やさしい死神(後編)

製作者:表さん




序章・それさえもおそらくは愛しき日々

 ――それは、何年前のことだろう。

『――ねえねえ、お母さん』

 ――それは私が、初めて夢を持った日のこと。

『…なあに? 杏子』

 台所で夕食の準備をしていた母が、包丁を止め、しゃがみこむ。
 まだ背の低かった私に、目線の高さを合わせるためである。

『わたしね、おっきくなったら“ぶろーどうぇい”にたつの!』

 身の程知らずに、私は宣言した。

『――そう』

 母は微笑んで、私の頭をやさしく撫でてくれた。

 ――それはまだ、夢を夢として語れた頃

 ――まだ叶えることを考えなくていい、無邪気に夢を見ていられた日々

『――ウン! あのね、“ぶたい”はおきゃくさんでいっぱいでね! それでね!』

 ――自分の力量を顧みる必要がない

 ――叶える努力さえ考えなくていい…どんな夢を抱いても許された頃


『……杏子なら、きっとできるよ』

 ――母の笑みは、どこか憂いを帯びていた気がする。

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『――こぉらぁ〜!! やめなさいっ!!』
 竹刀を振りかざしながら、私は公園に飛び込んだ。

『――やべ! 杏子だ!』
『にげろ〜!!』

 公園でたむろしていた男の子たちが、一目散に逃げていく。

 ――これは、小学生のときのこと。

『――まったく、こりないんだから…。だいじょうぶ、遊戯?』
 ただひとり残された遊戯に、私はため息混じりに問う。
『――う、うん。ありがと、杏子』
 鼻をすすりながら、遊戯が応える。
『…もう! 泣かないの、遊戯! 男だろ!』
『……ウ、ウン……』
 おどおどしながら、それでも遊戯は泣き続ける。
 そんな遊戯を見ながら、私はもう一度ため息を吐いた。
『……あのねえ、遊戯……』
『――ねえ、おねえちゃん』
 説教を始めようとしたところで、後ろから声をかけられる。
 振り返ると、道着を身に着けた、私より背の小さい男の子が困り顔をしていた。
『……あ。ゴメンゴメン』
 私は慌てて、竹刀をその子に返した。


『――やさしすぎるんだよ、遊戯は』
 泣きやんだ遊戯と一緒に帰りながら、私は改めて説教した。
『たまには怒って、なぐりかえすとかさ――だまってるからつけあがるんだよ』
『……うん』
『――男の子なんだから……もっとしっかりしてさー』
『……うん』
 しょんぼりとして、私のことばにただ頷く。
 何度もした説教で、今までも効果ナシだったので、私はそれでやめることにした。
『……で? 今回はなにが原因だったの?』
『――え…。えっと……』
 途端に、遊戯は口ごもる。
 それを見ながら、私はもう一度ため息を吐いた。
『――たしか前は、“鉄棒ができないから”だったよね。同じような理由?』
『あ…、う、うん』
 少し慌てた様子で、遊戯は頷く。
『……確かに、前回りもできないのはどうかと思うけど……』
『……ウン……』
 隣を歩く遊戯がしょげる。
『……。遊戯もさ、何かスポーツしたら? 野球とかサッカーとか』
『え…、い、いいよ。ボクの入ったチーム、負けちゃうし……』
『………。じゃ、じゃあ、剣道とか合気道は? 個人競技だし、強くなればいじめなんて――』
『……でも……痛そうだよね……』
 遊戯の返答に、私は大きくうなだれた。


 ――初めて会ったときから、遊戯はこうだった。
 覇気というか、負けん気というか……とにかく、そういった感情が欠落しているように見えた。
 ――悔しくないのだろうか?
 ――なぜ諦めてしまえるのだろう?
 私は、不思議で仕方がなかった。

 ――弱いから…だろうか?

 私は、そんなふうに思った。
 遊戯は身体が小さいし、頭も特別良くないし、運動神経も悪い。
 ちゃんと分かっているのだ――自分が、弱い立場の人間なのだと。

 ――抵抗しても、変わりはしない
 ――それならば……せめて、諦めてしまった方が傷つかないで済む

 ――そうやって諦めてしまえば、手に入れられるものさえ失ってしまうのに――

 私は、遊戯がひどく気の毒に思えた。


 強い遊戯というのは、想像できなかった。

 ――でももしも…万一、遊戯が強くなったらどうなるのだろう…?

 私はそのとき、ふとそんなことを思った。

 そのときは、ただの夢物語だと思った。

 遊戯はずっとこのままで、だから、自分が守っていかなければならないと。

 そう考えながら、少し得意げになる自分がいた。

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『――ゲームをしようぜ』

 それが――暗闇の中で、初めて聞いた“彼”の声。

 そのたくましい一言に、私は恋をした。
 自信にあふれた――遊戯とは正反対の声。

 姿さえ知れないその人に、私は心から恋焦がれた。


 ――けれど――


 ――彼は、遊戯だった。
 いや、正確には遊戯ではない――“もうひとりの遊戯”。

 ――私は、嬉しかった。
 あの弱虫だった遊戯が、こんなにも強い姿を見せたことが。
 恋焦がれた人物が、身近な存在であったことが。

 そして、思った。
 この恋は、報われる想いなのだと。

 ――遊戯が私を好きなのは、うすうす感づいていたから――

 小さい頃から、遊戯とは一緒にいたし、これからも一緒だろう。
 少なくとも私は、“彼”にとって最も身近な女の子だという確信があった。

 ――でも…、私はそれからしばらくして、状況がそう単純ではないことを思い知った。

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『杏子はもう一人のボクのことが…、…その…、ボク…わかってるんだ…』

 ――そうだ

『ちょっと待ってて…。心の中で呼んできてあげるから…』

 ――どうして…気づかなかったんだろう

 淋しげに、けれど笑んでみせる遊戯を前に、私はやっと気がついた。


 ――遊戯は、“彼”じゃない――

 ――私が好きなのは、“もうひとりの遊戯”

 ――遊戯じゃない

 ――私がずっと一緒にいた、守ってあげた遊戯とは、違う存在なのだ


『――いいの! 遊戯は遊戯じゃない!』
 私は思わず、叫んでいた。

『それは最初は…、でも……表とか…もう一人とかなんて関係ないんだよ! それ全部(すべて)が遊戯なんじゃない!』

 ――遊戯は、どれだけ傷ついたろう
 私が……自分ではなく、自分の中の‘別の存在’を好いていることに――

『いいんだよ…。そのままの遊戯で…』


 ――私が好きなのは、“もうひとりの遊戯”
 ――遊戯じゃない

 ならば――“彼”は誰なのだろう?
 遊戯じゃないとしたら…“彼”は?


 ――このときから、私はうすうす気がついていたのかもしれない

 ――この想いが、報われない恋かも知れないことに――

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 ――確信したのは…、それからしばらくしてのこと。


 私は、自分で言ってしまった。
 “パズルが意志を持っている”――と。

 ――“もうひとりの遊戯”――

 ――私は“彼”の存在が、最初から遊戯の中にあったもので
 千年パズルがきっかけで現れた人格…
 そう信じていたし……願っていた……

 ――でも――

(あなたは…千年パズルの中に存在する意志なの…?)


 ――だとしたら
 ――もし…遥かエジプトの地に、千年パズルの還るべき場所があるとしたら…


 ――そのときは、あなたも…――

 認めたくない、現実だった。

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『杏子…。今…オレの…自分の存在ってさ、この小さな千年パズルの中にあるんだ』
『……!』

 ――“彼”は…どこか思いつめた表情で、私に言った。
 …私は戸惑った。
 どう応えるべきか…わからなかった。

『遥か彼方の地に七つの千年アイテムを収める場所がある…。この千年パズル…オレ自身も…』

 ――イヤ

『その時、もしかしたら自分のことを知ることができるのかも知れない…。オレの存在の理由…、自分がどこから来てどこに行くべきなのか…』

 ――行かないでほしい
 いつまでも…私の側に、ずっといてほしい――

『だがそんなものを追い求めなければ、今のままでいられる…。今のままで』

 ――でも――

『あなたは…本当にそれでいいと思ってる?』

 ――私は、あなたが好きだから
 迷って欲しくない
 自分が正しいと思う道を、信じて突き進んで欲しい――



 ――私は時々、後悔した
 このときのことを
 もしも…、もしもあの時、引き止めていたらと
 そうすれば、私はいつまでも“彼”といられたかも知れないのにと――


 ……そして…そんな自分を、最低だと思った。

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 ――そして…、別れのときは来た。

『もうひとりの遊戯…、ううん…アテム…』

 光の中へ消えようとする“彼”に――私は、本心を吐き出した。

『その光の向こうにあなたにとって帰るべき場所がある…それはわかってる…でも…、その光は私達にとってあなたとの別れの境界線でしかない…。まだ…よく意味がわかってないの!!』

 ――別れたくない

『ずっと一緒の仲間だったあなたが突然…私達の目の前から消えていくなんて…意味がわからないよ!』

 ――いつまでも…あなたと一緒にいたい――


(…忘れない…! あなたのことを…!)

 ――アテム……あなたのことを――


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「――……ず…、杏子…」
 白い世界の中で、何度も呼びかける声があった。
(……だれ……?)
 ゆっくりと、杏子は目を開ける。
 ぼやけた視界の中には、一人の少年がいた。


 ――…杏子…――


(……え……!?)
 杏子はハッとする。
 視界の中に、そこにいるはずのない人の面影を見たからだ。
「――ア…」
「……大丈夫? 杏子…」
 杏子は、我に返った。
 整った視界――その中に映るのは、“彼”ではなかった。

「……遊…戯……?」
 思わず問いかけてしまう。
 遊戯と“彼”は、同じ顔でも、まるで表情が違う。
 自信と誇りにあふれた“彼”とは違う――どこか自信なげな、けれど柔らかい表情。
 それは紛れもなく、遊戯のものだった。

(……夢…か……)
 ふと、杏子は額に手を当てた。
 頭が、わずかだが痛みを覚えている。
 心なしか、胸も、独特の痛みを感じていた。
「……杏子……?」
 遊戯が、心配そうに見つめてくる。
 大丈夫だから、と杏子はちいさく笑いかけた。
(……ひどいよね…私……)
 その顔を見つめながら、杏子は思った。

 ――遊戯は“彼”じゃない――

 ――そんなこと、ちゃんとわかってるはずなのに――

「……あれ?」
 そこでようやく、杏子は周りの状況に意識が回った。
 自分の置かれた状況――暗闇の中、コンクリートの壁を背に、杏子は座り込んでいた。
 空に開いた穴からの、わずかな月明かりだけが、周囲を見渡すことを許している。
 さびれた、大きな建物のようだった。
「……ここ…は……?」
 杏子は、遊戯に問いかけた。
「……私…、たしか…神里さんと話してて……それから……」

 ――そこから先の記憶が、完全に抜け落ちていた。

 ふと、遊戯の表情を伺う。
 その表情は、先ほどまでと異なり、暗く沈んでいる。

「……何が…あったの……?」
 杏子が問いかけると、遊戯はゆっくりと立ち上がった。
「……もう…終わったんだ」
 振り返る遊戯。
 その声は、いやに静かなものだった。

「……何もかも――ね」
 悲しみを帯びた声。

 その視線の先には――決闘盤がひとつ、暗闇の中に転がっていた。



第一章・悪の起源

「……そんな…ことが……!?」
 遊戯は事情を話す間、一度も顔を上げなかった。
 俯き、沈んでしまっている。
「…………」
 どうことばをかけるべきか――杏子はことばの選択に困っていた。
 杏子自身、困惑で、現状を把握するので精一杯だったからだ。

 ――自分が、絵空に眠らされていたこと
 ――遊戯と絵空が、闇のゲームを行ったということ
 ――4枚目の神のカード……“死神”
 ――絵空が守ろうとした人…“もうひとりの絵空”
 ――そして…遊戯を守るために、絵空が自身を犠牲としたこと……

「……ボクのせいだ……」
 遊戯が、消え入りそうなか細い声で呟く。
「……ボクのせいで……神里さんは……!」
「……遊戯……?!」
「…ボクが死ねば――神里さんは死なずに済んだんだッ!!」

 ――パシッ!!

 乾いた音が響く。
 杏子が、遊戯の左頬を平手打ちにしたのだ。
「……自分のことばの意味……ちゃんと分かって言ってるの!?」
 杏子が鋭く指摘する。ひりひり痛む頬を押さえ、遊戯は再び沈黙した。
「遊戯が犠牲になって……それで解決する問題じゃないでしょう? そんなの、現実から逃げてるだけよ!」
「……でも……ッ…!!」
 遊戯の声がかすれる。
 両のこぶしを、潰れそうなくらい強く握り締める。
 瞳から、再び涙がこぼれた。
「……でも…ボクは……ボクはッ……!」
「……泣かないの…。男だろ?」
 俯き、立ち尽くす遊戯を、杏子はそっと、やさしく抱きしめた。
「……何もできなくて……ボクが……ボクがもっと……ちゃんと……!!」
「……遊戯は悪くないよ…。ね? だから……」
「……ッッ……!!」
 ことばにならない嗚咽が、辺りに響く。
 暗闇に響くそれは、ひどく哀しく、そしてやさしいものだった。

(……変わらないな……遊戯は……)
 ――昔から、遊戯は泣き虫だった。
 昔から…自分のことだけでなく、他人のことでもよく泣いた。



 遊戯が泣き止むまで、杏子はそうしていた。
「……さ。これからどうするか…一緒に考えよう」
「……ウン」
 涙を拭った遊戯は、視線を暗闇の中の――地面に転がった、絵空の決闘盤に向けた。
 痛ましげな表情を浮かべる。しばらく見つめた後――思い出したように、遊戯は言った。
「……そういえば……神里さんが言ってた。“願い”を叶えるために……“強い魂(バー)を捧げる”って…」
「……“バー”……? それって確か……」
 遊戯は、こくりと頷いた。
「……アテムがいた世界でのことば…。確か……魂の力のことだよ」

 ――アテムがいた世界――

 杏子の脳裏にふと、先ほど見た夢が蘇る。
 アテムのいた世界――それは、この世界ではない。
 もう…“彼”に会うことはできないのだ。決して、二度と――
「……杏子?」
「あ…、ゴメン。それで?」
 問いかける遊戯に、杏子は慌てて応じる。
「…うん。“闇のゲームの敗者は死ぬ”――だから神里さんの姿が消えたとき、それで死んでしまったのかと思ったけど……。敗者の魂(バー)は“願い”を叶えるために使われる――だとしたら……」
「……! つまり…、もしかしたらまだ……」
 遊戯は、こくりと頷く。
「もしかしたらだけど…まだ――何とかなるのかも知れない」
 遊戯は地面に落ちた――絵空のつけていた決闘盤に視線を移す。
「……あの闇のゲームは、第四の神――“死神”の持つ闇の力で行われていたらしいんだ。そして神里さんのデッキには、それが三枚投入されていた……一枚は石化して墓地にあるけど、残り二枚はまだデッキに残ってるはず。…それに、“冥界の石盤”を模したカード――“血塗られた石盤”…。とにかく手がかりとしては、それしかない……」
 遊戯は杏子から離れると、地面に転がったままの決闘盤を拾いに行った。
 だが、その足元がわずかによろける。
「大丈夫? 遊戯」
「ウ…、ウン、暗いからさ。大丈夫だよ」
 振り返り、ぎこちなく笑んで見せると、遊戯は息をひとつ吐き、歩調を少し落とした。
 ――恐らくそれは、闇のゲームを行ったことによる疲労のせいだろう。
 闇のゲームはひどく精神を消耗する――そのことは杏子も知っていた。
 しかも、相手は絵空だったのだ。友達を相手にしての闇のゲーム――それが遊戯にとって、どれほど辛く、厳しいものであったかは想像に難くなかった。
(……“遊戯は悪くない”……か)
 その後ろ姿を見ながら、杏子はふと思った。

 ならば――悪いのは誰だろう。どうして、こんなことになったのだろう。

 ――確かに…、“闇のゲーム”を行うという、絵空の選択は間違っていただろう
 けれどそれは、“もうひとりの自分”を救うため
 自分にとって、何より大切な存在を守るため――

 ――その想いを…否定することなどできるだろうか?

 大切な人を想う気持ち――そのかけがえのなさは、杏子にも痛いほどよく分かった。

 ――ならば…どこから歯車は狂い出したのか

 ――この悲劇は、どこから始まってしまったのか――



 遊戯が、絵空の決闘盤に手を伸ばす。その決闘盤にはただ一枚――絵空が発動したきりの永続魔法カード『血塗られた石盤』がセットされていた。
 遊戯の手が触れる刹那――異変は起きた。


『――触レルナ……小僧』


「!?」
 とっさに、遊戯は手を引いた。
 地の底からわきあがるような――低い、不気味な声。
 遊戯の全身を、戦慄が走る。
 目の前の決闘盤が、自然に浮かび上がった。
「……なっ……!?」
 何者の手も借りず、遊戯の顔の辺りまで浮かび上がるそれ。そして――

 ――ズゴゴゴゴゴゴ………

 地面が、震動する。
 遊戯の足元のコンクリートが、隆起を始めた。
「……こ、これは……!」
 遊戯は慌てて後ずさり、隆起するコンクリートから降りる。
 そして、再び形成される――『血塗られた石盤』。
(……ソリッド・ビジョンじゃない……!?)
 『血塗られた石盤』――“冥界の石盤”を模したそれには、先ほど同様、6つの千年アイテムが収められていた。

 はっとして、遊戯は絵空の決闘盤に視線を戻す。
 ――絵空のデッキの、一番上のカードが浮かび上がった。
 浮かび上がったそれは、そのまま浮遊し、盤にセットされる。
「―――!!」
 遊戯の表情が青ざめる。

 石盤の上には――遊戯が一度は倒したモンスター、“死神”が再び姿を現していた。



第二章・黒の構図

「……死…神……!!」
 目と鼻の先のそれに、遊戯の身体が凍りつく。
 先のデュエルでの恐怖が、遊戯の脳裏に蘇った。
「……!! あれが…“死神”……!?」
 離れた位置にいる杏子の顔もまた、驚愕に染まる。
『……儂ガ恐ロシイカ? 小僧……』
「――!? しゃべった!?」
 驚き、さらに一歩あとずさる遊戯。
 “死神”の左腕には、絵空がしていた決闘盤が装着されている。自分を召喚するための機器を、モンスター自身が装着している――その様は、はたから見るとひどく奇妙だった。
『……クク…。驚ク事ハアルマイ。貴様ハ聞イタダロウ? アノ小娘カラ、儂ノ“取引”ノ事ヲ……』
「………!!」
 ――そうだった。
 絵空が遊戯に“闇のゲーム”を仕掛けた理由――それは、この“死神”が語りかけ、“取引”に応じるよう誘導したからだ。
「……返…してよ…!」
 遊戯は身を奮い立たせ、叫ぶ。
「……今すぐ…神里さんを――」
『…イイダロウ』
「――!?」
 思わぬ返答に、大きく反応する遊戯。だが――
『……我ガ取引ニ、応ジルナラバ――ナ』
 “死神”は、嘲るように笑ってみせた。
『貴様ノ考エル通リ……小娘ノ魂ハ消エテイナイ。我ガ体内ニ、未ダ消エル事ナク残存シテイル…。ダガ、“タダ”デ取リ返ソウトハ、実ニ虫ノ良イ話ヨ……』
 “死神”は、携えた大鎌がら右腕を離し、遊戯を指差した。
『……代ワリノ魂ヲ捧ゲヨ……。生ト死ヲ賭ケタ“闇ノゲーム”――ソレニヨリ、強キ魂(バー)ヲ持ツ人間ヲ殺セ』
「………!!」
 遊戯の表情が、凍りつく。
「……なっ……!」
 杏子はことばを失った。そんなこと――遊戯にできるわけがない。
「――何言ってるのよ! そんなこと、遊戯にできるわけ――」
『――黙レ!! 娘!!!』
「――!?」
 “死神”が、杏子に一喝する。
『……儂ハ小僧ト話シテイル…。余計ナ 口出シハ許サヌ……!』
「………!!」
 杏子の全身が、震えだす。
 全身から力が抜け、ぺたんと、その場に尻餅をついてしまった。
(……何……!? コイツ……)
 全身を包む恐怖。
 杏子は、まるで金縛りにかかったかのように動けなくなった。
 ――離れた場所にいる自分でさえこうなのだ。
 近接し、対面している遊戯の恐怖は、杏子の想像に難くなかった。

「……! わかった……」
「……!? 遊戯!?」
 遊戯が、決意を胸に顔を上げる。
「…なら――ボクの魂をあげるよ! だから、神里さんを――」
『ソレハ出来ンナ』
 “死神”は即答した。
『…小娘カラ聞イタダロウ…? タダ魂ヲ捧ゲルノデハ意味ガ無イ…。我ガ“取引”ハ、“闇ノゲーム”デ、一人ノ人間ヲ殺ス代償ニ、別ノ誰カヲ救ウ事…。“闇ノゲーム”ヲ行イ、貴様ガ相手ヲ殺ス事ガ重要ナノダ』
「……なっ……!!」
 遊戯は声を荒げ、思わず叫んでいた。
「最初の標的はボクだったんでしょ!? だったら何で――」
『……クク……、何度モ同ジ事ヲ言ワセルナ』
 愉快げに、“死神”は言う。
『……貴様ガ相手ヲ殺ス事ガ重要ナノダ……。貴様ガソノ手ヲ血ニ染メ、罪悪ニ身ヲ委ネ、悶エ、苦シム事ガナ……』
 遊戯は寒気を覚えた。
 目の前にいる存在――それがどれほど残忍で、忌むべき存在かがわかった。
「……! アメリカで起こった、原因不明の意識不明…。あれも、お前が……!?」
『……! ホウ……』
 低い、冷徹な声が、辺りに響く。
『……中々興味深イ小僧ダ…。現代ノ神ノ所持者デアリ、“闇ノゲーム”ノ経験者デモアル…。…モットモ、全テヲ知ル訳デハナカロウガナ……』
「……! なぜ…、何のためにこんなことを…!?」
 唾を呑み込み、遊戯は問いかけた。
『………。……サアナ……』
「………!?」
『……強イテ言エバ……“確カメル為”デアロウナ……』
 要領を得ない返答に、遊戯は眉根を寄せる。
 だが、そのときの“死神”の様子は、先ほどまでと異なり、どこか哀しげに映った。
『……様々ナ人間ガイタヨ…。罪ノ意識ニ溺レ、宗教ニスガル者…。犯シタ罪カラ目ヲ背ケ、平生ニ戻ロウト努メル者…。罪悪感ニ耐エラレズ、自害スル者モイタ……』
「………!」
 顔をしかめる遊戯。
 クク、と、“死神”は、そんな遊戯を嘲るように笑った。
「…! やっぱり……お前が――」
『ソレハ違ウナ』
 “死神”の嘲笑が、辺りに響く。
『……儂デハナイ…。コレハ全テ、“ヒト”ガ犯シタ罪…。儂ハ、“取引”ヲ強イタ事ハ一度モ無イ。皆、自ラ望ンデ闘イ、殺シタノダ……』
 遊戯は、下唇を噛みしめた。
『…“ヒト”ハ所詮、カノ如キ生物ダ…。自ラノ幸福ノ為、他者ノ犠牲ナド厭ワヌ…。狡猾ニシテ、残忍ナ生物ヨ…』
「…違う…!」
 遊戯は、反論せずにいられなかった。
「……神里さんは……自分が幸福になりたかったんじゃない…! 神里さんはもうひとりの神里さんに…“大切な人”に幸せになってほしかっただけなんだ…! だから――」
『――違ウナ』
 “死神”の声が、さらに少し低くなる。
『思イ上ガリモ甚ダシイ…。ソレハ自己満足デシカナイ。小娘ハタダ、自己ガ傷ツク事ヲ恐レタダケダ』

 ――ドクン…!

