるようになった、ってわけ」
 瞳子は感嘆の息を漏らした。
「社長さんだったんですか……おじいさん、すごい方なんですね」
「んー……どうかなあ。あのジジイ、色々ガサツな感じだし……一昨年、理由も言わずに、急に仕事やめちゃったしね。もともと社長ってガラじゃなかったのよ、きっと」
 と――そこまで話したところで、チャイムが鳴り響いた。昼休み終了5分前を告げる、予鈴のチャイムだ。
「……おっと、いけない。ま、やめたアタシが言うのも変だけど……結構面白いゲームよ? 覚えきれないくらい色んなカードがあるから、意外と奥が深いし。他に入るアテがないなら、そこにでも入っとけば?」
 軽い調子でそう言うと、深冬は席を立ち、教室を出て行った。授業開始前に、トイレにでも行っておきたいのだろう。
「…………」
 一人取り残された瞳子は、再び目線を落とし、冊子の紹介文をぼんやりと眺めた。
(……M&W……かぁ)
 そしてちらりと、前の座席を見やる。
(……太倉さん、詳しいみたいだし……もし分からなかったら教えてくれる、かな?)


 それこそが――岩槻瞳子がM&Wを始める、キッカケとなる出来事だった。




決闘65.6 岩槻瞳子の世界(中編)

 ――二年と三ヶ月が過ぎて。
 岩槻瞳子と太倉深冬は、中学三年生になっていた。

 定期テストを終え、夏休みを間近に控えた頃。
 学校の授業を終えた放課後、瞳子は通い慣れた一室の中にいた。“化学室”――部屋の前に掛けられたプレートには、そう記載されている。しかしその中で行われているのは、化学の実験などとはかけ離れたものだ。




「――喰らえぇぇ!! 『憑依装着−エリア』のダイレクトアタック!! スーパー・ウルトラ・メガトン・アクア・パニッシャァァァーーーッ!!!」
「あー……はいはい。1850ダメージな」
 2人の少年が、机を間に挟み、向かい合って座っていた。
 ボサボサ頭の一人は、相手を勢いよく指差し、眼鏡をかけたもう一人の方は、冷静に手元の電卓をいじっている。
「……ノリ悪ぃなあオマエ。そういう時は椅子から崩れ落ちて、『ぐわああ!! やられたぁぁ〜っ!!』くらい言えよな〜」
「……いや、それは流石にナイだろ」
 相手の不満げな文句を、眼鏡の少年は呆れたように軽く流す。
「……ああ、そうそう。このタイミングで、手札を1枚捨てて……『ダメージ・コンデンサー』を発動な。デッキから『ブレイドナイト』を特殊召喚しておくよ」


ダメージ・コンデンサー
(罠カード)
このカードは戦闘ダメージを受けた時に手札を1枚捨てて
発動する事ができる。自分のデッキから戦闘ダメージ以下の
攻撃力のモンスター1体を自分のフィールド上に攻撃表示で特殊召喚する。


「……そして俺のターン。カードを2枚セットして……これにより、『ブレイドナイト』の効果適用。手札が1枚以下のとき、攻撃力400アップするから……攻撃力2000な」


ブレイドナイト  /光
★★★★
【戦士族】
自分の手札が1枚以下の場合、フィールド上のこのカードの
攻撃力は400ポイントアップする。
また、自分のフィールド上モンスターがこのカードしか存在しない時、
このカードが戦闘で破壊したリバース効果モンスターの効果は無効化される。
攻1600  守1000


「『ブレイドナイト』で『憑依装着−エリア』を攻撃して破壊。150のダメージな」
「ぎゃああああああ!!! お、俺のエリアが破壊され――ぶっ!?」
 絶叫の途中で、後頭部に何かが激突した。ボサボサ頭の少年はそのまま、前のめりに倒れ、机上のエリアと熱いキスをかわす。
「――相原(あいはら)うっさいっ! もっと静かにやんなっ!!」
 少年――相原宗佑(そうすけ)の後方には、一人の少女が立っていた。
 そして相原の足元には、「柿本(かきもと)」と書かれた上履きが落ちている。詰まる話、その少女――柿本夏美(なつみ)が、自身の履物の片方を投げつけたのである。
「……ナイスピッチング。まさにジャストミートだったな」
 眼鏡の少年、中村信己(なかむら のぶき)は、平静とした様子で椅子を立ち、彼女の上履きを拾ってやる。
「いってーな! 何すんだよ柿本! 俺を殺す気か!?」
「上履きぶつけたくらいで死ぬわけないでしょ! オマエの頭はトーフか!」
 相原と夏美の睨めっこが始まる。「また始まったか」とボヤきながら、中村は机上の、自分のカードを片付け始めた。
「――ちょ、ちょっと二人とも、ケンカしちゃ駄目だよ〜」
 学校一威厳のない部長――岩槻瞳子から、強制力皆無の注意が飛んだ。
「……ほっときゃいいですよ、トーコ先輩。いつものことですし」
 瞳子の前に座る少女――栗宮美樹(くりみや みき)が、しれっとした様子で進言する。
 しかし瞳子は立ち上がり、2人の仲介に入らんとする。
 いつも通りの過保護ぶりに、美樹は肩を竦めた。


 瞳子の入部から二年が経ち――“非電脳ゲーム部”は相変わらず、廃部と紙一重のところで活動を継続していた。
 三年生が1人、二年生が1人、一年生が3人――それが目下のところの、非電脳ゲーム部の部員構成である。1人だけ三年生の瞳子は、必然的に部長の役を任されているのだった。


 二年生にして副部長である女子――美樹は、どこか微笑ましげに、他部員のやりとりを観察していた。
 すると、早々に決着がついたようで、相原と夏美が椅子に座った。部員間で揉めた際は、ゲームで決着をつける――何代か前の部長が定めた、非電脳ゲーム部で唯一の“部訓”なのである。
「――フッ……。柿本夏美よ! 今、貴様の持ち得る最高の戦術で挑んで来な! だが……俺のマジシャンデッキが粉砕するぜ!」
「バッカじゃないの? アンタなんか、アタシのデーモンデッキで瞬殺よっ!」
 かくして、二人のデュエルが開始される。それで問題解決、という扱いになるらしく、瞳子は清々しい笑顔で美樹のもとへと帰ってきた。
「ゴメンね〜美樹ちゃん。次、私のターンだっけ?」
 美樹は頷くと、瞳子に先を促した。
 今、美樹の前の机の上には、何枚ものカードが並べられている。当然、M&Wのカードが――二人は今まさに、デュエルの真っ最中だったのである。


 瞳子の場:磁石の戦士(マグネット・ウォリアー)α
 美樹の場:幻獣ロックリザード,伏せカード1枚

幻獣ロックリザード  /闇
★★★★★★★
【獣戦士族】
「幻獣」と名のついたモンスターを生け贄に捧げる場合、このカードは
生け贄1体で召喚する事ができる。このカードが戦闘で破壊したモンスター
1体につき、相手ライフに500ポイントダメージを与える。
相手がコントロールするカードの効果によってこのカードが破壊され
墓地へ送られた時、相手ライフに2000ポイントダメージを与える。
攻2200  守2000


「……ちなみに、いちおう確認しておきますが……ロックリザードの攻撃力は2800ですよ?」
 美樹は得意げに、フフンと鼻を鳴らした。彼女の墓地には今、“幻獣モンスター”の攻撃力を底上げできるモンスター『幻獣クロスウィング』が2体存在している。加えて彼女の場には、とっておきのトラップカードが1枚――戦況はそう簡単に覆せないはずだ、と。


幻獣クロスウィング  /光
★★★★
【獣戦士族】
このカードが墓地に存在する限り、フィールド上に存在する
「幻獣」と名のついたモンスターの攻撃力は300ポントアップする。
攻1300  守1300


(……いかにトーコ先輩といえど、この布陣は簡単には攻略できないはず……! 先輩相手に積もりに積もった連敗記録、今日こそストップさせていただきますよっ!)
 不敵な笑みを浮かべ、美樹は、瞳子の顔色を窺う――だが、その表情を視認した瞬間、ギョッとした。
「…………」
 瞳子は口を結び、瞳孔をあらぬ方向へと寄せていた。マズイ――美樹は直感する。その表情は、瞳子が“トドメ”に入る際の、クセのようなものなのだ。
「…………。よし、私は『磁石の戦士α』を生け贄にして……『地帝グランマーグ』を召喚するね」
「……げっ」
 美樹の口元が、途端に引きつった。


地帝グランマーグ  /地
★★★★★★
【岩石族】
このカードの生け贄召喚に成功した時、
フィールド上にセットされたカード1枚を破壊する。
攻2400  守1000