「………!」
 ――心臓の音が聞こえる。
 遊戯は、両のこぶしを握りしめた。
『……クク…。シカシ――実ニ滑稽トハ思ワヌカ? ……小娘ハ、貴様ノ‘甘サ’ニ付ケ込メバ、幾ラデモ勝機ヲ見出セタ…。最初カラ儂ヲ喚ベバ、確実ニ勝テタ…。ダガ――ソノ中途半端ナ覚悟故ニ、無駄ニ生命ヲ落トシタ…。実ニ愚カ……馬鹿ナ娘ダヨ……』

 ――ドクン…!!

「……!! 取り消せ…!!」
 奥歯を噛みしめる。
 肩が、怒りで震えた。
「…神里さんは……愚かでも、馬鹿でもない…! ただ…“大切な人”のために闘って――そして…ボクのために…!!」
『……。ソウダッタナ……』
 闇の仮面の下で、“死神”はニタリと笑った。
『…情ニ絆(ホダ)サレ、目的ヲ見失イ、自ラ命ヲ絶ッタ――役ニ立タヌ、低能極マリ無イ屑(クズ)ダッタナ』
「――――っ!!」

 ――ドクンッ!!

 ――遊戯の身体は、衝動的に動いていた。
 顔を上げ、睨めつけると同時に、勢いよく拳を振り上げた。

『――愚カナ……』

 ――バシィィィィッ!!!

「………!!」
 遊戯の右拳が、“死神”に叩きつけられた――かに見えた。
 しかし、それは届くことなく、“死神”を覆っていた“結界”に容易く受け止められる。
 叩きつけられた右拳は、その衝撃に傷つき、鮮血を散らした。
『……確カニ、貴様ハ強キ魂(バー)ノ持チ主ダ…。シカシ所詮ハ――平和ナ時代ニ生マレタ、無力 ナ子供ニ過ギヌワッ!!』
 “死神”が、大鎌を振るう。
 それにより発生した衝撃は、遊戯の身体を軽々と持ち上げ、後方へと吹き飛ばした。

 ――ダァァンッ!!!

「―――!!」
 それは、一瞬の出来事だった。
 杏子のすぐ横のコンクリート製の壁に、遊戯の背が叩きつけられる音。
 間近でのそれは、いやに派手に聴こえ、杏子の鼓膜に焼きつく。
 寒気を覚えながらも、震える身体で、反射的に振り返る。
 杏子の眼前で、遊戯の全身は力なく、ゆっくりと、うつ伏せに倒れこんだ。
「……遊…戯……?」
 おそるおそる、呼びかける。だが、遊戯からの返答はない。嫌な考えが、杏子の脳裏をかすめる。
「…ちょっ…! 遊戯っ!?」
 慌てて仰向けにし、抱き起こす。
 不意に、遊戯の右手が視界に入った。
(……! ひどい……)
 思わず、口元に手を当てる。
 その拳はひどくただれ、ポタポタと、血を垂らしていた。
 もしかしたら、骨まで傷ついているかも知れない。
「――しっかりして、遊戯! 遊戯っ!!」
 身体を揺すりながら、何度も、必死に呼びかける。
 しかし、遊戯の瞳は閉じられたまま、微動だにしない。

『……誰モ…救ワセハセヌ……』
 呪うように、“死神”は口にする。
『…小娘ハ死ンダ…。人ハ皆、苦シミ…ソシテ…死ヌ…! 誰モ…誰モ救ワレヌ…。ククク……、アハハハハハハッ!!!』
 狂ったような笑い声が、辺りに響く。

「………!!」
 ほとんど無意識に、遊戯の左拳は、固く握り締められていた。

 ――ドクンッ!!!

 そのとき、遊戯の中で――何かが壊れる、音がした。



第三章・クッキーのくだける音

 ――なんて無力なんだろう

 閉じてゆく意識の中で、そう思う。

 ――昔からそうだった
 ――ボクは弱い人間で
 ――守られてばかりで……何もできない

 ――守られて泣いて
 ――守りたくて泣いて
 ――守れなくて泣いて……

 ――ボクは、そんな自分が嫌いだった
 ――弱い自分が嫌だった
 ――それでも仕方がない……そう思えてしまえた自分を嫌悪した


 ――だからだった
 ――だからこそボクは……“彼”にあんなにも憧れた

 ――“彼”は強くて
 ――“彼”は高くて

 ――“彼”は誰よりも、ボクの理想だった
 ――“彼”は、なりたかったボクだった

 ――ボクは“彼”でありたかった
 ――“彼”が、ボクであってほしかった

 ――でも…“彼”はボクじゃない
 ――だからボクは、“彼”になりたかった


 ――もしも、“彼”がいてくれたなら――

 白く霞んでゆく意識の中で、そう思ってしまう。

 ――もしも“彼”がいたならば…彼女を救えたんじゃないか?
 ――もしもボクが“彼”だったら……全て上手くいったんじゃないか?

 と。

 ――だからこそ、ボクは、強くならなくちゃいけなかった
 ――“彼”が旅立てるように
 ――“彼”の代わりが務まるように
 ――“彼”がいなくても…守れるように、救えるように……


 ――それなのに――


 ――ボクは弱くて
 ――ボクは小さくて
 ――ボクひとりじゃ…何ひとつできやしない…!


『――お前は弱くなんかない…。ずっと誰にも負けない強さを持っていたじゃないか…』

 別れの日に、“彼”がくれたことば。

『…「優しさ」って強さを…オレはお前から教わったんだぜ。相棒…』

 ――違う――

 ――“やさしさ”は…“強さ”なんかじゃない…!!
 ――“やさしさ”なんかじゃ……誰も救えやしない…!!


『――やさしすぎるんだよ、遊戯は』

 ずっと前――杏子が言ったことば。

『たまには怒って、なぐりかえすとかさ――だまってるからつけあがるんだよ』

 ――それでも…弱ければ、何もできやしない
 ――弱いままじゃ…何も変えられない…!
 ――“やさしさ”なんて…何の役にも立たない…!!


 ――必要なのは“力”
 ――救える力
 ――守れる力
 ――“敵”を倒せる力
 ――傷つける力

 ――いま必要なのは…憎むこと
 ――怒ること
 ――呪うこと

 ――許せないと思った
 ――絶対に…許したくなかった

 “彼”に逢う以前なら、自分の無力を理解し、諦めてしまったかも知れない。

 ――でも…諦めたくなかった
 ――悔しかった
 ――憎かった

 激しい何かが、心を蝕(むしば)んでいく感覚。

 そして同時に、自分にとって、大切な何かが壊れてしまう――心のどこかで、そんな恐怖も覚えた。


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


(……良かった……、息はちゃんとある……)
 とりあえず、杏子はちいさく安堵のため息を漏らす。
 だが、目の前の少年からの返事は依然としてない。先ほどの衝撃で、気絶してしまったようだった。
(……初めて見たよ…私……)

 ――遊戯が、誰かを殴ろうとするところなんて……

 右手の怪我に目をやる。酷くただれたそれに、顔をしかめた。
 加えて先ほど、遊戯は強く背中を打っている――いや、もしかしたら頭も打っているかも知れない。すぐにでも、病院に連れて行きたいところだった。
 だが、今はそんな場合ではない。
『……クク……、詰マランナ。小僧ハモウ再起不能ナノカ?』
 顔を上げると、“死神”がこちらを眺めながら、愉快げに笑っていた。――もっとも、その顔は闇に隠されており、見ることができない。‘笑っていた’というのは、あくまで耳による判断である。
「………!」
 遊戯を抱え、杏子は身構えた。
 人智を超えた存在を前に、勝機などあろうはずもない。本当なら、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
 しかし、恐怖に縛られた杏子の身体は、自分の思うように動かず、立ち上がることすらできなかった。
(……せめて…遊戯だけでも……!)
 杏子の額には、脂汗がにじんできていた。
『……クク…。ソウ警戒スル必要ハ無イ。小娘ガ敗レタ以上、既ニ用ハ無イ…。貴様ラニ危害ハ加エヌヨ』
 声の調子が、少し穏やかになる。
 だが、その裏に隠れた狂気は、杏子でなくとも容易に感じ取れただろう。
『…ソノ小僧ニヨリ、儂ハ チカラ ノ一部ヲ失ッタ…。石ト化シタ我ガ チカラ ノ一部――ダガ、ソレハ小娘ノ魂デ補エバ良イ。相応ノ、強キ魂ノ持チ主ダッタカラナ』
 “死神”は、沈黙したままの遊戯に視線をやる。
『……興味深イ小僧ダッタガ……、“取引”ニ応ジヌト言ウナラ、モハヤ用ハ無イ。コノ件ハ、“モウ一人ノ小娘”ニ会ッテ終リダ』
「……!? ちょ…ちょっと待ちなさいよ!」
 杏子は、喉の奥から声を絞り出した。
 本来なら、このまま“死神”が立ち去るまで黙っていたかった。しかし、聞き捨てならないことばを聞いたからだ。
「……その…“もうひとりの神里さん”に会うって……彼女に、何の用があるっていうのよ…?! そもそも、アンタの言う“取引”――“闇のゲーム”に勝てば、本当にその人を助けてるわけ?!」
『………。心外ダナ…、“取引”ハ守ルサ。コレマデ既ニ、十人弱――“取引”ニ応ジタ者ノ言ウ人間ノ生命ハ皆救ッテキタ。“闇ノゲーム”ノ敗者ノ魂ヲ使ッテナ……。“モウ一人ノ小娘”ニ会ウ目的ハ……“真実”ヲ伝エル事ダ』
「…!? 真実…?」
 アア、と、“死神”は杏子をあざ笑うようにことばを続ける。
『……全テ伝エルノサ…有リノママヲナ。“貴様ノ大切ナ存在ハ、貴様ノ為ニ――人殺シヲ選ビ、返リ討チニ遭ッテ死ンダ”トネ』
「……なっ……!?」
 杏子は、驚きでことばを失った。
 もし仮に、自分がそんなことを聞かされたら――どれほどの衝撃を受けるだろう。いや、衝撃などということばではもの足りない。身を引き裂かれ、心臓を握り潰されたような、深い哀しみに襲われるだろう。
「ま…待ってよ! そんなことする必要ないじゃない! そんなことを聞いたら、その子は――」
『――ソレガ見タイノサ』
 “死神”の即座の返答に、杏子の背を悪寒が走った。
『今回ダケデハ無イ、毎回ノ事ダ。生命ヲ救ッタ者ニ、自分ガ救ワレタ理由ヲ伝エル――コノ瞬間、ソシテ、ソノ後コソガ、一番ノ見世物ナノダ』
「……!!」
『……深イ悲シミニ支配サレ、精神ヲ犯サレタ者…、真実カラ目ヲ背ケ、偽リノ幸福ヲ手ニスル者…、罪ノ意識ニ耐エラレズ、自害シタ者…。コチラモ様々ダッタ。多クノ共通点ハ――自分ヲ救ウタメ、手ヲ汚シタ者ヲ叱責スル事ダ。“何故ソンナ事ヲシタノカ、何故自分ヲ救ッタノカ”――トネ。クク…、感謝スル者ナド一人モイナカッタヨ……』
「……ひどい……」
 杏子は、目の前の“死神”について、分かったことがあった。
 “死神”は――愉しんでいるのだ。
 人を殺した者と、その末に救われた者――二人の人生の崩壊を、観察し、愉しんでいる。
 杏子はこれまでの人生の中で、ここまで下衆な存在を見たことがなかった。
『……ダガ……今回ハ残念ダッタヨ。小娘ガ敗レテシマッテナ』
「……!」
『小娘ハ死ンダ――故ニ、今回ハ、一人ノ人間ノ苦シム様シカ見レンノダカラナ』
「―――!!」
 杏子は拳を握りしめた。
 殴り飛ばしてやりたい――そんな衝動に駆られる。
 だが、できない。その圧倒的な力を前に、杏子はあまりに無力だった。
『……シカシ…アノ小娘、本当ニ馬鹿ダッタヨ。病ナド――トウノ昔ニ、治ッテイルノダカラナ』
「…!? え……!?」
 杏子の口がぽかんと開く。
 “死神”は、さぞ愉快げに言った。
『……治ッテイルノサ……病ハ。儂ガ見タ時ハ既ニナ。ソレデモ肉体ガ不自由ナノハ、一ツノ身体ニ、二ツノ魂ガ混在シテイタ為ダ』
「……二つの…魂…?」
『……ソウダ。“神里絵空”トイウ娘ハ何故カ、二ツノ魂ヲ持ッテイタ――イマ死ンダ小娘ト、病院ノ小娘……理由ハ判ラヌガナ。共ニ、カナリノ魂ノ持チ主ダ……ダガ、ソレガ災イシタ。ソノ強過ギル魂ニ、肉体ガ耐エラレナカッタ……。恐ラク、混在シ続ケル内ニ、徐々ニ身体ハ傷付イテイタノダロウ。故ニ――小娘ガ死ンダ今、ソレデモ目的ハ達成出来タ、トイウ訳ダ。放ッテオケバ、イズレ肉体ハ回復スルダロウ……』
「………!!」
 驚き、動揺しながらも、杏子は遊戯を見つめた。
(……二つの魂の混在……)
 だが、遊戯の身体には、そんな異常が見られたことはなかった。“彼”が存在したのは、そう短い期間ではない。
 ――では、なぜ遊戯の身体には、何の影響もなかったのだろうか?
(…! 千年パズル……)
 千年アイテムには全て、人智を超えた不思議な力が秘められていた。“彼”の魂は、正確には、遊戯の中ではなく、千年パズルの中にあったのだ。
 もしかしたらその力で、遊戯は絵空と違い、無事でいられたのかも知れない。
『…クク…シカシ、小娘モサゾ本望デアロウナ。結果的ニハ、自分ガ死ヌダケデ済ンダノダカラ。…ダガ、滑稽ダ。自身ガ全テノ元凶ダッタノダカラナ――愉快トシカ言イ様ガ無イ』
「…愉快…ですって…!?」
 杏子は恨めしげに、怒りの眼差しを“死神”に向けた。
「……元凶はアンタじゃない…! 神里さんは悪くない! アンタさえいなければ…こんなことには…!!」
『………。悪クナイ…?』
 不意に、“死神”の口が止まる。
 不気味な沈黙が流れる。それに耐えられず、杏子は唾を呑み込んだ。
『――……違ウ』
 それは、今までと違い、どこか哀しげな口調だった。
『……小娘ニモ非ハアル…。“悪クナイ”デハ許サレナイ…。罪ヲ犯シタノダ……許サレザル罪ヲ……』
 ぶつぶつと、独り言のように呟く。
 その声色はどこか、自嘲のように聞こえた。
『……話ハ終リダ…。不毛ナ時間ダッタ。コレ以上、話ス事ナド無イ』
 饒舌(じょうぜつ)だった“死神”は、唐突に口を閉ざし、踵を返す。
 そのまま二人に背を向け、去ろうとする。だが――

 ――ピシッ……

『(………!?)』
 “死神”の動きが止まる。
 ふと、自分の手にした大鎌の刃を見ると――小さな、しかし確かに、ひび割れが生じていた。
『(……何ダト……!?)』
 それは“絶命の大鎌”。
 “死神”自身の魔力で構成された、決して壊れぬ最凶の武器。ひび割れが入るなど、ありえないことだった。
『………………』
 それを見つめながら、その原因を考える。ふと、あることが死神の脳裏をよぎる。
 “死神”の脳裏をよぎること。それは、遊戯が殴りかかってきたときのこと――


「――さない……」


『…!?』
「……え……!?」
 突然発されたその声に、杏子ははっとした。
 声の主――遊戯は、杏子の腕を振り払うと、よろめきながらも立ち上がった。

『……………』
「――許さない…! お前だけは…絶対に…!!」
 強く歯ぎしりする。
 そして、顔を上げると――遊戯らしからぬ、鋭い眼光を“死神”に向けた。



第四章・闇を裂く男

『……“許サナイ”…ダト……?』
 “死神”は振り返ると、遊戯の顔を睨めつけた。
 だが、それに怖じけることなく、遊戯は正面から“死神”を凝視する。
『(……ヤハリ似テイル……“アノ男”ニ……!!)』
 遊戯の強い形相に、“死神”は不快げに舌打ちした。
『……驕(オゴ)ルナヨ、小僧……』
 苛立ちを露に、“死神”は言う。
『……確カニ、貴様ニ潜在スル魂(バー)ハ相当ノモノダ。ダガ――貴様カラハ、微塵ノ魔力(ヘカ)スラ感ジヌ。魔力無キ魂ナド、意味ヲ為サヌ。宝ノ持チ腐レダ。闘ウ剣スラ持タヌ貴様ガ、一体何ヲスルツモリダ?』
「…………」
『……クク…貴様ゴトキ蛆虫(ウジムシ)、幾度立チ上ガロウガ、何ノ障害ニモナラヌ……。瞬キスル間モ無ク殺セルワ』
 あくまで上段に構えた“死神”。
 だがそれでも、遊戯は少しもひるむことはなかった。

「ちょっ――待って! 遊戯!」
 慌てて、後ろから遊戯の左腕を掴む。
「……悔しいのは分かるけど……無理だよ! 勝てっこない!!」
 遊戯は、微動だにしなかった。まるで、杏子のことばが耳に入っていないかのように。
「……右手の怪我だって酷いし……、あなたもうフラフラじゃない!」
 それでもやはり、遊戯は反応しなかった。

 杏子は、“死神”を一瞥した。
 “死神”は先ほど、自分たちは見逃すと言った。
 絵空には悪いが、ここはそれに従うしかない。
 抗ったところで、無駄に命を落とすだけだ。
(……もしも…こんなとき……)

 ――こんなとき、“彼”がいてくれたなら――

 だが、“彼”はもういないのだ。
 “彼”はもういない。
 自分たちだけでは、何もできない。

 杏子は、無力感を覚えた。
 悔しくて、下唇を噛んだ。

『……ククク……。娘ノ言ウ通リダゾ、小僧。今ナラマダ見逃シテヤル…』
 挑発するように、“死神”があざ笑う。
 杏子のことばに反応しなかった遊戯が、“死神”のことばには反応した。
 次の瞬間、杏子の腕を、力任せに振り払う。

 ――遊戯に、こんなに力があっただろうか?

 杏子は違和感を抱きながらも、慌てて遊戯を止めようとする。
 何とか立ち上がると、遊戯の正面に回り込み、両腕を広げた。
「――ダメよ、遊戯! ここは一旦ひいて――」
 その瞬間、遊戯の顔が、杏子の視界に入った。

(――え?)

 その瞬間、杏子は驚愕し、固まった。
 腕から力が抜け、上げたばかりの両腕が下りる。
 遊戯はその横を、何事もなかったかのように通過していった。
「……遊…戯……?」
 誰もいない、暗闇を見つめながら、杏子は呟いた。

 ――杏子が見た、遊戯の表情。
 それはすでに、遊戯のものではなかった。

(……そんな…はずは……)
 ――そんなこと、あるはずが――

 はっとして、杏子は振り返った。
 一歩一歩、ゆっくりと“死神”に歩み寄る遊戯。
 だが不意に、その足が止まった。
『………!?』
 遊戯は一定の距離を置いて、再び“死神”と対峙した。
 その距離が意味するもの――それは、決闘盤を使ってデュエルを行うための、プレイヤー間にとるべき距離。
 遊戯のおいた距離――それは、“闇のゲーム”を再び行うという意思表示に他ならなかった。
『……“闇ノゲーム”ナラバ勝テル……トデモ?』
 遊戯は答えず、俯き加減に、ただ“死神”の前に立ち塞がる。
『……下ラヌ茶番ダ…。貴様ノ土俵デ 闘ウ義理ナド、此方ニハ微塵モ――』
「――怖いのか?」
『…!?』
 静かに発されたその一言に、“死神”は大きく反応する。
 それが挑発であるのは一目瞭然。だがそれは、“死神”を激昂(げきこう)させるには十分だった。
『……餓鬼(ガキ)ガ……!! 図ニ乗ルナヨ…!!』
 “死神”の両手が、巨大な大鎌を力強く握り締める。
 だが遊戯は少しの動揺も垣間見せない。そのことは、さらに“死神”の神経を逆なでする。
『…イイダロウ…!! 貴様ノ挑発…乗ッテヤル…!!』

 ――ズォォォォ……!!