「グランマーグの効果で……美樹ちゃんの伏せカードを指定するね。チェーンして発動するかな?」
「……。いえ、攻撃誘発型のトラップカードですので……」
 美樹は半泣き状態で、自慢のリバースカード――『万能地雷グレイモヤ』を墓地スペースに置いた。


万能地雷グレイモヤ
(罠カード)
相手が攻撃を宣言した時に発動する事ができる。
相手の攻撃表示モンスターの中から一番攻撃力が高い
モンスター1体を破壊する。


 美樹の場のモンスターの攻撃力は2800、まだ瞳子のモンスターより高い――だが、このあと瞳子がとるであろう行動が、美樹には読めていた。
「……さらに、墓地の岩石族モンスター5体をゲームから除外して……『メガロック・ドラゴン』を特殊召喚するね」
 やっぱり――と、美樹はがっくりと肩を落とした。


メガロック・ドラゴン  /地
★★★★★★★
【岩石族】
このカードは通常召喚できない。
自分の墓地に存在する岩石族モンスターを除外する事でのみ
特殊召喚することができる。このカードの元々の攻撃力と守備力は、
特殊召喚時に除外した岩石族モンスター×700ポイントの数値になる。
攻撃力 0   守備力 0


「このカードの特殊召喚時に除外したカードは5枚……つまり攻撃力3500ポイント。美樹ちゃんのライフは残り2500だから……これで勝ち、かな?」
「……ありがとうございましたぁ……」
 意気消沈した様子で、美樹はペコリと頭を下げた。瞳子も同じように頭を下げ、「ありがとうございました」と返す。
 しかし、まだだ――美樹は顔を上げると、手早く机上のカードを集め、デッキシャッフルを始める。
「トーコ先輩! もう一回やりましょう! もう一回!」
「うん。もちろんいいよ〜」
 のほほんとした調子で、瞳子もカードをまとめだした




 午後5時25分を回った辺りで、非電脳ゲーム部の活動は終了となる。
 週に三回のみの活動。他の部活動に比べれば、悠々とした生ぬるい活動と言わざるを得ないだろう。今日に関してはむしろ、いつもより真面目に活動していたとさえ言える。
 夏休みに入ってから暫くしてある、M&Wのカード大会――それに向けてのデッキ構築・調整が始まっているからだ。

 部室である化学室に鍵をかけると、その場で部員は解散となる。
 瞳子はその場でみんなと別れ、一人で職員室にカギを返しに行く。そしてすぐには帰途につかず――図書室へ向かう。それがいつもの習慣なのだ。
(今日は宿題とかないし……何か本読んでようかな)
 ぼんやりとそう考えながら、人気のない廊下をのんびり歩く――しかし図書室の近くまで来て、瞳子は目を瞬かせる。
 図書室の入り口付近に、不審な少女がいた。
 いや、その少女自体は、瞳子もよく知る人物だったのだが――何より、行動が不審だったのだ。
 学校指定のセーラー服姿で、たった一人で。彼女は廊下に横になり、せっせと腹筋運動を繰り返していたのだ。
 吹奏楽部や合唱部なら、よく音楽室前の廊下で運動着に着替え、集団で腹筋や背筋運動をしていたりするが――しかし図書室前の廊下で、制服姿で、しかも単独でやっているというのはどうだろう。少なくとも瞳子の目には、それが奇異に映った。
「……何やってるの……深冬ちゃん」
「……! あー、やっときたわね!」
 瞳子の存在に気付くと、彼女――深冬は動きを止めた。
 そして身軽に立ち上がると、壁に立て掛けてあった鞄を拾う。
「なんかさー、顧問の用事だかなんだかで、部活早く終わっちゃったのよねー! だから今日は仕方なく、アタシの方が待っててやったってわけよ!」
「みっ……深冬ちゃん、声大きいよっ。ここ図書室前だよ?」
 唇に人差し指を当て、瞳子は深冬を窘(たしな)める。
 しかし、奔放が服を着たような深冬のことだ。きっとこちらの忠告など馬耳東風だろう――そう判断し、瞳子は早々に、図書室前を離れることにした。
「……それにしたって……何も廊下で、腹筋なんてしてることないのに。待っててくれるなら、中で本読んでればいいじゃない」
「んー……静かにじっとしてるのとか、苦手なのよねえ。アタシ」
 歩きながら、背中側のホコリを払ってやる。「サンキュー」と、深冬は気安く礼を言った。
「早く終わったって……いつ頃終わってたの?」
「んー……5時前だったかしらね」
 そこでふと、瞳子はあることに気が付いた。
 まさか――嫌な予感を覚え、恐る恐る問いかける。
「……まさか30分間、ずっと1人で腹筋してた……なんて、わけじゃないよね?」
 「まさか」と、けろりとした様子で、深冬はそれに応えた。
「腹筋だけじゃなくて、スクワットとか背筋もやってたわよ。筋トレ全般」
 “親友”の傍若無人ぶりに、瞳子は頭を抱えた。




「――深冬ちゃんのクラスは今日、何の教科のテストが返って来た?」
「ん〜? 確か……数学と社会と音楽、だったかしらね」
 いつも通りの帰り道。
 瞳子と深冬は並んで歩き、普段通り、何気ない会話をしていた。
「……まっ、テストなんてもんは、要は赤点さえ採らなきゃいいわけだしさ。ラクショーラクショー♪」
「受験の心配がない人は、羨ましいねえ……」
 瞳子は苦笑を漏らした。
 中学三年生と言えば、中学校生活最後の年――そして、高校へ進学する者の多くは、希望する高校に合格できるよう、受験勉強に励まねばならない重要な年でもあるのだ。
 しかし深冬に関しては、そういった心配が全くないのが現状だった。
 スポーツ推薦入学――深冬は去年の夏の陸上大会で、極めて優良な成績を収めている。県内どころか、全国でも名の知れた有力選手――幾つもの有名私立校から、特待生扱いでの推薦入学の話が持ち上がっているほどなのだ。
「高校は別々……だね。私は公立志望だし」
「ん……まあ、そうね」
 不自然な間が生じた。
 何となく気まずいような、短い時間。しかしやがて、深冬が両手を突き上げて叫んだ。
「あー、やめやめ! アタシがこういう湿っぽいの、キライだって知ってるでしょ!?」
 そうだったね、と瞳子は苦笑すると、早々に話題を変えることにした。
「今年の大会はどう? 自信のほどは」
「もっちろん、大アリよ! 全国一位どころか、大会記録更新してやるわ!」
 大口を叩いてみせる深冬。しかし彼女に、それを“ただの大口”に終わらせないだけの力があることを、瞳子はよく知っている。才能だけじゃない――多くの努力を重ね、十分な志を持っていることを、瞳子は誰よりも知っている。
「……目指すはオリンピック、金メダル――だもんね」
 深冬は力強く、当然のように頷いてみせた。
 二年ほど前から、口を酸っぱくして繰り返している言葉だ――世界の誰より速く走りたい、と。
 だからこそ深冬は、出来るだけ設備の整った環境へ進学する必要がある。夢を叶えるために――翌年に訪れるだろう別れは、深冬の将来のために、不可欠な“痛み”なのだ。
「――で、そっちの方は? アンタの方の部活は上手くいってるわけ? “非電脳ゲーム部”部長サン?」
「……うーん……部長って言っても、エスカレーター式に決まったわけだけどねえ。三年生は私一人だし」
 瞳子はふと天を仰ぎ、考えながら言葉を紡ぐ。
「仲良くやれてるよ。一年生の新入部員は、みんないい子たちだし……ちょっと元気すぎるのがタマにキズ、かも知れないけど」
 楽しげな口振りだった。口調を咀嚼するだけで、瞳子が充実した部活動を行えていることが分かる――それは深冬にとっても、微笑ましいことに相違ない。
 しかし彼女が訊きたかったのは、そういうことではなかったのだ。
「あー……違う違う。そういうことじゃなくってさ。夏休みに入ったら、アンタも大会あるんでしょ? それに向けての調子はどうなのか……って意味よ」
「あ……なるほど。えっと、そうだね……二年生の美樹ちゃんは心配ないとして。一年生の三人は、初めての大会参加なんだよね……相原くんと夏美ちゃんは、もうデッキコンセプトがかなり固まってるみたいなんだけど。中村くんがまだ少し悩んでるみたいなんだよ……いちおう今日、少しアドバイスはしておいたんだけど」
「……フーン……一応ちゃんと、“部長”やってるんだ」
 少し感心したように、深冬は感嘆の息を吐いた。
「……でも、それもアタシの質問の意図からハズれてるわね。アタシが訊きたいのはアンタ自身の調子よ。どう? 今年は優勝できそうなの?」
「……え、私? ウーン……それはちょっと。去年までの大会と、今年はずいぶん様子が違うみたいだし……」
 深冬の問いかけに、瞳子は難しい顔をしてみせた。


 二人の話す“大会”というのは、この辺りで定期的に開かれる、M&Wの町内大会のことだ。毎回、40人前後のプレイヤーが参加する小規模な大会――瞳子は前回開かれたそれで、ベスト4という好成績を残している。
 ならば、今回こそは優勝を――そう言いたいところだが、状況がだいぶ変わってきたのである。

 今回の町内大会は、隣町――童実野町と合同で行われることになったのだ。それも、ただの“町内大会”という扱いには収まらないらしい。
 理由は、決闘盤の一般販売開始――その宣伝を兼ねて、童実野町海馬ランド内デュエル場にて、盛大に開催されることになったのだ。
 童実野町がその舞台に選ばれたのは、一月前、その場所で“バトル・シティ大会”が開かれたことに起因する。その影響もあって、当日は相当な数の強豪デュエリストが集まるだろう――そういう噂だった。


「―― 一応、レベル規制が設けられてて……デュエリストレベル7以上の人は参加不可、ってことらしいんだけど。すでに300名以上の人が、参加登録しているらしいの」
「へー……そりゃスゴイわね」
 深冬は感嘆すると、一月前のことを想起した。
 隣町で開かれた、バトル・シティ大会――町全体を使い、かつ、決闘盤というハイテク機器を試験投入したカード大会は、近隣では大きな話題となっていた。
 かつてM&Wプレイヤーだった深冬も、それには興味を引かれ、当日は瞳子と見物に行っていた。かつてはテーブル上で行われるだけだったカードゲームが、今やソリッドビジョンシステムにより、大迫力のバーチャルゲームと化した――それはM&Wにとって、大きな革新の一歩と言えただろう。彼女たちのみならず、その大会を見た全員が思ったはずだ――自分も体験してみたい、決闘盤を手に入れたい、と。
「でも今度の大会は、強いヤツは参加できない決まりなんでしょ? だったら……」
「ウーン……それでも、レベル6以下のプレイヤーは出られるからねぇ。私はまだレベル3どまりだし……」
 はぁ、と、重苦しい溜め息を吐き出す。その様子を見て、深冬はムッと顔をしかめた。
「……去年までと同じなら、優勝を狙うこともできたかもだけど……。レベル6って言うと、バトル・シティに出場できた人まで参加できるわけだし――」
 ――と、その瞬間、瞳子の台詞に割り込むかのように、深冬の右手が瞳子の額に伸びた。
 瞳子はギョッとし、回避しようとする――だがもう遅い。反射神経の鈍さに定評のある瞳子では、運動部一の反射神経の持ち主である彼女の“それ”をかわすなど、到底不可能なことだった。

 ――ビシィィッ!

 かなりいい音がした。
 瞳子は思わず蹲(うずくま)り、額を押さえ込んだ。深冬の右手中指から繰り出される、痛烈な“でこピン”を喰らった結果である。
「いっ……痛いよ、深冬ちゃん〜……」
 両眼に涙を浮かべ、訴える。しかし深冬の方に、悪びれるような態度は微塵も見られない。
「活を入れてやったのよ! どう? 少しは元気でたでしょ」
 むしろ、得意げな調子だった。
「でっ、出るわけないよ〜。こんなの、痛いだけだって……」
「アラ〜、そう? んじゃ、もう一発入れてあげましょうか?」
 深冬が右手をかざしてみせると、瞳子は防衛本能から、数歩後ずさった。
「……まったく……アンタねえ、やる前からそんな弱腰でどーすんの! 勝てる勝負も勝てなくなるわよ!?」
「うーっ……そう言われても……」
 抗議の目を向けるのだが、やはり深冬には伝わらない。
「要は気合よ気合! 相手が強いなら上等じゃない! 逆にその方が燃えるってモンよ!!」
 彼女らしい、男気に溢れた言い分だった。
 何だか可笑しくなって、瞳子は思わず苦笑が湧(わ)いた。
「深冬ちゃんは昔から、そういうトコ全然変わらないよね……」
「……それは褒め言葉? それとも、遠回しに貶(けな)してるのかしら?」
 脅すかのごとく、“でこピン”の構えで右手をチラつかせる深冬。
 瞳子は右手で額を完全ガードし、おずおずと立ち上がった。
「……全く……アンタのそーゆートコロも、結局変わんなかったわよね。闘争心に欠けるとゆーか、情けないとゆーか……」
「“三つ子の魂百まで”っていうし……根本的な部分は、そう簡単には直らないよ」
「……根本的な部分は……ね」
 深冬が不意に、笑みを零した。“でこピン”用の右手を下げると、左手の手提げ鞄を持ち直す。
「……でも……それ以外の部分は変わった、かな」
 感慨深げに、深冬は両眼を細めた。その言葉の意味がすぐには分からず、瞳子は小首を傾げる。
「アタシはさー……アンタみたいなタイプ、一番嫌いだったハズなのよね。でもいつの間にやら、こうして一緒に下校する仲に……不思議なもんよね」
「あー……それは確かにそうかも」
 初めて会ったときには、“絶対気が合わないだろう”――そんなふうにまで思っていたのに、と瞳子は失笑を漏らした。
「……ま、そんなもんなんでしょうね。根っこの部分は変わんなくたって……2年もすれば、いろいろ変わる。変わることができる」
「私と深冬ちゃんが仲良くなれたのは……やっぱり、M&Wがキッカケだよね」
「始めたばっかの頃のアンタ、てんで弱かったもんねえ……。見てらんなくって、色々アドバイスしてやったわよ」
「そういう意味では、深冬ちゃんは私の“デュエルの先生”……かな」
 額に当てた右手が、自然に下がった。
 二人は並んで歩きながら、二年間の思い出話に花を咲かせ始める。

「――でもさ……深冬ちゃん、M&Wやめてなければ良かったのにな。そうすれば、一緒にデュエルとかできたのに……」
「んー……そうねえ。それはそれで楽しかったんでしょうけど……でも、今のアタシには、それ以上に大切なことがあるから。アタシはどっちかって言うと、カラダ動かす方が好きだしさ」
 走ること――誰よりも沢山走って、誰よりも速く走れるようになること。
「でも……陸上部しながらでも、M&Wはできるでしょう?」
「ん〜……アタシは中途半端なの嫌いだからなあ。M&Wが“浅くない”ゲームなのは知ってるし……再開したら熱中して、陸上の方が疎かになりそうなのよねぇ。アタシ、負けず嫌いだし」
 だからさ――と、深冬は瞳子を見据えて言う。
「やめちゃったアタシの分も……トーコには、M&W頑張って欲しいのよね。余計なお世話かも知んないけどさ」
「……!」
 その言葉には、瞳子の心に届くものがあった。
 その後も二人は談笑し、帰途につく。
 そして分かれ道の前、別れ際――瞳子は少し迷ってから、こう宣言した。
「……勝つね――私」
 と。深冬は一瞬、何のことだか分からなかった。
 だからそのとき、彼女らしくない勝気なその宣言に、瞬きを数回繰り返した。
「……実際に、どこまで勝てるかなんて分からないけど……頑張ってみるよ。深冬ちゃんの分も」
 そこでようやく、深冬は話の脈絡を掴めた。
 分かるや否や、深冬はニッと笑みを零す。嬉しげな、しかし不敵な笑みを。
「よっし……それじゃ約束しましょう! アタシとアンタ、出る大会は違うけど……お互いベストを尽くすこと! どんなにピンチになったって……絶対諦めないこと! 優勝できなかった方は、でこピン千回だからねっ!」
「……へ……でこピン千回?」
 先ほどの勇ましい宣言は何処へやらで、瞳子は目が点になった。
「ちょっ……ちょっと待ってよっ! 私、“優勝する”なんて一言も――」
「――アラ、“勝つ”って言ったじゃない? もう前言撤回なわけ?」
 軽い調子ではぐらかすと、「じゃあね」と片手を挙げ、深冬は小走りに立ち去ってしまう。
 一瞬、慌てて追いかけようかとも思ったが、もう遅い。帰り道がここからは違うし、そもそも、彼女の“小走り”にさえ、瞳子は追いつける自信がなかった。
(まさか本当にしたり……しないよね?)
 瞳子は一人、呆然と立ち尽くし、おでこに右手を当てた。
 定番の“ハリセンボン”の約束なら、万が一にも本当に飲まされることはなかろうが――“でこピン”千回という辺りが、やけに生々しい気がした。
(……深冬ちゃんならやりかねない……)
 口は災いの元――良く聞くポピュラーな慣用句を思い出し、瞳子は激しく後悔した。