 “死神”が、左腕にはめた決闘盤を構える。
 すると、二人の周りを、再び“闇”が覆っていった。
 同時に、遊戯の決闘盤は電子音と共に再起動し、絵空との決闘後、セットされたままであったモンスターカード『THE トリッキー』がその姿を現す。
『……シカシ…、儂ノ決闘盤ニ表示サレタLP(ライフポイント)ハ零。コレデハ“ゲーム”ニナランナ…クク。一カラ始メルニシテモ、コレハ小娘ノ デッキ。儂ハ、自分ノ デッキ ナド所持シナイ…。ソコデ――特別ナ ルール ヲ設定サセテ貰ウゾ?』
「…………」
 遊戯は、返事をしない。
 だが、それを肯定と受け取った“死神”は、ことばを続けた。
『……ルール ハ簡単ダ…。ゲーム ハ今ノ状態――小娘ト貴様ノ、決闘終了時ノ状況カラ再開スル。儂ハ既ニ、カード ヲ ドロー シ、自身ヲ召喚シタ……ツマリ、儂ノ メインフェイズ カラ再開ダ。儂ノ勝利条件ハ――我ガ大鎌ニテ、貴様ノ首ヲ斬リ飛バス事。逆ニ、貴様ノ勝利条件ハ、イマ場に存在スル儂ト、デッキ ニ存在スル、最後ノ儂ヲ殺ス事。ソレ以外ノ勝利条件ハ、オ互イ全テ無効トナル。クク……単純ナ“デス・ゲーム”ダ』
「……そんな……」
 そのルールが無茶なものであるのは、杏子でも分かった。
 ただでさえ、一体でも苦戦した“死神”を、あと二体倒せというのだ。
 しかもゲームは、“死神”が場に存在する状態で、“死神”のターンから開始される。さらに、現在の遊戯の手札は0枚。完全に“引き”だけで、この超強力なモンスターを倒せというのだ。
『…サア…ドウスル? 貴様カラ挑ンダノダ、今更――』
「――やるさ」
 遊戯は即答した。それと同時に、周囲を覆う闇がその濃度を深める。
「!? 遊戯!?」
『……クク…、デハ、ゲーム ヲ始メヨウ……』

 遊戯のLP:400
     場:THE トリッキー
    手札:0枚
 死神のLP:0
     場:死神−生と死の支配者−,血塗られた石盤
    手札:0枚

『……儂ノ ターン カラダ…。…攻撃…!』
 身の丈ほどもある大鎌を構える。その刃が蒼く光りだすと、“死神”は遊戯のフィールドめがけ、勢いよく飛び掛った。

 ――ズシャァァァッ!!

『……『THE トリッキー』……撃破』
 遊戯の眼前で、“死神”がニタリと笑う。遊戯の決闘盤のカード、『THE トリッキー』は、灰色の、冷たい石に覆われた。
『……言ッテオクガ……石ト化シタ カード、儂ヲ倒セバ戻ルナドト 安易ニ考エヌ事ダ。我ガ呪イハ“死”ノ呪イ、儂ガ死ストモ解ケハシナイ…永遠ニナ』
 後ろ向きに下がり、自分の場へ戻りながら“死神”は嘲笑する。
『小娘ノ魂モ同様ダ…。“取引”ニ応ジナカッタ以上、小娘ハ死ヌ…確実ニナ。儂ニ挑ンダ事、トクト後悔――』
「……のターン、ドロー」
『…!?』
 “死神”のことばを無視し、傷つき、朱に染まったままの右手を、遊戯はデッキに伸ばした。

「! 遊戯! 血が…!」


 ドローカード:ビッグ・シールド・ガードナー

「…『ビッグ・シールド・ガードナー』守備表示。ターンエンドだ」
 引いたカードを一瞥すると、すぐに場を出し、ターンを終える。
 ビッグ・シールド・ガードナーは、低レベルながら守備力2600を誇る、壁モンスターとしては最強レベルのモンスターである。
『……我ガ エンド宣言モ聞カズ、自分ノ ターン ヲ開始スルトハ…無作法ナ男ダ』
「…………」
『下ラヌ…、ドレ程ノ能力値ヲ持トウガ無意味ダ…。儂ノ ターン…バトルフェイズ…!!』

 ――ズシャァァァッッ!!!

 ガードナーの大盾すらものともせず、“死神”の大鎌は、まるで紙を斬ったかのごとく、容易に盾ごと、ガードナーの身体を両断した。ガードナーのカードが、石に覆われる。
『『ビッグ・シールド・ガードナー』撃破…! クク…、何時マデ持チ堪エラレルカナ、小僧…?』
「…………」
 遊戯の背中は、微動だにしない。

 ただでさえ、二人の周囲の闇は色濃くなっており、遊戯の背中側に位置する杏子には、その様子がよく見えなかった。二人を覆う闇のせいで、近寄ることもできない。
 仕方なく杏子は、大回りして対峙する二人の側面に移動することにする。
(…それに…、さっきの…遊戯の表情……)
 ――さっきのあの表情は…まるで――
 杏子には、どうしても確かめたいことがあった。

『……忘レルナヨ、小僧…。コノ ゲーム ガ終ル時、貴様ハ死ヌノダ…。ターンエンド』
「…レのターン、ドロー!」
 勢いよく、遊戯はカードを抜き放った。

「……!!」
 右手が振るわれた瞬間、その手から鮮血が飛び散る。それは遊戯の側の地面に落ち、複数の赤い斑点をつくった。
 そのとき、杏子は確かに見た。
「…遊戯…!?」
 ――遊戯は、流血したままの右手でカードを引いている。その結果、カードにも血が付着してしまっているのだ。

 ――杏子は知っていた。
 遊戯にとって――そのカードの一枚一枚が、どれほど大切なものであるかを。
 それを…遊戯が、自身の手で汚すなど考えられないことだった。

 闇のゲームを望んで受けた、この状況にしてもそうだ。
 遊戯にとってゲームとは、子ども頃から、ずっと親しんできた大切なもの。
 そのゲームを、“敵”を倒す手段として望んで使っている――それは杏子にとって、本当に信じられないことだった。

「…! カードを一枚伏せ、ターンエンドだ」
 また、少しカードを見ただけで、すぐにターンを終了する。
 だが遊戯の場には、モンスターは1体も現れなかった。
『……クク…モンスター ヲ引ケナカッタ様ダナ。コレデ――貴様ノ負ケダ』
「…………」
 さぞ満足げに、“死神”は言う。
 大鎌の刃が、蒼い光に覆われていった。
『…奇跡ハ、二度ト起コラヌ…。コノ一撃デ――息絶エルガ良イ!!』
 遊戯めがけて、勢いよく飛び掛る。
「――リバースカード、オープン!!」
 遊戯は、盤に伏せられた血染めのカードを、やや乱暴に表にした。
『――無駄ダ!! 我ガ攻撃ハ止マラヌ! 今度コソ――!!』
 表にされたカードの効果が発現される。
 しかし、『魂の停滞』のときのように、遊戯の身体が“光”に包まれるようなことはない。
 首めがけて、“死神”の刃を振るわれる。
 それに対し、遊戯は咄嗟に、左半身を一歩前に出す。
 右方向に腰をひねり、遠心力を利用して、左腕を力任せに斜めに振り上げた。
 遊戯の左腕の決闘盤と、“死神”の大鎌の刃が、真っ向から衝突する。

 ――ガギィィィィンッ!!!

 両者の腕は、拮抗することなく、ともに、完全に振り切られていた。
「…………」
『……何……ダト……!?』
 遊戯の口元が、わずかに歪む。

 ――カランッ……

 コンクリートの地面に、金属が力なく落ちる音。
 転がったそれは、蒼く輝く金属だった。折れたそれは、すぐに光を失い、闇に溶け、消滅する。
『……馬鹿…ナッ……!?』
 “死神”は驚愕した。自らの手にする自慢の大鎌の刃は、遊戯の腕につけられた華奢(きゃしゃ)な玩具との衝撃にすら耐えられず、叩き折られてしまったのだ。
 決闘盤は、特別硬くつくられてなどいない。ガードナーの大盾さえ斬り捨てた刃が、それを斬れないなど考えられないことだった。
『(……マサカ……ゲーム開始前、小僧ニ入レラレタ罅(ヒビ)ガ……!?)』
 “死神”の頭は混乱していた。
 折れた部分は、遊戯の入れたと思われるヒビとは別の箇所である。
 何より、そのヒビは小さなものだったし、“闇のゲーム”でそんなものが影響するとは考えられない。

 ――シュウウウウ………

『!?』
 自身の身体にも起きつつある変化に、“死神”はようやく気がついた。
 “死神”の身体から、白い気体が立ち上る。そして“死神”は、全身に言い表せぬ苦痛を覚えた。
『……一体…何ガ…起キテイル…ッ……!?』
 ――それは“死神が、自身の効果で破壊される兆候であった。
 だが、“死神”はまだエンド宣言をしていない。他のいかなるカードであろうと、“死神”を直接破壊することは不可能なはずだ。
「……種さえ割れれば……何ということはない」
『……!?』
 あくまで冷静に、遊戯は断言する。
「……お前を倒す手段など……幾らでも思いつくさ」
『……ナ……ニィィ……!?』
 “死神”はおぼつかない動きで、遊戯の場の、発動されたカードを振り返った。
『……『ターン・ジャンプ』……!?』
 遊戯のフィールドでは、“死神”の見たこともない魔法カード――『時の飛躍(ターン・ジャンプ)』が表にされていた。
「……『時の飛躍』の効果により、3ターンを瞬時に経過させた…。つまりお前は、生存条件を満たさないまま3ターンを費やしたことになる。よって――」
 “死神”の身体が、腐るように崩れ落ちてゆく。
 “死神”の攻撃は、いかなる魔法・罠によっても妨害されない――だが『時の飛躍』は、攻撃を妨害してはいない。ただターンを経過させただけである。
『…オノレ…!! オノレェェェ!!!』
 地に這い蹲(つくば)りながら、呪うように“死神”は叫んだ。
『…殺シテヤル…!! 殺シテヤルゾ…、コノ青二才メガァァッ!!!』
 だが、遊戯に動じる様子はない。その様を冷徹に見くだしたまま、呟く。
「……言っただろ…! オレはお前を許さない……!!」
 両手のひらを、強く握り締める。
 敵意のこもった、鋭く頑強な瞳。
 そして遊戯は、声高に叫んだ。
「…オレはお前を――絶対に許さない!!」

 遊戯のLP:400
     場:時の飛躍
    手札:0枚
 死神のLP:0
     場:死神−生と死の支配者−,血塗られた石盤
    手札:0枚



第五章・憎しみの踊り手

「――……!! ア……」
 杏子は、ことばを失った。
 自分の目に映る、“死神”と対峙する遊戯。
 自信と力に満ちた、遊戯とはまるで違う表情。
 その顔は、まるで――
「……ア…アテ――」
 だが、呼びかけたところで、杏子ははっとした。
(――……違う……!?)
 杏子は、遊戯を凝視した。
 自信と力と……そしてそれ以上に、憎悪と敵意に満ちた顔。
 それは遊戯だけではなく、“彼”ともまた違う顔。
(……“彼”じゃ…ない……?)
 杏子は、愕然とした。
 ――そうだ…“彼”はもう、いないのだ。
 あれが、“彼”であるはずはない。
(……でも…だったら、あれは……?)
「……誰…なの……?」
 杏子の背筋を、悪寒が走る。
 目の前の、遊戯のカタチをしたそれが、自分の知る遊戯でないことだけは確かだった。


『……グ…ウウッ……グハァァッ…!!!』
 苦悶の断末魔が響く。
 その左腕の決闘盤にセットされた、自身を描いたカードが石に包まれていく。
『……小僧ォォ…! 貴様ノ首……必ズ斬リ落トシテクレルワァァァッ!!』
 カードが完全に石化したところで、“死神”の身体は、完全に消滅した。
 しかし、その左腕につけられた決闘盤は地に落ちることなく、不気味に宙を浮き、遊戯から距離をとっていく。

『――ヨモヤ……我ガ分身ヲ、二体マデ倒ストハナ…』

「………!」
 暗闇に浮かぶ決闘盤から、不気味に声が響く。
 恐らくは、デッキに眠ったままの、三枚目の“死神”の声であろう。
『……流石ハ現代ノ、決闘(ディアハ)ノ王…。モハヤ侮リハセヌ――全力デ、貴様ヲ討ツ…!』
「…………」
 遊戯は動じることなく、むしろ、挑発的な笑みを浮かべた。
「……やってみろよ…。このクズ野郎…!」
 遊戯は、吐き捨てるように言い放った。

(……やっぱり……遊戯じゃない……)
 ――遊戯は、あんなことばを言わない
 ――けれど…ならば、いったい誰だというのか?
 杏子は、一抹の不安を覚えた。
 ――この闘いを終えたあと…遊戯は、どうなってしまうのだろう?
 ――また、元のやさしい遊戯に戻るのだろうか?
「……遊戯……!!」
 何もできない、見ていることしかできない自分に、強い憤りを覚える。

『……ターンエンド ダ…。小僧…、貴様ノ勝利条件ハ、三体目ノ儂ヲ殺ス事…。ダガ、儂ガ出ルニハ、マダ時間ガ掛カル…。ソノ間、セイゼイ準備ヲシテオク事ダナ……』
「……! オレのターン、ドロー!」

 ドローカード:磁石の戦士(マグネット・ウォーリアー)β

「…オレは、『磁石の戦士β』を召喚!」
 遊戯の場に、全身を磁石で構成したモンスターが召喚される。
 現在、相手の場にカードはない。普通なら攻め込むチャンス――だが、そのライフは既に0。勝利条件も変っている。ここで攻撃する意味は皆無であった。
「…ターンエンドだ」
(…考えろ…!)
 遊戯の頭を支配する、激しい感情。
 怒りと憎しみ――目の前の“死神”に対するそれは、未だかつてないほど激しいものだった。
 その一方で、頭を十二分に回転させ、“死神”の攻略法を考える。
 “死神”を倒す方法――それはM&Wの現環境において、確かに複数存在する。
 “死神”は、何者にも倒されない無敵のカードとして生み出された――だがそれは、恐らくは過去の話。M&Wの世界は日々進化している。現に、すでに二体の“死神”を葬ることに遊戯は成功しているのだ。
 だが問題は、あくまで遊戯のデッキに残されたカードで倒さなければならない点である。絵空とのデュエル終了時から再開したため、デッキに残されたカードも少ない。
(……あと7枚……)
 遊戯のデッキに残されたカードは、たったの7枚。
 その一枚一枚を、遊戯は如実に思い浮かべる。自分で一から組んだデッキだ、それは容易である。
 遊戯の敗北条件は、“死神”の直接攻撃を受けてしまうことのみ――つまり、デッキのカードがなくなっても負けることはない。
 だが、デッキのカードを失うということは、自らの可能性を失うということであり、敗北にほぼ等しいことである。
(……その7枚のカードで…オレは最後の“死神”を倒さねばならない……)
 残されたカードはわずか――だが、逆に戦略の立て易い状況でもあった。
(……この残されたカードの中で……ヤツを倒せる可能性を秘めているのは――)
 遊戯は毅然とした様子で、“死神”を睨めつめた。
『……儂ノ ターン…ドロー』
 絵空のデッキから、カードが一枚浮かび上がる。
 その様を、遊戯は鋭く凝視する。
『……残念…唯ノ魔法カード ダ。…言イ忘レテイタガ、儂ハ小娘ノ カード ハ一切場ニ出サナイ…。貴様ハ アクマデ、儂自身ノ手デ殺ス…! 故ニ、儂ハ何モ出来ナイ。ターンエンド ダ』
「……! オレのターン、ドロー!」

 ドローカード:同胞の絆

(……『同胞の絆』か……)
 それはもともと、いま場に存在している『磁石の戦士』とのコンボのために投入したカードである。
 ライフを1000払うことで、デッキから別の『磁石の戦士』を喚び、合体し、『マグネット・バルキリオン』へと進化させるカードである。だが、この状態では使用できないし、たとえどれほど攻撃力があっても、“死神”の能力の前には無意味である。
「……ターンエンドだ」
 舌打ちをして、エンド宣言する。
 今の遊戯にとって、『同胞の絆』は不要なカードであった。
 遊戯の脳裏に描かれた、現戦力で“死神”を倒しうる唯一のコンボ――それに必要なカードは、まだデッキに眠ったままだった。
『……クク…、随分ト焦ッテイルナ……儂ガ場に出ルノガ、ソンナニ恐ロシイカ?』
「………!」
 遊戯は、確かに焦っていた。このターンで“死神”を引かれでもすれば、遊戯の思い描くコンボは成功することなく、敗北が決まってしまうだろう。
『……4枚目ダ……』
「…!?」
 デッキから、カードが一枚浮かび上がる。
『……コレデ3枚目…。儂ノ カード ハ今、上カラ三枚目ニアル……。モットモ、信ジルカ否カハ貴様ノ自由ダガナ……ターンエンド ダ』
「……! 余裕だな…。後悔するなよ……」
 遊戯は、デッキに手を伸ばした。
「オレのターン、ドロー!」
 引いたカードを視界に入れると、口元をわずかに歪ませる。
 コンボのために必要な1枚を引き当てたのだ。
「――カードを一枚伏せ、ターンエンドだ!」
(……ターン数、デッキの残り枚数から考えるに、コンボの完成確率は高い…! それに――)
 遊戯は、デッキを見つめながら考えた。
 ――“死神”の驕りから、そのカードの出現するターンが分かった。それにより、もしかしたら別の攻略法が使えるかも知れないのだ。
『……儂ノ ターン……後2ターン ダ。ターンエンド…』
「オレのターン、ドロー! 一枚伏せて、ターンエンドだ!」
『……儂のターン……』
『(……何カ…狙ッテイルナ……?)』
 遊戯には恐らく、“死神”を倒す策がまだ残されている。
 すでに2体も倒されているのだ。遊戯の狙うコンボが、自分を倒しうるものである可能性は低くない。
『(……クク…モガクガ良イ、小僧…。ドウ足掻(アガ)コウト、貴様ノ死ハ変ラヌ……)』
 だが、“死神”には確たる余裕があった。絶対に倒されない自信があった。
 ――なぜなら…“死神”にはまだ、隠された能力がある。今の状況で場に出れば、それも使用可能なのだ。
 それを使ったときこそ――“死神”は、真に無敵の力を手にするのである。
『…ドロー…。サア、次ノ ターン ダ……ターンエンド』
「オレのターン、ドロー! 一枚伏せ、ターンエンド!」
 いま遊戯の場には、『磁石の戦士β』と、伏せカードが3枚である。
『…儂ノ ターン…。クク…、覚悟スルガ良イ、小僧…。ドロー ――』
 デッキのカードが浮かび上がった瞬間――遊戯は叫び、伏せカードを表にした。
「――この瞬間、リバースカードオープン! 『手札抹殺』!!」
『!?』
「このカードの効果により、お互いのプレイヤーは手札を全て捨て、捨てた枚数だけカードをドローしなおす! よって――」
『……成程ナ……』
「……!!」
 “死神”が、ニタリと笑う。
『……手札破壊ヲ狙ッタカ…。意外ト冷静ダ。ダガ――』
 ――“死神”はすでに、場に現れていた。
『……ソンナ詰マラヌ手デ……儂ヲ倒セルト思ッタカ?』
 遊戯は舌打ちをした。
 だが――これで、狙いの全てを封じられたわけではない。
 残された一枚の手札を捨てると、遊戯は一枚、カードをドローし直した。

 遊戯のLP:400
     場:磁石の戦士β,伏せカード2枚
    手札:1枚
 死神のLP:0
     場:死神−生と死の支配者−,血塗られた石盤
    手札:4枚



第六章・あの血まみれの男は誰だ?

『……残念ダッタナ、小僧…。儂ハ、デッキ・手札カラ墓地ヘハ送ラレナイ…』
「…………」
 ――それは、あるていど予想できていた。
 “手札破壊”や“デッキ破壊”は、そう最近の戦術ではない。昔かられっきとして存在した戦術である。
 “死神”が‘当時のカード’で決して倒せぬよう創られているのなら、『手札抹殺』単体で倒せるとはとうてい思えない。
『……サテ…、『手札抹殺』ノ効果デ、儂モ手札4枚ヲ捨テ、改メテ カード ヲ引コウカ……』
 遊戯は気持ちを切り替えると、引いたばかりのカードに視線を送った。

 ドローカード:師弟の絆

(……このカードじゃない……!)
 遊戯は、険しい表情を浮かべた。『師弟の絆』は、先ほど捨てた『同胞の絆』と同様、すでにこの決闘では使用不可能な、今の遊戯にとっては不要なカードである。
 デッキに残されたカードは二枚。そのうちの一枚を引き当てねば、次のターンで負けてしまう。
『…行クゾ、小僧! 儂ノ ターン、バトルフェイズ!』

 ――ズシャァァァァッ!!