 絶対に負けられない――彼女の中に、彼女らしからぬ闘志が芽生えた。




決闘65.7 岩槻瞳子の世界(後編)

 夏休みに入ってから、およそ2週間後。

 童実野町内にある、屋内型アミューズメントパーク“海馬ランド”――その中の、M&W専用デュエル場にて、“童実野町内M&W大会”は開催された。
 もっとも、“町内”とは銘打っているが、参加者を童実野町民のみに絞っているということはない。決闘盤の一般販売開始前日、そのセレモニーとして開催されたそれには、予想を遥かに上回る参加申し込みがあった。
 二ヶ月前に開催された“バトル・シティ”と違い、参加要件がかなり緩かったこと、そして大会参加者のみ、決闘盤が先行販売され、それを用いてデュエルが行われるルールに起因したのだろう。実に1000人近い申し込みが殺到したのだ。
 大会運営側も、これは予想外だったらしく、急遽、事前に各所で“予選”が組まれることになった。
 結果として、瞳子の所属する“非電脳ゲーム部”で本戦出場できたのは、岩槻瞳子・栗宮美樹・中村信己の3名に絞られていた。

 大会当日。大会参加者のみならず、数え切れない程の観客が、海馬ランド内に溢れ返っていた。
 それは瞳子にとって、生まれて初めての大舞台だった。
 情けない話ではあるが、“非電脳ゲーム部”の中で、部長の瞳子が一番ガチガチに緊張してしまっていた。しかし、部員に励まされ、応援されながら行った一回戦に勝利してからは、ある程度の落ち着きを取り戻し、自分らしいプレイでゲームを進められるようになった。
 しかし、中村信己は一回戦で、栗宮美樹は二回戦で敗北を喫した。瞳子だけは、対戦相手に恵まれるなどの幸運もあり、順調に勝ち進むことができた。
 激戦の末の準決勝戦、“切札”を召喚し、辛勝した瞳子は決勝戦へと駒を進めた。
 そして決勝戦。そこで対峙したのは、“伝説”の男――デュエリスト達の間でも名の知れた、一度は“全日本チャンプ”の座にまでのぼりつめた男だった。

「――ヒョーッヒョヒョヒョ! 相手が女の子だからって油断しないっピョー! 遊戯も城之内も参加してないこの大会……今こそ、この俺が王者に返り咲く瞬間なのだぁぁ!!」

(……変な喋り方……)
 それが瞳子から見た、彼――インセクター羽蛾の第一印象だった。



 瞳子のLP:2900
     場:激昂のムカムカ(攻2000),伏せカード2枚
    手札:2枚
 羽蛾のLP:3800
     場:インセクト女王(攻2600),インセクト・ラーバ(攻1200),
       伏せカード1枚
    手札:5枚


激昂のムカムカ  /地
★★★★★
【岩石族】
自分の手札1枚につき、このカードの攻撃力・守備力は
それぞれ400ポイントアップする。
攻1200  守 600

インセクト女王(クイーン)  /地
★★★★★★★★
【昆虫族】
全ての場に出ている他の虫(インセクト)
モンスター1体につき400ポイントUP
相手のモンスターを倒したらフィールドに
卵を産みつけ虫モンスターを誕生させる
攻2200  守2400


 決勝戦が始まってから、十数分程度が過ぎた。周囲の下馬評どおり、ここまでのゲームは、羽蛾優位の形勢で進んでいる。無名のデュエリストである瞳子と、一度は全日本王者にまでなった羽蛾――観客の誰もが、彼の勝利を信じて疑わなかっただろう。
「ヒョヒョ……足掻くだけ無駄ピョー! オレは『インセクト・ラーバ』を生け贄に捧げて……『セイバー・ビートル』を召喚! 攻撃表示だ!!」
 羽蛾のフィールドから、卵から孵化したばかりの幼虫が消え、代わりに、長い一本角を持った巨大カブトムシが喚び出される。


セイバー・ビートル  /地
★★★★★★
【昆虫族】
このカードが守備表示モンスターを攻撃した時、
その守備力を攻撃力が超えていれば、
その数値だけ相手ライフに戦闘ダメージを与える。
攻2400  守 600


「そしてバトルフェイズ開始ぃ! いけぇ女王様! クイーンズ・ヘル・ブレスッ!!」
 インセクト女王の口から、緑色のブレスが勢いよく吐き出される。

 ――ズゴォォォンッ!!!

 それが、瞳子の場のモンスターを易々と打ち砕き、ライフポイントを削る。

 瞳子のLP:2900→2300

「ヒョヒョ……これにより、女王様の特殊能力発動。敵一体を倒すごとに、フィールドに卵を産みつける……! 現れろ、『インセクト・ラーバ』っ!」
「……!! う……」
 インセクト女王の卵が孵化し、新しい幼虫が誕生する。

 インセクト・ラーバ:攻1200

「ヒョヒョ……もっともそんなの関係ナシに、これで終わりだけどなあ。『セイバー・ビートル』でダイレクトアタックッ!!」
 ビートルの角が輝き、瞳子に向かって突き出される。だが瞳子も負けじと、場のリバースを開いた。
「トッ……トラップカード! 『蘇りし魂』を発動しますっ!」


蘇りし魂
(永続罠カード)
自分の墓地から通常モンスター1体を守備表示で特殊召喚する。
このカードがフィールド上に存在しなくなった時、そのモンスターを
破壊する。そのモンスターが破壊された時このカードを破壊する。


「このカードの効果により、私は……『岩石の巨兵』を守備表示で特殊召喚します!」
 墓地より、全身岩石の“巨兵”が喚び出され、守備体勢をとる。
「ヒョヒョ……無駄ピョー! やれぇ『セイバー・ビートル』ッ!」
 ビートルは臆することなく、そのままの勢いで、突撃してくる。

 ――ズガァァァァッ!!!

 堅固な角が、巨兵の胴を見事貫く。それにより、巨兵の体は崩壊――爆散し、岩が飛び散った。
「!! きゃ……っ!」
 つぶてを浴び、瞳子の身体がよろめく。あまりにリアルなその映像に、瞳子は翻弄させられる。
「ヒョヒョ……『セイバー・ビートル』には貫通能力があるのだ。400ポイントのダメージを受けてもらうピョー」

 瞳子のLP:2300→1900

「さらに……『インセクト・ラーバ』でダイレクトアタックっ!」

 ――バキィィッ!!

「!! あう……っ」
 幼虫の体当たりを受け、瞳子はその場で尻餅をついた。

 瞳子のLP:1900→700

「ヒョーヒョヒョヒョヒョ! どーだ見たか、これがオレ様の“ハイパーインセクトデッキ”の実力だあ!!」
 早くも勝った気になって、羽蛾は高笑いを始めた。
 しかし念には念を入れ、手札のトラップカードに指を伸ばす。
(ヒョヒョ……この間のバトル・シティでは城之内に、女王様の“唯一の弱点”を突かれて負けたからなあ……念のため保険をかけておくピョー)
「リバースを一枚張って……ターン終了!」
 対する瞳子は、よろめきながら立ち上がると、場の状況と手札を確認した。


 瞳子のLP:700
     場:伏せカード1枚
    手札:2枚(闇の結晶体×2)
 羽蛾のLP:3800
     場:インセクト女王(攻3000),セイバー・ビートル,インセクト・ラーバ,
       伏せカード2枚
    手札:3枚

闇の結晶体  /闇
★★
【岩石族】
このカードが破壊され墓地へ送られたとき、
同名カードを手札に加えることができる。
また、このカードが破壊された場合、
コントローラーは500ポイントのダメージを受ける。
攻 100  守 100


(どっ……どうしよう。手札のこのモンスターじゃ、壁にもならないし……。場の罠カードも、この状況じゃ全く役に立たない……!?)
 追い詰められ、手札を持った左手が震え出す。
 駄目だ、勝てない――そう諦めかけたその瞬間、瞳子の耳に、届く“声”があった。


『――優勝できなかった方は、“でこピン”千回だからねっ!』


 思わず身震いした。空いた右手で反射的に、おでこを隠してしまう。
 そうだ、このデュエルには絶対に負けられないのだ――“おでこを守るために”。
「いっ、いきます……! 私のターンです、カードドロー!」
 何処となく不慣れな手つきで、決闘盤からカードを引き抜く。バトル・シティに出場していた羽蛾とは違い、瞳子は今日、初めて決闘盤を使うのだ。その様子も、仕方ないことと言えた。
「……!」
 引き当てたそのカードに、瞳子は目を見張った。