 蒼く光る鎌が、磁石の戦士の胴を真っ二つにする。それに対し、遊戯の場の伏せカードが使用されることはなかった。
『…ターンエンド…。クク…、ドウシタ? 八方塞ガリカ?』
「……! オレのターン――ドロー!」

 ドローカード:死者蘇生

(! 揃った!)
 場に伏せたカードと合わせ、これで狙っていたコンボが使用可能となった。
 遊戯はすぐさま、ドローしたばかりのカードを場に出す。
「手札から魔法カード――『死者蘇生』を発動!!」
 カードの絵柄が、立体映像として場に表示される。
『ホウ…、中々強力ナ カード ヲ引イタナ。シカシ、何ヲ蘇ラセル?』
 クク、と、愉快げに“死神”は笑う。
 遊戯は、自分の墓地に目をやった。
(……“死神”の攻撃を受け、破壊されたカードは石にされ、蘇生できない…)
 『ブラック・マジシャン』や『ブラック・マジシャン・ガール』といった強力モンスターは、すでに“死神”の攻撃を受け、石と化してしまった。
 その並び順から、どの石がどのカードかは把握できるが、この状態では決闘盤が認識できないので意味をなさない。
(……蘇生可能なモンスターの中で、このコンボを使用可能なのは――)
 一枚のカードを選び出すと、遊戯はそれを場に特殊召喚した。
「いでよ――『マジシャンズ・ヴァルキリア』!!」
 遊戯の場に颯爽と、魔術師の少女が再び姿を現す。
(……次のターンで…勝負は決まる!)
 遊戯は思わず、拳に力を込めた。
 “死神”の攻略法――それは、相手ターンに自軍のモンスターを破壊させないこと。つまり、このヴァルキリアを次ターンに守りきれば、実質的に勝利できるのである。
「さらに、カードを一枚伏せ、ターンエンドだ!」
『…儂ノ ターン…、儂ガ場ニ存在スル限リ、儂ノ ドローフェイズ ハ スキップ サレル…。ソシテ、バトルフェイズ――』
 “死神”は武器を構えると、遊戯を見据えた。
 遊戯の瞳は死んでいない。『手札抹殺』の他にも、遊戯にはまだ手が残されている――そのことを、直感的に“死神”は察知した。
『……良カロウ…。貴様ノ企ミ――見セテ貰ウゾ!!』
 叫びざまに、“死神”は遊戯の場のモンスター『ヴァルキリア』に飛び掛かる。
 大鎌を大きく振り上げ、『ヴァルキリア』に狙いを定める。
(……まだだ……!!)
 遊戯は身構えつつも、場の伏せカードに指を掛けない。
(……ギリギリまで引きつける…! タイミングで勝負は決まる…!!)
 『ヴァルキリア』の眼前で、“死神”がわずかに減速する。
 そして、大鎌の刃が振り下ろされた刹那――遊戯の瞳孔が大きく開いた。
「――リバースオープン!! 『マジカル・シルクハット』!!」
『!?』
 大鎌の真下に位置した少女が、突如出現したシルクハットに隠される。そしてその左右には3つ、同じようなシルクハットが現れた。
 ――絶妙のタイミングだった。

 だが――

『……成程ナ……』

 “死神”の大鎌は、そのシルクハットを破壊していなかった。すんでのところで、その刃は止められたのだ。
『……『マジカル・シルクハット』……。コノ四ツノ“シルクハット”ノ何(イズ)レカニ、貴様ノ モンスター ヲ隠シタ――トイウ事カ』
「……ち……!」
 遊戯は舌打ちをする。だが、その様子はさほど悔しげではない。まだ余裕があった。
『……フン…。ソウイウ狙イカ…』
 “死神”はいったん下がると、四つのシルクハットを順に眺めた。
『……狙イハ悪クナイ…。儂ハ必ズ“戦闘”ヲ行ウ――ヨッテ、“サクリファイス・エスケープ”ノ様ナ回避ヲスレバ、儂ハ再攻撃ガ可能トナル。ダガ、コノ場合、空ノ“シルクハット”を攻撃スレバ、ソレハ“戦闘”ヲ行ッタ扱イトナル。ソシテ、“シルクハット”ハ モンスター デハナイ――結果、“戦闘”ヲ行ワセツツ、儂ノ破壊条件ヲ満タセル、トイウ訳ダ』
「……確率は4分の1…。外れれば――貴様の負けだ」
『………………』
 “死神”はシルクハットを見つめながら考える。
『(……正面ノ“シルクハット”ハ無イナ……)』
 遊戯は、“死神”が攻撃する瞬間を見極め、シルクハットを出した。普通に考えればそれは、あわよくば“死神”に正面の対象を攻撃させようとした証拠だ。
『(……ツマリ……成功確率ハ実質、三分ノ一……)』
 “死神”は、3つのシルクハットを凝視した。
『(――“コノ姿”デハ見エヌカ……)』
 “死神”は、ニタリと笑った。
『……クク…、拍子抜ケダナ、小僧…。コンナ博打ガ、貴様ノ切札トハ……』
「………!」
『ダガ――儂ヲ ココマデ追イ詰メタノハ、貴様ガ初メテ…。冥土ノ土産ダ…見セテヤロウ……』
「……何……!?」
 “死神”は懐から、4枚のカードを取り出した。
 それは絵空のカード――遊戯の『手札抹殺』の効果で、新たに引き直した手札である。
『儂ノ――“真ノ姿”ヲ』
「――!?」
 “死神”は、4枚の手札を宙に放った。
 そして、大鎌を構え直すと、それを大きく薙ぎ払う。
『――ハアアアアッ!!!』

 ――ズバババァッ!!!

「………!?」
 無惨に両断されたカードが、地面に舞い落ちる。それらを斬った大鎌が、紅い光を帯びだした。
『新タナ生贄ヲ捧ゲル事デ――儂ハ、真ニ無敵ノ神トナル!!!』

 ――ビシィィッ!!!

「!? 何!?」
 突如、“死神”の足元の石盤――『血塗られた石盤』にひび割れが生じる。
(……決して破壊できないカードが……!?)
 亀裂が走り、大きな、乾いた音とともに、それが砕かれる。
 “冥界の石盤”を模した石盤――それとともに、6つの千年アイテムがそれぞれ光に包まれていく。
「………!!」
 光に包まれたそれらは、砕け散った石盤とともに、この世界から消滅していった。
『……見ルガ良イ……。ソシテ、恐怖シロ……』

 ――ズドォォォォッ!!!

「――!! くっ…!!」
 “死神”を中心に、突如、巨大な光の柱が現れる。遊戯はとっさに腕をかざし、視界を守る。
 そして同時に、二人を覆う“闇”が大きく脈動した。

 ――ズォォォォォォ……!!

 しばらくして、光が消える。
 “死神”の笑い声が、辺りに響き渡った。
「…………!!!」
 遊戯の表情が、驚愕に染まる。
『…これこそが……儂の真の姿よ……』
 “死神”の大鎌は消えていた。
 顔を隠していたフードも消え、その下が明らかとなる。だが、表情は見えない。男はまだ、不気味な白い仮面をつけていたためだ。
 仮面は、左目の部分だけがくりぬかれていた。その下から覗くのは人間の目ではなく、黄金に輝く義眼――“千年眼(ミレニアム・アイ)”。M&Wの創始者、ペガサス・J・クロフォードも所持していた、闇の力を秘めし千年アイテムである。
「……お前は……!!」
 ――見覚えがあった。
 その仮面、その巨躯、その不気味な雰囲気に。
「……“闇の大神官”……!!」
 遊戯が、その心当たりを口にする。
『……ほう……?』
 仮面の下で、“死神”――“闇の大神官”は、冷たく笑った。

『……何故……我が名を知っている……?』

 遊戯のLP:400
     場:マジシャンズ・ヴァルキリア,マジカル・シルクハット,
       伏せカード2枚
    手札:0枚
大神官のLP:0
     場:闇の大神官−時の支配者−
    手札:0枚



第七章・踊りつづける死

「……闇の…大神官……!?」
 杏子はその姿を見て、はっとした。
 見覚えがあった。杏子が闇の大神官を見たのは二回だけ。一回は、闇(ダーク)RPGの中で“彼”と再会したとき、“時間の巻き戻し”で離れ離れになったときのこと。そして二回目は、闇RPGを終え、童実野美術館に戻ったとき、ミイラと化したその身体を見たときのことである。二回目には、それはミイラと化していた。しかし、その亡骸の側に、その顔につけた仮面が置かれていたのだ。

『……よもや、我が名まで知るとは…。つくづく興味深い小僧だ……』
 余裕の様子で、闇の大神官が問いかける。
『……何故……何処で、我が名を知った…?』
「…………」
 闇の大神官――それを知ったのは、三ヶ月前、闇RPGで“彼”のいた世界を疑似体験したときのことである。
 だが、そんなことを教える義理はない。
 逆に、遊戯は質問で返した。
「……なぜ…貴様がここに…この時代にいる……!?」
『……フン。貴様が答える気はない、というわけか…。良かろう。いずれすぐ死ぬ運命だ、貴様は……』
 自信に溢れた様子。
 その自信の源を、遊戯は理解できていた。遊戯は、それに注目した。自信の源――それは十中八九、闇の大神官の左目にはめられた義眼“千年眼”である。
『……! …どうやら、千年アイテムのことまで知っているようだな…。確かに、儂はこの時代に存在するべき者ではない。儂は、今より3000年の昔に存在した…。だが、儂は蘇ったのだ、この千年眼の力でな…!』
 闇の大神官は、左目にはまった千年眼に手を伸ばす。
『……もっとも、本物ではないがな…。これは所詮、実物を模した魔力の塊――本物と比べれば、その力は半分にも及ぶまい』
 闇の大神官の言う通りだった。なぜなら、本物の千年眼は、“彼”の旅立ちと共に、深い大地の底へと封印されたはずだからだ。
『3000年前……儂は、本物の千年眼の所持者であった…。そして、『大邪神ゾーク・ネクロファデス』様を復活させ、その力の一部を得、今の姿、今の力を手に入れたのだ…!』
「…………!」
『…だが――我が野望は叶わなかった。ゾーク様は憎きアクナムカノンの息子に封印され、儂は“白き龍”の力により消滅した……かに見えた』
 ニヤリと、大神官は笑う。
『消えてはいなかったのだよ…、儂は。我が肉体は消滅したが、その魂はわずかながら残っていた。そして儂は、その全てを千年眼へ封印した……気づかれぬように。こうして新たな身体、新たな力を手にできる日までな……』
 大神官はその身体を確かめるように、両手の拳を開閉させる。
『…新たな千年眼の持ち主…ペガサス・J・クロフォードは、貴様も知るように、このM&Wの創始者となった。これは儂にとって、非常に都合の良いことだった…。知っているか、小僧? M&W……これは、ただのカードゲームではない。そのカードの一枚一枚は、遥か昔、実在した怪物たちを模したものなのだ…。貴様の3体の神――『オシリスの天空竜』『オベリスクの巨神兵』『ラーの翼神竜』はその最たる存在。憎きファラオの操りし、最強の怪物……!!』
 大神官の口調が、次第に強くなっていく。
 興奮していく様が、手に取るように分かった。
『……ペガサス・J・クロフォードは、それらをカードとして蘇らせた…。…儂は、それらが憎かった…! 故に、それらのカードに呪いをかけたのだ…』
「……呪い…だと…!?」
『…そうだ…。儂は千年眼の魔力を用い、呪いをかけた…。貴様も知っておろう、小僧…? 結果、神の攻撃は、現実にも絶大な威力を誇る…。使い手の邪念によっては、相手を殺すことも可能……いわば、簡易な“闇のゲーム”のキーたる力を持つのだ』
(…! 神の力が……闇の大神官の呪い…!?)
 思わぬ情報に、遊戯は眉根を寄せる。
『……3体の神を合わせれば、その闇の力は千年アイテムにも匹敵するだろう…。故に、神のカードはその所持者を選ぶ。小僧、貴様が神の所持者たりえるのは、恐らく、その強大な魂ゆえ…。魂弱き者が持てば、その心は我が呪いによりて、闇に腐り、死ぬ……』
(……! そういうことか……)
 神を使えるのは千年アイテムに関係のある者――以前、マリクの邪悪な意志が言っていたことだ。
 だが正確には、“強い魂の持ち主”というのが条件なのかも知れない。少なくとも、千年アイテムと関わりのある人物なら、相応に強い魂を持つはずであろう。
『……そして――儂はそのとき、気がついた。現代の魔物を生み出せるペガサス・J・クロフォード……この男の力を利用すれば、儂は新たな身体を手にできることに…。人間を捨て、魔物として蘇ることを決意したのだ…! 儂はペガサスに呪いをかけ、神が奴を襲う幻覚を見せた。そして誘導し、創らせた…。儂の新たな器――ファラオの操りし三幻神にも勝る、究極の魔物の身体をな!!』
「……それが…今のその姿というわけか……」
 遊戯は顔をしかめた。
 見た目だけなら、おそらく、3000年前のそれと大差ないのであろう。だが――そのカードに持たされたのは、神をも倒せる力である。
『……儂は、千年眼に残った我が魂の全てを、その数枚のカードに移した…。しかし、我が野望は思わぬ障壁に阻まれた…。千年眼を離れた我が魂に、その強靭な身体を存分に使いこなすことは出来なかったのだ…。故に儂は、我が呪いから解放されたペガサスによって封印された…。誰の手にも渡らぬよう、暗い闇の底にな…。儂にそこから脱出する力はなく、そこで力尽きる運命と諦めかけた……だが!! 予想だにしない奇跡が起きた! 今より三ヶ月前のこと――我が身体にどこからか、魂が注入された! この世界に対する激しい憎悪……それは恐らく、千年眼以外のどこかに残されていた、我が怨念の片割れ…! 故に儂は、暗闇を抜け出すことができた! そして――現在に至る、というわけだ…!!』
 一通り話し終えると、闇の大神官は満足げに笑みをこぼす。
(……三ヶ月前……!?)
 聞き覚えのある時期。ひとつには、海馬から聞いた、アメリカでの意識不明者が出始めた頃。そして、もうひとつは――自分たちが闇RPGに勝利した頃。
(!! ――そうか!!)
 千年眼以外に残されていた、闇の大神官の怨念の片割れ――その出所の正体に、遊戯は気がついた。
 闇RPGに勝利し、元の世界に戻ったとき――闇の大神官、もといアクナディンのミイラが無惨に砕け散っていた。
 あのゲームには、アクナディンの魂も参加していたらしい。ゆえに、敗北した結果、その魂は消滅したのかと思ったが――
(……亡骸という器を捨て……新たな器を求めたのか…!?)
 ――さらなる力を求めて。
 おそらくは、憎き“彼”に復讐するために――
「だが…なぜこんなことを…!?」
 遊戯は、険しい表情で問いかけた。
「……死を目前にした人間、そしてそれを救いたいと願う人間を見つけ、闇のゲームを強いる…。その“取引”に応じた人間の願いは叶えた上で、真実を伝え、二人の人間の苦しむ様を観察する……。一時は、世界を闇に落とそうとした男が――なぜ…!?」
『……くだらんよ……』
「……!?」
 どこか愁いを帯びた声で、大神官は呟いた。
『……世界を闇に落とす…? その先に、一体何がある…? 我が最大の望みはすでに叶わぬ…。この世界全てへの憎悪はある……だが、滅ぼす必要などない……放っておけばいずれ滅ぶ。人間は、自身の“業”によってな……』
 先ほどまでの興奮気味な口調と違い、どこか冷めた様子になる。
『……おしゃべりが過ぎたな……。ゲーム再開といこう……』
 千年眼が輝きだす。大神官が何をしようとしているのか、遊戯は手に取るように分かった。
『……我が千年眼の能力――精神走査(マインド・スキャン)!!』

 ――カァァァァァッ!!

 左目の千年眼が、突如輝き出す。
 少しの間を置いて、大神官は愉快げに笑った。
『……クク……成程、右端のシルクハットか……』
「………!!」
 遊戯は、大神官の言うシルクハットに目をやった。確かに――自分は、そのシルクハットの中に『ヴァルキリア』を隠したのだ。
『…確かに、狙いは悪くなかった…。だが、残念だったな。この千年眼には、相手の精神を走査する力がある。故に儂は、貴様の精神を覗き、どのシルクハットに隠したかを見抜いたのだ……』
 ――説明されるまでもなかった。
 その技は以前、ペガサスによって嫌というほど受けている。あのときは、“彼”と協力し、“マインド・シャッフル”を使ってマインド・スキャンを防いだ――しかし今、“彼”はいない。マインド・シャッフルは使えないのだ。
(……だが…まだだ……!!)
 遊戯は、場に残された2枚の伏せカードのうち1枚を一瞥する。
 ヴァルキリアの隠されたシルクハットを狙われても――遊戯にはまだ、それを回避する手立てが残されている。シルクハットはもともと、ヴァルキリアを隠すために使ったのではない。あくまで、ヴァルキリアを倒させずに“死神”に戦闘を行わせる――その目的で使用したのだ。
『……クク…。だが、何なら空のシルクハットを撃ち抜いてやっても良いぞ?』
「……!?」
『……この姿の儂に死角はない…。この姿になったことにより、我が破壊条件は無効となった。我が攻撃を防いだところで、儂は破壊されない…。正真正銘、儂を倒す手段は皆無となったのだよ』
「――!? 何だと!?」

闇の大神官−時の支配者− /神
★★★★★★★★★★★★
【幻神獣族】
『死神−生と死の支配者−』の効果によってのみ降臨する。
他のカードの効果によっては決して場を離れない。フィールドに存在する
限り、そのコントローラーはドローフェイズをスキップされ、また、他の
カードを場に出せない。自分のターンに1度、必ず戦闘を行う。このカードの
攻撃は、いかなるカードの効果によっても阻止されない。戦闘時、対象とした
モンスターまたはプレイヤーに“死”を与える。戦闘時、ダメージ計算は適用
されない。このカードは“時の支配”の力をもつ。
攻 0  守 0

『…あの自滅効果はしょせん戯れ…。もはや用はない。小僧、なぜあんな面倒な効果を有していたか、分かるか?』
 遊戯は応えない。だが、大神官はすぐに答えを言った。
『……あれは、この世界の摂理を表したのだ…。人は他者を踏み台とせねば、幸福を手にできぬ…。犠牲なしの幸福など、甘すぎる話だ。…もっとも、それがあっても倒せぬはずだったが――儂が封印された間に、様々な力が生み出されたようだ。だが!!』
 大神官は、両手を正面のシルクハットにかざした。
『…さらなる生け贄により、儂は真の姿を現した…。この姿に死角はない――いかなる力が来ようが、儂は倒せぬ。絶望せよ、小僧…。もはや貴様には――死あるのみ!!』
 かざされた両手が光を帯び、火花を散らしだす。
「………!?」
 大神官の掌のそれを見て、遊戯は表情を険しくする。
『……死ね…。我が深淵なる闇の力によってな…』
 バチバチと音を立てるそれは、一気に解き放たれた。

『――絶命の稲妻!!!』

 ――バヂヂヂヂィッ!!!

 電撃が、ヴァルキリアめがけて放たれる。
 だがその刹那――、遊戯の口元は笑みをつくった。その一瞬に生じた勝機を、決して見逃さなかった。
「――オレの勝ちだ!! リバース・マジック!! 『魔法の筒(マジック・シリンダー)』!!」
『――!? 何!?』

魔法の筒
(魔法カード)
魔術師が操る魔法の筒! モンスターの
攻撃を吸収し軌道を変え相手にはね返す!
物質を転送することもできる

 ヴァルキリアは襲い来る稲妻に対し、自らシルクハットを飛び出す。同時に、場に存在する全てのシルクハットは煙とともに消え失せる。
 そして、ヴァルキリアの杖の先には、二つの赤い円筒が用意されていた。ヴァルキリアはまず、右側の筒に魔力をこめる。

 ――ズキュゥゥゥ……!!!

 その円筒に、電撃が吸い込まれていく。
 だがそれを見ても、大神官に動揺する気配は微塵もない。
『…愚かな…。それで回避したつもりか?』

 ――ビシッ!!

 吸収した方の筒に、たちまち亀裂が生じた。
『……我が攻撃は、魔法・罠によっては止まらぬ…。その装置は破壊され、我が地獄の稲妻は、再び貴様のモンスターを襲う!』
「……。そいつはどうかな……」
 ヴァルキリアはすかさず、杖を持つ手を持ち替え、左側の筒に魔力をこめ始める。
「……確かに……『魔力の筒』を、貴様の攻撃を“阻止”する目的で使えば、貴様の能力により無効化されるだろう。だが、オレの『魔法の筒』の使用目的は別にある…。オレはただ、この攻撃の対象を別のモンスターに軌道修正するだけだ……」
『……別のモンスター…だと……?』
 遊戯の場のモンスターは、ヴァルキリアのみ。しかも、仮にこの攻撃をかわせたとしても、自滅効果が消えた今、時間稼ぎにしかならない。
「……いや…、まだいるだろう? モンスターが……」
 遊戯は、毅然とした様子で、闇の大神官を指差した。
「……貴様は“他のカード”の効果によっては決して場を離れない……。ならば――貴様自身の攻撃ならばどうだ?」
『――!! バ…バカな!?』
 ヴァルキリアの操る左側の円筒が光り出す。
「……もともと『魔法の筒』は、貴様が大鎌でヴァルキリアのシルクハットを狙った場合、ヴァルキリアを別のシルクハットへ転送し、回避させる目的で伏せていた…。だが、その姿になることで、貴様は攻撃手段が、大鎌による直接攻撃から、稲妻という飛び道具に替わった。よって、『魔法の筒』により攻撃を吸収することが可能となり――この攻略法が可能になったのさ!」
『――や…やめ…!!』
「…自分自身の攻撃で――終わりだっ!!!」

 ――バヂィィィィィッ!!!

 筒から稲妻が飛び出し、それは一直線に闇の大神官を襲う。

「――!! やった!!」
(――倒した!!)
 杏子と遊戯は、同時に勝利を確信した。だが――

『……なあんてな……』
 大神官は、愉快げに冷笑した。
「―――!?」
 眼前の事態に、遊戯の瞳孔が大きく開く。
『……驚いたよ、小僧…。よもや、我が最終能力までも使わされるとはな……』
 放たれた稲妻は、大神官の寸前で止まっていた。
 いったい何が起こっているのか――遊戯には理解できなかった。
『……儂は、『大邪神 ゾーク・ネクロファデス』様の能力の一部を引き継いでいる…。ゾーク様の――“時の支配者”としての力をな!!』
「!? 何だと!?」
 そこで、遊戯はあることに気がついた。
(……身体が…動かない……!?)
 それは、絵空が『血塗られた石盤』を使ったときの感覚に似ていた。
『……“停刻”の力を発動し、時を止めたのだ……。そして……“逆刻”の力を――発動!!』
「!!?」
 停止していた稲妻が動き出す――“逆”の方向へ。大神官を襲うはずだったそれは逆に進み、ヴァルキリアの筒へと吸い込まれていく。
 それは、ひどく奇妙な光景だった。
 そして、稲妻は最初に吸収した方の筒から飛び出すと――何事も無かったかのように、大神官の手に吸い込まれていった。
「……!? い…稲妻が戻った…!? ……いや――」
 混乱しながら、動揺しながらも、遊戯は口にする。
「……闇の大神官による攻撃は……まだされていない……!?」
 瞳を震わせ、戦慄する。
 まるで記憶を書き換えられるような、不気味な感覚。
 遊戯の頭の中でも――闇の大神官による攻撃は、‘なかったこと’にされていた。
『……ククククク……』
 その様子を、愉快げに大神官は嘲笑する。
『……ゲーム内の時間を巻き戻したのだよ……、この儂の攻撃前の状態にな』
「………!!」
 それは、闇RPGの中でも起こった現象だった。
 顔をしかめながら、自分のフィールドを確認し――遊戯は固まった。

 遊戯のLP:400
     場:マジシャンズ・ヴァルキリア,伏せカード1枚
    手札:0枚
大神官のLP:0
     場:闇の大神官−時の支配者−
    手札:0枚

「……!! 『マジカル・シルクハット』と『魔法の筒』が…場に残っていない……!?」
 時が巻き戻されたにも関わらず、二枚のカードは場に戻されることなく、すでに墓地に置かれていた。
『……我が“逆刻”の力は、時を巻き戻す…。だがその際、使用済みの魔法・罠カードは例外となる。クク…、この意味が解るな?』
「――……!!」
『……厄介な魔法・罠の効果は、まず“停刻”で封じ、“逆刻”で消し去る…。さらに、この能力にコストや回数制限は存在しない…。無制限に使用が可能。これこそが、我が無敵たる所以――、貴様の魔法・罠カードは完全に封じられたのだよ!』
 『魔法の筒』を失ってしまった以上、遊戯にはもう、大神官を倒すすべはなかった。
 そもそも、戦闘で無敵を誇るのに加え、魔法・罠の完全封殺――掟破りにも程があった。
 闇の大神官が、再び両手を構える。
『……時間は、儂の攻撃前まで戻っている……ゆえに、再攻撃が可能。さて――今度こそ、終わりだな…』
 シルクハットも魔法の筒も失ったヴァルキリアに対し、大神官は無情に掌を向けた。
『……絶命の――稲妻!!!』

 ――ズガァァァァンッ!!!

 電撃を受けたヴァルキリアは、一瞬でチリと化す。遊戯の決闘盤にセットされたそ
のカードも、一瞬で石と化した。
「…………!!!」
 遊戯は、呆然と立ち尽くした。
 残されたカードは、場の伏せカード一枚と、デッキに残された最後のカードの、たった二枚。しかも、二枚ともコンボ用のカードであり――この決闘での使用はすでに不可能。コンボに必要な、決定的なキーカードが欠けていた。
(……オレには…もう――)
 愕然とする遊戯。
 遊戯にはもう――打てる策が、何ひとつ残されていなかった。

「……そんな……」
 遊戯の様子を見て、杏子もまた、その敗北を感じ取る。
(……遊戯が……負けたの……!?)
 ――闇のゲームの敗者は死ぬ。
 このままでは、遊戯も――

『……よくやったよ…貴様は。この儂に、最後の切札まで使わせたのだからな……』
「………!! …く…!!」
 悔しげに、下唇を噛みしめる。
 遊戯は、思わず後ずさった。だが、二人の周囲は、完全に闇に覆われている。逃げ場などあるはずもない。
『………。小僧…、貴様は“真実”を、どこまで知っているのだ?』
「…!?」
 不意に、闇の大神官の口調が穏やかになる。
『……千年アイテムを創り出したのは儂だ…。貴様はそれを知っているのか? なぜ創り出したか、知っているのか? そして――』
 しばしの沈黙を置いて、口にする。
『……そのことが私を……どれだけ追い詰めたか、知っているのか……?』
 どこか哀しげな様子で、闇の大神官――アクナディンは呟いた。

 遊戯のLP:400
     場:伏せカード1枚
    手札:0枚
大神官のLP:0
     場:闇の大神官−時の支配者−
    手札:0枚



第八章・こころ

 ――三千年の昔。
 遥かエジプトの地に、ひとつの王国があった。

『――アクナムカノン王!! 敵国の軍勢が王国領土に侵攻して来ます!! もはや我々に迎え撃つ戦力は残されておりません!』
 敵軍の攻撃により、王国は滅亡の危機にさらされていた。

『…アクナムカノン王。これはただの侵略戦争ではありませぬ。敵の狙いは明らか……。我が国に古代より伝わる「千年魔術書」に他なりませぬ…』
 一人の男が、国王に進言する。
 その男――アクナディンは、国王の弟に当たる人間であった。だが、王として国の頂点に立てるのは一人。先に生まれた兄が王となるのは、至極当然のことだった。
 それについて、彼に異論はなかった。
 兄は誰より正義感に溢れた人間であり、人望もあった。自分より、よほど王の座に相応しい、そう感じていた。
 アクナディンはその王国で、賢者としての地位を得ていた。彼と王の関係を知る者は、王宮内にもほとんどいない。しかし、自分の兄が国王であるという隠された真実を、彼は誇りに思っていた。賢者として、兄を支えていけることに心からの喜びを得ていた。
『…もしこの魔術書が敵の手に渡れば、さらなる強大な力を得――大陸全土を脅かすことになりましょう……』
『…だが百年を経ても、魔術書に記された呪文の解読は成されてはおらぬ…』
 険しい表情の王。
 それを見つめながら――アクナディンは、決意を胸に口にした。
『いえ…。解読は済んでおります』
『――何!! それは本当か! アクナディン!!』
 珍しく興奮気味に、王は叫んだ。
『ここに記されていたのは「闇の錬金術」の法…。卑金属を特殊な技術によって貴金属に変化させ、七つの秘宝を創ることにより神秘の力を得るのです』
 「闇の錬金術」――それを行う準備は、すでに整えていた。
 それに頼る以外、この国を守るすべは残されていなかったからだ。

『…アクナムカノン王、もはや時間はありませぬ…。ご決断を!!』
 王は立ち上がり、宣言した。
『我が王国の平和を、七つの秘宝に委ねる!!』
『は!』
 ――これこそが、全ての悲劇の始まりであった。

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

『――よいか!! 我々は王家の谷近くのクル・エルナ村に向かう!』
 「闇の錬金術」を行うため、大勢の兵士を連れ、クル・エルナ村へ向かうこととなった。
 「闇の錬金術」――その魔術的儀式には、多くの人間の生贄が必要とされる。その数九十九体――その残虐な手続きを、王は知らない。知っているのは、「千年魔術書」の解読に携わった、アクナディンと三名の魔術師のみだ。
 誰にも知られることなく、生贄を確保する――その最適の地として、盗賊村として知られるクル・エルナ村は選ばれてしまったのだ。
(……セト……)
 最愛の妻と、息子・セトに見送られ、彼は国を出立した。
 この国のため、兄のため――この手を、血に染めねばならない。罪人とはいえ、正当な理由もなく人を殺すなど、許されようはずもない。
 ――この国のために、許されざる罪を犯さねばならない。
 故に、それは今生の別れのつもりだった。
(さらばだ…息子よ)
 ――そして彼は、この世のものとは思えぬ、地獄絵図の世界へ身を投じた。


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


 忌まわしき儀式の末に――七つの千年アイテムは完成した。
 村人たちと共に、大勢の兵士たちも全て始末されることとなった。千年アイテム完成の真実――それを、外部にいっさい漏らさないためだ。
 三人の魔術師たちとともに、彼はそれらを持ち帰るつもりだった。
 だがその帰途、思わぬ災厄に見舞われた。
 一人、また一人と魔術師たちは倒れていった。神罰――彼は、そう思わずにいられなかった。
 だが、彼だけは生き延びた。ただひとり生き延び、国王に千年アイテムを届けたのだ。
 なぜ自分だけが生き延びたのか、彼には理解できなかった。

 ――もしかしたら、それこそが神の与えた罰であったのかも知れない。

『――よくぞやってくれた……アクナディン』
 砂漠を越え、疲弊しきった彼に、王は玉座を下り、膝を折って語りかけてくれた。
『……我が弟よ…。私はお前を、心から誇りに思う』
 同じ高さで、兄は言ってくれた。

 ――その一言で、全ての罪は洗われた気がした。

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

 ――アクナディンは、千年眼の所持者となった。
 そして国王と、彼を含む六人の神官の千年アイテムの力により、敵軍を殲滅(せんめつ)し、王宮を守ることに成功した。

 国に平穏が訪れた。
 国を守ることができた――それは、彼の誇りだった。
 自らの犯した罪、それは決して、忘れられるものではなかった。だが、この平穏な国を顧みるたびに思った。

 ――これで良かったのだと。
 たとえ神に罰され、地獄へ落とされようとも、自分はこの国のため、兄のために心を賭したという誇りがある。
 闇に落ちようとも、その一点の心の光さえあれば生きてゆける。

 心からそう思った。

 ――だが――

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

 ――彼は、我慢ができなかった。

 しばらくして、息子と妻のもとへ向かった。
 二度と会わぬと決めた、愛する二人。

 会話ができずとも良かった。
 ただ、二人がどうしているか、この目で確かめたかったのだ。
 陰から見守る――それだけで良かった。

 ――しかし家の付近で、彼は、未だ幼いままのセトと遭遇してしまった。
 彼は困惑した。
 懐かしい我が子。
 「セト」と、たまらず彼は呼びかけようとした。だが――
『………!!』
 彼を見たセトは、まるで化け物を見たかのごとく激しく動揺し、恐れた。
 左目に、千年眼を埋め込んでいたためであろうか。
 それとも、彼に内在する罪を、子供心に感じ取ったのであろうか。
 ――セトは、慌てて背を向け、逃げていった。
 とっさに、セトを追おうとした。
 だが、できなかった。

 ――私は化け物などではない…!
 ――お前の父なのだ!!

 …彼にはもう、自身の正体を明かす気力などなかった。

 ――自らが罪人であることを痛感した。

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

 ――それから、何年後のことだったろう。
 国王が……兄が病に倒れた。
 原因は不明だった。
 ただ、神の天罰ではないかと思うと、アクナディンは気が気ではなかった。
 罰するならば私を――そう、何度も祈った。

 ――数日後、彼は兄に呼ばれ、寝室へ向かった。
 兄の身体はひどくやつれ、すでに一人では立つことすらできぬ身体であった。
 彼が赴くと、付き人を全員下がらせた。

『――……本当か?』
『…は?』
 珍しく要領を得ない問いに、彼は思わず眉根を寄せた。
『…なぜ黙っていたのだ…! 千年アイテム……その生成に必要な儀式、その真実を…!!』
『……!!』
 彼は、全てを悟った。
 兄の病――それは、そのことを気に病んでの精神的なものであった。
『……申し訳ありません…。しかし、真実を語れば、アクナムカノン王は必ずや反対なされる……故に――』
『――当然だッ!!』
 弱りきった身体から、精一杯の怒声が絞り出される。
『自分たちのエゴのため、理不尽に他者を犠牲とする――そんなことが!! そんなこと、許されるはずが――ッ! ゴホッ!!』
『…!! お身体に障ります、アクナムカノン王! …全ては、私が犯した罪…。王に非はございませぬ! …何なりと、私に罰をお与えください。極刑も辞さぬ覚悟でございます!』
 彼は床に、頭を擦りつけた。
 この場で極刑を言い渡され、死んでも構わぬと思った。
 ――それでこの苦しみから解放されるなら、兄が元気になるならと――
『……。もうよい……』
 いやにか細い声で、兄は呟いた。
『……下がれ……アクナディン』

 ――数日後、兄は死んだ。

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

 彼は、耐えられなかった。

 ――兄は死んだ…いや、殺されたも同然だ、私に
 ――私が殺したも同然なのだ…!

 なぜ自分は生きているのか、不思議で仕方がなかった。
 兄は、秘められた真実を悔やみ、死んだ。


 ――だが、私は生きている


 ――本当に罪を犯したのは私
 ――だが、私は生きている、兄は死んだ

 ――本当に生きるべきは兄
 ――だが、私は生きている、兄は死んだ

 ――本当に死ぬべきは私
 ――だが、私は生きている、兄は死んだ



 彼は耐えられなかった、この現実に。
 それでも死を恐れ、自害すらできぬ自分自身に。

 彼を支えてくれるものは、何もなかった。

 ――罪は、人の心に「恐れ」を生む
 そして「恐れ」は、人を果てしなき闇に誘う――

 心が、ピシッと音をたてた。
 彼は、自身を襲う「恐れ」に耐えられなかった。


 国王の死の理由――その真実を知る者は誰もいない。
 いや、勘の良い神官は気が付いているかもしれない。
 だが、それを彼に問いただす者はいなかった。


 ――私は…何が欲しかったのだろう?
 多くの人間を手に掛け、罪にまみれ
 一体…何を望んでいたのだろう――


 そして彼は、闇に手を染めた。

 彼の中で――心の砕ける、音がした。


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●



『……そのことが私を……どれだけ追い詰めたか、知っているのか……?』
 どこか哀しげな様子で、闇の大神官は呟く。
「………!?」
 思わぬ唐突な問いかけに、遊戯はただ眉根を寄せる。その問いかけの真意を、遊戯はすぐには理解できない。
 再び流れる沈黙。
 そして再び、闇の大神官は口を開いた。
『……いや…くだらぬことを訊いたな……』
 ひどく弱々しげな口調。
 その様は、先ほどまでの高慢なものとは違い、ひどく淋しげであった。

 ――なぜそんなことを訊いたのか…アクナディン自身にも、分からなかった。
 ――自分が何を望み、目の前の少年に何を期待したのか――

「…………」
 ふと、遊戯が顔を俯かせる。
 しばらく何かを考えて――右の拳を握り締める。
 そしてゆっくり、その腕を上げると――自分のコメカミめがけて、思い切り叩きつける。

「――!? 遊戯!?」

「――……っっ…!!」
 ――つもりだったのだが、途中でやめた。
 拳を振るおうとした瞬間、激痛が走ったのだ。
 あまりの痛みに、思わず涙目になる。気がつけば、背中も、ひどい痛みを訴えていた。
 小さく呻き声をあげ、それに耐える。


 ――そのことが私を…どれだけ追い詰めたか、知っているのか……?


 闇の大神官の問いかけが、頭の中で反芻(はんすう)される。
 その問いはどこか――助けを求める、哀しい悲鳴のようだった。
(……ボクは……)
 右手と背中の痛みだけで――自分の目を覚ますには、十分だった。
(……ボクは馬鹿だ……!!)
 結局のところ――何も分かっちゃいなかった。
 何も分かってないクセに――全てを分かったつもりで、力を振るい、ただ傷つけようとした。
(……ボクは……!!)

 ――ボクには…何ができる?
 ――ボクは一体…何がしたい?

「――…ゴメン…杏子」
「…!」
 遊戯は、自分のポケットからハンカチを取り出した。
「……心配かけて…ゴメン。でも――もう、大丈夫だから……」
「……! 遊戯…?」
 ハンカチを、右手に巻きつける。
 左手と口を使い、器用に縛る。
 ――これ以上、血がカードに付かないように。
「……ゴメンネ……」
 場に残された最後のカード、そして、決闘盤の墓地スペースのカードを見つめた。それらのカードは、数ターン前からの遊戯の行動により、血が滲み、ひどく汚れてしまっている。
 それらを見つめながら、遊戯は心から謝った。
(……でも……!!)
 遊戯は、顔を上げた。
 真っ直ぐな眼差しが、アクナディンをとらえる。
『(……!? 雰囲気が変わった……!?)』
 敵意に満ちた先ほどまでとは、まるで違う雰囲気。闇の大神官は、わずかな動揺を覚えた。
『…無駄だ、小僧…! 今さら何を企もうが――戦況は覆らぬ。儂を殺せる力など、存在しない…』
「…そうかもね」
『…!?』
 遊戯は、口元をかすかに綻ばせた。諦めとは違う、何かを秘めた笑み。
「……でも…、それでも、ボクは――」

 ――ボクは…諦めない
 …絶対に、諦めるわけにはいかなくなったから――

 遊戯は、場の最後の伏せカードに指をかけた。
「――リバースカード・オープン!! 『師弟の絆』!!」

師弟の絆
(罠カード)
自分の魔術師が破壊され、墓地に送られた
ターンのエンドフェイズに発動。
そのカードよりレベルの高い魔術師一体を
墓地から特殊召喚できる。

 声高に、遊戯は宣言する。
 同時に遊戯の場に、一枚のカードが表示された。
「このカードは自分の魔術師が破壊され、墓地に送られたターンのエンドフェイズに発動…! 破壊された魔術師よりもレベルの高い魔術師を蘇生召喚できる!!」
『…!? バカな…、気でも狂ったか、小僧…?』
 闇の大神官の問いかけの意味は、すぐに理解できた。
 発動条件となった、破壊された魔術師――『マジシャンズ・ヴァルキリア』のレベルは4。つまり、遊戯が特殊召喚する魔術師はレベル5以上でなければならない。
 遊戯のデッキに、レベル5以上の魔術師は三体――『ブラック・マジシャン・ガール』、『THE トリッキー』、そして『ブラック・マジシャン』。その三枚は全て、遊戯の墓地にある。だが――
「………!」
 遊戯は自分の墓地から、一枚の石の塊を選び出した。
 ――それは、遊戯のデッキのエースモンスター『ブラック・マジシャン』‘だった’もの。
 『ブラック・マジシャン』だけではない。他の二体の上級魔術師、そして、闇の大神官の攻撃を受けたカードは全て、みな冷たい石の塊と化してしまったのだ。
 石に覆われたそれらは、本来、区別が全く不可能である。遊戯が取り出した石を『ブラック・マジシャン』と判断できたのは、墓地に置かれた順番を覚えていたからだ。
「……! 蘇れ――『ブラック・マジシャン』!!」
 勢いよく、石の塊を決闘盤にセットする。
 ――だが、遊戯の場にソリッドビジョンが現れることはなかった。決闘盤が石の塊を認識できるはずがない。それは当然のことだった。
『……儂が戦闘の際、その対象に与えたるは“死”の呪い…。決して解けることはない。時を操り、その効果を無効化するまでもない…』
「……っ……!」
 険しい表情で、遊戯は決闘盤を見つめた。
(……! ――まだだ!!)
 遊戯は、『ブラック・マジシャン』だった石板に、右手を重ねた。そして、そっと目を閉じる。
『……!?』
「…!? 遊戯…!?」

 ――しばし、沈黙が流れた。
(……ボクは……!!)
 魂を、強く持つ。
(……ボクは……助けてあげたいんだ……!)

 ――それは、身勝手な思い違いかも知れない
 自分なんかに、救えるかどうかは分からない
 ただ…救いたい
 純粋に、そう思えた――




 ――パァァァッ……

『……何……!?』
「……え……?」
 遊戯の全身から、少しずつ、金色の光が漏れ出す。
 かすかなその光は、遊戯の周囲を包んでいく。
 遊戯とアクナディンを覆っていた、“闇のゲーム”による濃い闇の中、その光は幻想的で、ひどく映えるものだった。

(……キレイ……)
 杏子はふと、そんな場違いなことを思ってしまった。
 だが目の前の、少年を包む光には、そう思わせるような雰囲気があった。
 やわらかく、包み込むような――どこかやさしい、温かな光。
(……そっか……)
 杏子は、光の正体が何となく分かった気がした。
 その光は――遊戯自身。
 遊戯のやさしい心、それ自体。
 見ていて思わず、涙が出そうになる。
(……それでこそ、遊戯だよ……)
 ――私のよく知る、大好きな遊戯――


 そんな中、闇の大神官は眼前の現象を冷静に分析した。
『(……これは…バーの輝き……!?)』
 その絶対量に差こそあれ、誰しもに内在する“バー”――それはすなわち魂、心の力。
 三千年前、精霊や魔物を召喚するのに必須とされた力。故に、アクナディンを含む神官たちは、一般人を遥かに凌駕するバーの持ち主であった。
 ――だがそれでも、個人の持つバーが、何の魔術道具も媒介とせず光となり、肉体から漏れ出すなど、見たこともない現象であった。

 ――ビシッ!!

『――!?』
 『ブラック・マジシャン』のカードを覆う石――それに、ヒビの入る音。それは、決して入るはずのないもの。
 それが、目の前の少年の力によるものなのは明白であった。
『(……間違いない……!!)』
 闇の大神官は、戦慄を覚えずにはいられなかった。
 目の前に対峙する少年――それからは、ほとんどの魔力(ヘカ)が感じられない。
 だが、バーは違う。
 バーの絶対量だけならば――その力は恐らく、あの三幻神を操りし最強のファラオさえ上回っているのだと。
「………!!」
 遊戯は、カッと目を見開いた。
 それと同時に、もう一度さけぶ。
「蘇れ――ブラック・マジシャン!!!」

 ――カァァァァァァッ!!!