 ドローカード:強欲な壺

「やった……! 私は『強欲な壺』を発動します! この魔法効果によって……私はさらに、2枚のカードをドローできますっ!」
「ヒョヒョ……どうぞご自由に。今さら手札なんて増えたところで、オレの女王様は倒せないピョー」
 羽蛾は偉そうに腰に手を当て、瞳子に先を促した。羽蛾は自身の勝利を、微塵も疑っていなかった――彼女が自分より“格下”であることを、はっきりと感じ取っていたのだ。
(ヒョヒョ……“目”を見れば分かるピョー。ここまでのデュエルを見る限り、筋は悪くないが……この娘は、遊戯や城之内たちに比べれば、遥かに“格下”……!)
 一方で、瞳子はデッキを見つめると、深呼吸を一つした。
(……この絶望的な状況を覆せるとしたら、あのカードしかない……!)
 デッキにたった1枚の、切札モンスター ――それを引き当てられるよう祈り、デッキトップに指を当てる。
(お願い……来て!)
 恐る恐る、2枚のカードを手にする。そして、その2枚を見て――瞳子の顔色が変わった。

 ドローカード:大地の恵み,メガロック・ドラゴン

(……!! やった……来た!)
 その瞳に“希望”を宿し、その切札を持ち替える。
「今……私の墓地に、岩石族モンスターは6体!」
 そしてそれを、盤にすかさずセットする。
「その全てのモンスターを除外して、特殊召喚――『メガロック・ドラゴン』!!」
「!? メ、『メガロック・ドラゴン』……!?」
 聞いたことのないそのモンスターの名に、羽蛾は目を瞬かせた。


メガロック・ドラゴン  /地
★★★★★★★
【岩石族】
このカードは通常召喚できない。
自分の墓地に存在する岩石族モンスターを除外する事でのみ
特殊召喚することができる。このカードの元々の攻撃力と守備力は、
特殊召喚時に除外した岩石族モンスター×700ポイントの数値になる。
攻撃力 0   守備力 0


 ――ズゴッ……ズゴゴゴッ……!!!!

「……!? なあ……っ!?」
 羽蛾はそのモンスターを見上げ、口をあんぐりと開けた。
 『メガロック・ドラゴン』は、まるで植物の如く地面から生え、現れた。しかしその身体は、植物のものとはまるで違う――全身岩石で構築された、見るからに頑強そうな“怪物”だった。
 そしてそれは無論、見掛け倒しのものではない。
「……『メガロック・ドラゴン』の攻撃力・守備力は、特殊召喚時に除外したモンスターの数により決定します……! その攻撃力は――4200ポイント!」
「!!? よ、4200ぅぅぅっ!?」
 羽蛾は、開いた口がそのまま塞がらなかった。

 メガロック・ドラゴン:攻0→攻4200

「撃って……『メガロック・ドラゴン』! 『インセクト女王』を攻撃しますっ!」
「!! くっ……!」
 羽蛾は思わず、フィールドのリバースカードに視線を落とした。
(ここで女王様を失うわけにはいかないピョー! こうなったら……)
「リバースカードオープンっ! 『立ちはだかる強敵』!」


立ちはだかる強敵
(罠カード)
相手の攻撃宣言時に発動する事ができる。
自分フィールド上のモンスター1体を選択する。
発動ターン相手は選択したモンスターしか攻撃対象にできず、
全ての攻撃表示モンスターは選択したモンスターを攻撃しなければならない。


「このトラップの効果により……そのデカブツの攻撃を、『セイバー・ビートル』に移し替えるっ!!」
 インセクト女王の前面に、ビートルが躍り出る。岩石龍はそれに構わず、口から、大量の土砂を吐き出した。

 ――ズドォォォォォッ!!!!!

 ビートルの身体はなす術なく、一瞬にして打ち砕かれる。それに伴い、羽蛾のライフも大幅に減少した。

 羽蛾のLP:3800→2000

(チィッ……このガキ、予想外にやりやがる……!!)
 羽蛾は顔をしかめた。攻撃力だけなら神をも上回る、最上級アタッカー ――そんな切札が出てくるとは、全く想定していなかった。
(よし……これなら、いけるかも!)
 形勢を持ち直した瞳子は逆に、右手で小さくガッツポーズをとっていた。
「私はカードを一枚伏せて……ターンを終了します!」
 これなら勝てる――そう思いながら、喜々とした調子でターンを終えた。


 瞳子のLP:700
     場:メガロック・ドラゴン(攻4200),伏せカード2枚
    手札:2枚
 羽蛾のLP:2000
     場:インセクト女王(攻2600),インセクト・ラーバ,伏せカード1枚
    手札:3枚


(チッ……調子に乗りやがって。見てろよ……!)
 表情を歪めたまま、羽蛾はカードを引いた。そして、そのカードを見た瞬間――羽蛾の表情も大きく一変する。

 ドローカード:兵隊アリ

(キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!)
「ヒョーヒョヒョヒョヒョヒョヒョ!! いくぞぉぉぉぉ!! さっき驚かせてくれたお返しに……今から、インセクトデッキ最強コンボをお見舞いしてやるぅぅ!!」
「!!? さ、最強コンボ……!?」
 羽蛾は颯爽と、引き当てたばかりのそのモンスターを召喚する。
「オレは『兵隊アリ』を攻撃表示で召喚っ! さらにリバースカード……『アリの増殖』を発動ぉぉ!!!」

 兵隊アリ:攻500


アリの増殖
(魔法カード)
攻撃表示の兵隊アリを増殖させ、10匹の軍隊アリにする。
軍隊アリは攻撃には参加できない。ターン終了後すべてのアリは墓地に行く。


「ヒョヒョヒョ……こいつの効果で、『兵隊アリ』は一気に十体に増える。もちろん、こいつらは全部インセクトカードだ……この意味が分かるかなあ?」
「……!?? イ、インセクトモンスターが、一気に十体も増えた……!?」
 羽蛾のフィールドには十体ものアリが、所狭しと蔓延(はびこ)っていた。
 それにより、『インセクト女王』の特殊能力が適用される――増えたインセクトの数×400ポイント、攻撃力が上昇する。つまり――

 インセクト女王:攻2600→攻6600

「……こっ……攻撃力6600……!!?」
 今度は、瞳子の方が呆気にとられる番だ。
 インセクト女王は巨大化し、メガロック・ドラゴン以上の体躯に成長していた。そしてその攻撃力差も、2400――全く歯が立たない。
「ピョピョッ……これでトドメピョー! いけぇ女王様ぁ! 必殺! クイーンズ・インパクトォッ!!」
 インセクト女王の口が開き、その先に、強大なエネルギーが圧縮される。瞳子は慌てて、場の伏せカードに指をかけた。
「トッ……トラップカード! 『大地の恵み』を発動しますっ!」


大地の恵み
(罠カード)
自分の場の、地属性・岩石族モンスター1体を指定して発動。
そのモンスターの守備力の数値だけ、自分のライフポイントを回復する。
発動ターンのエンドフェイズ時、指定したモンスターはゲームから除外される。


「こっ……このカードの効果により、私のライフは4200ポイント回復!」

 瞳子のLP:700→4900

「無駄ピョー! やれぇぇ、女王様ぁぁ!!」

 ――ズゴォォォォォォォンッッ!!!!!!!

 凄まじい轟音が鳴り響き、岩石龍は打ち砕かれ、崩れ落ちる。
「!!! あう……っっっ!!!」
 瞳子の全身を、強烈な衝撃が襲った。

 瞳子のLP:4900→2500

「ヒョヒョ……回復カードで凌いだか。でも無駄ピョー! そのデカブツを破壊したことで、女王様は新たな幼虫を生み出す!」
 羽蛾の場に、二体の『インセクト・ラーバ』が並ぶ――そして彼らにはまだ、バトルフェイズが残されている。
「やれぇ、インセクト・ラーバ! 2体揃ってダイレクトアタック!」

 ――バキバキィッ!!!

「!! きゃあ……っっ!!」
 痛烈な二連撃を浴び、瞳子は後ろに倒れこんだ。

 瞳子のLP:2500→1300→100

「ピョピョッ……さあ、次こそラストターンだ! カードを1枚セットして、ターンエンドォッ!」
 羽蛾のエンド宣言と同時に、場の『兵隊アリ』十体は全て墓地に眠る。それにより、女王の攻撃力は大幅にダウン――だがしかし、フィールドを制圧し続けるには十分な攻撃力を備えていた。

 インセクト女王:攻7000→攻3000


 瞳子のLP:100
     場:伏せカード1枚
    手札:2枚
 羽蛾のLP:2000
     場:インセクト女王(攻3000),インセクト・ラーバ×2,伏せカード1枚
    手札:2枚


「……あ……っ……」
 そのままへたり込んだまま、瞳子は、羽蛾のモンスターを見上げていた。
 ライフは残り100ポイント、手札も場のカードも、役には立たない。切札ももう使ってしまった。
 無理だ――もう、勝てるわけがない。どう引っ繰り返ったって、逆転できるわけがない。

「――岩槻選手。次はキミのターンだが?」

「……? え……っ?」
 黒服を着込んだ審判の声で、瞳子は我に返った。
 今まで、緊張と集中から狭視的になっていた視野が、一瞬にして広がった。
 海馬ランド内の、デュエルフィールド。見上げると壇上では、数え切れないほどの観客が見下ろしてきていた。あまりにも沢山の視線が、自分の姿を見つめている。
「あ……っ……」
 発作的に、彼女の中に、複数の感情が沸き上がった。
 恐怖・羞恥・弱気――心に芽生えた負の感情は、彼女の肉体の自由を奪う。思考さえも麻痺させる。
 全身が震え出した。心臓の鼓動が、不自然に速まった。

 どうしよう――立たなくちゃいけないのに。でも立ち上がれない。身体が鉛のように重い。動きたくても動けない。

 審判が不審げに、瞳子のことを見つめた。審判だけではない、観客の誰もが同じように、彼女の今の様子を訝しんだだろう。
 瞳子はあまりの恥ずかしさに、逃げ出したくて堪らなくなった。デュエルの勝敗なんてもう、どうでもいい。逃げ出して、全てを投げ出して、楽になりたかった。

 デッキに手を置けば、楽になれる――瞳子はそれを知っている。
 そうだ……もう自分は、十分がんばったじゃないか。これ以上続けたって、勝てるわけがない。結果は同じなのだ。

 右手だけが、軽くなった。あたかも、自身が次にとるべきアクションを示唆するかのように――そして彼女はゆっくりと、それをデッキへと伸ばす。

(ヒョヒョッ……ちょろいちょろい)
 羽蛾はニヤニヤと笑いながら、次の瞬間の勝利を待った――だが刹那、彼女の手が止まった。



「――何やってんのよ!! バカトーコッ!!!」



 聞き慣れたその声に、瞳子はハッとした。
 声の主に、慌てて振り返る。瞳子の背後の壇上、その最前列に、彼女が――太倉深冬の姿があった。
「……み……ふゆちゃん……? どうして……」
 瞳子は呆気にとられた。そこにいるはずの無い人物に、湧き上がっていた感情が吹き飛んだ。

 思考が再び、クリアになる。深冬だけではない――瞳子の耳に届く声が、他にもある。


「――トーコ先輩! ファイトーッ!」
「――まだドローフェイズが残っていますっ! 諦めるには早すぎますよっ!!」
「――そうっす部長っ! ポ○モン的に考えれば、岩は虫に強いはず……! まだまだ逆転できるっす!!」
「――そんな虫チビ、さっさとやっつけちゃって下さーいっ!!」


 栗宮美樹・中村信己・相原宗佑・柿本夏美――非電脳ゲーム部部員である4人の声が、はっきりと聞こえた。深冬とはまた離れた場所で、声を張り上げ、エールを送ってくれている。
「…………!! そう、か……」
 頬を一筋、伝うものがあった。
 誤魔化すように、瞳子は慌ててそれを拭う。

 二年前とは違う――自分はもう、独りじゃない。独りぼっちじゃない
 応援して、支えてくれる人がいる。大切な人たちがいる。
 ――だから……

(……怖がることなんて……何一つないんだよね……)

 ゆっくりと、瞳子は立ち上がった。
 同時に、羽蛾の笑みが消える。彼女に起こった確かな“変化”を、敏感に感じ取る。
(目の色が変わった……!?)
 瞳子の瞳は今、真っ直ぐ前を向いている。つい先ほどまで、瞳に垣間見えていた“怯え”が、完全に消え失せている。
「――岩槻選手。プレイヤーに与えられる1ターンの思考時間は5分と決まっている。残りは1分程となっているが……」
「……大丈夫です」
 審判からの忠告に、瞳子は落ち着いた様子で頷いた。そしてゆっくりと、デッキへ指を伸ばす――そのとき、瞳子は確かに微笑んでいた。
 勝利の笑みとは違う、諦めの笑みとも違う――もっと穏やかで、優しさに満ちた笑み。
「私のターンです……ドロー」
 緩やかに、カードを引き抜く。この時点では何のカードを引き当てたか、瞳子には知る由もない。けれど瞳子は、自然に呟いていた。
「……ありがとうね……みんな」
 支えてくれたみんなへの、感謝のことばを。

 ドローカード:死者転生

「手札から、魔法カードを発動します……! 『死者転生』発動!」


死者転生
(魔法カード)
手札を1枚捨てる。
墓地に存在するモンスターカード1枚を選択して手札に加える。


「手札から『闇の結晶体』を墓地に捨てて……『メガロック・ドラゴン』を手札に加えます!」
「!? 『メガロック・ドラゴン』を手札に……!?」
 羽蛾は眉をひそめる。つい先ほどまでフィールドを制圧していた、超大型モンスターを手札に戻す――それは一見すると、希望への一手に見えるだろう。
 だが、それが希望でも何でもないことを、羽蛾は理解していた。それどころか逆に、彼は勝利を確信する。
「無駄ピョー! 『メガロック・ドラゴン』は、特殊召喚時に除外した岩石族の数により、攻撃力が決まるモンスター! 今オマエの墓地には、岩石族モンスターが1枚しかないハズ……女王様どころか、インセクト・ラーバにだって勝てないピョー!」
「……!」
 それは羽蛾が説明せずとも、持ち主の瞳子が一番良く分かっている“弱点”だった。
 『メガロック・ドラゴン』は大味な強さを持つ分、多用できないモンスター。いちど召喚してしまえば、墓地の岩石族モンスターは枯渇する―― 一回のデュエルで何度でも使い回せるモンスターではない。正真正銘、“一撃必殺”の切札モンスター。
「ヒョヒョ……これでオマエの手札は2枚。『メガロック・ドラゴン』と『闇の結晶体』のみ……どう足掻いても逆転は不可能! オレの勝ちは決定ピョー!」
「……。何……勘違いしているんですか?」
「……ピョッ?」
 羽蛾の両目が、点になった。


 瞳子のLP:100
     場:伏せカード1枚
    手札:2枚(メガロック・ドラゴン,闇の結晶体)
 羽蛾のLP:2000
     場:インセクト女王(攻3000),インセクト・ラーバ×2,伏せカード1枚
    手札:2枚


(!? リ、リバースカードが1枚残っている……!?)
 羽蛾の表情は一変、驚愕する。
 まさかそのカードは――最悪の可能性が、彼の脳裏を掠めた。
 そしてその可能性は、次の瞬間、現実のものとなる。少女の手によって。
「リバーストラップ発動……『賢者の石−エリクシール−』!!」


賢者の石−エリクシール−
(罠カード)
手札からモンスターカード1枚を墓地に送り発動。
ゲームから除外された全てのカードを持ち主の墓地に戻す。


 フィールドに、光り輝く“石”が現れる。人間の手の平にも易々と納まるであろう、小さな石ころ――しかし、モンスター1体の魂を糧に、眩いばかりの黄金の輝きを見せた。

 ――カァァァァァァァッ……!!!

「……!?? なっ……何だこの光はぁぁっ!!?」
 左腕で視界を庇いながら、羽蛾は叫んだ。
「……“エリクシール”の効果により、ゲームから除外されたカードの全てが、再び使用可能となる……。墓地に、再び舞い戻ります!」
 このゲーム中、除外されているカードは合計6枚――その全てが、瞳子の使用した岩石族モンスター。
「この瞬間――私の墓地に、岩石族モンスターは8体!」
「!? なっ、何だってぇぇぇっ!!??」
 “賢者の石”の光が止み、石はその場で崩れ落ちる。
 光が止んだそのとき――瞳子はすでに、次のアクションに移っていた。
「私は墓地の! 岩石族モンスター8体をゲームから除外して――」

 ――ズゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!!!!