『―――!!!』
 光が、強く輝き出す。
 それは、目を覆い、視界を閉ざしたくなるような、鋭い光ではなかった。
 むしろ目を離せない、どこか美しい光。
 それは、闇の大神官にとっても同様であった。

 カードを覆う石が、砕け散る。
 遊戯の場に、光の渦が現れた。
 そしてその中からは――颯爽と、一体の、黒い装束の魔術師が姿を現す。
 黒魔術師は杖を構えると、闇の大神官を見据えた。

『……アクナディン様……』

 召喚されたブラック・マジシャンが、その口を開く。
『……!! マ…マハード…!?』
 アクナディンは、動揺を隠せなかった。


 遊戯のLP:400
     場:ブラック・マジシャン(マハード)
    手札:0枚
大神官のLP:0
     場:闇の大神官−時の支配者−
    手札:0枚



第九章・おまえのやさしい手で

『…………』
「……。どうしたの? もうひとりの――じゃなくて、アテム……」
 ――それは、今から三ヶ月前。
 バクラとの闇RPGを終えてから、数日が過ぎた頃のこと。
 千年パズルの中の“彼”に、遊戯は語りかける。
『……! 今までどおりでいいぜ、相棒……』
 “アテム”――ぎこちない遊戯の呼び方に、“彼”は苦笑した。
 ――これは、遊戯がまだ千年パズルを持っていたときのこと。
 ――まだ…“彼”と一緒にいられたときのこと。
『……オレはまだ、お前の中にいる…。呼び慣れた方で構わないぜ。オレも“遊戯”とは呼びづらいしな』
「……!」

 ――“まだ”――

「…うん、そうだね。じゃあそうさせてもらうよ」
 遊戯は、少し無理をして笑顔をつくった。
「……もうひとりのボク…。ボクのことなら、気にしなくていいんだよ……」
『………?』
「…君は、帰るべきところに帰るんだ…。確かに淋しいけど…でも――」
『…あ、いや……』
 “彼”は、もういちど苦笑した。
 自分がこの数日、悩んでいた原因――それは、遊戯の考えるものとは別にあった。
『…そうじゃないんだ、相棒…。オレの記憶……その世界でのことを、ちょっとな…』
「………?」
『……大邪神…ゾーク・ネクロファデスが言っていた。闇を増幅させるもの――それは、人間そのものなのだと……』
 “彼”は険しい表情で、ことばを続けた。
『…人間の心に巣喰う闇…! それこそが、三千年前ゾークを復活させたものの正体…。…そしてそれは、平和なこの時代でも、決して変わることがない……』

 ――怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ、不安、嫌悪、妬み、絶望――

 ――人の負の心には果てがない
 一片の闇すら持たぬ人間など、存在しえない――

『……人の心に闇がある限り、ゾークは決して消えない。…人は常に、闇に呑み込まれる危険性を持っている…。第二、第三のゾークも生まれうるのかも知れない……』
「……! それは…仕方ないんじゃないかな……」
 遊戯は、穏やかに応えた。
「……誰だって……嫌なことがあれば、泣いたり、怒ったりする…。ボクだって――君がいなくなったら、悲しいし…辛い……」
『…! 相棒…』
 ――でもね、と、ことばを続ける。
「……人間は…一人じゃない。だから、がんばれるんだ…。闇に呑まれそうになっても……友達がいれば、仲間がいれば…きっと乗り越えられると思う……」
『……そうだな。だが――』
 訊いても、遊戯を困らせるだけだろう。そう思いながらも、続けてしまう。
『――もし……それでも駄目だったら?』

 ――ひとりで…孤独な人間だったら?
 ――どんなに呼びかけても、届かない人間だったら?

「……! そう…だね……」
 少し考えてから、遊戯は答える。
「…もしそうなら…ボクは、その人を何とかしてあげたい…。助けてあげたい…」
 遊戯は、千年パズルを握り締めると、目を閉じた。
「…覚えてる? もうひとりのボク…。ボクが千年パズルを組み上げるとき、願ったこと……」
『……! ああ…。だがそれは、おまえ自身が、自分の力で叶えたものだぜ……』
「…ううん。たとえそうでも、きっかけをくれたのはもうひとりのボクだよ…。君がいなかったら、ボクは今でも独りだったと思う……」

 ――独りぼっちは淋しくて
 辛くて…不安で…悲しくて――

「……だからもしも…君の言うように、不安や悲しさでいっぱいで、闇に呑み込まれそうな人がいたら――ボクは、力になってあげたい。助けてあげたい。昔、君がボクにしてくれたように……」
『……!』
「……どうしたらいいのかなんて分からないけど…そうしたい。だって――」

 ――ボクは、知っているから
 独りぼっちの辛さを
 暗闇の痛みを
 そして…君がくれた、光の温もりを――

「――だってさ、誰もが笑っていられたら……すごくいいことじゃない。力になってあげたい…そう思うんだ」
『……! 相棒……』
「…なんて…、ボクひとりが思っても、そんなの、どうしようもないかも知れないけどさ」
 少し恥ずかしげに、遊戯は苦笑する。だが、“彼”は真顔で応えた。
『…いや…。そんなことはないさ』
 嬉しげに、“彼”はことばを紡ぐ。
『……何となく、分かった気がするよ……』

 ――この世界を救う方法
 あの時…、ゾークを生み出さぬために、何をするべきだったのか
 これから先…、第二、第三のゾークを生み出さぬために、何が必要なのか――

『……おまえなら……きっとやれるよ』

 ――必要なのは“やさしさ”

 ―― 一人一人のそういった想いが、きっと世界を変える

 ――そういった“やさしい心”が、世界を光で満たしてくれる――

 “彼”はそう確信し、満足げに微笑ってみせた。



●     ●     ●     ●     ●     ●     ●



「……!? ブラック・マジシャンが…喋った……!?」
 蘇ったモンスターを見つめ、遊戯は目を瞬かせる。
 動揺する遊戯に、黒魔術師は振り返り、語りかける。
『…礼を言おう、少年…。私にかかった呪いを解き、再び蘇らせてくれたことを…!』
「え…、あ、うん」
 状況を呑み込めないまま、とりあえず頷く。
 マハード――その名前には聞き覚えがあった。“彼”の時代に存在した、六神官の一人。盗賊・バクラに命を奪われるも、自らの魂を精霊と化し、最後まで“彼”と共に闘った魔術師。恐らくは、現代の『ブラック・マジシャン』の原型となった存在である。
『…マハード…だと…!? 貴様、なぜここに…!?』
 うろたえながら、闇の大神官は問いかける。
『……。我が魂…ファラオと共に在り…』
「……!」
『……!?』
『…少年よ…。私は頼まれたのだ…ファラオに、君のことを』
「…! アテム…が…!?」
 思わぬことばに、わずかに心臓が高鳴る。
『……もし…万一のときは、君を手助けするように、と……』
「……。…そっか…」
(…君には…助けられてばっかりだね…)
 少し淋しげに、しかし嬉しげな笑みをこぼす。
『…ほう…。それは聞き捨てならんな…』
『……!』
 闇の大神官の声とともに、周囲の闇がざわめく。
『……ただの小僧ではない…それは分かっていたが、よもやファラオに所縁(ゆかり)のある人間だったとはな…。これまでの謎も、少しは解けた気がするぞ』
 ブラック・マジシャン――マハードは杖を構えると、表情を険しくした。
『…もうおやめください、アクナディン様…。三千年の時を隔て……我々は自らの肉体を失い、このようなゲームの中でしかその力を振るえぬ存在となった…』
『…クク…、それは貴様のことであろう? マハードよ…。儂は違う。三千年の時を経ても、我が邪念はわずかな衰えも見せぬ……いや、むしろ増したとさえ思えるほどだ……』
『……! もう…おやめください…。私は知っているのです、あなたをそこまで闇に駆り立てるもの……その正体を』
『……!』
『…あなたは…悔いているのでしょう? あなたが千年アイテムを生み出し…、その結果、アクナムカノン王を死なせてしまったことを……。アクナムカノン王の病死……その責めを真に負うべきは、私なのです……』
『…何…?』
 マハードは目を細めた。そして、懺悔(ざんげ)をするように語った。
『……私は千年輪(リング)に宿る邪念を察知し…、千年アイテムが生み出された経緯を知っておりました。そして……私が真実を語ったのです。あの日…私が真実を語らなければアクナムカノン王は……』
 マハードは、悔しげに唇を噛みしめた。闇の大神官は、ただ黙ってその様を見つめた。
『……アクナムカノン王の死は、私に責任があるのです…。呪うならば、私一人を呪って欲しい…。そして、もう――』
『――……違う……』
『…!? え…!?』
 抑揚のない調子で、闇の大神官は呟く。
『(……儂が望んでいるのは……そんなことばではない……)』
 闇の大神官は、両手を構えた。
『……目障りだ…。消えろ、マハード……』

 ――ズォォォォ……!!

 大神官の全身から、闇がにじみ出る。
『……! もはや…聞く耳すら持ちませぬか……』
 マハードは歯を噛むと、杖を構え直す。
『ならば全力で――あなたを倒す!!』
『……倒す…? 儂を…? 貴様ごときがか…?』
 闇の大神官は、両掌に魔力を集中し始めた。
『……それは無理なことだな…。貴様は儂に指一本触れることなく、再び墓地へと舞い戻るのだ……。我が“時の支配”の力によってな……』
『――!!』
 闇の大神官の魔力により、周囲を覆っていた闇がマハードに迫る。
「!! マハード!!」
 遊戯は顔をしかめた。
 ここでマハードがやられれば、遊戯の勝機は完全に失われる。遊戯のデッキに残された、最後のカード――それを発動するためには、どうしても彼の存在が必要なのだ。
『…………』
 マハードは目を閉じ、精神を集中させる。右手の杖を媒介とし、魔力(ヘカ)が放出され――それは、マハードの全身を覆った。
『!? 何!?』
 迫る闇は、大神官がどれほど魔力を注ごうと、遊戯の場のマハードを襲うことがない。マハードの魔力(ヘカ)は闇をはじき、自身の時間退行を許さない。
『……“時の支配”……確かに、恐ろしく強大な力だ。しかし、この力には致命的な欠陥がある……』
『………!?』
 冷静に語るマハード。
『……この力は本来、大邪神のごとき圧倒的な魂(バー)と魔力(ヘカ)をもって、初めて真価を発揮する……。あなたと同等か、それ以上の魂(バー)と魔力(ヘカ)をもってすれば、それを排することも不可能ではない……』
『な……にィィ……!?』
『(……この儂の力が……マハードに劣っているだと……!?)』
 確かに――かつて千年アイテムを所持した神官団の中でも、マハードの魔力(ヘカ)は特に秀でたものであった。
 だが、魂(バー)は違う。魂(バー)の強さに関しては、マハードは神官団でも平均程度のものだった。大邪神の力の一部を継承し、闇の大神官と化した自分ならば、その魂(バー)は悠に凌駕しているはず。総合的に判断すれば、大神官の力がマハードに及ばぬ道理などどこにもなかった。
『(……そもそも……一介の精霊(カー)と化したヤツに、それほどの魂(バー)を保有できるはずは――)』
 そのとき、マハードが再び、遊戯の方を振り返る。それを見て、大神官ははっとした。
『(…!! まさか…あの小僧の力か…!!?)』
 精霊(カー)は本来、その主の魂(バー)により召喚され、主の魂(バー)により力を行使する存在。大神官は悔しげに歯を噛んだ。
『(……あの小僧の魂(バー)は……闇の大神官と化した、この儂をも上回っているというのか……!!)』
 大神官の脳裏に先ほどの、マハードが復活したときのことがよぎる。
 大神官の与えた“死の呪い”を、自身の魂(バー)のみで解放した――それは紛れもなく、遊戯の魂(バー)が大神官のそれを凌駕したということ。

 振り返るマハードに、遊戯は真剣な表情で応えた。
「…お願いだ、マハード…! ボクに、力をかして…!」
『……!! ああ!!』
 頷き、マハードは再び大神官を見据える。
『……忌々しいッ……!! ならば次のターン――儂が直接手を下し、二度と蘇らぬよう、永遠の闇へと葬ってくれるわ!!』
 左目の千年眼が、ギラリと鋭く輝く。

「――ボクのターン!!」
 遊戯は声高に宣言する――恐らくは自分の最後のターンを。
(……これが…最後のカード……!!)
 デッキに残された、最後の一枚。その正体も分かっている。
 ――迷う必要はない。ただ、引けばいい。
「――ドロー!!」
 最後の一枚を抜き放つ。
 視界に入れるまでもなく、正体の定かなそれを、遊戯はすぐに場に出した。
「リバースカードを一枚セットし、ターン終了だよ!」
 マハードの右隣に一枚、裏側表示のカードが現れる。
『……無駄なことを…! 儂のターン!!』
 大神官はすぐさま、その両手を構えた。
『……儂の力の前では……いかなる魔法・罠も無意味! 貴様の莫大な魂(バー)をもってしても、我が“時の支配”の力からは、マハード一人を守るのが精一杯のはず…! この一撃でマハードを殺し――今度こそ終わりだッ!!』
 両手の先が、激しく放電し、火花を散らす。
 そしてそれを、全力で放出した。
『――絶命の稲妻ッ!!!』

 ――バジジジジジィィィッッ!!!

 凄まじい音とともに、稲妻がマハードを襲う。いかにマハードといえど、まともに食らえばひとたまりもない。
 だが、遊戯には勝算があった。『師弟の絆』による『ブラック・マジシャン』の蘇生――それこそが、遊戯にとって最大の綱渡りだったのだ。
 それを渡りきれた今、遊戯には、自身の勝利が確信できていた。
(…いくよ…! マハード!!)
「――リバースカードオープン!! 『フォビドゥン・マジック』!!」

 ――カッ!!!

 マハードを中心に、地面に光の魔法陣が描き出される。
 前面に構えられた杖の先に、みるみる魔力が集中していった。

 ――ビシィッ!!

 突如、闇の大神官、その仮面に亀裂が走る。
『!?? 何だ――この力は!?』
 魔法陣は輝き、フィールド全体を照らし出した。
「このカードで――全ての闇を打ち払う!!」


 遊戯のLP:400
     場:ブラック・マジシャン(マハード),フォビドゥン・マジック
    手札:0枚
大神官のLP:0
     場:闇の大神官−時の支配者−
    手札:0枚



第十章・妄執の闇

 ――三千年の昔。
 遥かエジプトの地に、ひとつの王国があった。

 王国は滅亡の危機に瀕していた。
 そして、それを救う方法が――ひとつだけあった。


『……。アクナディン様……』
 王国の魔術師の一人が、私に問いかけた。
『……本当に…よろしいのですか…?』
『……。…ああ…』
 険しい表情で、私は頷いた。
『…これで良い…。これで良いのだ…』
 ――それは、クル・エルナ村へ旅立つ前夜のこと。
 私は王宮の一室で、ともに「千年魔術書」を解読した魔術師の一人と会話をしていた。
『……せめて…アクナムカノン王だけには真実を――』
『――それはならん!』
 私は、即座に叫んだ。
『…責任は全て、私がもつ…! これは私の独断! 他者を蹂躙してでも叶えようとする、あさましき欲望なのだ…!』
『……。アクナディン様はこの国を…、兄上を、心より愛しておられるのですね…』
 魔術師が、小さく微笑む。その魔術師は、先代より仕えている高名な賢者で、私とアクナムカノン王の関係を知っていた。
『……。お前たちには…本当にすまないと思っている…』
 組んでいた両手に、力をこめる。
『…だが必要なのだ…。国を守るには、こうした汚れた行いも…! それを行うには、兄は優しすぎる……』
『――いえ』
 魔術師は席を立つと、その場にひざまづいた。
『…本当にお優しいのは、アクナディン様でございます…。自ら汚れ役を買ってでも、お国を守ろうとする強い想い……敬服いたします。微力ながら…喜んであなたの力となりましょう』
『……! ありがとう…』

 ――そして、魔術師たちの協力のもと、千年アイテムは創り出された。
 だがその後――魔術師たちは不遇の災厄に見舞われ、みな命を落とした。

 私一人が、千年アイテムを届けることになった。

 正真正銘――私一人の責任となった。

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

 私は千年眼の所持者となった。
 そして国王と、私を含む六人の神官の千年アイテムの力により、敵軍を殲滅し、王宮を守ることに成功した。

 国に平穏が訪れた。
 国を守ることができた――それは、私の誇りだった。
 自らの犯した罪、それは決して、忘れられるものではなかった。だが、この平穏な国を顧みるたびに思った。

 ――これで良かったのだと。

 自らに、そう言い聞かせた。

 ――だが――


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


 ――私は、我慢ができなかった。

 しばらくして、息子と妻のもとへ向かった。
 二度と会わぬと決めた、愛する二人。

 会話ができずとも良かった。
 ただ、二人がどうしているか、この目で確かめたかったのだ。
 陰から見守る――それだけで良かった。

 ――しかし家の付近で、私はセトと遭遇してしまった。
 私は困惑した。
 懐かしい我が子。
 呼びかけていいものか、私は迷った。だが――



『……父上……?』
 セトの瞳が、私を見上げた。
『…セト…!』

 ――私が…分かるのか?

 ――千年眼をはめ、恐ろしい形相と化し、許されぬ大罪を犯した私が…分かるのか…?

『……父上……!』
 胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。
 私は膝をつき、正面からセトを抱きしめた。
 セト、セト、と、涙を流し、何度も何度も呼びかけた。

●     ●     ●     ●     ●     ●     ●

 ――それから、何年後のことだったろう。
 私は兄に呼ばれ、寝室へ向かった。
 兄の身体は、病によりやつれていた。
 私が赴くと、付き人を全員下がらせた。

『――……本当か?』
『…は?』
 珍しく要領を得ない問いに、私は思わず眉根を寄せた。
『…なぜ黙っていたのだ…。千年アイテム……その生成に必要な儀式、その真実を…!!』
『……!!』
 私は、全てを悟った。
 兄の病――それは、そのことを気に病んでの精神的なものであった。
『……申し訳ありません…。しかし、真実を語れば、アクナムカノン王は必ずや反対なされる……故に――』



『…………』
 兄は応えなかった。
 私はただ頭を下げ、怯えながら兄のことばを待った。
『……すまなかったな……』
『――!?』
 思わぬ応えに、私は思わず顔を上げた。
『…私は…真実を知らなかった。お前はたった一人で…罪の意識と闘い、私を、この国を支えてくれたのだな…』
『……! アクナムカノン王…!』
 堪えられず、右目から涙が零れ落ちる。
『…アクナディン…我が弟よ…。“我々”は、許されざる罪を犯した…。故に、“我々”は償わねばならぬのだ……』
『……!! はっ!!』
 私は膝を折り、その場に土下座した。
『…クル・エルナ村に慰霊碑を建てよう…。もしかしたら、生き残った者もおるやも知れぬ…すぐに調査をせねば。…贖罪となるかは分からぬ……だが、精一杯の償いをせねばならぬ。たとえ…それでも許されなくとも、な……』
 王は寝床を降りると、膝をつき、私に言った。
『……最後に…、本来ならば、決して言ってはならぬことばであろうが……』
 いまだ頭を下げる私に、兄はその右手を差し出してくれた。

『……ありがとう…アクナディン……』

 ――そして…本当に、すまなかった――

『――……兄…者……!!』
 涙で、視界が霞む。
 差し伸べられたその手を、握り締めようと手を伸ばす。だが――




 ――伸ばした手が、空を掴む。

 気がつけば、周りは闇。
 王の寝室などではなかった。


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


 ――これが、私の望んだもの。
 ――私が願った、欺瞞(ぎまん)に満ちた幻想。
 ――何度も夢見た、偽りの世界。

 私は――本当に孤独だった。

 誰でも良い…私の苦しみを理解し、その上で言ってほしかったのだ――“あのことば”を。

 だが、現実は違う。
 誰も真実は知らない。
 真実を知れば――私は糾弾される。それが恐かった。

 夢の中で、周囲の人間に、何度も自害を強要された。
 それでも自分が生きていて、それをまた、糾弾される自分がいた。

 なぜ死ねぬのか――分からなかった。
 私にとって、生こそが地獄に他ならぬ。
 死ねば楽になれる――それでも、どうしても死ねなかった。

 ――決して満たされぬ未練を、断ち切れなかった。


 ――故に私は落ちたのだろう、闇の世界へ。
 それこそが、私が生き永らえた理由にすら感じられた。

 ――私は、愛されたかったのだ

 ――誰かに愛され、そして、許してほしかったのだ

 ――そして、言って欲しかったのだ…“あのことば”を――



●     ●     ●     ●     ●     ●     ●




 ――カァァァァァァッ!!!

『…何だ…!? 何が起きている…!?』
 闇の大神官は、眼前で起きている現象に大きく動揺した。
 眼前の魔術師――マハードは、地に現れた魔法陣を中心に、何やら呪文を唱えている。
 そして、その手の杖の先には――考えられないほど強大な魔力が集まりつつあった。
 しかも、ただマハードの魔力を集中しているわけではない。
 闇の大神官の放った稲妻――“絶命の稲妻”は、その魔力にかき消されるわけでもなく、その杖に“吸収”されていったのだ。それだけではない。周囲を覆う、“闇のゲーム”による特別な“闇”までもが吸われていく。

 ――ビシィィッ!!

『―――!!』
 闇の大神官の仮面に、再び大きな亀裂が走る。大神官は、マハードの使う魔法の意味をようやく理解した。
『(……魔力(ヘカ)を――吸い出されている!?)』
 自身の身体からも、みるみる魔力が失われていくのが分かった。このままでは、全ての魔力を吸い尽くされてしまう。
『――チィィィィッ!!!』
 大神官はもういちど、両手を構えた。
『…ならば時を巻き戻し――その魔術、無効としてくれるわッ!!』

 ――ズォォォォッ…!!