 本日、二度目の地響きが鳴る。
 会場が沸いた。常識ハズレの攻撃力を備えた超大型モンスターが、立て続けに喚び出される――盛り上がるなという方が無理な話だ。
「――『メガロック・ドラゴン』を……特殊召喚しますっ!!」
 隆起した岩が、1体のドラゴンを形どる。
 あの“最強”と名高い『青眼の白龍』さえも遥かに凌ぐ、巨大龍が降臨する。

 メガロック・ドラゴン:5600

「バッ……バカなっ! 攻撃力……5600ポイントだとぉぉぉ!!??」
 羽蛾は、この上ない驚愕をみせた。今現在、『インセクト女王』の攻撃力は3000――その数値を遥かに超過している。
「――そして、バトルフェイズ……!! 『メガロック・ドラゴン』の攻撃っ!!」
 岩石龍は口を開くと、先ほどの復讐をせんと、『インセクト女王』へと向けた。
「撃って……メガロック・ドラゴン! マッドスライド・キャノンッ!!」

 ――ズドォォォォォォォンッ!!!!!!

「ギョェェェェェェェェッ!!!」
 羽蛾が悲鳴を上げた。岩石龍の吐き出した土砂が、インセクト女王を易々と打ち砕く――それにより、勝敗は決した。

 羽蛾のLP:2000→0


 瞳子のLP:100
     場:メガロック・ドラゴン(攻5600)
    手札:0枚
 羽蛾のLP:0
     場:伏せカード1枚
    手札:2枚


 決勝戦に相応しい大接戦、そして劇的な大逆転――会場内のボルテージが、最高潮に達した。
「勝負あり!! 勝者――岩槻瞳子選手っ!!」
 審判が、瞳子の勝利を、優勝を宣言する。
 しかしそれも、よく聴こえない。客席に埋め尽くされた観客の、あまりの盛り上がり振りに、審判のマイクが意味をなさない。
「…………!!」
 瞳子は呆然と、天を仰いだ。
 歓声が降り注いでいる――自分に対して。下馬評を覆して生まれたチャンピオンに、惜しみない拍手が注がれる。
 最高の気分だった。
 これまでの人生で間違いなく一番の、最高の瞬間。そのあまりの喜びに、快感に、瞳子は全身が震え上がった。

「――やったぁ!! トーコ先輩〜っ!!」

 4人の部員達も、歓声を上げ、喜んでくれていた。
 そこで、瞳子は思い出したように振り返り、深冬の姿を探す。
 しかし、見当たらない。先ほど、声を掛けてくれたはずの親友の姿は、何処にも見当たらなかった。
(いない……? でもさっき、確かに……)
 瞳子はそれを、いぶかしんだ。
 そもそも今日、この場に、深冬がいるはずはないのだ。深冬は今日、この場所から五キロ近く離れた競技場で、陸上の県大会に出場しているはずなのだから。

 十数分後、表彰式が行われ、瞳子は優勝盾と、賞品のレアカードを受け取った。

 その後、定食屋をやっている中村の家で、非電脳ゲーム部内での祝杯が挙げられた。
 その日は瞳子にとって、紛れもなく“最高の一日”だった――そう、“最高の一日”、だったのだ。


 ――何故なら瞳子が“その連絡”を受けたのは、それから数日後のことだったのだから。




決闘65.8 わたしたちのリアル

 ――太倉深冬が、交通事故に遭った。

 電話でその報せを受けたとき、瞳子は目の前が真っ暗になった。

 事故が起こったのは、数日前――陸上部の、県大会の真っ最中。
 競技場内にいるはずの彼女が、何故かそこから数キロ離れた道で、トラックに轢かれた。
 彼女の出場する短距離走は、その時にはすでに終わっていた。他の部員が仲間を応援する中、自分の競技を済ませた彼女は、早々に会場を抜け出し“何処か”へ行っていた――その結果の悲劇だった。

 不幸中の幸いにも、命に別状はないという。
 ただし――その代償は、あまりに重いものだった。
 彼女にとってその“代償”は、死よりもなお、重いものだったかも知れない。




 報せを受けた翌日、瞳子は深冬の見舞いに向かった。
 童実野病院内の個室。そのドアの前で、瞳子はいちど躊躇した。
 もしかしたらこれが、彼女と話せる、最後の機会になってしまうかも知れないから――だから勇気を振り絞って、慎重にドアをノックし、病室に入った。
「――あら、トーコじゃないの」
 しかし中には、想像とは明らかに違う、普段通りの、あっけらかんとした彼女がいた。頭には少々包帯が巻かれ、頬に絆創膏を一つ貼っているものの、さほどの重症には見えなかった。表情は明るいし、少なくとも重症患者には見えない。
 ただ、彼女の右足だけは、仰々しいギブスを装着され、包帯で宙にしっかりと固定されている。
「あはは……ゴメンゴメン。驚いたっしょ? いやー、アタシ自身もビックリでさ。轢かれた後のこと全っ然覚えてなくって……」
 彼女はいつも通り、気丈に笑っていた。
「いやー……正直、あんときゃ流石に、本気でヤバイと思ったわね。でもま、こうして生きてるわけだし……人間ってのも、意外と丈夫に出来てるわよねえ」
 予想外に明るい深冬に対し、瞳子は反応に窮した。明るく振舞おうとする彼女に、痛々しささえ覚えた。
「……そうそう……アンタ、大会優勝したんだって? やったじゃない。まあそれというのも、アタシとの約束のお陰――」

「――何で……知ってるの?」

「……え?」
 深冬の笑顔が凍りつく。いつにない様子で、静かな口調で、瞳子はもう一度問い直す。
「……どうして……私が優勝したって、知ってるの? 深冬ちゃん……」
「……どうして、って……」
 不自然な間があった。
 脳内で咀嚼した上で、ゆっくりと、深冬は二の句を継げる。
「決まってるじゃない……新聞よ」
 と。さも当然のように。


 決闘盤の宣伝を兼ねていた“童実野町内M&W大会”は、新聞でも大きく取り上げられていた。大会終了後、瞳子は新聞記者からの取材も受けており、短いながらそのコメントも掲載されている。
 新聞の取材を受けるなんて、きっと最初で最後の大事件だろう――そんなふうに感じ、ガチガチになりながら応答していた。その一方で、心中では、この上なく浮かれていたことも事実である。


「アンタさー……もうちょっと気の利いたコメントしなさいよねー。『みんなの応援があったから勝てました』とか安直すぎだし。もっとこう……あのバカ社長みたく、高笑いしてみせるとかさ〜」
「……でも……本当にそうだから。部のみんなと……深冬ちゃんの声援がなかったら、あの場で諦めちゃって、きっと負けてた」
 一瞬、病室の空気が重くなった。
 またも不自然な間。それを破ったのはやはり、深冬の方だった。

「――何言ってんの、アンタ?」

 さも馬鹿にしたかのように、嘲笑を浮かべ、深冬は言う。
「アタシはそのとき、大会の真っ最中よ……? アンタの応援になんて、行けるわけがないじゃない」
 さも正論のように、深冬は主張する。
 瞳子は顔を俯かせ、弱々しい声で抗弁する。
「……でも、あのとき確かに……」

 ――深冬はいた
 ――海馬ランドのデュエルフィールド、その観客席に彼女はいた
 ――絶体絶命の窮地に立った瞳子に、大きな声援をくれた

「……キンチョーし過ぎて、幻覚でも見たんじゃないの? アタシは知らないわよ。でなきゃ、そっくりさんか何かね……世の中には、同じ顔したのが3人いるって言うし。ウン、きっとそれね」
 あくまでとぼけた調子で、からかうように深冬は言う。
 しかし瞳子は、納得する気になれない。溜め込んだ汚濁を吐き出すかのように、ことばを続ける。

「――じゃあどうして……競技場から、何キロも離れた場所にいたの?」

 深冬は一度、唾を呑み込んだ。
 大丈夫、まだ誤魔化せる――そう、自身に言い聞かせて。
「……アイス食べたかったのよ……アタシ」
 何でもないように、何でもないように装って、深冬は慎重に答える。
「ホラ……当日、暑かったっしょ? 自分の競技が終わった後、急に食べたくなっちゃってさ。そんでこっそり、会場を抜け出してたってわけ」
「…………。コンビニくらい……会場の近くにあったんじゃない?」
「……ええ。でも、目当てのアイスがなかったのよ。……だから急いで、遠くまで買いに行ったの」
 馬鹿馬鹿しいやり取りだ――深冬は心の奥底で、そう気付いていた。
 バレていないハズなどない――瞳子ならすでに分かっているはずだ、と。
「……それよりさー。今度来るとき、勉強道具持って来てくんない? アタシ、受験勉強しなくちゃなんなくなったから……勉強教えてよ。アンタ、けっこう安全圏内なんでしょ?」
「……エ……あっ」
 瞳子の顔が、痛々しげに歪んだ。
 深冬は見て見ぬフリをする。見なかったことにする。
「別に、頻繁じゃなくていいから……たまーにでいいのよ。週一とか」
「うっ……うん。いいよ」
 返事がぎこちなかった。しかし瞳子は懸命に、首を縦に振る。
 その後、幾ばくかの会話を交わし、瞳子は早めに病室を出た。堪えられなかったから――深冬と一緒にいることが。彼女が、嘘を吐いていると分かっているから。