 両手の先に、“逆刻”の闇を集中させる。だが――

 ――シュゥゥゥゥゥ……

『……!! バカなッ…!?』
 その闇までもが、すぐさま吸収され、消え失せる。

「……無駄だよ……」
 その様を見つめ、遊戯が語りかける。
「……これこそが――『ディメンション・マジック』に次ぐ、上級マジシャン奥義のひとつ…『フォビドゥン・マジック』!!」
『……!? “フォビドゥン”……だと…!?』


フォビドゥン・マジック
(魔法カード)
自分フィールド上のレベル6以上の魔術師1体を
選択して発動。選択したモンスターはこのターン、
攻撃することができない。発動ターン、選択した
モンスターが場に存在する限り、このカードを除く
フィールド・墓地・手札の全てのカードの効果は
禁じられる。このカードへのカウンタースペルも
無力と化す。


「…このカードは発動ターン、全てのカードの特殊能力を“禁じる”…! カウンタースペルも含めてね。よって――“時の支配”の力では無効化されない!」
『…グ…オ…オノ――』

 ――シュゥゥゥ……

『―――!?』
 闇の大神官の身体から、煙が上がった。
『(……私は…消えるのか……!?)』
 全身から、全ての力を奪われるのが分かった。
 地面をのたうち回り、その苦痛に耐える。
『……グハァ…ッ……!! オオオ……っ…!?』
 だが不意に、力を吸われてゆく――その感覚が消えた。
『(……!? 消えては…いない……?)』
 確かめるように、自らの両手を見下げる。
 だが、違和感があった。左目の辺りへ手を伸ばす。そして気づく。
 そこに、左の眼球の代わりに埋め込まれているはずの千年眼が消えていることに。そして、着けているべき白い仮面までも消失していることに。
『…!! これ…は…!!』
 闇の大神官――いや、アクナディンは気がついた。『フォビドゥン・マジック』により、全ての闇を吸い尽くされた自分は、“闇の契約”を果たす直前の、普通の人間の姿に戻っていたのだ。
 周囲を見回すと、闇のゲームによる闇は、完全に消え失せてしまっている。辺りを覆うのは、夜という時間による、自然の闇だけだ。

「――遊戯っ!!」
 杏子が遊戯に駆け寄る。“闇”が消えたことで、普通に近寄ることが可能になったのである。
「大丈夫、遊戯!? 右手と背中の怪我は!?」
「すごく痛い」
 遊戯は涙目で即答した。
「…! もう…そこはやせ我慢するところでしょ? ちょっとは我慢しなさい、男の子なんだから」
 場をなごませる冗談と受け取ったのか、苦笑しつつ、安堵のため息を吐く杏子。
「……いや、ホントに痛いんだけど……;」
 右手の怪我にいたっては、出血はとうに止まっているが、痛みで感覚が麻痺してきていた。

『…くく…もう、勝ったつもりか…?』
「………!」
 人間の姿に戻り、闇の力を失ったアクナディンが、それでも邪悪な笑みを浮かべる。
『……儂の魔力を奪い…人間の姿へ戻した。そこまでは誉めてやろう。だが、詰めが甘いな……忘れたか? 今の儂は神……神への魔法効果は、1ターンしか持続しない。次のターンになれば、儂は力を取り戻す。そして、今は儂のターン……マハードは攻撃を仕掛けられない……』
「……。…甘いのはそっちだよ…」
『……!?』
 遊戯の前に立つマハードが、右手の、魔力を吸収した杖を下げ、左手を構える。
「…もともと『フォビドゥン・マジック』の使用ターン、その魔術師は攻撃できない…。でも――反撃なら、話は別だ…」
 掌を開き、それをアクナディンへ向ける。
「…あなたの攻撃宣言に合わせて、ボクは『フォビドゥン・マジック』を使った…。つまり、『ブラック・マジシャン』は反撃が可能。そして…特殊能力を封じられた今、あなたは攻撃力・守備力ともに0の通常モンスターも同然……」
『…………』
 マハードの掌に、魔力が集中する。今、無力と化したアクナディンに攻撃すれば、ひとたまりもなかった。
『……!! …ヒ…!!』
 アクナディンの表情が、恐怖に染まる。今、二人の力の優劣関係は完全に逆転していた。
『(……私の負け…? 私は…消えるのか……!?)』


 ――駄目だ…消えるわけにはいかない…!
 ――私はまだ、“あのことば”を聞いてはいない…!!



「……! 待って! ブラック・マジシャン!!」
 不意に、遊戯が叫ぶ。
「……? 遊戯?」
 遊戯は、アクナディンに顔を向けた。
「……あの…、降参(サレンダー)……してもらえませんか?」
『…何…!?』
 遊戯は、真剣な表情で続けた。
「……ボクには……あなたが、本当に悪い人には思えないんです……」
『………!』
「…遊戯…?!」
 杏子は、目をしばたかせた。
「――何言ってるのよ、遊戯…! 忘れたの!? “闇の大神官”って言ったら……クル・エルナ村の人たちを殺して、大邪神ゾークを復活させたっていう……! それに、神里さんを…!!」
「……!! …分かってるよ…」
 遊戯が、痛ましげな表情を浮かべる。
「……でも――それには、この人なりの理由があった…! この人は王国を守りたくて……それで罪を犯した……。その罪悪感に耐えられなくて、闇に手を染めてしまった…。…それに、この時代でのことだって……」
 遊戯は再び、アクナディンに視線を送る。
『……! つくづく…何でも知っているな。…小僧、お前は理解したようだな…』
 遊戯は静かに、哀しげに頷いた。
「……自分の過去の…千年アイテムを創ったときの、再現……」
『………。そのとおりだ…。他者の命を犠牲としてでも、自分にとって近しい存在を救おうとする…。その様はまさに、かつての醜い私そのもの…。…儂は、仲間が欲しかったのかも知れぬ……自分と同じ罪を犯す者が……』
 遊戯は、自分の場のカード――『フォビドゥン・マジック』に目を移した。
「……『フォビドゥン・マジック』は、全てのカードの魔力を奪う…。もしかしたらこのカードで、あなたを覆う闇の力を払えるかと思って……」
 真剣なまなざしで、遊戯はことばを紡ぐ。
「……あなたも…神里さんも――ボクは、悪くないと思う……」
『………!』
「……二人とも……自分が守りたいもののために闘った……それだけなんだ…! 悪いのは――人じゃない。上手く言えないけど…他人を犠牲にできてしまうような“闇の力”、そんな力の方だと思うんだ。だから……」
「……! 遊戯…」
『…………』
 マハードは、かざしていた左手を下げた。
『……。やさしいな…君は……』
 アクナディンは静かに、口元を綻ばせた。
 右手を、決闘盤のデッキに伸ばす。


『……だが――甘いな』


「――え?」
 アクナディンの右手が、デッキに当てられる。
 自ら敗北を認める、サレンダーの合図。
 その瞬間、闇のゲームは終了し――マハードを囲う魔法陣がかき消えた。

 ――ズドォォォォォッ!!!

『―――!?』
 そして同時に、マハードの杖から、吸収していた大量の“闇”が噴き出した。
『……馬鹿な小僧だ…。…クク……』
 飛び出した闇は全て、眼前のアクナディンへと戻されてゆく。
 闇の魔力を取り戻し、アクナディンはみるみるうちにその姿を変容させていった。
 ――左目には千年眼、そして、白い仮面が再び現れる。
「………!!」
 アクナディンは再び――“闇の大神官”へと、その姿を戻していた。



第十一章・光あれ

「……なっ……!?」
 思わぬ状況変化に、遊戯の全身が凍りつく。
『…油断したな…マハード。貴様はひとつ、重大な点を見落とした。貴様はすでに“精霊”ではない。闇のゲームが終われば、無力な存在に過ぎぬ……このような強大な魔術を維持することは不可能なのだよ』
『…くっ…!』
 闇の大神官のことばに、マハードは顔をしかめた。
『……さっさとトドメを刺すべきだったな…。邪魔だ、消えろマハード……』
『―――!』
 闇の大神官が左手を振りかざす。
 同時に、マハード――『ブラック・マジシャン』の立体映像は、いとも簡単に、一瞬にしてかき消えた。
『……さて……頼みのマハードも、もういない……。覚悟はできたか? 小僧……』
 今度は、右手をかざす。
 するとそこから、闇が噴き出し、それは大鎌を形成した。
『……覚えておくことだ、小僧…。貴様のその甘さが、命取りとなることを……』
「………!!」
 予想だにしなかった展開に、遊戯は絶句する。
「…ちょっ…何よ! 遊戯が勝ったじゃない! こんなの卑怯じゃ――」
『…………』
 杏子のことばを無視し、大鎌を振り上げた大神官が、勢いよく飛び込んでくる。
「―――! 杏子っ!!」
 遊戯は咄嗟に、杏子を横に突き飛ばした。
「――!? 遊戯!?」
 大神官の狙いは、明らかに遊戯だった。
 とつぜん突き飛ばされ、体勢を崩された杏子に、遊戯をかばうことはできなかった。
『――ハァァァァッ!!』
「――っ!!」

 ――シュバァァッ!!

 ――風を、鋭く斬る音。
 ――今度こそ、本当にやられたかと思った。

「………!?」
 ――だが、大鎌は止められていた。
 その刃は、遊戯の首もとで寸止めされ、遊戯の身体を傷つけることはなかった。

『……。よく…覚えておくことだ、少年……』
 大鎌を下げると、大神官はその白い仮面に手を伸ばす。
『……人を許せるということは……とても尊いことだ。だが――それだけでは、世界は変わらぬ……』
 仮面をはずす。その下から――アクナディンの、人間としての顔が現れる。だがそれは、先ほどまでのものとは異なり、闇の干渉により、化け物のごとく醜く歪んでしまっている。
『……“やさしさ”だけでは足りぬ…。時には、罪人を罰する“厳しさ”が必要なのだ…。…仮に、人間に罪がなくとも――罪を犯すのは人間なのだから、な……』
 残された右目は白目を剥いており、見る者にすべからく、異形の印象を与える。
 そのいかめしい、ほとんど変化の起こらない表情からは、アクナディンの感情は読み取れなかった。
「…あ…ありがとう……」
 遊戯の口から不意に、そんなことばが漏れる。
『…クク…、つくづく可笑しな小僧だ。儂は闇の存在……闇の者にとって、“闇のゲーム”は絶対の掟…。儂は負けた……掟に従うだけだ……』

 ――カランッ……

 放り捨てられた大鎌が、無機質な音をたてる。
 そしてそれは、闇に溶けて消え失せた。
「――遊戯っ!」
 杏子が駆け寄ると、アクナディンが数歩分下がっていく。
「大丈夫?」
「あ…、うん。流石にちょっと…;」
 気の抜けた遊戯は、思わずよろけ、その場にぺたんと尻餅をついた。
「………。あ、あの……」
 少し考えてから、ためらいがちに、遊戯はもういちど言った。
「その…、ありがとう」
『……!? 言っただろう? これは闇の掟…。礼など言われる筋合いはない……』
「あ…、いや、そうじゃなくて…。本当は――こんなこと言っちゃいけないんだろうけど……」
 言いづらそうに、しかし遊戯はことばを続けた。
「……千年アイテムを創ってくれて……ありがとう……」
『………!?』
「…ゆ、遊戯…?!」
 遊戯の隣で、杏子が驚きの表情を浮かべる。
「…分かってる…。千年アイテムは、沢山の人を犠牲にして創られた。だから…こんなこと、決して言っちゃいけないのは分かってるんだけど……」
『…………』
 アクナディンの頭の中が、真っ白になった。
「……もしもあなたが、千年アイテムを創らなかったら……攻めてきた敵の国に王国は滅ぼされて、もしかしたら“彼”は――アテムは、そのとき殺されていたのかも知れない……」
「……! 遊戯……」
「…分かってる…。だからって……それでクル・エルナの人たちを犠牲にする理由になんてならないことは。本当は…絶対言っちゃいけないことばなんだろうけど…それでも……」
『………!!』
 ――少年の顔が、兄の顔にだぶって見えた。


『……ありがとう…アクナディン……』



 ――それは、最後まで聴けなかったことば
 夢の中で、何度も何度も聴いた、偽りのことば――

 ――あの日…兄は私に、何も与えてはくれなかった
 ――許しのことばも
 ――贖罪の罰も


『(……私は……)』

 ――私は認めて欲しかった……兄に
 罪であると分かっていても、どんな形であろうとも、私のしたことを、それでも認めて欲しかった――

『…………』
 アクナディンは無言で、再び仮面で顔を隠す。
『……褒美だ…小僧。決して倒せぬはずの、儂に勝利した――な』

 ――カァァァッ…!

 かざした片腕が光り出す。同時に、二人の決闘盤が――正確には、決闘盤の墓地のスペースが光り出した。
「……エ……」
 遊戯は、そこに目をやった。
 石と化したカードが――みな、元のカードへと戻っていく。
『……全てのカードの“時間”を戻した……。石の呪いも…すべて解けたはずだ。小娘のものも含めて、な……』
 アクナディンは腕から、絵空の決闘盤をはずし、地面に置いた。
 遊戯は慌てて、自分の墓地の全てのカードを取り出した。
 『ブラック・マジシャン・ガール』や『光の護封剣』――石となっていた全てのカードが、もとの色鮮やかなカードに戻っていた。
 それだけではない。遊戯の血で汚れてしまったはずのカードも、みな、元の綺麗なままのカードに戻っている。
 アクナディンの足元に散乱した4枚のカード――“闇の大神官”召喚の際に両断された、絵空の4枚のカードも、綺麗に復元されていた。
「――…!! あ…ありが――」
 顔を上げ、アクナディンに礼を言おうとする。だが、その顔を見て、遊戯は固まった。
『…………』
「……!? ……アクナ…ディン……?」
 つけていた仮面が、地に落ち、乾いた音を立てる。
 アクナディンは――泣いていた。
 いかつく歪んだその顔の、唯一残された右目から、とりとめのない涙が流れていた。
『……私の方こそ……ありがとう』


 ――“ありがとう”と言ってくれて、ありがとう――



 ――私はただ、聴きたかったのだけなのかも知れない……そのことばを
 願いを叶えたところで…そのことばを口にする者など、誰一人としていなかった
 救われた者は救った者に、ただの一言もそれを口にしなかった――


『……少年よ……』
 アクナディンの姿は、いつの間にか消えていた。


 ――本当に…ありがとう――


 …どこからか、そう聴こえた気がした。




「…………」
「……遊戯の…言うとおりだったかもね……」
 杏子は、遊戯の隣にしゃがみ込むと、目を細めて言った。
「……本当に…ただ悪い人間なら、千年アイテムを創ったりしなかったかも…。悪い人間じゃなかったから……だからこそ、創ってしまったのかも知れないね……」
「……杏子……」
 アクナディンが消えた辺りを見つめながら、遊戯が訊く。
「……あの人の魂は……アテムたちと同じところに還れたのかな…?」
「……うん。きっと……遊戯のおかげで、ね」
 杏子は、遊戯に笑んでみせた。
 それを見て、遊戯も少し嬉しげに笑んだ。
「……でも――」
 だがすぐに、神妙な、悲しげな表情になる。
「――それでも……守れなかった人もいる……」
「……!」
 遊戯の視線は、地面の上に残された、絵空の決闘盤に向けられていた。
「…………」
「…遊戯…」




『(――…遊戯さん……)』



「――…!」
「…! この声…」

 暗闇の中に、光がさす。
 その中には――消えたはずの、絵空の姿があった。



第十二章・永き夜の終わりに

「……神里…さん……?」
 遊戯は、自分の目を疑った。消えてしまったはずの絵空が――今、自分の目の前に立っていた。
『(……幻では…ありませんよ?)』
 眼を丸くして驚く二人を前に、絵空は可笑しげに笑んでみせた。
「……! 良かった…神里さん……」
 杏子は立ち上がると、絵空の肩に手を伸ばす。しかし――その手は何も掴むことなく、空をきった。
『(…お二人にお会いしていたときは、“あのカード”の力で実体化していました…。元々、私は“彼女”の中に存在する魂だけの存在。今は実体がないのです)』
 少し申し訳なさげに、絵空は説明する。
 よく見ると、絵空の身体はうっすらと透き通っている。その様は見る者に、どこか儚い、ふとしたことで消えてしまいそうな不安な印象を与える。
「でも…アクナディンは、もう神里さんは助からないって言ってたのに…どうして…?」
 遊戯はふらつきながら立ち上がり、不思議そうに問いかけた。
『(…私にも…正確なことは判りません。ただ…何となく、ですけれど…。多分、遊戯さんのおかげだと思います…)』
「……? ボク…の…?」
『(……あの人…アクナディンという人は、ただ救いを求めていたのだと思います。あなたのおかげで…彼は救われた。だから私も――なんて、根拠のない憶測ですけれど)』
 困ったように、絵空は苦笑してみせる。
「…ううん。私も…そんな気がするよ」
 杏子も、笑顔で遊戯を振り返った。
「……そんな…ボクは何も……」
 二人に褒められ、素直に照れる遊戯。
「……でも…良かった。これで神里さんは…もうひとりの神里さんのところに帰れるんだよね?」
『(……。いいえ)』
 絵空は、力なく首を横に振った。
『(……私は――このまま消えようと思います)』
「……え?」
 遊戯の笑顔が、不自然にゆがむ。
『(……聴こえていたんです……アクナディンという人のことば。私が“彼女”の中にいたから――“彼女”は、傷ついていた。私がいなくなれば、“彼女”は助かるんです……)』
「……!!」
「……神里さん……」
 遊戯と杏子は、顔を俯かせた。確かに――アクナディンはそう言っていた。確証はないが、恐らくは事実なのであろう。
「……で…でもさ! 何も消えることなんてないじゃない! 今のままでも……身体に戻らなくても、もうひとりの神里さんと話したりできそうだし……」
 絵空は再び、首を横に振る。
『(……私は元々、魂だけの存在…。けれど、“彼女”という器の中にいることで存在していられたんです。だから、このままでいれば、じきに私は消えます…。“彼女”のためにも…それが最良の選択なんです……)』
「……そん…な……!?」
 遊戯の顔が、青ざめ、絶望に染まる。
『(……そんな顔を…しないでください)』
 それでも絵空は、綺麗に笑んでみせた。
『(あなたたちと…“彼女”と出会えて、私は幸せでした。短くても……私には、幸せな思い出がある。だから――辛いことはありません。…でも、お二人にひとつだけ、お願いさせてください……)』
 遊戯と杏子を交互に見ると、絵空は頭を下げた。
『(…“彼女”…“もうひとりの私”は今、童実野病院にいます…。私と同じ外見・名前なので、すぐに分かると思います。“彼女”と…お友達になっていただけませんか?)』
「…………」
「……! …うん、きっと…」
 ショックで俯いたままの遊戯。それを気遣いながら、杏子はためらいがちに返答した。
『(…良かった…。素直で…本当にいい娘なんです。だから――“彼女”のこと、よろしくお願いします……)』
 満足げに笑むと、絵空は、どこか遠い目をしてみせる。
「……! ま…待って! せめて最後に、もうひとりの神里さんにお別れを……」
『(……いえ)』
 杏子のことばに、絵空は静かに応える。
『(……会うと……別れが辛くなりますから……)』
 途端に、悲しげな表情になる。
 絵空が、どれだけ“もうひとりの自分”を好いているのかよく分かった。


「――…嫌だ……」


 ポツリと、遊戯が呟く。
『(……遊戯さん……?)』
「……遊戯……」
 遊戯は、俯かせていた顔を上げた。
「……このままお別れなんて…そんなの、悲しすぎるよ……!!」
 涙声で、遊戯はそう訴えた。



終章・死ぬには惜しい日

「――それじゃあ、お母さんもう行くけど……本当に大丈夫?」
 ――翌朝、童実野病院にて。
 絵空の母、美咲は、ドアノブを握りながら絵空に訊き直した。
「……今日のあなた……本当に顔色よくないわよ?」
「へ…、平気だよ。ちょっと寝不足なだけ。夜更かししちゃったから」
 ベッドの上の絵空は、無理をして笑顔をつくった。
「ホラ、お仕事遅れちゃうよ? 行ってらっしゃい、お母さん」
「…ならいいけど…。一応、先生に言っていくわね? 寝不足ならちゃんと寝るのよ?」
「…もう、心配性なんだから。ホラ、行ってらっしゃい」
「……。行ってきます」
 名残惜しげに、美咲は病室を出て行った。
 それを目で確認してから、絵空はため息をひとつ吐いた。
 ぼんやりと外をながめ、呟く。
「……帰って…こなかった……」

 ――今朝には帰ると言っていた
 だから、ちょっと遅れているだけかも知れない
 でも――

 絵空は、直感的に理解できていた。
(……“彼女”は…もう……)

 ――“もうひとりのわたし”は…もう、帰ってこない……

 何となく、分かっていた。
 自分の身体の異常…その原因が、“彼女”にあるかも知れないことは。

 ――“彼女”は、それを知ってしまったのかも知れない
 それを知って……わたしのために、帰ってこないのかも知れない――

 ――なぜなら、“彼女”はわたしだから
 わたしは誰より“彼女”が好きで
 “彼女”もきっと、わたしを誰より好きだから――

(……死んじゃおうかな……)
 外をぼんやり眺めながら、そんなことを思う。
 “彼女”のいなくなった今、自分の身体はもしかしたら治るのかも知れない。
 でも――“彼女”のいない人生など、もはや考えられない。
 “彼女”を失ってまで、生きたかったわけじゃない。

 ――なぜなら、“彼女”はわたしなのだから
 わたしにとって“彼女”は、かけがえのない、何より大切な存在なのだから――



 ――コン…コン

「………!」
 不意に、ドアをノックする音がする。
(……誰だろう……)
 返事をするのも忘れ、疑問に思う。
 何度も聴いたノックの音――しかし、聴いたことのないノックの感じ。担当の先生や看護師、母ともまた別の音。

 ――コン…コン

「あ…、は、はい」
 二度目のノック音に、慌てて返事をした。
「――エート…、失礼しま〜す」
 聞き覚えのない、男の子の声。絵空は首をかしげて、遠慮がちに開くドアに注目した。
 ――入ってきたのは、背の低い男の子と、背の高い女の子。二人とも学生服を着ていた。絵空の記憶が正しければ、それはこの街の童実野高校の制服であった。
「……どちらさま…ですか?」
 キョトンとして、問いかける。見覚えのない二人――いや、男の子の方はどこかで見た気がする。
「こんにちは」
 女の子のほうが、少し大人びた挨拶をする。
「えーっと…はじめまして。ボクたち……」
「――あーーーーーっ!!!」
 と、唐突に、絵空が素っ頓狂な大声をあげる。
 それは病室には不似合いなもので、とても入院生活の長い人間のものとは思えない。だが、絵空はそんなことも忘れるほど興奮していた。
「……ゆ…、遊戯…さん…!??」
 ――インターネット上やカード雑誌で、何度か見たことのある顔。
 思わぬ人物の来訪に、絵空の脳内は一瞬で混沌と化す。
「……! あ…」
 思わず指差していた右手を、恥ずかしげに慌てて引っ込める。
「――あ…、あの…っ…」
 ――どうしよう。
 ――憧れの有名人を前に…適当なことばが見つからない。
「…あ…その……」
 顔が真っ赤になる。遊戯が、不思議そうにこちらを見ている。

 ――知人の見舞いに来て、病室を間違えたのだろうか?