 ――深冬はその日、瞳子の応援に来ていたのだ
 ――自分の競技終了後、こっそり会場を抜け出し、海馬ランドまで来た
 ――そして瞳子の優勝を確認した上で、急いで競技場へ戻った
 ――その帰り道での交通事故
 ――そして……


(……私のせいだ……私が……)
 病院からの帰り道、瞳子はそのことばかりを考えていた。そのことしか考えられなかった。


 ――自分の応援をするために……深冬は競技場を抜け出した
 ――自分のせいで……交通事故に遭った
 ――そして……彼女は“足”を失った


 医者の話だと、彼女の右足は、日常生活に支障ない程度には回復するだろう――そういう話だ。しかし、スポーツをしたいとなれば、話は変わってくるという。
 結論を言えば、不可能だろう――そういう話だった。深冬はもう、陸上選手としての再起は望めない。もう、今までのように速く走ることはできない。以前までのような“足”は、戻ってこない。
 彼女の“夢”はもう、叶わない。

(……私の……せいで……)

 ――私が……彼女の“足”を奪った
 ――彼女の“夢”を奪った

 重い自責が、瞳子の中に根付く。
 何でもしたいと思った――何でもいい、その償いができるなら、何でも構わないと思った。
 しかし深冬は、何も言わない。
 “応援になんて行かなかった”――普段ぶっきら棒な彼女の、彼女なりの優しい嘘。

 ――応援になんて行かなかった……“だからアンタは悪くない”

 そう言っていた。そう言っているように聞こえた。
 けれど瞳子には、そんなふうに納得することなど、到底できなかった。
 なぜ糾弾してくれないのだろう――そんなふうにさえ感じてしまった。


 彼女にとって“最高の一日”は、“最低の一日”に変わった。





 それからというもの瞳子は毎日、深冬の病院へ通うようになった。
 通っていた学習塾の夏期講習は欠席し、その代わり勉強道具を持って、深冬の勉強を見た。
 瞳子は中学校で、特別頭が良かったわけではない。けれど、中の上くらいの学力はあった。赤点スレスレの成績だった深冬の勉強を見るには、それで十分だった。
 それは瞳子にとって、ある意味、贖罪に近い行為だったろう。
 幸いにも、いざ教えてみれば、深冬は実に呑み込みが良く、めきめきと学力を上げていった。「勉強できないんじゃなくて、してなかっただけなのよ」――深冬は自慢げに、そんなふうに語っていた。

 けれど瞳子は、見過ごすことができなかった――時折、深冬の瞳が、つまらなそうに虚空を眺めるのを。
 そんな深冬の表情を、瞳子はこれまで、見たことがなかった。
 瞳子の知る深冬は、いつでも勝気な少女だった。
 中学一年生のとき、出場した陸上大会で惜敗を喫したときも――悔しさに顔を歪めることはなかった。むしろ、「次は絶対勝ってやる」、そんな不敵な笑みを浮かべる。瞳子の知る深冬は、そういう少女だった。
 けれどそれを、今の深冬に求めることは、あまりに酷なことだろう。彼女に“次”は、もうないのだから。


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

『――他人と競うって、楽しいもんよ……この際だからスポーツ始めて、その喜びを知ってみたら?』

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


 ある日、瞳子はふと、深冬の昔の言葉を思い出した。
 深冬は誰より、他者との“勝負”を好む人間だった。彼女の足はもう、スポーツをすることができない――けれど、スポーツ以外のことならできる。
 安直な考えだろうか――瞳子はそう思い、迷いもした。けれどそれ以外に、瞳子は術(すべ)を知らなかった。
 ただ深冬に、以前までのような“輝き”を取り戻して欲しくて――あるとき、瞳子は衝動的に提案した。

「――深冬ちゃん。もう一度……M&W、始めてみない?」

 と。




決闘80.5 彼女の居場所

 そして、翌年の春――海馬ランドのM&W専用ゲームドーム“青眼(ブルーアイズ)ドーム”内にて。


「――フーン……結構やるじゃないの。あの城之内ってヤツも」

 深冬はデュエルドームの客席に腰掛けて、中央のデュエルリングを見下ろしていた。その上では、先ほどデュエルを終えたばかりの、城之内克也とエマルフ・アダンが握手を交わしている。


 「第三回バトル・シティ大会」本戦一回戦第四試合――長きに渡る熱戦が終わったところだ。
 場内では拍手が始まっていた。
 素晴らしいデュエルを見せた2人への“感謝”、そして、若き決闘者2人の未来へ向けた“祝福”の拍手。


 そしてそれは、深冬のちょうど真横でも起こっている。
 岩槻瞳子は屈託ない笑顔で、惜しみない拍手を送っていた。
「……アタシの時はしなかったクセに」
「……へっ? 何が?」
 不機嫌そうな深冬の様子に、瞳子はピタリと手を止める。
「……別にぃ。何でもないわよ」
 ぶっきら棒に言い、深冬は再びリングを見やる。
「城之内克也って、アレでしょ? アンタがこないだ負けたっていう……」
「あ……ウン。でも今のデュエルを見る限り、私と闘ったときとは別人みたいに強いけど……」
 瞳子は一ヶ月前の、城之内とのデュエルを思い出す。

 残りライフ100にまで追い詰めながらも、見事に逆転された――もしかしたら彼は、深冬と同じタイプなのかも知れない……瞳子はそう思う。

 相手が強いほどに、そして追い詰められるほどに真価を発揮する――とかく接戦に強い、勝負強いタイプの決闘者。

(……武藤遊戯……それに、城之内克也……か)
 深冬は片足で、床を数回叩いた。
 闘えないことへのイラ立ち――けれど、今度は違う。“次”がある。

 武藤遊戯も城之内克也も、自分より“格上”の決闘者だ――だからこそ、深冬は笑う。不敵に微笑む。
 太倉深冬は、そういう人間だ。
 倒すべき相手、超えるべき壁がある程に――彼女は燃える。彼女は輝く。

 そして隣で、瞳子は微笑む。
 これで良かったのだろう――そう思い、信じる。

 ――過去は取り戻せなくても、未来を目指すことはできるのだから。


「……よしっ! トーコ、デッキは持って来ているわよね? これからデュエルするわよ!」
「へっ? これから?」
 瞳子は目をパチクリさせた。
 大会は現在、午前の部を終え、インターバルに入っている。
 時計を見ると、もう正午前。要するに、昼食休憩用の時間なのだ。
「えと……先にお昼食べちゃわない? ここのレストランのオムライス、すごく美味しいって評ば――」
「――そんなの後よ後! 今はとにかく、デュエルしたい気分なの!」
 興奮気味に主張する深冬に、瞳子の笑顔が凍りつく。
 どうやら、先程の試合に触発されてしまったらしい――瞳子は観念して、しぶしぶデッキを取り出す。
「……っていうか、何でアンタは予選落ちしてんのよ? けっこう強いのに……」
「ウーン、そう言われても。私が初戦で闘った人も、すごく強かったし……」

 瞳子が予選で負けたのは、獣族を操る外国の青年――名前は、カール・ストリンガー。
 予選終了後に彼の正体を知ったとき、瞳子は本当に驚いた。

「“イギリス王者”だっていうし、絶対あの人も本戦進出していると思ったんだけど……ダメだったみたいだね。この大会、本当にレベル高いよ」
「フーン……そう」
 瞳子のデッキをシャッフルしながら、深冬はふと視線を逸らし、会場の巨大モニターを見上げる。
 そこに表示された、16人の本戦出場者の名前――午後にはまた、8人のデュエルが行われる。
 その多くがやはり、自分より“格上”の決闘者なのだろうか――そう考えるほどに、深冬は燃える。超えるべき壁の存在に、魂が震える。
(……そうこなくっちゃ、ね……)
 太倉深冬は誰よりも、“勝負”の中でしか生きられない人間だから。

 だから――彼女は、大きな声で叫ぶ。

「……さあ――始めるわよ! デュエルっ!!」

 深冬はデッキから勢い良く、1枚のカードを引き抜いた。




 本戦・一日目(午後)へ続く




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