 いや、そんなことはどうでもいい。
 それよりも…病室を出ていってしまう前に、何かひとこと、話をしてみたかった。
「……そっ…その……」
 ――頭が真っ白になる。
 絵空は、トンチンカンなことを口走った。
「きょ…、今日は、いいお天気ですね……」
 ――薄いカーテン越しに、柔らかな光がさす。
 今日は本当に、春のような暖かい日和であった。



「…え? ま、間違いじゃないんですか?;」
 高鳴る鼓動を抑えながら、ごまかすように問いかける。
「あ…、うん。届けたいものがあって…。これ……」
 遊戯はカバンを開くと、決闘盤をひとつ取り出した。
「………!」
 それを見て、絵空の熱が冷める。
 それは、自分が母に買ってもらった決闘盤。昨夜、“彼女”に貸したもの。
 それにセットされたデッキをみる。軽く確認してみると、やはり、自分と“彼女”のもののようだった。
「……。何で…遊戯さんがこれを…?」
 訊ねられて、遊戯は返答に困った。
 闇のゲーム――自分ともうひとりの絵空がしたそれに関しては、伏せておきたかったからだ。
 その雰囲気を察してか、絵空は決闘盤を見つめ、黙り込んだ。

 ――“彼女”に貸したそれが、“彼女”ではない、別の人物によって返された
 それはつまり…やはり“彼女”は、もう――

「……それから、もうひとつ……」
 遊戯はカバンに左手を入れ、“それ”を掴む。
 …少しためらってから、“それ”を取り出した。
「……え……」
 視界に入った、見たことのない金色の“それ”に、絵空は小首を傾げた。
「……? 何かの…“箱”……ですか?」
 受け取ると、まじまじとそれを見つめる。
「…プレゼント。たぶん…神里さんの、一番ほしいものが入ってるはずだよ」
 遊戯は、やわらかく笑んでみせる。
「あ…じゃあ、ボクたちもう失礼するよ。急がないと、学校もあるし」
「え…、もうですか?」
 シュンと、目に見えてしょげる絵空。
「ウン。学校帰りにまた寄るから、それじゃ」
「またね、神里さん」
 遊戯と杏子は、揃って病室を出て行く。

 ――夢を見ていたような、そんな気分だった。
 しばらくぼんやりと、その名残を反芻するように、二人が出て行ったドアを見つめる。
(……アレ?)
 そこで、絵空はふと気がついた。
(……何で…私の名前を知ってたんだろ……)
 ――病室の前のネームプレートを見たのか?
 ――そもそも、知り合いでもないわたしに何の用だったのだろう?
(…! もしかして…)
 ――二人は、“彼女”の持っていたはずの決闘盤を届けに来た。
 ――“彼女”のことを、何か知っているのではないだろうか?
「…………」
 そこでふと、先ほど渡された箱に視線を落とす。
 見たことのないデザインの、金色の箱。側面には象形文字のようなものと、奇妙な“目”のようなものが彫られている。印象としては、エジプト辺りのものであろうか。
「……何が…入ってるんだろ……?」
 いぶかしげに観察した後、ようやくフタに手をかける。
「……え……!?」
 中を覗くと、慌ててそれを閉めた。
 いちど呼吸を落ち着けてから、もういちど覗き込む。
 ――中には、カードが入っている。しかし、それはただのカードではない。
 そのカードには、こう名前がつけられていた――『SAINT DRAGON -THE GOD OF OSIRIS-』と。
「……オ…『オシリスの天空竜』…!? あの有名な…“神のカード”…!?」

 ―― 一体、どういうことなのか?

 絵空の頭の中は、再び混沌の坩堝(るつぼ)と化した。
 “神のカード”――ウワサでは、何者かに盗まれたまま行方不明であるという幻の超レアカードである。
 それは所詮ウワサ。実際には遊戯が持ち続けていたのかも知れない――だが、それを初対面の自分に渡す道理などどこにあろうか?
 震える手で、それを取り出す。
 すると、その下にはさらに二枚、カードがあった。
「……『オベリスクの巨神兵』に……『ラーの翼神竜』……!?」
 伝説の三枚のカードが今、自分の手元に揃っているのだ。
「…………」
 それらを広げ持ち、しばらく見とれる。じっと見つめ続けていると、感激で軽い眩暈(めまい)を覚えた。
「……まさかくれる……わけないよね? アレ? でも確かプレゼントって…え??」
 とりあえず箱に戻しながら、困り顔で何度も首を傾げる。そしてふと、先ほどの遊戯のことばを思い出す。

 ――たぶん…神里さんの、一番ほしいものが入ってるはずだよ

「…………。……違う……」
 胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
(……わたしが本当にほしいのは……こんなものじゃない……!)
 どんなにすごいレアカードでも――“彼女”の代わりになんてならない。なるはずがない。
 もういちど――“彼女”に会いたい。
 “彼女”と話したい。また一緒に、日々を過ごしていきたい…!
「……っ……!」
 泣きそうになる。
 けれどそのとき――声がした。


『(――泣かないで……)』


「――…!?」
 どこからか――“彼女”の声がした。
『(……私はここにいる…。あなたの側に…ちゃんといるから……)』
 手元の箱を見る。側面の“目”の部分が、不思議な、やわらかな光を発していた。
「……もうひとりのわたし…なの……? そこにいるの……?」
『(……ええ)』
 やさしげな、“彼女”の声が返ってくる。
 それを聞くと、絵空はもう、涙を堪えることができなかった。
「……一体…どこに行ってたの…っ? 淋しかった……もう……会えないかと思った……!」
『(……ごめんね…でも…もう、大丈夫だから……)』
 “彼女”の声が、嬉しげに言う。
『(私はずっと……あなたの側にいるわ……)』
「……もう……いなくなったりしない?」
『(……ええ)』
「これからも…ずっと一緒にいられるの?」
『(…ええ)』
 “彼女”の声も、かすれてきた。
『(……これからも…よろしくね。もうひとりの私……)』
「……うん……!」
 二人は一緒に――たくさん泣いた。一緒に泣いたのは、死期を宣告されたとき以来だろう。
 ――けれど、そのときとは違う。
 今、このときの涙が“歓喜の涙”であるのは、疑う余地のないことであった。


●     ●     ●     ●     ●     ●     ●


「――良かったね、右手と背中の怪我、思ったほどはひどくなくて」
 遊戯と杏子の二人が病院を出たのは、それから二時間以上あとのこと。絵空に会った後、遊戯の怪我を診てもらっていたからである。
「まあ…、治るまでは少しかかりそうだけどね」
 右手には厚く包帯が巻かれ、背中には大きめの湿布が貼られている。
「ま、授業のノートは私のをコピーすればいいし…、当分試験はないし、ゆっくり治したら?」
 まるで他人事のように、気楽に言う杏子。
 背中はさておき、問題は右手である。片手が、しかも利き手が自由に使えないというのはかなり不便である。背中の方も、少し動いただけで微痛が走る。これからしばらく先のことを思い、遊戯は憂鬱げにため息を吐いた。
「……ところで…本当に良かったの? 遊戯…」
 唐突に、真面目な顔になって、杏子が問いかける。
「……パズルボックスに、神のカード…。どっちも大切なものでしょう?」
「…あ…うん。まあ…ね」
 遊戯は、少し淋しげに笑んでみせた。
「……それにしても、よく思いついたわね。パズルボックスと神のカード――二つの組み合わせで、千年パズルを代用するなんて」
 それは、突拍子のないアイデアだった。
 千年アイテムの力の秘密など、二人にはさっぱり分からない。
 神のカードの力を使い、パズルボックスの中に絵空の魂を移す――そんな芸当ができたのは、奇跡といってよかった。
「…ほら、アクナディンさんが言ってたでしょ? “3体の神を合わせれば、その力は千年アイテムにも匹敵する”……って。それで、もしかしたらってさ。もちろん、もう少し様子を見てみないと、本当に上手くいったかは分からないけど……」
「…きっと…上手くいくよ」
 杏子は振り返ると、絵空の病室がある辺りを見上げた。
 病室には白いレースのカーテンがかかっており、中の様子は伺えない。だがきっと、二人の絵空は、再会を心から喜び合っているはずだ。
「…でもさ。神のカードが重要なら、あのパズルボックスじゃなくても良かったんじゃない?」
 ふと、杏子が疑問に思い、問いかける。
「……だってあのパズルボックスは……“彼”の、大切な思い出でしょう?」
「…うん。だから…かな」
 少し淋しげな、しかし笑顔で遊戯は答える。
「……ボクと“彼”は……別れなくちゃいけなかった。“彼”は…ここにいちゃいけない人間だったから。でも――あの二人は違うでしょ?」
 遊戯の笑顔にはどこか、羨望の色が混じっていた。
「だから……一緒にいてほしいんだ。ボクとアテム――ボクたち二人の分も、ね……」
「…そっか…」
「…それに――思い出なら、ちゃんとある。物として、実際に形として残ってなくても……ボクたちの心の中に、ちゃんと残ってる」
「……うん」
 杏子はそれに、嬉しげに頷いた。
「……それが遊戯のいいところ…か……」
 先を歩きながら、杏子が呟く。
「…ホントにやさしいよね、遊戯って」
「…別に…そんなんじゃないよ。ただ…幸せになって欲しいなって思ったから。幸せになってくれればボクも嬉しいから……だから――」
「――バカね」
 杏子は振り向いて、笑顔で言った。
「それが――やさしいっていうことなのよ」

 ――他人の幸せを、一緒に喜べること
 他人の痛みを、ともに分かち合えること
 他人が傷つくことで、自分も傷ついてしまうこと
 他人が幸せになることで、自分も幸せを感じられること――

 ――だからこそ…やさしくできる
 他人のことを考えて、一緒に幸せになれる――

「――ね、学校サボっちゃおっか?」
「えー? マズいんじゃない? ボクたち制服だよ?」
「ヘーキヘーキ。ホラ、今から行ったって、どうせ3限も間に合わないよ?」
「…わ、ホントだ」
 杏子の腕時計を見ると、確かにどう急いでも間に合いそうにない時間だった。
「はい、決まり〜。ね、遊園地でも行こうよ、遊園地♪」
「……何でそんなに元気かなぁ……」
 対照的に、遊戯はいまいちテンションが上がらない。
 全身ボロボロだし、昨晩あれだけのことをして、ほとんど眠っていないのだ。
 学校をサボるというなら、むしろ家に帰って布団に潜り込みたかった。
「何よ〜、こんな可愛い女の子の誘いを断るつもり?」
「……そういう台詞は、ふつう自分じゃ言わないよ……」
 ジト目で見返してから、遊戯は大きな欠伸をした。

 ――それは、ある晴れた秋の日のこと。
 空からは穏やかな光が射し、どこか幸せな時間が、ゆっくりと流れていた。



終章U・日の下を歩いて

 ――私は神を信じない
 今も昔も、それは決して変わらない――


 ――季節は移ろい、春を迎えていた。
 それは麗らかな日和の、静かな朝のこと。
「……よし、と……」
 焼き上げたばかりの魚を、皿によそる。
 ふう、と美咲は軽く安堵のため息をついた。
 ――特別な工夫はしていない。ただ、軽く塩をまぶして焼いただけだ。
 その様子がぎこちないのは、単純に料理慣れしていないためである。
 元々、料理は嫌いではなかった。
 ただ、ここ数年は全く、料理などとは縁のない生活だったのだ。現在はスーパーの惣菜も充実しているし、コンビニには何種類もの弁当がある。料理などできないところで、特に支障はない。
 ――料理から離れたのは、娘の入院がきっかけだった。
 夫はすでに他界しており、家に帰っても一人しかいない。自分ひとり分の食事を作るのはつまらないし、何より、ひとりである孤独を強調するようで嫌だった。
 しかし、美咲はここ数日、料理にはげんでいた。溜まっていた有給休暇を利用し、一日中家にいる――娘と。
 料理を再開したきっかけは、娘の退院であった。
 こんな日が訪れるとは、夢にも思わなかった。娘は、一度は死期を宣告されている。それがなぜ治ったのか――医者は何度も“奇跡”ということばを口にしていた。

 ――私は神を信じない
 これは、神の起こした奇跡などではない
 人の想いの起こした奇跡と、信じたい――

「……それにしても…遅いわね……」
 味噌汁の味を見ながら、電子レンジの時刻表示を見て呟く。
 様子を見てこようかしら、とボヤくと、ちょうど二階が騒がしくなりだした。
 ヤレヤレ、と楽しげにため息を吐いた。



「――わ〜! 完全に遅刻だよ〜!」
 ベッドから飛び起きると、絵空は大慌てでパジャマを脱ぎ捨てた。
『(…だから言ったでしょう、早く寝なさいって…。デッキの最終調整、なんて言って、いつまでも起きているから……)』
「あ〜もう! 小言は後で聞くから〜!」
 机の上のパズルボックスから聞こえる声に、てきとうに応えながらもバタバタと身支度を続ける。
『(……って、ちょっと待って)』
「え?」
『(……制服で行くの? あなた)』
「……あ」
 自分が着始めている服の正体に気づく。
 それは私服ではなく、昨日、母に買ってもらったばかりの学生服――今年から入学する童実野高校のものである。
 嬉しくて、昨日はずっと着ていた服。
 勢いで、間違えてそれを着始めてしまった。
「……。ま、まあいいんじゃない? 制服でも」
『(…いいけど…。入学式前に汚したりしないようにね?)』
「はーい♪」
 まるで姉と妹のようなやり取りをしながら、絵空は身支度を再開した。
「十時に広場――だったよね?」
 寝癖のついた髪を、クシでとかしながら訊く。
『(…大会開始がね…。集合は九時。完全に遅刻ね…)』
 時計の針はすでに、九時を回っていた。
「…へ…平気だよっ; ルールはちゃんと、インターネットで確認済みだし…」
『(それでも、遊戯さんたちと待ち合わせしているでしょう? 心配しているわよ、きっと)』
「…ううっ…。今更そんなこと言われても……」
 鏡を前に、軽くいじける。
 お気に入りの黄色いリボンを取り出すと、項(うなじ)の辺りで軽く結わえた。
「…だって楽しみで――なかなか寝付けなかったんだもん」
 急いで引き出しを開け、その中からデッキを取り出し、軽く確認する。
「……第三回バトル・シティ大会…。本当に出られるなんて、夢みたい」
『(…遊戯さんに感謝しないとね)』
 第三回バトル・シティ大会――それはもちろん、海馬コーポレーション主催の大規模なカード大会。それは今や、国内、いや、世界を含めても、最も大規模なカード大会であり、それに出場するのは全決闘者の憧れといってもいい。
 本来なら参加するには、過去の実績が必須条件とされている。しかし、先日退院したばかりの絵空にとって、カードの大会に出るのはこれが初めてであった。にも関わらず出場資格を得られたのは、M&Wの世界で名高い、遊戯の口添えのおかげである。
「…よし、準備OK。行こう、もうひとりのわたし」
 昨日、制服と一緒に買ってもらったポシェットを腰に巻くと、その中にパズルボックスを押し込む。
「ちょっと狭いけど…大丈夫?」
『(平気よ。あなたを通して、ちゃんと外の様子も見えるし…)』
 決闘盤を手に取ると、パタパタと階段を下りた。
「――おかーさん、わたしもう行くね!」
 途中、洗面所で顔を洗うと、一直線に玄関へ向かい、スリッパを脱ぎ捨て、せわしなく靴を履き始める。
「え? 朝食の準備できてるのよ? 病み上がりなんだし……ちゃんと食べていきなさい!」
「だって〜、遅刻しちゃうもん」
 トントン、と爪先を床で叩き、かかとを靴に収める。
 キッチンを出てくる母から逃げるように、すぐに玄関を飛び出そうとする。
『(――ダメよ!)』
 ――だが、玄関を開けようと伸ばした右腕が動かなくなった。
『(朝ごはんはちゃんと食べないと…。無理はしないって、お母さんとお医者様に約束したでしょう?)』
「…う〜っ…」
 再び右腕を動かそうと試みるが、絵空の意志とは裏腹に、下ろされてしまう。
 ――右腕の部分だけ、“もうひとりの絵空”に身体の主導権を奪われてしまったのだ。
「――残念ねぇ。今朝は鮭を焼いたんだけど……」
 母が、少し芝居がかった口調で言う。
 そのことばに、絵空の身体がわずかに反応した。
 お腹の虫が、さみしげに鳴く。
「……や……やっぱり…食べていこうかな……」
 ぎこちなく笑いながら、振り向く絵空。
 ――鮭は、絵空の大好物であった。


「…ううっ…、完全に遅刻だよっ……」
 しょげながら、目的地へと歩いていく。
 途中まで母の車で送ってもらったのだが、母から借りた腕時計を見ると、すでに十時を回っている。
 本当なら走っていきたいのだが、心配性な“もうひとりの自分”という目の上のタンコブのおかげで、仕方なく早歩きである。
 ――広場へ出る。
 案の定、誰もいない――ということはなかったが、遊戯たちの姿は見当たらなかった。
 ところどころで、決闘盤を持った者同士の決闘が始められていた。
『(もう始まっているみたいね…。遊戯さんたちも参加するのだし、もう別の場所へ行ったのかしら?)』
「…そうだね…」
 生返事をする絵空。
 その興味はすでに、大会独特の熱い空気の方へ向けられていた。
『(ちょっと…聞いてる? 杏子さんとは一緒に回る約束をしているし……探せば多分その辺りに――)』
「――あ! あっちの方で人だかりができてるよ! 行ってみよう!」
『(…え? ちょっ…もうひとりの私!?)』
「〜〜♪」
 その様はさながら、初めてのお祭りにはしゃぐ子供であった。




「――ハーピィちゃんで、プレイヤーにダイレクトアタックっ!!」

 ――バキィィッ!!

「…はい、一丁上がり! お次は誰かしら?」
 小さい身体を駆使し、中へ入っていくと、その中心には、悔しげに膝を折る青年と、高飛車に笑う金髪の女性がいた。

「――もう勝っちまったのかよ…信じらんねえ……」
「――孔雀舞って…アレだろ? 第二回大会第三位の……」

 ガヤガヤと、周囲の人間たちがウワサする。
 見ると、決闘盤をつけていない人間もいる。参加資格を得られず、見物に来ているのだろうか。
「――さあ! もういないの? アタシにやられたい身の程知らずちゃんは!」
 そう叫ぶと、女は挑発的な笑みを浮かべた。
『(…孔雀舞…さすがね。やっぱり上位入賞経験者は)』
「うん。もうちょっと早く来てれば、どんなデュエルするか見られたのにね」
 小声で話していると、舞がもういちど声高に叫ぶ。
「――なっさけないわねえ! 大の男がこんだけ集まって、一人もかかってこないなんて!!」

「――オイ、お前いけよ」
「――何言ってんだ。俺はまだ初戦なんだぜ? 負けたら即失格じゃねえか」

『(…確かに…初戦でこんな大物と当たるのは、どう考えても得策じゃないわね。さ、とりあえず私たちは杏子さんを探して、それから――)』
「――はいっ! わたし、やります!!」
 “もうひとりの絵空”の話を聞いていなかったのか、いきなり手をあげる絵空。
 パズルボックスの中の絵空が青ざめる。平然と、絵空は前へ出て行った。
 その絵空を見ながら、舞は目をパチクリさせる。
「……度胸は買うけどね、お嬢ちゃん。やめといた方がいいんじゃないかしら?」
 大上段に構え、余裕の笑みを浮かべる舞。
 それを見て、むっと絵空は頬を膨らませた。
『(――そうよ! やめておくべきだわ! これは初戦…負けたら終わりなのよ? いいの?)』
「――大丈夫! 負けなきゃいいんでしょ?」
 それは“もうひとりの絵空”に対する台詞だったのだが、周りの人間にはそんなこと、当然わからない。
「へえ…大した自信ね、お嬢ちゃん。でもいいの? やるからには――手加減しないわよ?」
 ギラリと、決闘者特有の鋭い眼光を向ける。
 だが、絵空はその程度で引き下がりはしない。
「構いませんよ――だって」
 にっこりと、笑顔で絵空は断言した。
「わたしは――決勝戦で、遊戯くんと闘うのが夢ですから」
 一瞬、場が沈黙する。
 だが次の瞬間、周りの人間たちは爆笑した。

「――あの武藤遊戯に挑むだって!?」
「――オイオイ、身の程知らずもほどほどにしとけよ!!」

「…な…!?」
 みんなに笑われ、赤面する絵空。
 だがその中で、一人だけ笑わぬ者がいた。


「――笑ってんじゃないよ!!! アンタら!!!」


 舞の絶叫が、辺りに響き渡る。
「全く…、人の周りに群れなして、見てるしかできない金魚のフンどもが笑ってんじゃないよ! みっともない! 目障りだよ!! アタシと闘うつもりがないなら、とっとと別の場所へ消えな!!!」
 一同、シンと静まり返る。腕に決闘盤をつけた決闘者の多くが、青ざめた顔でその場を去っていった。
(…コ…コワイ…;)
 キョトンとした顔で、絵空は唾を呑んだ。
「…悪かったわね、お嬢ちゃん。名前は?」
 一転して、優しげな口調になる。絵空は慌てて返答した。
「え…、絵空です。神里絵空」
「…そう。よく言ったわね、絵空ちゃん。夢は大きく持たなくちゃ。いいわ、勝負してあげる。ただし…手加減無用、本気でいくわよ?」
「……! はい!!」
 嬉しげに頷くと、絵空は小走りに舞に駆け寄った。
 互いのデッキを交換し、シャッフルし合う。

『(…もう…、負けたら失格なのよ? 本当に分かってる?)』
「…大丈夫。分かってるって」
 ため息を漏らす“もうひとりの絵空”に、笑顔で言う。
「……それに……たとえ、もし負けたとしても――わたしにはまだ時間がある。今のわたしたちには、まだまだ沢山の時間があるもん」
『(……! そう…ね…)』

 ――今の私たちには、時間がある
 たくさんの、永遠とも思える長い時間が――

 それを聞いて、もうひとりの絵空も笑顔になる。
 負けないけどね、と、絵空はあわてて付け加えた。

「……? 何をブツブツ言ってるの? 始めてもいい?」
「あ…、はい、すいません。お願いしま〜す」


『――デュエル!!』


「あたしの先攻――ドロー!」

 ドローカード:アマゾネスの弩弓(どきゅう)隊

「…あたしはリバースカードを一枚セットし、『ハーピィ・レディ・SB(サイバー・ボンテージ)』を攻撃表示で召喚! ターン終了よ」
 舞の場に、一枚の伏せカードとハーピィ・レディが姿を現す。
 絵空は決闘盤のデッキに指を当てると、いちど深呼吸をした。
 高まった心を抑え、決闘に集中するためである。
(いくよ――もうひとりのわたし!)
『(…ええ!)』
「わたしのターン――ドロー!!」
 絵空は勢いよく、デッキからカードを抜き放った。





  Fin













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